○○さんの諸事情。

アノンドロフ

文字の大きさ
上 下
42 / 54
貞光さんと磯貝くんの場合。

励ましと本音と。

しおりを挟む
「──って感じで、俺は痛みを理由に逃げてしまったんだ」
 「そうすれば、皆の記憶には速く走る俺が残るからね」と、磯貝は力なく笑って話を締めくくった。
 斑目から磯貝の過去を簡単に聞いた貞光は、自身の部屋に彼を招き、直接尋ねてみた。
 磯貝は躊躇う素振りもなく、彼が今まで抱えてきたものを教えてくれた。
 人々の期待に、押し潰された話──。
そう、また笑えていないぞ」
「あ、本当? ……じゅんさんって、凄いよね。人の感情の機微に、敏感っていうか……」
 磯貝は、深く息を吸って、吐いた。心を落ち着かせるためだったのだろうが、あまり変化はないように見えた。
「陸上を辞めてから、だったかな。どんな景色を見ても、どんな音楽を聴いても、心が、こう、動かない時期があって。心から笑うこともなくなってたんだけど、今までニコニコしていたやつが、急に笑わなくなったら怖いのかなって、思ってさ」
「──そうか」
 それで、無理に笑顔を作っていた、ということなのだろう。
 今まで話を聴いて、目の前の青年は、人の目を気にしすぎているように感じた。
 他者を気にしすぎたことで、自分を見失っているのだ。
「……今年の学祭、学部対抗のリレーがあるんだが、知ってるか?」
「うん。でも、俺は出ないかな……たぶん、思うように走れないし」
 「走る気力がなくなった」そう彼は言っていたはずだ。
 しかし、貞光から見た磯貝には、後悔と躊躇いがあるように思えてしまう。
 そもそも、磯貝が高校教師を目指していること自体、別のかたちでもいいからあの場所に帰りたいからなのではと、勘繰ってしまった。本人に確かめるつもりはないが。
 ──もし、彼が走りたくても走れないのなら──一歩前へと踏み出す勇気が、持てないのだとしたら。
 あの日。あの悪夢から救い出してくれた大切な人の、背中を押してやりたい。

「颯。俺は、スポーツ全般に興味がない。だから、お前の足が速かろうが遅かろうが、どうでもいい」
 はっきりと、強く、言い切った。
 この瞬間だけ、自分は、悪評通りの自己中心的で尊大な人間になってやる。
「だが、俺は見たいんだ。お前が走る様を。他の人間は見たことがあるのに、俺はないのが癪に障るからな」
「絢さん……?」
 戸惑っているような様子だが、貞光は気にせずに続ける。
「それに、普段の笑顔でさえあの輝きだ。好きなものに打ち込むお前は、きっともっと素敵だろう」
 なんだか、滅茶苦茶なことを言っている気がする。だが、ここで止まるわけにはいかない。
「お前が、ビリになろうが途中で転けようが構わない。だから、俺のために、走る気はないか?」
 ポカンとした表情で、固まっている磯貝。説得できていなかったのだろうか、と貞光は恐る恐るという風に付け足す。
「その……一応、恋人からのお願いというやつなんだが……だめか?」
 「恋人」という単語が、自分の口から出てきたことにむず痒く思う。
 「今のは、聞かなかったことに……」と、なかったことにしようとしたものの、突然磯貝の両腕が自分の身体に回されて、言葉が喉の奥へと引っ込んだ。
「ありがとう。絢さん」
 耳元で囁かれた感謝の言葉に、自分の真意が伝わったことを理解した。
「もし、リレーに出たら、観に来てくれるよね?」
「ああ、もちろん。一番前でお前の名を呼ぼう」
「そっか。それは、嬉しいなぁ」
 満足したように、磯貝の身体が貞光から離れる。
「さっそく、練習しようかな。軽く走ってくるよ」
「……怪我だけは、するなよ」
 玄関へと向かう磯貝の背中に、少し、寂しいと思ってしまった。
 だが、走るように促したのは自分だ。取り敢えず外まで見送ろうかと、彼の背を追う。

「……あ。その前に、一つ」
 靴を履こうとしていたのを止めて、磯貝はくるりと貞光の方を振り返った。
「さっきも言ったんだけど、陸上を辞めてから、目に入るものが全部色褪せて見えるようになって。きれいな景色を見れば、少しは変わるかなって思ったけど、全然だった」
 発表内容に「琴原市の好きな景色」を選んだのも、そのためだったと磯貝は付け足す。
「……でも、あなたといろんな場所に行くのは、久し振りに楽しかったんだ。どんな場所でも、絢さんはきれいな景色を見つけ出していて、俺も、あなたと同じものを見たいと思えた」
 一歩、前へと踏み出す磯貝。これで、彼と貞光との距離はほとんどなくなった。
「そしてあなたが、初めて俺を頼ってくれたあの日。──すごくきれいなものを見つけた」
 磯貝の指が、顔に触れる。
 熱のこもったその視線が、自分の瞳に絡み付く。
「笑顔が輝いているって、さっき言ってくれたけど、俺を照らしてくれているのは、間違いなく絢さん、あなたなんだ。あなたがいてくれるから、俺の世界に色が戻った」
 光がなければ、色を認識することはできない。
「キラキラしてるって言っていたのは、まさか、そういう──」
「うん。まだちゃんと伝えられていなかったからね、今言わないとって思って」
 眩しそうに、目を細めて微笑む磯貝。
「ずっと、気にかけてくれてありがとう。あなたが道を示してくれたから、俺は今まで歩んでこれた──だから、恩返しさせてね?」

 するり、と指が頬を撫でて、離れる。
 静かになった部屋の外から、小さく蝉の音が聞こえてきた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

彼の理想に

いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。 人は違ってもそれだけは変わらなかった。 だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。 優しくする努力をした。 本当はそんな人間なんかじゃないのに。 俺はあの人の恋人になりたい。 だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。 心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

【完結】遍く、歪んだ花たちに。

古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。 和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。 「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」 No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。

ひとりぼっちの180日

あこ
BL
付き合いだしたのは高校の時。 何かと不便な場所にあった、全寮制男子高校時代だ。 篠原茜は、その学園の想像を遥かに超えた風習に驚いたものの、順調な滑り出しで学園生活を始めた。 二年目からは学園生活を楽しみ始め、その矢先、田村ツトムから猛アピールを受け始める。 いつの間にか絆されて、二年次夏休みを前に二人は付き合い始めた。 ▷ よくある?王道全寮制男子校を卒業したキャラクターばっかり。 ▷ 綺麗系な受けは学園時代保健室の天使なんて言われてた。 ▷ 攻めはスポーツマン。 ▶︎ タグがネタバレ状態かもしれません。 ▶︎ 作品や章タイトルの頭に『★』があるものは、個人サイトでリクエストしていただいたものです。こちらではリクエスト内容やお礼などの後書きを省略させていただいています。

浮気な彼氏

月夜の晩に
BL
同棲する年下彼氏が別の女に気持ちが行ってるみたい…。それでも健気に奮闘する受け。なのに攻めが裏切って…?

ハッピーエンド

藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。 レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。 ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。 それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。 ※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

まさか「好き」とは思うまい

和泉臨音
BL
仕事に忙殺され思考を停止した俺の心は何故かコンビニ店員の悪態に癒やされてしまった。彼が接客してくれる一時のおかげで激務を乗り切ることもできて、なんだかんだと気づけばお付き合いすることになり…… 態度の悪いコンビニ店員大学生(ツンギレ)×お人好しのリーマン(マイペース)の牛歩な恋の物語 *2023/11/01 本編(全44話)完結しました。以降は番外編を投稿予定です。

処理中です...