ポットのためのもう一杯

五条葵

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本編

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「シンシアさんはお店の方へ来たことはなかったな」

 お茶会が当たり前の日常となってきたある日、トーマスが突然シンシアに話しかける。夫から妻に話題をふることはあまり多くないので一瞬驚くシンシアだがすぐに平静を取り戻す。

「はい、まずは屋敷のことを覚えないと、と思いまして。でもずっと訪問していないのは不義理でしたよね。ごめんなさい」

 そう言って顔を伏せるシンシアにトーマスはそうではない、とやや慌てた素振りを見せる。

「いや、言ってもシンシアさんがこちらに来て一月も経っていないのだから問題ない。ただ、そろそろお店を案内しても良いかと思っただけで」

 実際、トーマスの妻がお店に来なかったとして残念がる者はいても不義理だと怒る者は一人もいないはずだ。そもそも今でも女性は商売に関わるべきでない、という意見も根強いし(ブラッドリー商会は女性の従業員も雇っているし、トーマス自身紅茶のような女性の消費が多い商品はむしろ女性の目線が大切だと感じているからその限りではないが)トーマスの妻が、古くからある田舎町出身だということも知られているから、商売の場である店を訪れなかったとしても不思議には思わないはずだ。

 ただトーマスが彼女を案内しようと思った理由は、屋敷の中しかない彼女の世界を広げたかったのと、そして、これまでのお茶会で彼女のお茶の知識の深さを知るに連れ、商会の仕事についてもっと詳しく説明するべきだと感じたからである。

 一方懸念材料がとれたシンシアはホッとした顔からさらに嬉しそうな顔に変わる。

 実を言うと国一番のブランドと言われるブラッドリーズの商品を一同に集め、更に最新の商品も揃えるというブラッドリー商会の本店にはとても興味があった。ただ、これまでリーンの街を出たことがなかったシンシアは勿論本店に行ったこともないし、結婚した後も果たして本店を訪れたいと言っていよいものか測りかねていたのだ。リーンでは仕事場は男の場所だと言われていたし、街の店を尋ねる、というのは男性のエスコートなしでは難しかった。そもそも商品は屋敷にやって来る商人から買うことが基本で、近年こそデートで街の店を尋ねるということがトレンドになってきたが、それすら年配の人は庶民じゃあるまいし、と眉を潜めるのだ。

 そんなわけでトーマスの提案が願ったり叶ったりだったシンシアは満面の笑みを浮かべる。

「安心しましたわ。それにとっても嬉しいです。ありがとうございます」

 笑顔で礼を言うシンシアに微笑んだトーマスは、自分の体が空く日はいつだろうか?と机の上の手帳に手を伸ばした。



 それから数日後。シンシアはトーマスにエスコートされ通りを歩いていた。ブラッドリー商会の本店までは歩ける距離だが馬車を出しても良い、という夫にシンシアはぜひ歩いて行きたいと言った。リーンでは街歩きなどしたことがないのだ。

 夫のエスコートを受けつつ、石畳の道、規則正しく植えられた街路樹、そしてひっきりなしに行き交う馬車、と見るもの全てに興味を示し興奮する妻に、年相応の少女らしさを感じて微笑ましく見守りつつ、ともすると石畳の段差でつまずきかねない妻をトーマスは引き寄せる。その仕草にはしゃぎすぎたことに気付いたのかシンシアはバツの悪そうな顔をした。

「あ、ごめんなさい。初めての外出だからって興奮しすぎですわよね。もっと若奥様らしくしますわ」

「別に構わない。これだけ人がいれば注目もされないし、ただ転ばないようにだけしてくれれば」

「気をつけますわ。そうだ、あとドレスもありがとうございます。必要とは言え、あんなにたくさん用意してくださるなんて」

「シンシアさんの言う通り必要経費だから気にすることはない。それに私はミセスローデルにシンシアさんが困らないようにドレスを用意して欲しいと頼んだに過ぎない」

 実際トーマスの言う通り、結婚するとは言え、妻に興味などなかった彼は、ドレスの用意を、それどころか調度品の選定から、部屋の支度まですべて使用人たちに丸投げしていた。もちろん彼らはトーマスの期待に答えてくれていたが、トーマス自身はシンシアがどんなドレスを持っているか全く知らない。なので感謝されると少々罪悪感が湧いた。

 シンシアの素直な言葉を持て余すトーマスだったが幸い程なくがブラッドリー商会の本店に着いたことでこの話も打ち切りとなった。

 トーマスに腕を引かれてレンガ積みの階段をのぼると、サッとドアが開く。シンシアはドアが開くと同時に漂ってきた幾重にお重なった重層的なお茶の香りを吸い込んだ。開店前の店では、すでに多くの従業員たちが開店の準備を進めていた。

 ドアが空いたことで入り口に視線を向けた彼らはトーマスの姿を認めると礼を取る。普段は商会の事務所に直接入ることが多いトーマスがこの時間に来たことで驚く彼らだが、更に彼等を驚かせるのは、トーマスがエスコートする女性の存在だ。結婚式に出席した幹部伝いにシンシアの人となりを聞いていた彼等は、その女性が、ブラッドリー家の若奥様であることはわかったが、それでも噂にしか聞かない彼女の突然の登場にやや戸惑っている様子である。

 従業員たちの視線からやや隠すように半歩前へ進んだトーマスは彼等に声をかける。

「突然訪れて済まない。ちょうど機会があったから紹介しておこうと思って。妻のシンシアだ。皆も知っているだろうレイクトン氏の娘さんだ」

「シンシアですわ。どうぞよろしく」

 そう言って、膝を折る彼女に従業員たちも一斉に礼を返す。彼等が姿勢を戻したのを見てトーマスはパンパンと手を叩いた。

「さて、仕事を中断させて悪かった。皆仕事にもどってくれ。そうだ、ブライトとベリルは少し残ってくれ。あと誰か事務所へ行ってロブソンを呼んできてくれるか」

 その声に二人に注目していた従業員たちが一斉に動き始める。あまり注目される、ということに慣れていないシンシアは少しホッとして息を吐いた。

 程なくすると、執事のブラウンより更に壮年の男性とそれよりは若いがトーマスよりは少し年上らしき男性がトーマスとシンシアの元へと近づく。トーマスがそんな彼等を紹介した。

「彼等が支配人のブライトと副支配人のベリル。ブライトは両親の代から幹部として働いてくれている古参で、ベリルは最近副支配人にだったのだが優秀な人物だ。あと彼はロブソンといって、商会で私の秘書のようなことをしてくれている。今後商会に出入りするときはまず彼らを頼ると良い」

「まぁ、改めまして、ロブソンさんははじめましてですわね。リーンから嫁いでまいりましたシンシアですわ。よろしくどうぞ」

 そう言って礼をとるシンシアに代表してブライトが挨拶する。

「支配人のブライトです。旦那様がようやくご結婚なさると聞いて従業員一同非常に喜んでおります。私かベリルは必ず店におりますからなにか御用がありましたらいつでもお申し付けください。さて、旦那様。今日は店を案内するとのことでしたが、私がご案内いたしますか?」

 最後はトーマスに向けた言葉に彼は首を振る

「いや、今日は急ぎの仕事もないし私が案内しようと思う。三人とも仕事の手を止めて悪かった。また何かあったら呼ぶよ。シンシアはこちらへ」

 そう言ってシンシアの手を引きトーマスは店の奥へと進む。そんな二人の様子に今までのトーマスの恋人とは違う雰囲気を感じた三人は顔を見合わせ微笑んだ。

 そんな三人を始め従業員たちに見守られつつ、トーマスはシンシアに店の商品を紹介していく。

 店のある場所は、ローグスでも上流や中上流の屋敷が集まる一角からすぐ。周囲にはライセルを代表する商会が軒を連ねる。そんな通りに構えるここは、静かで落ち着いた空間に各地から輸入した茶葉や、それをブレンドした商品、さらにはカップやポット、スプーンといった道具類から、ちょっとしたお菓子までお茶にかかわるものが並んでいる。

 トーマスが紹介する品々を興味深そうに眺め、ときに手にとって見ていたシンシアはふと顔を上げた先にあるものに「まぁ」っと声を上げた。
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