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貞光さんと磯貝くんの場合。
励ましと本音と。
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「──って感じで、俺は痛みを理由に逃げてしまったんだ」
「そうすれば、皆の記憶には速く走る俺が残るからね」と、磯貝は力なく笑って話を締めくくった。
斑目から磯貝の過去を簡単に聞いた貞光は、自身の部屋に彼を招き、直接尋ねてみた。
磯貝は躊躇う素振りもなく、彼が今まで抱えてきたものを教えてくれた。
人々の期待に、押し潰された話──。
「颯、また笑えていないぞ」
「あ、本当? ……絢さんって、凄いよね。人の感情の機微に、敏感っていうか……」
磯貝は、深く息を吸って、吐いた。心を落ち着かせるためだったのだろうが、あまり変化はないように見えた。
「陸上を辞めてから、だったかな。どんな景色を見ても、どんな音楽を聴いても、心が、こう、動かない時期があって。心から笑うこともなくなってたんだけど、今までニコニコしていたやつが、急に笑わなくなったら怖いのかなって、思ってさ」
「──そうか」
それで、無理に笑顔を作っていた、ということなのだろう。
今まで話を聴いて、目の前の青年は、人の目を気にしすぎているように感じた。
他者を気にしすぎたことで、自分を見失っているのだ。
「……今年の学祭、学部対抗のリレーがあるんだが、知ってるか?」
「うん。でも、俺は出ないかな……たぶん、思うように走れないし」
「走る気力がなくなった」そう彼は言っていたはずだ。
しかし、貞光から見た磯貝には、後悔と躊躇いがあるように思えてしまう。
そもそも、磯貝が高校教師を目指していること自体、別のかたちでもいいからあの場所に帰りたいからなのではと、勘繰ってしまった。本人に確かめるつもりはないが。
──もし、彼が走りたくても走れないのなら──一歩前へと踏み出す勇気が、持てないのだとしたら。
あの日。あの悪夢から救い出してくれた大切な人の、背中を押してやりたい。
「颯。俺は、スポーツ全般に興味がない。だから、お前の足が速かろうが遅かろうが、どうでもいい」
はっきりと、強く、言い切った。
この瞬間だけ、自分は、悪評通りの自己中心的で尊大な人間になってやる。
「だが、俺は見たいんだ。お前が走る様を。他の人間は見たことがあるのに、俺はないのが癪に障るからな」
「絢さん……?」
戸惑っているような様子だが、貞光は気にせずに続ける。
「それに、普段の笑顔でさえあの輝きだ。好きなものに打ち込むお前は、きっともっと素敵だろう」
なんだか、滅茶苦茶なことを言っている気がする。だが、ここで止まるわけにはいかない。
「お前が、ビリになろうが途中で転けようが構わない。だから、俺のために、走る気はないか?」
ポカンとした表情で、固まっている磯貝。説得できていなかったのだろうか、と貞光は恐る恐るという風に付け足す。
「その……一応、恋人からのお願いというやつなんだが……だめか?」
「恋人」という単語が、自分の口から出てきたことにむず痒く思う。
「今のは、聞かなかったことに……」と、なかったことにしようとしたものの、突然磯貝の両腕が自分の身体に回されて、言葉が喉の奥へと引っ込んだ。
「ありがとう。絢さん」
耳元で囁かれた感謝の言葉に、自分の真意が伝わったことを理解した。
「もし、リレーに出たら、観に来てくれるよね?」
「ああ、もちろん。一番前でお前の名を呼ぼう」
「そっか。それは、嬉しいなぁ」
満足したように、磯貝の身体が貞光から離れる。
「さっそく、練習しようかな。軽く走ってくるよ」
「……怪我だけは、するなよ」
玄関へと向かう磯貝の背中に、少し、寂しいと思ってしまった。
だが、走るように促したのは自分だ。取り敢えず外まで見送ろうかと、彼の背を追う。
「……あ。その前に、一つ」
靴を履こうとしていたのを止めて、磯貝はくるりと貞光の方を振り返った。
「さっきも言ったんだけど、陸上を辞めてから、目に入るものが全部色褪せて見えるようになって。きれいな景色を見れば、少しは変わるかなって思ったけど、全然だった」
発表内容に「琴原市の好きな景色」を選んだのも、そのためだったと磯貝は付け足す。
「……でも、あなたといろんな場所に行くのは、久し振りに楽しかったんだ。どんな場所でも、絢さんはきれいな景色を見つけ出していて、俺も、あなたと同じものを見たいと思えた」
一歩、前へと踏み出す磯貝。これで、彼と貞光との距離はほとんどなくなった。
「そしてあなたが、初めて俺を頼ってくれたあの日。──すごくきれいなものを見つけた」
磯貝の指が、顔に触れる。
熱のこもったその視線が、自分の瞳に絡み付く。
「笑顔が輝いているって、さっき言ってくれたけど、俺を照らしてくれているのは、間違いなく絢さん、あなたなんだ。あなたがいてくれるから、俺の世界に色が戻った」
光がなければ、色を認識することはできない。
「キラキラしてるって言っていたのは、まさか、そういう──」
「うん。まだちゃんと伝えられていなかったからね、今言わないとって思って」
眩しそうに、目を細めて微笑む磯貝。
「ずっと、気にかけてくれてありがとう。あなたが道を示してくれたから、俺は今まで歩んでこれた──だから、恩返しさせてね?」
するり、と指が頬を撫でて、離れる。
静かになった部屋の外から、小さく蝉の音が聞こえてきた。
「そうすれば、皆の記憶には速く走る俺が残るからね」と、磯貝は力なく笑って話を締めくくった。
斑目から磯貝の過去を簡単に聞いた貞光は、自身の部屋に彼を招き、直接尋ねてみた。
磯貝は躊躇う素振りもなく、彼が今まで抱えてきたものを教えてくれた。
人々の期待に、押し潰された話──。
「颯、また笑えていないぞ」
「あ、本当? ……絢さんって、凄いよね。人の感情の機微に、敏感っていうか……」
磯貝は、深く息を吸って、吐いた。心を落ち着かせるためだったのだろうが、あまり変化はないように見えた。
「陸上を辞めてから、だったかな。どんな景色を見ても、どんな音楽を聴いても、心が、こう、動かない時期があって。心から笑うこともなくなってたんだけど、今までニコニコしていたやつが、急に笑わなくなったら怖いのかなって、思ってさ」
「──そうか」
それで、無理に笑顔を作っていた、ということなのだろう。
今まで話を聴いて、目の前の青年は、人の目を気にしすぎているように感じた。
他者を気にしすぎたことで、自分を見失っているのだ。
「……今年の学祭、学部対抗のリレーがあるんだが、知ってるか?」
「うん。でも、俺は出ないかな……たぶん、思うように走れないし」
「走る気力がなくなった」そう彼は言っていたはずだ。
しかし、貞光から見た磯貝には、後悔と躊躇いがあるように思えてしまう。
そもそも、磯貝が高校教師を目指していること自体、別のかたちでもいいからあの場所に帰りたいからなのではと、勘繰ってしまった。本人に確かめるつもりはないが。
──もし、彼が走りたくても走れないのなら──一歩前へと踏み出す勇気が、持てないのだとしたら。
あの日。あの悪夢から救い出してくれた大切な人の、背中を押してやりたい。
「颯。俺は、スポーツ全般に興味がない。だから、お前の足が速かろうが遅かろうが、どうでもいい」
はっきりと、強く、言い切った。
この瞬間だけ、自分は、悪評通りの自己中心的で尊大な人間になってやる。
「だが、俺は見たいんだ。お前が走る様を。他の人間は見たことがあるのに、俺はないのが癪に障るからな」
「絢さん……?」
戸惑っているような様子だが、貞光は気にせずに続ける。
「それに、普段の笑顔でさえあの輝きだ。好きなものに打ち込むお前は、きっともっと素敵だろう」
なんだか、滅茶苦茶なことを言っている気がする。だが、ここで止まるわけにはいかない。
「お前が、ビリになろうが途中で転けようが構わない。だから、俺のために、走る気はないか?」
ポカンとした表情で、固まっている磯貝。説得できていなかったのだろうか、と貞光は恐る恐るという風に付け足す。
「その……一応、恋人からのお願いというやつなんだが……だめか?」
「恋人」という単語が、自分の口から出てきたことにむず痒く思う。
「今のは、聞かなかったことに……」と、なかったことにしようとしたものの、突然磯貝の両腕が自分の身体に回されて、言葉が喉の奥へと引っ込んだ。
「ありがとう。絢さん」
耳元で囁かれた感謝の言葉に、自分の真意が伝わったことを理解した。
「もし、リレーに出たら、観に来てくれるよね?」
「ああ、もちろん。一番前でお前の名を呼ぼう」
「そっか。それは、嬉しいなぁ」
満足したように、磯貝の身体が貞光から離れる。
「さっそく、練習しようかな。軽く走ってくるよ」
「……怪我だけは、するなよ」
玄関へと向かう磯貝の背中に、少し、寂しいと思ってしまった。
だが、走るように促したのは自分だ。取り敢えず外まで見送ろうかと、彼の背を追う。
「……あ。その前に、一つ」
靴を履こうとしていたのを止めて、磯貝はくるりと貞光の方を振り返った。
「さっきも言ったんだけど、陸上を辞めてから、目に入るものが全部色褪せて見えるようになって。きれいな景色を見れば、少しは変わるかなって思ったけど、全然だった」
発表内容に「琴原市の好きな景色」を選んだのも、そのためだったと磯貝は付け足す。
「……でも、あなたといろんな場所に行くのは、久し振りに楽しかったんだ。どんな場所でも、絢さんはきれいな景色を見つけ出していて、俺も、あなたと同じものを見たいと思えた」
一歩、前へと踏み出す磯貝。これで、彼と貞光との距離はほとんどなくなった。
「そしてあなたが、初めて俺を頼ってくれたあの日。──すごくきれいなものを見つけた」
磯貝の指が、顔に触れる。
熱のこもったその視線が、自分の瞳に絡み付く。
「笑顔が輝いているって、さっき言ってくれたけど、俺を照らしてくれているのは、間違いなく絢さん、あなたなんだ。あなたがいてくれるから、俺の世界に色が戻った」
光がなければ、色を認識することはできない。
「キラキラしてるって言っていたのは、まさか、そういう──」
「うん。まだちゃんと伝えられていなかったからね、今言わないとって思って」
眩しそうに、目を細めて微笑む磯貝。
「ずっと、気にかけてくれてありがとう。あなたが道を示してくれたから、俺は今まで歩んでこれた──だから、恩返しさせてね?」
するり、と指が頬を撫でて、離れる。
静かになった部屋の外から、小さく蝉の音が聞こえてきた。
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