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あの日の記憶(2)*聖吏(ショーリ)*

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 ユーリが皇帝コーガとの婚儀を控えた前日の真夜中、俺の父が急病という知らせがスタービグダムから届いた。

 早馬で駆ければ、遅くとも婚礼当日の朝には戻ってこられる。運が良ければ、もっと早くに戻ることも可能かもしれない。そのことを部下であり、ユーリの近衛であるジョーに伝えた。

 厩舎きゅうしゃから馬を出している最中、背後に気配がして振り向くと、ユーリが立っていた。

 頬を赤らめ、息を切らして立っていた。吐く白い息が宙へと舞う。

「ジョーから団長のことを聞いた」
「そうか。なるべく早く戻ってくる」
「団長によろしくと伝えてくれ」
「ああ、分かってる」

 俺の父は、国の騎士団長であり、王家へ長年仕えている身。ユーリも幼い頃から父のことをよく知っている。

「そうだ、ユーリ。今日はカゼル村にも招待されていたはずじゃ...」
「……うん。でもショーリが不在なら、やめておく。コーガに心配かけたくないし……」
「そうか……」

 カゼル村は、コーガ焼き討ちする寸前で、ユーリが救った村だ。北部統一の際、最後まで抵抗していた山岳地方の最大にして最強の村。その影響力は、他の村落にも及ぼすほどだった。ユーリと俺は、何ヶ月もかけ村民たちと良好な関係を築き、統一へ賛同するよう説得してきた。もし説得が失敗していたら、今頃この村は存在していなかっただろう。

 そのカゼル村でも婚儀前の宴を催すからぜひ来て欲しいと、数日前から招待されていた。ただ、俺が急用でいないから不安に思っていたが、どうやらユーリも出席しないと決めたらしい。少し安堵した。

 俺とユーリが許婚同士ということを村人たちは知っている。もちろんユーリとコーガが許婚ということもだ。そして、どうやら村人たちは勘違いをしているようだった。明日の婚礼の儀に俺も入っていることを。

 たしかに俺たちは許婚同士だが、主従関係という立場は変わらない。だから結婚の儀式もない。もちろん、互いに触れることさえ許されない身分。ただの名目上での伴侶でしかない。

「それじゃ、行ってくる」
「うん……」

 ユーリの瞳は甘い蜂蜜を思い起こさせる色。その瞳が揺れ、何かを訴えているように見えた。さっきは気づかなかったが、髪が少し濡れているのか、明るい茶色の髪が頬に張り付いていた。無意識に手を伸ばす。

 抱きしめたい。
 いまここには、俺たち二人だけしかいない。

 手綱を握るもう片方の手に力が入る。反対の手をもう少しだけ伸ばせば、ユーリに届く。

 訴えかけるような甘い色をした瞳。少し高揚した頬に張り付く濡れた髪。そして白い息を吐く唇に視線が釘付けになった。

 胸の奥がズキンと疼く。ゴクンと唾を飲み込んだ。

 伸ばした手で、頬に触れ、肩を抱き寄せたら、どれだけ安らぐだろうか。いや、安らぐどころか、いままで抑えていた理性という防波堤は容易く崩壊するだろう。

 乱れた心を無理矢理に押さえ込むように馬に跨った。

「ショーリ……」

 蜂蜜色の甘い瞳が俺を見上げる。

(頼むから、そんな目で見ないでくれ……。俺は、お前の期待に応えることはできない……)

「風邪を引くとまずいだろ。それに陛下が心配する。早く部屋へ戻れ」
「うん……」
「それじゃ、行ってくる」
「……気をつけて」

 厩舎から外へ出ると、土砂降りになっていた。雨足がいっそう強くなり、まるで自分の心情を表しているような雨だった。

 馬の尻に鞭をあて、その場から逃げるようにして駆け出した。それが俺たちにとって、最後の会話になるとは知らずに。

**

 スタービグダムへ到着した頃には、雨足も弱くなっていた。まだ昼までには数時間ありそうだ。約半年振りの帰国でのんびりしたいところだが、そうは言ってられない。すぐに屋敷にいる父を見舞った。

 悪天候の中を駆けつけたことに驚いていたが、案外嬉しそうな表情で安堵した。病状も大したことがないと家の者が教えてくれた。しかしそれも束の間だった。いつものように怒鳴られてしまった。

 明日は大事な婚儀が控えている。大きな儀式前後には国が不安定になるもの。それなのになぜ王子の傍を離れたのかという叱責だった。

 さすがに長年、国や王家を支えてきた父の言葉は重く感じる。

「ただお前も疲れてるだろ。少し休んだら王子のところへ戻りなさい」
「はい。申し訳ございませんでした」

 部屋を出ようとした時、背後から思わぬ言葉を掛けられた。 

「ショーリ、来てくれてありがとうな」

 多くは語らない父だが、感謝の言葉を掛けられた時には、思わず涙が溢れそうになった。もちろん騎士たるもの泣く訳にはいかない。奥歯をぐっと噛み締め堪え、軽く会釈をして部屋を出た。ドアを閉めると同時に、目を瞑り、大きく静かに深呼吸をして心を鎮めた。

 屋敷を出た後、ユーリの両親である、王と王妃に挨拶をしてから、ひと足先にトレジャーセト帝国へ戻ろうと決めた。両陛下とも今夜の晩餐会へ出席される予定だと、先ほど父から教えてもらったからである。

 両陛下に謁見すると、堅苦しい挨拶はしなくても良いと促された。あのユーリの両親だとつくづく感じる。それにお二人とも息災で安心した。簡単にユーリの近況などを伝えると、再会するのが楽しみだと仰った。ユーリが国を出てから、すでに一年が経とうとしていたからだ。

 そして同時に両陛下は、俺のことも心配してくれた。ユーリと俺とは、主従関係であるが、許婚同士でもあるからだ。時代が時代でなければと、何度も気遣った言葉を掛けてくれた。

 ただもう俺には覚悟は出来ている。このまま一生、ユーリに触れることは叶わないが、それでも側にいられる喜びを優先させたい。ユーリの為なら、この命さえ惜しくはない。あいつが幸せで、笑っていさえすればいい。それが俺の喜びでもあるからだ。

 王宮で両陛下と談笑していると、王の側近がやってきた。何やらトレジャーセト帝国から俺宛に使者が来ていると教えてくれた。皇帝陛下からの書簡を受け取った。

「どうかしたのですか、ショーリ?」

 王妃が優しい眼差しで俺のほうを見て聞いてきた。その瞳は、ユーリと同じ甘い蜂蜜色をしている。

「……あ、はい。ユーリが皇帝の名代で北部の山岳地方へ向かったと…なんでも暴動を鎮めるためだと書いてあり、俺にも向かうようにと……」
「あらま、あの子ったら、皇帝の名代という大役まで。張り切りすぎて危ない目にあってないといいけれど。ねぇ、陛下?」
「たしかに王妃のいう通りだな。あの子は私に似て無鉄砲なところがある。ショーリ、帰国したばかりで悪いが、すぐに向かってくれるか?」
「仰せのままに」

 今夜の晩餐会で再会することを両陛下と約束し、俺はすぐにトレジャーセト帝国の北部にある山岳地方へと馬を走らせた。

 雨はやみ、東の空には青空と昇りかけの満月が見えていた。

 どうやら今夜は月が綺麗に見えそうだ。
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