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第一章『忍び寄る影編』
第四十一話 旭月【前】
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見上げた空は、淡青だ。
「紫月さま、ご無事ですか」
「……これが無事に見えるか」
矜持の高さゆえ弱味をさらさない紫月ではあるが、このときばかりは食料から下僕へ昇格した愛烏に、うらみつらみを吐いた。
「まるで、桃英さまに剣のお稽古でこてんぱんにされたときのようなお顔をしてらっしゃいます」
「見た目優男のくせに、めちゃくちゃ強いんだよ、あのひと……いや違う、違わないけどそうじゃない」
桃英があほみたいに強いのは事実だが、いま紫月を死にそうなほど疲弊させている理由は、別にある。
「梅雪断ち三日目……だがこの苦行も今日で終わるっ、よくぞ耐えた、俺! 仙人になれるかもしれない!」
蓋をあけてみれば、なんのことはない。
愛してやまない妹断ちを決行した。以上。
朝に梅雪、昼に梅雪、夜に梅雪。
寝ても覚めても梅雪、梅雪、梅雪。
それ以外に語彙はないのかといっても過言ではない程度に梅雪を溺愛していた紫月が、みずから妹と必要最小限以外のつながりを断ったのだ。
使用人の間では、「近々猛吹雪がやってくるのでは?」とうわさされたほど。
当然だが、梅雪と喧嘩をしたわけではない。そんなことは天変地異が起きてもあり得ない。
「ようやくできた。俺からの贈り物が」
右手を空へかざす。
と、親指と人差し指の間で、銀河のような翠い梅花が陽光をきらりと反射した。
螺鈿細工のほどこされた二連の指輪は、紫月の『力』と『願い』が込められた特別なもの。
主の『想い』に応えて美しき白琵琶へとかたちを変える、法器だ。
これは香り袋へのお返しなのだ。
天にも昇る喜びを与えてくれた梅雪へ贈る、この世にたったひとつの愛の結晶。
簪を贈るにはまだ早いから、この指輪を、あの子に。
「おまえは俺の分身だ、白姫」
指輪の梅花へ、そっと口づけを落とす。
どうか、あの子の助けとなるよう。
「さて、そろそろ山をくだるか。もたもたしていると日が暮れる」
あぐらをかいていた木の根っこから、はずみをつけて立ち上がる。
「どうした、黒皇? 置いてくぞ」
どこか天然の気のある黒皇が大真面目な顔をして黙りこくるのは、めずらしいことではない。
「なんでもございません」
どうせまぬけなことを口走るだろうと高をくくって、見事に肩すかしを食らう。
何事もなかったかのように飛び立った黒皇に「あのやろう……」と軽く舌打ちをして、紫月も緋色の景色へ駆けだした。
いま振り返ってみて思う。
このとき、わずかにおぼえた違和感を、気のせいにすべきではなかったと。
* * *
乾いた音がひびきわたった。
と思えば、おのれのからだは地に伏していて。
遅れて左ほほに、熱をともなった痛みが襲う。
「──見損なったぞ、紫月」
名を呼ばれ、こわごわと面を上げる。
血のような夕照を背に自分を見下ろしていたのは、桃英だったろうか。
いや違う。よく似た別人だ。
だって父はおだやかで思慮深く、こんな鬼神のような顔はしない。
ましてや、息子のほほを張るだなんて。
「残念だわ……四宵が知ったら、どんなに悲しむことか」
聡明で愛情深い桜雨の顔をした別人が、硝子を鳴らすような美しい声音で奏でる。
この世で三人しか知らない、自分の母の名を。
「……なにを、言ってるんです、父上、継母上……俺がなにか、しましたか……?」
意味もわからず平手を受けた衝撃で、よろよろと上体を起こしてからも、呆然と唇をふるわせるしかない紫月。
あぁこれは、夢なんだ。
見たことのない怖い顔をした桃英も、悲しげな顔をした桜雨も。
自分を取り巻く使用人たちの、軽蔑のまなざしも。
全部全部、悪い夢だ。
「厳重に保管していた、『千年翠玉』が消えた」
せんねんすいぎょく。
おうむ返しのように反芻した紫月は、それが代々早一族が管理する秘薬のことだと理解した。
「そんなもの、俺は知りません……」
話に聞いていただけだ。『千年翠玉』とやらがどんなものなのか、見たことすらない。
困惑をかくせずに藍玉の瞳をゆらめかせる紫月の頭上で、ひとつ嘆息がある。
「そうか。では、それはなんだ?」
桃英の右手、紫月のほほを打った指先が、地面を指す。
紫月のひざもとに、朱の梅花が刺繍された巾着が落ちていた。ぶたれた際に首からはずれたのだろうか。
紐が切れ、ぽかりとあいたその口から、翠色に縞模様の玉──孔雀石のようなものがいくつか転がりでていた。
「そこにあるのが、『千年翠玉』だが」
「違います! この香り袋は梅雪からもらったもので!」
「ほう、梅雪のせいにするか」
「ッ、ちがうッ!!」
どういうことだ? なにが起きている?
なぜ自分はこんなものをもっていて、父たちに追及されているのだ?
「紫月さま、ご無事ですか」
「……これが無事に見えるか」
矜持の高さゆえ弱味をさらさない紫月ではあるが、このときばかりは食料から下僕へ昇格した愛烏に、うらみつらみを吐いた。
「まるで、桃英さまに剣のお稽古でこてんぱんにされたときのようなお顔をしてらっしゃいます」
「見た目優男のくせに、めちゃくちゃ強いんだよ、あのひと……いや違う、違わないけどそうじゃない」
桃英があほみたいに強いのは事実だが、いま紫月を死にそうなほど疲弊させている理由は、別にある。
「梅雪断ち三日目……だがこの苦行も今日で終わるっ、よくぞ耐えた、俺! 仙人になれるかもしれない!」
蓋をあけてみれば、なんのことはない。
愛してやまない妹断ちを決行した。以上。
朝に梅雪、昼に梅雪、夜に梅雪。
寝ても覚めても梅雪、梅雪、梅雪。
それ以外に語彙はないのかといっても過言ではない程度に梅雪を溺愛していた紫月が、みずから妹と必要最小限以外のつながりを断ったのだ。
使用人の間では、「近々猛吹雪がやってくるのでは?」とうわさされたほど。
当然だが、梅雪と喧嘩をしたわけではない。そんなことは天変地異が起きてもあり得ない。
「ようやくできた。俺からの贈り物が」
右手を空へかざす。
と、親指と人差し指の間で、銀河のような翠い梅花が陽光をきらりと反射した。
螺鈿細工のほどこされた二連の指輪は、紫月の『力』と『願い』が込められた特別なもの。
主の『想い』に応えて美しき白琵琶へとかたちを変える、法器だ。
これは香り袋へのお返しなのだ。
天にも昇る喜びを与えてくれた梅雪へ贈る、この世にたったひとつの愛の結晶。
簪を贈るにはまだ早いから、この指輪を、あの子に。
「おまえは俺の分身だ、白姫」
指輪の梅花へ、そっと口づけを落とす。
どうか、あの子の助けとなるよう。
「さて、そろそろ山をくだるか。もたもたしていると日が暮れる」
あぐらをかいていた木の根っこから、はずみをつけて立ち上がる。
「どうした、黒皇? 置いてくぞ」
どこか天然の気のある黒皇が大真面目な顔をして黙りこくるのは、めずらしいことではない。
「なんでもございません」
どうせまぬけなことを口走るだろうと高をくくって、見事に肩すかしを食らう。
何事もなかったかのように飛び立った黒皇に「あのやろう……」と軽く舌打ちをして、紫月も緋色の景色へ駆けだした。
いま振り返ってみて思う。
このとき、わずかにおぼえた違和感を、気のせいにすべきではなかったと。
* * *
乾いた音がひびきわたった。
と思えば、おのれのからだは地に伏していて。
遅れて左ほほに、熱をともなった痛みが襲う。
「──見損なったぞ、紫月」
名を呼ばれ、こわごわと面を上げる。
血のような夕照を背に自分を見下ろしていたのは、桃英だったろうか。
いや違う。よく似た別人だ。
だって父はおだやかで思慮深く、こんな鬼神のような顔はしない。
ましてや、息子のほほを張るだなんて。
「残念だわ……四宵が知ったら、どんなに悲しむことか」
聡明で愛情深い桜雨の顔をした別人が、硝子を鳴らすような美しい声音で奏でる。
この世で三人しか知らない、自分の母の名を。
「……なにを、言ってるんです、父上、継母上……俺がなにか、しましたか……?」
意味もわからず平手を受けた衝撃で、よろよろと上体を起こしてからも、呆然と唇をふるわせるしかない紫月。
あぁこれは、夢なんだ。
見たことのない怖い顔をした桃英も、悲しげな顔をした桜雨も。
自分を取り巻く使用人たちの、軽蔑のまなざしも。
全部全部、悪い夢だ。
「厳重に保管していた、『千年翠玉』が消えた」
せんねんすいぎょく。
おうむ返しのように反芻した紫月は、それが代々早一族が管理する秘薬のことだと理解した。
「そんなもの、俺は知りません……」
話に聞いていただけだ。『千年翠玉』とやらがどんなものなのか、見たことすらない。
困惑をかくせずに藍玉の瞳をゆらめかせる紫月の頭上で、ひとつ嘆息がある。
「そうか。では、それはなんだ?」
桃英の右手、紫月のほほを打った指先が、地面を指す。
紫月のひざもとに、朱の梅花が刺繍された巾着が落ちていた。ぶたれた際に首からはずれたのだろうか。
紐が切れ、ぽかりとあいたその口から、翠色に縞模様の玉──孔雀石のようなものがいくつか転がりでていた。
「そこにあるのが、『千年翠玉』だが」
「違います! この香り袋は梅雪からもらったもので!」
「ほう、梅雪のせいにするか」
「ッ、ちがうッ!!」
どういうことだ? なにが起きている?
なぜ自分はこんなものをもっていて、父たちに追及されているのだ?
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