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第二章『瑞花繚乱編』

第八十七話 氷炎の恋情【後】

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 彼女は黒皇ヘイファンを見つけると、胸に抱いてなかなかはなさない。おかげで足が三本あることを、彼女以外に知られることはない。

「君は八咫烏。神さまの使いだろう? 無下に扱ったら罰が当たってしまうよ」

 はじめて出会ったときもそう言って、ずぶ濡れのからだを湯で洗い流し、丁寧に羽毛の水分を手ぬぐいでふき取ってくれた。
 屈託のない笑みにいつしか警戒心はとけ、彼女のことを目で追うようになった。
 そして彼女が、よく寝つけないことを知った。

「夢を見るんだ。悪夢ってやつかな。でも君といると、よく眠れるんだ」

 黒皇を枕もとに寄せ、濡れ羽の羽毛をなでる指先は、ひんやりしている。
 一方で彼女にふれられるたび、ぬくもりが胸にひろがった。

「明日の朝には、またどこかへ行ってしまうんだろう? さびしいものだね……」

 寝台に横たわった彼女は、どこか儚い。
 彼女が弱音を吐くのは、このときだけ。
 黒皇とすごす、夜だけ。
 黒皇だけが、知る表情なのだ。

「この夢が、覚めないといいのになぁ……」
 
 かすれた声でつぶやいて、すぅっと閉じられるまぶた。
 かすかな寝息が、静寂の闇夜に聞こえる。

「私も……そう思います」

 返事がないとわかっていて、言葉にせずにはいられなかった。
 もはやほほにすり寄るだけでは足りない。
 翼をひろげた烏の影が、かたちを変えて彼女を覆う。

「あなたさまは、なにを背負っておられるのですか? あなたさまを苛むものは、何なのですか?」

 ぎしりと音がして、現れた『青年』の体重に、寝台が沈む。
 横を向いて眠る彼女の黒髪をすくい、耳にかける。

「教えてくだされば、私が『わるいもの』を焼き尽くしてさし上げるのに」

 言葉にするほど、想いがあふれる。

「あなたさまを、さらってしまいたい……」

 いつから、なんておぼえていない。
 明確な『なにか』があったわけでもない。
 けれど、じっくりと果実が熟すように、ふれあいをかさね、この感情は花ひらいた。

「愛しているんです……『ハヤメ』さま」

 無数の宝玉が沈む水底へ飛び込んで、彼女という存在に溺れてしまった。

「あなたさまがいないと、息苦しい……」

 どうにもたまらなくなり、両ひじをついて覆いかぶさった彼女の、無防備な唇をついばむ。

「『ハヤメ』さま、『ハヤメ』さま……」

 いけないとわかっていながら、一方的な口づけがとめられない。
 何度もついばむさなかに、音でしか聞いたことのない彼女の名を、とくに意味もなくくり返す。

(私の……眷属けんぞくにしてしまおうか)

 そうすれば、こんな夢か現かもわからぬ世界から、彼女を連れだしてしまえる。永遠の時をともに生きることができる。

つがいになれば、彼女は私のものに──)

 その身もこころも、永遠に愛すことができる。
 なんと甘いひびきだろう。

 無意識のうちに、彼女のえりに手をかけているおのれがいて、黒皇は頭から冷水をかぶったかのような心地にみまわれた。

「……どうかしているっ!」

 そんなものは愛ではない。
 おのれの欲をぶつけるだけの行為が、愛であるはずがない。

 こころの奥底ではわかっていた。
 彼女自身が、そんな決着を望まないことを。

「あなたさまのお声が、聞きたいのです……」

 彼女が望めば、『これ』は欲ではなく、愛になる。
 だからその声で、どうかつむいでほしい。
「私をさらって」──と。

 静寂。むろん、懇願に返される言葉はなく。

「ばかみたい、ですね」

 自嘲気味な笑みをひびかせ、黒皇はいま一度唇を寄せる。
 これが最後だと言い聞かせ、やわらかい唇を、その花の香ごと吸う。
 思いだされるのは、「わが友」と話す彼女の笑顔。
 それこそが、すべての答えだろう。

「たとえ友でしかなくとも、黒皇は、あなたさまをお慕いしております──『ハヤメ』さま」

 愛しいひとをきつく抱きしめ、待ち受ける別れの苦痛に奥歯を噛みしめて耐える黒皇は、気づかなかった。
 寝息を立てる彼女のまぶたが、わずかに震えたことに。


  *  *  *


『その世界』が夜明けを迎えるとき、黒皇は瓏池ろうちのほとりで目を覚ます。のだ。

(……この想いは、凍らせてしまおう)

 燃えさかる恋情を凍てつかせ、一生この身に背負い続ける。
 それが、叶うはずのない恋に溺れてしまったおのれに科す、罪だ。

(せめて、見守ることだけは……ゆるされるでしょうか)

 彼女が人として、幸せに生き抜くことを見届けよう。
 そうすれば満足だと、思っていたのに。

「──あなたは、最低なひとだ」

 ある日瓏池をおとずれた黒皇の前に、予想だにしない光景が映しだされる。
 水面には、ふたつの人影。
 愛する彼女と、ひとりの男だ。『マツナミ』と呼ばれていた青年だったか。

「あなたが、そんなだから……私がどんな気持ちでいるのかも知らないで、のんきにヘラヘラ笑ってるから!」

 黒皇は呼吸の方法も忘れ、呆然とその光景を目の当たりにする。
『マツナミ』が彼女に覆いかぶさっていて、彼女の腹部には、深々と、銀色のなにかが突き刺さっていて。

「死んでください。私もすぐに逝きますから……いっしょに地獄に堕ちましょうね……っくく、あははっ! これであなたは私の、俺のものだ! あははははっ!!」

 やがてくずれ落ちる彼女のすがたを、鮮烈なあかが塗りつぶした。

 一瞬の沈黙。それから。

「──ッ、あぁああぁああッ!!」

 絶叫。
 濡れ羽の髪を掻き乱し、黄金の双眸からとめどなく涙をあふれさせながら、黒皇は半狂乱になって叫び狂った。

 なぜだ。どうして。
 こんなことが、あっていいはずかない。

「こんなことになるなら、無理やりにでもさらってしまえばよかった! 臆病風に吹かれずに、想いを告げていればよかった!!」

 いまさら悔やんだところで、手遅れ。

「ごめんなさい、『ハヤメ』さま……私のせいですっ、あなたさまを、お守りできなかった……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

 みっともなく、地面に額をこすりつける。

『悪夢』を映した水面は、慟哭に揺らめき。
 ただただ透明な色をして、鈴の転がる音色を奏でるばかりだった。
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