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貞光さんと磯貝くんの場合。
貞光さんの不調。
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プレゼン発表まで、あと二週間となった。
講義が始まる数十分前、既に講義室に来ていた貞光は、机の上にスケッチブックを広げた。
この二ヶ月の間、貞光は磯貝とともに様々な場所を巡った。そのなかには、画になると感じた場所も多々あり、比較的調子の良い今日であれば描けるだろうと思ったのだ。
心のなかに、あの日の風景を投射する。つい先程までその場にいたのではと錯覚するほど、鮮明に思い出すことができた。
あとは、心の赴くままに。鉛筆を持つ右手に、全てを委ねて。
──『役立たず』
半分ほど描けたところで、貞光の手が止まる。投射した風景が、あの日の心の動きが、全部かき消されていく。
──まただ。また、最後まで描けなかった。
鉛筆を机の上に置く音が、無情に響く。
スケッチブックを閉じようと、ページの端を摘まんだところで、
「おはよう、貞光さん」
と磯貝が隣にやって来た。
「あ、ああ。おはよう」
挨拶を返しながら、ふと磯貝の視線が開かれたままのスケッチブックに向けられていることに気が付く。
「……それ、もしかして先週行った神社を描いてるの?」
磯貝に興味を持たれる前に片付けてしまおうとしたが、どうやら間に合わなかったようだ。彼は、出会って直ぐ頃の無理をしたような表情ではなく、ただ純粋に目を輝かせている。
そんな様子を見ていると、今さら隠そうという気力も失くなり。貞光は磯貝に言われるがまま、スケッチブックを手渡した。
「うわ……描き込みすご……」
作品とも呼べないような、未完成だらけの鉛筆画を、彼は一枚一枚、丁寧に捲っていく。貞光は何となく恥ずかしくなり、身体が椅子から数センチほど浮かんでいるような心地のまま、その様子を見守っていた。
ついに白紙のページまで辿り着くと、磯貝は最後の神社の絵を開いた状態に戻し、大切な物を扱うように貞光の手に戻した。
「見せてくれてありがとう。この絵って、写真とかを見て描いたの?」
「いや、記憶を頼りに描いている」
「……それって、凄くないかい?」
「写真記憶とかっていうやつでは?」と、磯貝はやや興奮気味に言ったが、本当にそうなのかはよく分からない。
たしかに、貞光の描く絵は、何も見ずに描いたにしては緻密過ぎている。しかし、それはあくまでも「画になる」と感じた風景だけであり、興味がないものについては記憶していない。
写真記憶が自在に使えるのであれば、少なくとも試験勉強で苦労することはなかっただろう。
「また、何か描いたら見せて欲しいな」
「──ああ、分かった」
次はいつ絵を描くのか、そもそも、絵を描こうという気が起きるかどうかすら分からない。
それでも、果たせないかもしれない約束を、貞光はしてしまったのだった。
講義が終わり、貞光と磯貝は明日の予定を立てる。
彼らが巡ったスポットは、既に十分間のプレゼンテーションでは紹介しきれない数となっており、そろそろ資料をまとめてスライドを作るべきだ。
よって、明日の午前中は図書館に集合。昼頃には解散し、そろそろ迫ってきている中間試験対策を頑張ろう、ということになった。
……正直なところ、貞光は午前中に用事を入れたくなかった。だが、最近の己の調子から、おそらく大丈夫だろうと、油断していたのだ。
しかし、そういったときに限って、不調というのは訪れるもの。
その日の夜。
貞光絢也は悪夢を見た。
重い岩石が身体の上に圧し掛かるような圧迫感。血の気が引いていく感覚と、手足の震え。冷たい液体が背を伝い、彼を浅い眠りから簡単に目覚めさせた。
グワングワンと揺れる頭の中では、耳を塞ぎたくても逃れられない罵声と、目を閉じても浮かび上がるハサミと鮮血。胎児の様に身体を丸め、両手で頭を包み込む。
喉の奥から漏れる擦れた音が、冷たく暗い室内に吸い込まれた。
どれほどの時間が経過したのだろう。カーテンの隙間から光が零れていることにさえ、気付く余裕ができないまま、貞光は朝を迎えていた。
彼は、未だに悪夢に囚われている。夢の中の登場人物に、恐れの感情を抱き続けている。
外の喧騒も、スマホのアラームも、彼を現実へと引き戻せない──普段通りであれば。
玄関チャイムの音が、ふと耳に入った。聞きなれた、友人の声も。
──そうだ、今日は約束していたじゃないか。
のそりと布団から起き上がり、ふらふらと玄関へ向かう。
ひんやりとしたコンクリートの感触を足裏から感じながら、いつもより重たい鉄製の扉を開ける。
そこには、心配そうな表情の磯貝がいた。見知った顔で安心したからか、身体から力が抜けて。ぐらりと視界が揺れて。
……そこからの記憶は、ない。
講義が始まる数十分前、既に講義室に来ていた貞光は、机の上にスケッチブックを広げた。
この二ヶ月の間、貞光は磯貝とともに様々な場所を巡った。そのなかには、画になると感じた場所も多々あり、比較的調子の良い今日であれば描けるだろうと思ったのだ。
心のなかに、あの日の風景を投射する。つい先程までその場にいたのではと錯覚するほど、鮮明に思い出すことができた。
あとは、心の赴くままに。鉛筆を持つ右手に、全てを委ねて。
──『役立たず』
半分ほど描けたところで、貞光の手が止まる。投射した風景が、あの日の心の動きが、全部かき消されていく。
──まただ。また、最後まで描けなかった。
鉛筆を机の上に置く音が、無情に響く。
スケッチブックを閉じようと、ページの端を摘まんだところで、
「おはよう、貞光さん」
と磯貝が隣にやって来た。
「あ、ああ。おはよう」
挨拶を返しながら、ふと磯貝の視線が開かれたままのスケッチブックに向けられていることに気が付く。
「……それ、もしかして先週行った神社を描いてるの?」
磯貝に興味を持たれる前に片付けてしまおうとしたが、どうやら間に合わなかったようだ。彼は、出会って直ぐ頃の無理をしたような表情ではなく、ただ純粋に目を輝かせている。
そんな様子を見ていると、今さら隠そうという気力も失くなり。貞光は磯貝に言われるがまま、スケッチブックを手渡した。
「うわ……描き込みすご……」
作品とも呼べないような、未完成だらけの鉛筆画を、彼は一枚一枚、丁寧に捲っていく。貞光は何となく恥ずかしくなり、身体が椅子から数センチほど浮かんでいるような心地のまま、その様子を見守っていた。
ついに白紙のページまで辿り着くと、磯貝は最後の神社の絵を開いた状態に戻し、大切な物を扱うように貞光の手に戻した。
「見せてくれてありがとう。この絵って、写真とかを見て描いたの?」
「いや、記憶を頼りに描いている」
「……それって、凄くないかい?」
「写真記憶とかっていうやつでは?」と、磯貝はやや興奮気味に言ったが、本当にそうなのかはよく分からない。
たしかに、貞光の描く絵は、何も見ずに描いたにしては緻密過ぎている。しかし、それはあくまでも「画になる」と感じた風景だけであり、興味がないものについては記憶していない。
写真記憶が自在に使えるのであれば、少なくとも試験勉強で苦労することはなかっただろう。
「また、何か描いたら見せて欲しいな」
「──ああ、分かった」
次はいつ絵を描くのか、そもそも、絵を描こうという気が起きるかどうかすら分からない。
それでも、果たせないかもしれない約束を、貞光はしてしまったのだった。
講義が終わり、貞光と磯貝は明日の予定を立てる。
彼らが巡ったスポットは、既に十分間のプレゼンテーションでは紹介しきれない数となっており、そろそろ資料をまとめてスライドを作るべきだ。
よって、明日の午前中は図書館に集合。昼頃には解散し、そろそろ迫ってきている中間試験対策を頑張ろう、ということになった。
……正直なところ、貞光は午前中に用事を入れたくなかった。だが、最近の己の調子から、おそらく大丈夫だろうと、油断していたのだ。
しかし、そういったときに限って、不調というのは訪れるもの。
その日の夜。
貞光絢也は悪夢を見た。
重い岩石が身体の上に圧し掛かるような圧迫感。血の気が引いていく感覚と、手足の震え。冷たい液体が背を伝い、彼を浅い眠りから簡単に目覚めさせた。
グワングワンと揺れる頭の中では、耳を塞ぎたくても逃れられない罵声と、目を閉じても浮かび上がるハサミと鮮血。胎児の様に身体を丸め、両手で頭を包み込む。
喉の奥から漏れる擦れた音が、冷たく暗い室内に吸い込まれた。
どれほどの時間が経過したのだろう。カーテンの隙間から光が零れていることにさえ、気付く余裕ができないまま、貞光は朝を迎えていた。
彼は、未だに悪夢に囚われている。夢の中の登場人物に、恐れの感情を抱き続けている。
外の喧騒も、スマホのアラームも、彼を現実へと引き戻せない──普段通りであれば。
玄関チャイムの音が、ふと耳に入った。聞きなれた、友人の声も。
──そうだ、今日は約束していたじゃないか。
のそりと布団から起き上がり、ふらふらと玄関へ向かう。
ひんやりとしたコンクリートの感触を足裏から感じながら、いつもより重たい鉄製の扉を開ける。
そこには、心配そうな表情の磯貝がいた。見知った顔で安心したからか、身体から力が抜けて。ぐらりと視界が揺れて。
……そこからの記憶は、ない。
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