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第三章『焔魔仙教編』

第二百三十一話 空を見上げて【後】

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「生きるために、選択肢なんかなかった。そうするしかなかった。わかるよ。俺も、同じだったから」

 姉妹がそろって、こわごわと視線をずらす。
 すると、そばに膝をついたシアンが、同じ目線まで屈んでくれていることがわかった。

「人を殺めるのは、とても正気ではできないことだ。生きるために、心を殺してきたんだろう」

 優しすぎるほどの声音に、姉妹がうつむく。
 ちいさく、か細い肩は、小刻みに震えていた。

「……お父さんも、お母さんも、殺されちゃった……」
「わたしたちは弱いから、冥帝ミンディ冥王ミンワンが、守ってくれたの……ずっといっしょにいてくれた、わたしたちの、お友だち……」
「でも、わたしたちにもできることがあるって、だれかの役に立てるって、おにいちゃんが、言ってたから……ううん、ちがう」
「なんにも考えないで……なんにも考えないようにしてた、わたしたちが、悪いです」
「わたしたちが、弱いのが、悪いです……」
「弱いのは、悪いことじゃない」

 断言する爽。姉妹が、はっとしたように顔を上げた。

「大事なのは、これからどうするかだ。過ちを知ったなら、変われる。変わるために何ができるかを考えるだけで、弱い自分から一歩抜け出して、前に進める」

 爽が両腕を伸ばす。びくりと肩を跳ねさせる姉妹だが、逃げるそぶりはない。

「ねぇ、知ってる? どんな雨でも、雪の日でも、雲の上には、おひさまがいるんだよ。でも、空を見上げなきゃ、おひさまには会えない」

 魅入られたように、よっつの黒い瞳が、爽へ釘付けになる。

「このままうずくまっているか。それとも、おひさまに向かって手を伸ばすのか。きみたちは、どうしたい?」

 爽は静かに、語りかける。
 罪は消えなくても、償うことはできるはずだと。
 おのれの意思を声にすることを、選択する自由を、提示してみせる。
 選ぶのは、あくまで、彼女たち自身。

「……ごめん、なさい」

 やっと紡がれた言葉は、消え入りそうなほど、弱々しかった。
 だが、かぶりを振った姉は、もう一度、声を絞り出す。

「ごめんなさい……わたしたち、間違えました。いっぱい、いっぱい……!」
「いろんなひとに、ひどいこと、いっぱいしました……ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

 妹も、嗚咽をもらしながら、声を張り上げる。

「でも、いつもこわがって、おびえるだけなのは、もうやだ……!」
「わたしたちも、つよく、なりたい……かわりたい!」

 姉妹は、差し伸べられた爽の手を取り、自分の意思を叫んだ。

「そうか」

 爽は姉妹の言葉を噛みしめるように、ゆっくりとうなずく。そして、姉妹の手を力強く握り返すとともに、ぐっと腕を引いた。
 引き寄せられた姉と妹が、爽の右肩と左肩に、もたれ込んだ。

「自分たちの力で、殻をやぶったんだな。よくがんばった。大丈夫、きみたちは、強くなれる」

 ぽん、と頭に手を置いたかと思えば、やさしく、なでてきて。
 ひだまりのような爽のぬくもりに包まれた姉妹の瞳から、ぼろぼろと、涙があふれ出す。

「う……うぅ……」
「うぁ……うわぁああん!」

 すがりつき、泣きじゃくる姉妹を、爽はなでる。
 そこにもう、言葉などは必要なかった。
 抱きしめるぬくもりが、彼女たちを、もう孤独にはさせないのだから。

 ──ぱちぱち、と。

 穏やかな夜の静けさを、乾いた拍手が打ち壊す。

「はいはい、お涙頂戴のすばらしいお芝居を、ありがとさんってね。同じラン族だってのに、全然対応が違うじゃないか。おにーさん悲しくなっちゃうぞ、族長サマ?」
「気持ち悪いこと言わないでくれます? はなから反省する気のない下衆とあの子たちなら、あの子たちのほうがよっぽどえらいと思いますけど」
「へぇ、なんだかんだ、優しいんだな? ま、これで遠慮なく、その餓鬼どもも始末できるってわけだ」

 悪びれもせずそう言ってのけるシュンに、姉妹が身をこわばらせる。

「できるものなら、やってみろ」

 だが、すぐさま姉妹を背にかばった爽が、夜色の瞳で迅を射抜く。

「ハッ、威勢だけはいいことだな。それじゃあ、ご期待に応えようか」

 何かが、来る。『それ』はおそらく、今までとは比べものにならないほど凄まじい『脅威』だと、早梅はやめは直感した。
 なぜなら、迅の周囲に、濃密な内功が渦巻いているから。

血功けっこう──」

 早梅たちが態勢をととのえる隙を、迅は与えなかった。

「『死屍涙涙ししるいるい』」

 空高くへかざされた迅の両の手のひらから、血が弾け飛ぶ。
 それは無数の血の矢となって、雨のごとく降り注いだ。
 とっさに迎撃をこころみようとする早梅だが、それがまったく見当違いの行動であることを、その直後に思い知る。

 早梅たちを襲うものと思われた雨のごとき血の矢は、はるか遠く、人影のまるでない岸辺に降り注いだのだ。

「さぁ、お楽しみはこれからだ。さっさときろ、人形ども」

 血の矢が突き刺さった地面に、突如、何かが突き出す。

「……なんだ、あれは…………人の、手?」

 早梅の見間違いなどではなかった。まぎれもなく、人の手だった。

「……ウゥ…………ウァアアア…………!」

 うめき声とともに、地中から『それ』が姿を現す。
 土気色の肌に、落ちくぼんだ眼窩がんか襤褸ぼろをまとった、かろうじて人だと認識できるモノ。
 脳天や、背、胸に血の矢が突き刺さり、そこから伸びる糸によって四肢を操られた死者たちが、次々と立ち上がる。

「陛下に言われたとおり、死体をただ燃やすのも、もったいないと思ってたんだよなぁ。こういうこともあろうかと、埋めといて正解だったぜ。再利用、再利用っと」
「貴様は、どこまでひとの命を弄べば気がすむのか……っ!」

 事もなげに言ってのける迅に、早梅は腹の底から怒りがこみ上げるのを抑えられない。

「ざっと数えただけでも、百はいますね……それも、女性のご遺体が多いということは、やはり」

 一心イーシンはそこで言葉を止めた。あまりの嫌悪感に、吐き気を催したためだ。

「あれは……朱華ヂュファ!」

 そして、思わぬところから声が上げられる。
 チェン仙海シェンハイが血相を変え、死者の群れへ向かって駆け出したのだ。

「ちょっとおじさん! 危ないでしょ! おとなしくしててよ!」
「お離しください! あそこにいるのは、朱華……わが娘なのです! 離してください、どうか、娘のもとにゆかせてください!」

 陳仙海は、くすんだ朱色の襤褸をまとう傀儡くぐつへ向かって、手を伸ばしていた。
 今に舞台から飛び降りようとする陳仙海を、八藍バーランが押しとどめるも、陳仙海は明らかに取り乱しており、聞く耳を持たない。

「これはこれは、美しき家族愛だな。こっちに来たところで、何になる? 娘は死んでるのに?」
「朱華……どうして、なぜ……朱華……ぁあああ!!」

 心ない迅の言葉に、陳仙海は泣き崩れた。

「妙だな……死後数か月以上がたっている死体にしては、腐敗があまり進んでいない。何か、細工をしているな」
「……蠱毒だよ」

 紫月ズーユェの疑問に答えたのは、狼族の姉妹だった。

「臓物を取り出して骨と皮だけにして、蠱毒を煮詰めた毒液に全身をひたらせたら、死体も、腐らなくなるの」
「蠱毒の使い方は……わたしたちが、教えた」
「なるほどな」

 そうとだけ返す紫月。うつむいた姉妹が、ひざの上で握りしめたこぶしを、震わせる。

「わたしたちの、せいだ……」
「ごめん、なさい……」
んだろう。謝らなくていい」

 迅が姉妹に向かって「用済みだ」と言い放っていた意味を理解した爽は、すすり泣く姉妹の背をさする。

(目的のためならば、同族さえも利用する……迅は、そういう男なのだ)

 どこまでも救いようのない、冷酷非情な男。
 今さらながら、早梅は思い知る。

「迅」
「うん? なんだ、梅雪メイシェお嬢さま。俺と駆け落ちする気にでもなったかい?」

 早梅に名を呼ばれた迅は、見るからに上機嫌になる。この期に及んで、愉快な脳のつくりをしていることだ。

「貴様は、『悪なる者』だ。今宵、ここで、断罪せねばならない」
「……っくく、はははっ! 梅雪お嬢さまが直々にもてなしてくれるのか? 嬉しいねぇ!」

 からからと笑い飛ばす迅。
 馬鹿に、されている。
 か弱い女ごときに、何もできやしないのだと。

「百の死体どもを相手にしながら、あんたはどうやって俺を殺す? やってみせてくれないか、なぁ、梅雪お嬢さま!」

 これは、挑発だ。心を乱してはならない。
 冷静におのれを俯瞰ふかんすることで、不思議と、身を掻きむしりたくなるような嫌悪感から、解放される。
 しばし沈黙していた早梅の手に、そっとふれる手がある。

「梅雪お嬢さまは、お独りではありません。いつ何時も、それを忘れないでください」
黒皇ヘイファン……うん」

 私は、独りじゃない。だって、みんながいる。

 胸に手を当て、黒皇の言葉を繰り返すうちに、じんとからだがあたたかくなる──

「って、あちちちっ! あっっっつ!」

 比喩などではなかった。尋常でない熱を感じた早梅は、慌ててふところをさぐる。

「えっ、なになに……これって…………あっ」

 早梅が夢中で取り出したのは、満月型の手鏡だった。
 焼けるような熱を持った手鏡が、早梅の手を離れ、ふわりと宙へ浮く。

「宝玉が……」

 紅玉、黄玉、翡翠、瑠璃、紫水晶。
 手鏡に散りばめた宝玉の欠片が、きらきらと、五色の輝きを放っている。

 ──宝玉の霊力、それから、僕の力と想いを込めているので、離れていても、梅雪さまをお守りします。

 早梅に手鏡を贈った少年は、そう言って、はにかんでいたか。

 ──カッ!

 くるりと宙で回った手鏡が、迅へ向かって、輝きを放つ。

 黄金の光が、太陽のごときまばゆさで、夜を照らす。

 さやかなそよ風にほほをなでられた気がして、早梅はそっと、まぶたをひらいた。


「──罪深き者。金瓏聖母こんろうせいぼのお怒りにふれた、咎人よ」


 早梅は、瑠璃の瞳を極限まで見ひらいた。
 目前に、それまでなかったはずの人影を認めたためだ。
 いや、思わず息を飲んだのは、早梅だけではない。黒皇、そして、爽も。

「あなたが、梅雪さまに意地悪した、悪いひとですね?」

 漆黒の衣をまとい、濡れ羽色の髪をなびかせる少年が、そこにいる。
 少年が、髪と同じ濡れ羽色の翼で羽ばたくと──

「悪いやつは、お帰りくださーいっ!」

 ──ゴゥウッ!

 金色の炎が、燃え上がる。
 天にも届くのではないかという、すさまじい炎の柱が、早梅たちの視界を埋め尽くした。

「待って……?」

 早梅はわなわなと唇を震わせながら、頭を抱える。

 ──もし嫌いなやつがいたら、この鏡をかざしてください。燃やしますので!

「燃やすってそういうことなの、黒慧ヘイフゥイ!?」
 
 これには、さすがの早梅も絶句。

 現役バリバリの太陽さま、まさかのご登場である。
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