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番外編

8 礼子さんに恋をしていた近藤先生

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 夫婦ともに有名だった彼女の夫が亡くなり、この田舎に越してきた時はただびっくりだった。テレビや雑誌で見る人が湖の畔のカフェを営み、牧場を手伝うなんてドラマの設定みたいだな、と思った。

 俺も一応は陶芸家として地元ではそれなりに有名だったから、挨拶がてらそこにお茶を飲みに行ったんだ。絶対、上から目線の高慢な女に違いない。だって俺は彼女ほど有名でなくても、我が儘で自分だけが偉いと思っているような横柄な画家を、何人も知っていたからだ。

ーーそれでも、行くしかないよなぁーー。こんな田舎に住んでいる以上、義理と人情と挨拶は大事だ。

 車で30分ほど走ると、湖に面した牧場とカフェと3件の家が見えてきた。中は今流行の洒落たインテリアのカフェだけれど、牧場にあっても違和感がないように外観はログハウスで絶妙なバランスだった。

 こじんまりしたカフェの奥にいたのが礼子さんだった。長い髪を一つに束ねて洒落たエプロン姿の礼子さんは、すらりとした綺麗な女性だ。癒やし系のその柔らかな美しさは、自立した女性が持つ自信に溢れていたが、決して嫌味なかんじではない。

「こんにちは! 俺は、ここから30分ほどの場所で陶芸教室をやってる近藤と申します。ササキ先生がこちらにしばらくいらっしゃると聞いて、ご挨拶がてらに来ました」

「まぁ、ご丁寧にすみません。私のほうがご挨拶に行くべきでしたね。どうぞ、よろしくお願いしますね」

 そう言いながら丁寧に頭を下がる礼子さんは、ちょっとあり得ないほどの人格者だなと思う。これほど成功した人は普通もっと威張っているし、間違ってもこんなことは言わないものだ。

 それからは週に3回はそこに行って、おしゃべりをして彼女の姿に見とれていたんだ。付き合ってもらえるとも思っていなかったし、この恋は実らないこともわかっていた。

 だって、彼女は雲の上の女性だ。こんな田舎でくすぶっている俺なんかとは違う、世界で通用する画家の一人だから。それでも友人になることはできるんじゃないかな。俺は彼女を支える大勢の友人のなかの一人でいい。見守っていたいだけなんだ。

 それから一年ほど経ったある日、カフェに行ったら子供がいてお手伝いをしていた。誰だろう? 店に入って礼子さんから聞いた言葉は衝撃の告白だった。

「私、お腹を痛めないで子供ができたわ。姉の子供だけど私の子供よ。あの子は私に似ているの」

 俺はそれから、そのカフェに行くことをやめた。礼子さんには新しい家族ができて、ますます俺の手の届かない所に行ってしまった気がしたから。でも、意外なことに俺の教室に紬ちゃんが参加してくれて、その子がだって知った。

 だから俺は協力することにしたし、実際その紬ちゃんは芸術的センスが抜群だった。陶芸教室に定期的に通うように勧め、礼子さんも一緒に焼き物を焼いた。紬ちゃんもずいぶん懐いてくれていたように思う。

 週に一回のその時間は最高に楽しかったし、今でもいい思い出だ。実は俺礼子さんに告白したんだよね。好きだってことだけを。付き合ってとか結婚してなんて言わないし言えなかった。

「俺、礼子さんが好きです。尊敬もしてるし、紬ちゃんも応援しています」

「そっか・・・・・・ありがとね」

 ただそれだけの会話だった。礼子さんの心のなかには永遠に、亡くなった旦那さんがいるのだろう。そして、俺の恋は絶対に実らない。それでもいい。こんな素敵な女性を好きになれて俺は幸せさ。



ꕤ୭*



「お願いがあるんだ。悪いけれど、都内まで来てもらえる?」

 突然の電話をもらったのは、それから9年後で紬ちゃんが都内の大学に通っている頃だ。俺はすぐに礼子さんに会いに行った。

「あのね、実は話しておきたいなっ、て思ったことがあったのよ。夫が亡くなって越してきた時に、挨拶に来てくれて一年ほど通ってきてくれたでしょう? それってすごく楽しみだったわ。紬ちゃんを引き取ってその後、すぐに来なくなってしまったけれど。ふふふっ。ちょっとだけ寂しかったよ。それから・・・・・・もう死んじゃうから言ってもいいかな。私も貴男のことが好きだったわ。だからね、好きだって言ってくれた時は嬉しかったわ。でも、ほら私は貴女より年上だし紬ちゃんがいるから、一緒にはなれないって思ったわ。あの焼き物を3人で焼いたことは、とてもいい思い出だわ。この会話は二人だけのナイショね。それで、お願いがあるのは紬のことなの。私が癌で亡くなってなにか紬に困ったことが起きたら助けてあげてほしいの。ごめんね。勝手なお願いして」

 俺は呆然としながらも、紬ちゃんの力になることを約束した。・・・・・・もしかして俺って大バカ者だったのか・・・・・・勝手に高嶺の花と思い込んで距離を作って手に入れようとしなかった礼子さん。

 もしかしたら義理の娘になっていたかもしれない紬ちゃん。俺はその夜に号泣した。あの頃のヘタレな俺が勇気を出していれば、幸せな時間を礼子さんと紬ちゃんと分かち合えたのかもしれなかったのに。

 両手からこぼれ落ちた恋はもう拾い上げることもできない。今更なにが言えるだろう? 

 都内から地元に帰る特急電車の車掌の声さえも悲しく切なく聞こえた俺なのだった。




ꕤ୭*



 礼子さんのお葬式には多くの弔問客が列をなした。まさに有名画家の葬儀だ。

「礼子さんは風になったんだよ。だから近藤先生のところにも行くから。悲しまないで」

 紬ちゃんから逆に慰められた俺って・・・・・・情けない・・・・・・

「近藤先生のことが書いてあった日記を見つけたんだ。正直に言ってね。近藤先生は、お母さん(礼子さん)が好きだったんじゃないかな? 違う?」

「・・・・・・だった、じゃなくて。今でも、好きだよ・・・・・・」

「そっか。それなら、この日記をあげる。大事にしてね」

「・・・・・・ありがとう」

 俺は自宅でその薄いノートを広げた。最初のページは、夫が亡くなって田舎暮らしを試してみる、と書いてあった。そして、俺が通い始めた時の様子と一年経った頃には、すっかり好意をもってしまったことが書かれていた。だが、その最後の一文にはこう書かれていた。

「彼はすっかり来なくなった。もう頻繁に話すこともない。彼は私より年下だし彼女でもできたのね。残念だけど嬉しいことだ。好きな人が幸せになることはいいことだから。ウキウキした気分を味わえて楽しかったわ。近藤さん、ありがとう! お幸せに」

 なんていう見事な気持ちのすれ違いなのだろう・・・・・・俺になにができる? 好きだった礼子さんが喜ぶことは紬ちゃんの幸せを守ることだよな。絶対に守るよ。礼子さん!

 優しい風が僕の腕と頬を撫でたのだった。 
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