乾坤一擲

響 恭也

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信濃防衛線と井伊谷の夏

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 天正3年。すでに分断され、飛び地となりつつある北信濃で武田の柱石がまた一人涅槃に旅立とうとしていた。真田一徳斎幸隆である。織田に降ったとはいえ、武田の正嫡の血筋である義信に降った方がよいとの遺言を残し、世を去った。5月下旬のことと伝わる。
 北信濃にはもう一人大物がいた。春日虎綱である。高坂昌信のほうが通りが良いかもしれないが、こちらは甲斐武田の部門の意地が立たぬと降伏を拒絶した。真田はすでに義信によしみを通じ始めているが、高坂勢3000は高遠城に向け進撃を始めた。
 高遠には義信自身の兵2000と、織田の援軍として佐々内蔵助率いる1000の鉄砲隊が入っている。ほぼ同数の兵力であったが、内蔵助率いる織田勢は塹壕と柵を用いた野戦築城を行い、立体的な射撃陣を作り上げる。義信は自身の旗本を率いて小高い丘に陣を張っていた。
 木曽経由で織田の援兵として、前田利家率いる1500が急行しているとの報を受けている。早馬とのろし、そして整備された街道は情報と兵、物資の移動を素早く行え、これまでの戦争の常識を塗り替えていた。
 6月初旬、高坂勢が高遠のそばに布陣する。そして佐々勢がこもる野戦陣を見て驚愕した。
「なんという見事な陣か。あれを抜くとなると我らも相応の犠牲が出るに違いなし」
 築城術に長けた昌信は一目でその重厚な陣を見抜きそして嘆息したという。
「正澄、お主は真田を頼れ。儂は御屋形様に殉じるゆえ」
 嫡子の正澄は涙をこらえ、父との別れを惜しんだ。正澄付きの家臣に付き添われ、真田家の本拠となる砥石に落ちてゆく。
「さあ、我らの死に花を咲かせようではないか。武名を上げて黄泉路に赴き、御屋形様への手向けとせん!」
 竹束盾を手に雑兵小者が前進してくる。だが内蔵助が作り上げた布陣は一方の射撃を防いでも必ず別方向からの射撃にさらされるという複雑なものだった。一方の射撃を防いだと思ったら横から撃たれる。虎口に至っては必ず十字砲火にさらされる。しかも織田軍は早合を使い、射撃の間隔が常識はずれに早い。扶桑随一と呼ばれる武田の精鋭はなすすべもなく銃火に倒れていく。
 一部の兵は柵をなぎ倒し陣を越えてなだれ込む。だが義信率いる足軽隊が包囲して槍玉にあげる。いくつかの防衛線のほつれは早急に埋められ攻撃は跳ね返され続けた。名のある武者が次々と名もなき鉄砲足軽の前に倒れ伏す姿は、武田軍からしてみれば悪夢の光景であった。
 そしてついに一発の銃弾が昌信の胸を貫く。総指揮官の戦死によって残兵は降伏した。高遠城外の戦いの結果、武田についていた豪族も織田の戦力を知り、上杉勢力圏の飯山をのぞいて信濃一国は織田の支配下に入ったのである。真田信綱、昌輝兄弟はそのまま砥石城一帯を任された。また対上杉の最前線となる海津城の防衛には織田与力衆として佐々内蔵助が入ることとなった。義信は諏訪に入り、ここで勝頼長男である信勝を保護した。仁科盛信は小諸城を攻め、武田信豊を打ち破ってそのまま城代として入る。高遠城は柴田権六が入り信濃中部を支配することとなる。飯田には勘九郎信忠が入り、甲斐、信濃方面の後方支援を担当することとなった。
 そして戦闘に間に合わなかった前田利家が手柄を立て損ねたとがっくりしていたのは余談である。

「勘九郎殿」
「なんですか? 秀隆叔父上」
「腹が減っては戦はできぬと言います」
「はい」
「勘九郎殿には飯田に入り、信濃方面軍の後方支援をしてもらいます」
「はい、ですが武功無き者に家臣はついてきますか?」
「勘違いをしてはいけない。貴方、ひいては兄上もそうですが、武功を立てさせるが我らの役目です。前線の兵を使いつぶしにするがごとき振る舞いはしてはならない。功をはやるのはわかりますが、それで部下を犬死させるのですかな?」
「いえ、そういうつもりではありませぬ」
「ならばよろしい。兵を率いる者の務めとは、まず兵を飢えさせぬこと。次に無駄死にさせないこと。そして彼らを家族のもとに帰すこと」
「はい」
「貴方はもう子供ではない。織田家の一員として背負ってもらう責があります。貴方が生きて帰ることも大いなる義務であることをお忘れなきよう」
「…はい、その言葉肝に銘じます」
「そもそもですな、愛する妻を残して先立つ。そして松殿が別の男に嫁ぐ。想像してみなされ」
「…ぐぬぬ。いやだ、そんなのは死んでも嫌だああああああああ、まつううう!」
「うむ、あなたは間違いなく兄上の子ですな」
「はっ、すみませぬ、つい取り乱してしまい…」
「まあよろしい。前線の兵を支えるが総大将としての責務です。戦争の目的を遂行する、高い目線を忘れられますな」
「はい、ありがとうございます!」
「与兵衛殿。お主にもよろしく頼む。母衣衆でも武名高いお主を勘九郎殿に付けたは貴公への兄上の信任あってこそである故な」
「はは!」

 やれやれと秀隆は肩をすくめた。まずは見習いをこなせるようになって初めて武功であろうと。まあ、うまくおだて上げて自分の役目の重要さを理解して…くれたらいいなあと秀隆は嘆息する。血気にはやる年頃だよなあとか思うが、さすがに信長直系の子弟が討ち死にしたら詰め腹切らされる家臣は片手の数じゃきかない。ただそれを真正面から伝えてもなかなか理解できまいし。困ったもんだとぼやく秀隆は飯田を出て南下し、井伊谷へと赴いた。
 彼の供には娘婿内定の万千代を含め、井伊衆の武者が複数人付き従っている。本気で戦場では秀隆の盾になるのにためらわぬほどの忠誠心を示す彼らは、直虎を受け入れてくれた秀隆への感謝の気持ちからであったという。
 井伊谷に着いた秀隆は、飯田向けの街道整備を命じる。代官として弥三郎が任じられており、ここは事実上秀隆の飛び地となっていた。久しぶりに親類に会う兵もおり、なんだったらここから嫁を連れて行ってもよいぞとの秀隆のからかいに顔を赤くして応じる様子は和気あいあいとしていた。
 また、万千代は若様と呼ばれ、秀隆の養子になり、さらに娘婿になったとの報に沸き返った。山深いこの地は開墾するにも限界があり、街道整備と浜松に向けての交易に活路を見出そうとしている。信濃路と浜松を結ぶ宿場町となればいうことはないが、さてどうなるか?浜名湖での漁労で秀隆はふと思い出した。うなぎパイを。うなぎの食文化は古く、万葉集にその記述があるという。尾張からみそ、しょうゆを輸送してたれを作り、100年ほど早くかば焼きを作った。うなぎは生命力が強く、浜名湖からの輸送にも耐える。山歩きの前に精を付けましょうとかいろいろと売り文句を考えたが、とりあえず店先で炭火焼の炉を作り、煙を流すところから始めた。徐々に来客が増え、うわさがうわさを呼び、これを食べるためだけに足を運ぶ客も現れ始めた。そしてある日。
「やあ、三河殿」
 口にしていたどんぶりをぶほっと吐き出す客こと徳川家康。
「そそそそそそれはどなたですかな? 私は一介の素浪人、世良田元信にござる」
「それ影武者の名前ですよね?」
 耳元で秀隆がささやくと観念したか、一気にどんぶりの中身をかっこんだ。
「で、3国の太守ともあろう方がこんなところで何を?」
「いやあ、弥八郎が新しい産物ができたので、食べに来いというので…」
「ほう? 毒見もつけずにですかな?」
「はっはっは、秀隆殿がそんなことをするはずがないでしょう」
「井伊谷の者は家康殿にまだ隔意がある。早まるものが出ないとも限りませぬぞ?」
「むむむ」
「まあ、そうなったら問題が大きすぎますので、そうならないようにはしますが」
「脅かさないでください。しかし、このうな丼はうまいですな」
「うなぎを下処理して一度蒸します。そしてたれにくぐらせて炭火で焼きます。その際にたれが炭火に落ちて香ばしい香りがつくのです。さらに焼いてたれにくぐらせてを繰り返すと、うなぎの脂がたれに混じって…」
「女将、お替り!」
 秀隆があきれ顔で家康を見ると、なんかよくわからんいい顔をしてどんぶりを掻っ込む家康である。
「いや、秀隆殿、今のはひどい。食わずにいられなくなるではないか!」
「はっはっは、たれはこの谷から出しませんからな。どんどん食べに来てくだされよ?」
「そんな、ひどい!」
「まあ、しばらくしたら売りに出します。ですが、うなぎの脂が継ぎ足されるたれの深みは一朝一夕ではできませんからな?」
「ぐぬぬ、胃袋を掴まれるとはこのことか!?」
「家康殿、それなんか違う」
 二人の笑い声は晩夏の中、空へと消えていった。
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