○○さんの諸事情。

アノンドロフ

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須応さんと斑目くんの場合。

斑目くんと気付き。

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 ある日の昼下がり。
 午後の講義が始まった時間帯だが、斑目はキャンパス内をウロウロしていた。
 サボりではなく、単に講義が急に休講になったため、暇を持て余しているのである。
 ──もっと早く休講だと連絡が来ていれば、図書館で借りた本を持ってきていたのに。
 ふとそんなことを考えてしまうが、仕方がない。自習室に行って課題でもやろう。次の講義まで一時間は空いているし、時間は有効に使わなければ。
 こうして、斑目の足は自習室へ向かって動き出した。

 斑目の通うキャンパス内には、自習室が複数存在している。それらの中で、現在位置から最も近かったのは大学図書館内にある自習スペースだった。よって斑目はそちらに向かっていたわけだが、図書館の前に人が集まっているのを見て、何かあったのだろうか──と歩くスピードを落とした。
 近づくにつれて、何が行われているのかがはっきりと見えてきた。折り畳み式の長机の前には複数の男女。そのすぐ横にトラックが止まっていて、扉の開いた荷台からは本が大量に見える。そして、目を凝らすとトラックの扉には「琴原市立図書館」と小さな文字で書かれていた。
 そういえば──と過去に須応から聞いた話を思い返す。
 琴原市立図書館は、移動図書館の取り組みも行っている。その巡回場所の地点の一つに、大学図書館前も含まれていたはずだ。
 それが今日だったのかと納得し、図書館の入り口へと向かう。そして、長机の横を通るときに、須応がそこにいることに気が付いた。
「あ、斑目さん。こんにちは」
 仕事中の彼に声を掛けるのは迷惑だろうと、気付かない振りをして中に入ろうとしていた斑目だったが、須応から挨拶されたことで足を止める。
「こんにちは。お疲れ様です」
 そう返し、須応の朗らかな表情を見て、違和感に気付く。
「なんか、顔色が悪そうですけど……大丈夫ですか?」
「え? ああ、僕は元気ですよ。全然元気」
 須応は取り繕うように顔の前で手を振ったが、須応とよく一緒にカウンターに並んでいる図書館司書の中年女性が、斑目の言葉に反応する。
「須応君、体調悪かったの? ごめんなさい、私気付かなくって」
「だから元気ですって、ほら、この通り──」
「誤魔化してはダメよ。少し休んできてもいいわ。学生さんにも手伝ってもらってるし。それに、あなたには帰りも運転してもらうことになるんだから」
「や、だから、橘さん」
「休みなさい」
 グイグイと長机の前から押し出され、須応は斑目の横に並ぶ。
「……座れるところ、教えてください。できれば、人が少ないところで」
「了解です……」

 大学図書館近くの、中庭。
 講義の時間帯ということもあり、中庭のベンチにはほとんど人が座っていない。
 自販機で温かい飲み物を買って戻ると、須応はベンチに座って目の前の池をぼんやりと眺めていた。
「須応さん、これ。温かいお茶です」
「あ……ありがとう。いただきます」
 須応はいつものように微笑んだが、やはりどこか元気がないように見える。
 斑目は少し間を空けて、須応の隣へと座った。
 今日は雲も少なく、風もないので過ごしやすい。
「あの、須応さん。その……俺、お節介じゃ、なかったですか……?」
 まさか、こんなことになるとは思わなかった。
 自分の行ったことが、須応の気分を害していたらと質問したが、彼は頭を横に振った。
「いえ、ありがとうございます。……実は、最近あまりよく眠れていなくて。顔色が悪かったのも寝不足のせいかと」
 ペットボトルの口を開け、マスクに手を掛ける。
「……僕の顔。できれば、見ないでもらえたら──」
「あ、はい。見ません」
 須応からのお願いに、慌てて彼がいるのとは真逆の方向を向く。
 ……マスク。
 そういえば、斑目は須応がマスクを外したところを見たことがない。
 最初は、花粉やハウスダストのアレルギー対策だと思っていた。しかし、須応は季節や場所に関係なくマスクを付けていて──。
「もう、こっち見てもいいですよ」
 お茶を飲んだ彼は、既にマスクを付け直していた。
「ごめんなさい、本当に──」
 この疑問を投げかけてもいいものか、と斑目が逡巡し答えを出す前に、須応がそう言って頭を下げた。
「俺のことは、全然大丈夫ですよ。用事もなかったし。お茶のお金も、気にしないでください」
「いえ、そのことじゃなくて──そういうことじゃ、なくて……」
 身体が、震えている。いつも姿勢のいい彼が、背を丸めて頭を抱えている。
「顔の、ことですよ。……自分の顔に、あまりいい思い出がなくて。それで、素顔を見せるのが、怖いんです。──あなたのことが怖いから、顔を隠しているのでは、ないんです。それだけは、信じてください」
 顔を隠すための、マスク──。
 これほどまで顔を隠したいということは、過去に本当に嫌なことがあって、己の顔を嫌っているのか──。
 ──いや、待て。俺は、この人のことをなんと言った?
 数日前、幸里に須応のことについてアドバイスをもらったとき、斑目は須応のことを「ふわふわした美人」と形容していた。その言葉を、須応も聞いていた。
 もし、あのあと幸里が「ふわふわした美人」が誰のことか教えていたら?
 ──俺は、何てことを言ったのか。

「──須応さん!」
 自分よりも小さい両肩を掴む。
 見開かれた須応の瞳が、斑目の両目を捉える。
「俺、あなたのことは綺麗な人だと思ってます。でも俺が好きなのはそこだけじゃなくて、あなたの全てなんです」
 業務中に見せる柔らかい微笑みも、歩く度に弾む髪も、親切なところも、本について話すときの嬉しそうな様子も、キラキラ輝く瞳も、図書館での優しい小声も、外での良く通る声も、妹や友に向ける表情も──。
 一つづつ挙げていくとキリがなく、口下手な斑目では全てを伝えるのが難しい。
「──だから、その、ええと、俺は、あなたが顔を隠し続けても、嫌いになることは絶対になくて……須応さん?」
 気が付くと、須応が耳の先まで真っ赤になっていた。
 まさか、熱が出ていたのだろうか。手を彼の額に当てようとして、自分の両手ががっしりと須応の両肩を掴んでいることに気付いた。
 ……考えずに行動してしまう彼の性格が、見事に突っ走ってしまった。
「い、今のは全部忘れてください。お願いします」
 慌てて肩から手を退けて、気恥ずかしくてそんなことを言ってしまったのだが、どうやら須応には届いていないようだ。
「あれは僕のことだったんだ……!」
 顔は真っ赤のまま、両目も少し潤ませて、少し前までの体調が良くなさそうな様子は全て吹き飛んでいた。
「須応さ」
「斑目さん、今日は本当にありがとう! またね!」
「ちょ、須応さん!?」
 とんでもない勢いで消える須応。
 果たして、この後映画に誘えるのか──と不安になる斑目だった。
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