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七 消えた協力者
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「紙山君か」
金平さんのひどく沈んだような声が耳にあてたスマホの通話口に響いて俺は思わず朝食へ向かおうとするレストランの入口で足を止めた。
ここに滞在してから一週間、七日目の水曜日の朝だった。今日、東京に帰る予定となっている。事件のあらましを捜査本部から聞いているであろうノリさんからの連絡はない。捜査は難航しているらしく事件に関する新たなニュースが流れることもないままだ。
「何かありましたか?」
「家に下宿している甥の光也が昨日の夜から帰らない。警察にも連絡をしたが、まだ見つからないんだ」
彼の声はひどく取り乱していた。預かっている甥っ子がいなくなってしまっては両親にも示しがつかないだろう。
「親御さんのところには?」
「帰っていないそうだ」
一緒にいた蒼井と筆野に先に食べていてくれと言い、ロビーの隅で話を聞いた。
「友達と晩飯に行くから夜遅くなると言って帰らないままだ。……そういえば、最近、光也が何かおかしかったんだが、それが関係あるのだろうか」
「おかしかった?」
「ああ。夜中にトイレに行きたくなって起きたら事務所の方で物音がしてな。覗いてみたら納品書のファイルを熱心に見ている姿を見かけた」
それは俺が依頼したせいだと思ったが言わずにいると、金平さんは続けた。
「普段、工場の方に出入りする事はなかったから驚いたんだ。今思うと何をしていたのか声をかければよかった」
「伯父さんのお仕事に興味が出て来たとかでは?四年生なら進路を考える頃ですよね」
「それはないな。光也は受験に失敗して浪人生だったことがあってね。かなり落ち込んだらしいが、その時にいい先生に恵まれて教師を目指そうと今の大学に入ったと聞いている。今は教員採用試験を受ける為に熱心に勉強しているんだ」
「その先生は今どちらに?」
「詳しい事までは聞いていない」
「そうですか。わかりました。僕の方でも彼を探してみます」
「でも、いいのかい?」
「社長には祖父の代から御恩がありますから」
「ありがとう、紙山君」
通話を終わらせた。いい先生に恵まれて教師を目指したという言葉が耳に残っていた。浪人生の時という事は彼が今、二十三であるから十九歳の時にその人物と関わりがあった事になる。五年前だ。五年前に知り合っていた教師に触発されて、こっちの大学に来た、ということか。胸の奥底でずっともやもやとしていたものが現実味を帯びて立ち上がるのを確かに感じた。
母さんは高校教師だった。都内の私立高校で教えていた。確か、男子高だったような。事件のあった日は休みで俺の代わりに店番に行った。俺は喉がつかえるような思いでノリさんに電話をし、ある事を調べてもらうことにした。レストランに入り蒼井と筆野のいる席に座った。
「紙山、何かあったのか?顔色が悪いぞ」
パンにバターを塗っていた手を止めて蒼井課長の声に顔を上げると紙山さんの顔色がいつもとは違って青ざめている。不安そうな視線を向けると紙山さんは力なく微笑んだ。
「帰ってしまうのがいまさら惜しくなってな、へこみ始めた」
「ははっ、俺だってそうだよ。仕事とはいえ、ここは空気がうまくて気持ちがいい。うちのオフィスもここに移転しないかなぁ」
「お前の目的はアフターシックスだろ」
「えっ?」
「滞在中、毎晩のように通っていたバーに通えなくなるのはつらいよな」
「バカ、そんなんじゃないって」
両手を振って否定する蒼井課長がちょっとおかしくて笑っていたら紙山さんのスマホが震えた。どうやらメールが着信したらしい。紙山さんはその着信を見つめるなり顔を強張らせた。
「何かあったんですか?」
声をかけたら切れ長の目が私を見た。
「あけぼの印刷の社長からだ。硯光也が―バイクで事故を起こしているのが見つかったとたった今警察から連絡が入ったそうだ。昨夜遅くに県境の山道から転落して意識を失っていた」
「命は?」
「一命は取り留めたらしいが、両足を複雑骨折して病院に入院したらしい」
何の事だと聞く課長に私は硯光也があけぼの印刷の社長の甥であり、ダイヤモンド・マウンテンの店舗に来たカメラ青年だと告げた。課長はあのモテそうな青年かと驚いて口をあんぐりと開けた。
「病院へ行きましょう」
「そうだな。見舞いに行かずに帰るのは失礼にあたる。東京に戻る前に見舞おう」
課長がそう言い、私達は朝食を早々に食べてホテルをチェックアウトして硯君のいる病院へ向かった。
彼の病室は個室だった。彼はベッドに眠っていて傍らに心配そうな顔で座る金平さんとその奥さんである美香子さんがいた。美香子さんと顔を合わせるのは初めてだった。自己紹介をしてから彼の様子を見舞う。青ざめた顔には血の気がなく思いがけず事故に遭った彼の痛々しさがこちらにも伝わってくるようで胸が痛んだ。
「緊急手術をしてもらって、しばらくは安静にしなければならなくて」
つらそうに語る美香子さんにかける言葉もない。
「彼のご両親は?」
そう問いかけた紙山さんに金平さんと美香子さんは顔を見合わせてから首を横に振る。
「仕事が忙しくて、すぐには来られないって」
「え……」
思わず声を出してしまう。実の親なのに来られないって……。硯君の家庭事情が心配になる。
「友人の家からの帰り道だったということですか?」
紙山さんが沈黙を破るようにまた質問を重ねた。美香子さんがはいと答える。
「カーブを曲がりきれなかったゆえの事故だと?」
「そうだと本人も言っています」
「光也君は普段からバイクは?」
「通学の時に使っているので乗り慣れていました」
「近いですよね、大学とお宅」
「今日みたいに友人の家に遊びに行って夜遅く帰る事もありました」
「なるほど」
その時、ベッドの上の硯君が苦しそうに呻きながら眉を動かす。
「すみません。そろそろ休ませてもらってもいいでしょうか?」
美香子さんに促されて立ち上がり病室を出ようとした時だった。
「話したい事があります」
振り向いた私達にいつの間にか目覚めた硯君が言った。瞳は一心に紙山さんを見つめている。
「紙山さんと二人だけにして下さい。いいですか?」
私は彼が何か確かな証拠を掴んだのではないかと思って、蒼井課長には先にミニバンに戻って待機してもらうことにして、そっと病室の入口で聞き耳を立てた。暫くの沈黙の後、硯君の声が響いた。
「あの絵、嘘ですよね」
あの絵?嘘?何の事だろう。
「何の事だ」
「学食で昼飯を食べていた時にスマホで見せてくれた色鉛筆の絵ですよ。俺、友達の家に行くって伯父さん達には行ったけど、本当は東京に行っていたんです。実際に紙山事件があった文具店を見てみたくて。そしたら一人の少女と会いました。僕が店の前に佇んでいたら話しかけてきて、絵を描くのが好きなのって、飼っているフェレットを描いた色鉛筆の絵を見せてくれました。フェレットを抱いた女性があなたが見せてくれた絵の女性とどこか似ていて描いた本人かと思って問いただしたら、そうだって。でも、自分は事件の日は家にいた、あれは事件をイメージして自分が勝手に描いた絵だって言われました」
フェレットを飼っているって、その少女って紙山文具店の常連客、ゆずちゃんの事じゃ……。でも、色鉛筆の絵って何の事だろう。疑問で頭がいっぱいになっていたら紙山さんの次なる一言に私はガンと頭を殴られたような衝撃に襲われた。
「そうだ。事件を見ていない彼女が描いたイメージ画にはきっと嘘がある。だからこそ、いつか犯人らしき人物に遭ったらそれを見せようと思って彼女からもらっておいた」
「は?」
「犯人ならあの日、あの店の中に誰がいたか知っているはずだ。だからもし、あの日少女が店の中にいたと言われたら、おかしいと思うだろう。その少女の存在が事実かどうかを確認しに犯行現場にもう一度行こうとするはずだと踏んだ。その通りに君は行動した。犯人は君なんだね」
その言葉に息を呑む。そっと中を覗くとベッドの上に起き上がってじっと俯いたままでいる硯君の姿が見えた。
「嘘を吐いたことは悪かった。でも、もう本当の事を話してくれ。君は未解決事件に興味を持っているふりをして自分の犯した事件が世間にバレないようにそばで見張る為、こっちの大学を受けて暮らしていたんじゃないのか?」
そういえば紙山さんは前にそんな疑問を話していたと思い出す。
「例えば、ノベルティカレンダーに隠した凶器を見張る為、とか」
差し出された問いに硯君は何かを堪えるように両目を閉じた。
「君は知らなかったはずだ。五年前、紙山文具にあったノベルティカレンダーが燃えない紙で納品された事など知らなかった。だから速見を殺した時、コテージごと燃やしてしまえばいい、そう思った」
硯君の口元が震えているように見えた瞬間、硯君は両目をカッと見開くと同時に枕を裏返してきらりと光る細長いものを紙山さんに向けると飛びかかった。心臓が痛いくらいに高鳴り私は扉を開け放って病室の中に飛び込んだ。紙山さんの前に身体を投げ出して両手を大きく広げる。
「やめて!!」
必死の思いで叫んだ私に硯君は目を丸くして手にしたペーパーナイフを振り上げたまま次の瞬間、包帯を巻いた両膝を折り曲げて横向きに倒れていった。両足を手術したばかりの彼に思ったような動きができる訳もなかったのだ。彼は勢い余ってベッドの下に転げ落ちた。
激しく息を吐いた私の肩にそっと手をかけた紙山さんは硯君の手から転がったペーパーナイフを落ち着いた様子で拾った。そして彼の肩を掴むとナイフの刃先を彼の口先へと向けた。
「俺は悔しい。凶器に文房具を使うな」
「紙山さんやめて!」
その腕を掴んで止めた私に構わず紙山さんは声を荒げた。
「いい先生に恵まれたっていうのは犯した罪を隠してくれるような教師ってことか?速見の相方の刑事に頼んで調べてもらった。お前は高校三年の時、母さんの生徒だった。そうだろう?」
紙山さんは叩きつけるように続けた。
「五年前、難関大学の受験に失敗して卒業後も自宅にずっとひきこもっているのを両親に相談されて知っていた母さんはそのペーパーナイフを店から万引きして、それを注意したじいさんをカッとなって殺したお前に刺されてもなお、逃がしたんじゃないのか?お前の将来を守る為に」
「……」
「店に駆けつけた時、母さんは死ぬ間際、俺に“ごめん”って言ったんだ。あれは”嘘をついてごめん“って事だろう。本当は顔見知りのお前を逃す為に母さんはその場にいない子供をでっちあげ、通り魔にやられたって嘘を吐いたんだ。顔見知りの人間を普通なら人は”通り魔“なんて言わない。母さんの教え子だったお前は当然疑われることもない。違うか?」
紙山さんの推理を聞いていた硯君は目を赤く潤ませて唇を強く噛んだ。自白を促すかのように口調の厳しかった紙山さんはやがて刃先を力なく下ろした。硯君は両目から溢れ出てしまったものを手でごしごしと拭った。
「先生は、いい先生でした。守ってくれたことを知って僕は心を入れ替えて新しい土地でやり直したくてこっちを受験して合格できた。でも事件の事がずっと頭にあって。とりあえず凶器のこれはカレンダーごと隠したけど、コテージの鍵を後日来た時にかけられてしまって中に入れなくて困っていた。幸い使わない為に鍵をかけたと知って安心していたのに。そこにあいつ、速見が学食にいる俺を尋ねて来て」
訥々と語る彼の目は後悔に満ちてみえた。
「紙山文具の事件の事をあっちから話してきて、俺が先生の教え子であることも知っていた。それで何か知っていることはないかと問い詰められて。事件を起こして以来、そんなこと初めてで怖くなって……。こいつを消さなきゃ逮捕されるって思って」
「コテージにおびき寄せた」
「はい。証拠らしきものを見つけたって誘ったら喜んで来ました。コテージのドアを壊して侵入して金庫の中を開けてみせて、それから刺してコテージに火をつけました」
初対面で私を助けてくれた彼が発するとは思えない重い言葉を彼は病室の床に落とした。三人も尊い命を。命を何だと思っているんだろう。私は拳を握り締めて溢れ出る涙を同じ床に落とした。
「俺、自首します。警察を呼んでもらいます」
そう言ってベッドの傍らのナースコールを握る為にベッドの上に這い上がろうとした硯君の手首を紙山さんはぎゅっと掴んだ。
「俺が黙っていると言ったら?」
「何を言って!」
息を呑んだ硯君と驚いて声を上げた私に紙山さんはわかっていると言って一連の事件に使われたペーパーナイフを私の手に渡した。それはいろんな重みを背負った凶器だった。
紙山さんは何も言わないまま硯君の身体をゆっくりと抱き起してベッドにそっと横たわらせると、ナースコールを取って彼の目線の先に置き病室を出て行った。開け放たれた扉の向こうに紙山さんの俯いた背中が見えた。五年越しに犯人が見つかったというのに。事件が迷宮入りせずに済んだというのに。それはとても哀しい後ろ姿に見えた。
金平さんのひどく沈んだような声が耳にあてたスマホの通話口に響いて俺は思わず朝食へ向かおうとするレストランの入口で足を止めた。
ここに滞在してから一週間、七日目の水曜日の朝だった。今日、東京に帰る予定となっている。事件のあらましを捜査本部から聞いているであろうノリさんからの連絡はない。捜査は難航しているらしく事件に関する新たなニュースが流れることもないままだ。
「何かありましたか?」
「家に下宿している甥の光也が昨日の夜から帰らない。警察にも連絡をしたが、まだ見つからないんだ」
彼の声はひどく取り乱していた。預かっている甥っ子がいなくなってしまっては両親にも示しがつかないだろう。
「親御さんのところには?」
「帰っていないそうだ」
一緒にいた蒼井と筆野に先に食べていてくれと言い、ロビーの隅で話を聞いた。
「友達と晩飯に行くから夜遅くなると言って帰らないままだ。……そういえば、最近、光也が何かおかしかったんだが、それが関係あるのだろうか」
「おかしかった?」
「ああ。夜中にトイレに行きたくなって起きたら事務所の方で物音がしてな。覗いてみたら納品書のファイルを熱心に見ている姿を見かけた」
それは俺が依頼したせいだと思ったが言わずにいると、金平さんは続けた。
「普段、工場の方に出入りする事はなかったから驚いたんだ。今思うと何をしていたのか声をかければよかった」
「伯父さんのお仕事に興味が出て来たとかでは?四年生なら進路を考える頃ですよね」
「それはないな。光也は受験に失敗して浪人生だったことがあってね。かなり落ち込んだらしいが、その時にいい先生に恵まれて教師を目指そうと今の大学に入ったと聞いている。今は教員採用試験を受ける為に熱心に勉強しているんだ」
「その先生は今どちらに?」
「詳しい事までは聞いていない」
「そうですか。わかりました。僕の方でも彼を探してみます」
「でも、いいのかい?」
「社長には祖父の代から御恩がありますから」
「ありがとう、紙山君」
通話を終わらせた。いい先生に恵まれて教師を目指したという言葉が耳に残っていた。浪人生の時という事は彼が今、二十三であるから十九歳の時にその人物と関わりがあった事になる。五年前だ。五年前に知り合っていた教師に触発されて、こっちの大学に来た、ということか。胸の奥底でずっともやもやとしていたものが現実味を帯びて立ち上がるのを確かに感じた。
母さんは高校教師だった。都内の私立高校で教えていた。確か、男子高だったような。事件のあった日は休みで俺の代わりに店番に行った。俺は喉がつかえるような思いでノリさんに電話をし、ある事を調べてもらうことにした。レストランに入り蒼井と筆野のいる席に座った。
「紙山、何かあったのか?顔色が悪いぞ」
パンにバターを塗っていた手を止めて蒼井課長の声に顔を上げると紙山さんの顔色がいつもとは違って青ざめている。不安そうな視線を向けると紙山さんは力なく微笑んだ。
「帰ってしまうのがいまさら惜しくなってな、へこみ始めた」
「ははっ、俺だってそうだよ。仕事とはいえ、ここは空気がうまくて気持ちがいい。うちのオフィスもここに移転しないかなぁ」
「お前の目的はアフターシックスだろ」
「えっ?」
「滞在中、毎晩のように通っていたバーに通えなくなるのはつらいよな」
「バカ、そんなんじゃないって」
両手を振って否定する蒼井課長がちょっとおかしくて笑っていたら紙山さんのスマホが震えた。どうやらメールが着信したらしい。紙山さんはその着信を見つめるなり顔を強張らせた。
「何かあったんですか?」
声をかけたら切れ長の目が私を見た。
「あけぼの印刷の社長からだ。硯光也が―バイクで事故を起こしているのが見つかったとたった今警察から連絡が入ったそうだ。昨夜遅くに県境の山道から転落して意識を失っていた」
「命は?」
「一命は取り留めたらしいが、両足を複雑骨折して病院に入院したらしい」
何の事だと聞く課長に私は硯光也があけぼの印刷の社長の甥であり、ダイヤモンド・マウンテンの店舗に来たカメラ青年だと告げた。課長はあのモテそうな青年かと驚いて口をあんぐりと開けた。
「病院へ行きましょう」
「そうだな。見舞いに行かずに帰るのは失礼にあたる。東京に戻る前に見舞おう」
課長がそう言い、私達は朝食を早々に食べてホテルをチェックアウトして硯君のいる病院へ向かった。
彼の病室は個室だった。彼はベッドに眠っていて傍らに心配そうな顔で座る金平さんとその奥さんである美香子さんがいた。美香子さんと顔を合わせるのは初めてだった。自己紹介をしてから彼の様子を見舞う。青ざめた顔には血の気がなく思いがけず事故に遭った彼の痛々しさがこちらにも伝わってくるようで胸が痛んだ。
「緊急手術をしてもらって、しばらくは安静にしなければならなくて」
つらそうに語る美香子さんにかける言葉もない。
「彼のご両親は?」
そう問いかけた紙山さんに金平さんと美香子さんは顔を見合わせてから首を横に振る。
「仕事が忙しくて、すぐには来られないって」
「え……」
思わず声を出してしまう。実の親なのに来られないって……。硯君の家庭事情が心配になる。
「友人の家からの帰り道だったということですか?」
紙山さんが沈黙を破るようにまた質問を重ねた。美香子さんがはいと答える。
「カーブを曲がりきれなかったゆえの事故だと?」
「そうだと本人も言っています」
「光也君は普段からバイクは?」
「通学の時に使っているので乗り慣れていました」
「近いですよね、大学とお宅」
「今日みたいに友人の家に遊びに行って夜遅く帰る事もありました」
「なるほど」
その時、ベッドの上の硯君が苦しそうに呻きながら眉を動かす。
「すみません。そろそろ休ませてもらってもいいでしょうか?」
美香子さんに促されて立ち上がり病室を出ようとした時だった。
「話したい事があります」
振り向いた私達にいつの間にか目覚めた硯君が言った。瞳は一心に紙山さんを見つめている。
「紙山さんと二人だけにして下さい。いいですか?」
私は彼が何か確かな証拠を掴んだのではないかと思って、蒼井課長には先にミニバンに戻って待機してもらうことにして、そっと病室の入口で聞き耳を立てた。暫くの沈黙の後、硯君の声が響いた。
「あの絵、嘘ですよね」
あの絵?嘘?何の事だろう。
「何の事だ」
「学食で昼飯を食べていた時にスマホで見せてくれた色鉛筆の絵ですよ。俺、友達の家に行くって伯父さん達には行ったけど、本当は東京に行っていたんです。実際に紙山事件があった文具店を見てみたくて。そしたら一人の少女と会いました。僕が店の前に佇んでいたら話しかけてきて、絵を描くのが好きなのって、飼っているフェレットを描いた色鉛筆の絵を見せてくれました。フェレットを抱いた女性があなたが見せてくれた絵の女性とどこか似ていて描いた本人かと思って問いただしたら、そうだって。でも、自分は事件の日は家にいた、あれは事件をイメージして自分が勝手に描いた絵だって言われました」
フェレットを飼っているって、その少女って紙山文具店の常連客、ゆずちゃんの事じゃ……。でも、色鉛筆の絵って何の事だろう。疑問で頭がいっぱいになっていたら紙山さんの次なる一言に私はガンと頭を殴られたような衝撃に襲われた。
「そうだ。事件を見ていない彼女が描いたイメージ画にはきっと嘘がある。だからこそ、いつか犯人らしき人物に遭ったらそれを見せようと思って彼女からもらっておいた」
「は?」
「犯人ならあの日、あの店の中に誰がいたか知っているはずだ。だからもし、あの日少女が店の中にいたと言われたら、おかしいと思うだろう。その少女の存在が事実かどうかを確認しに犯行現場にもう一度行こうとするはずだと踏んだ。その通りに君は行動した。犯人は君なんだね」
その言葉に息を呑む。そっと中を覗くとベッドの上に起き上がってじっと俯いたままでいる硯君の姿が見えた。
「嘘を吐いたことは悪かった。でも、もう本当の事を話してくれ。君は未解決事件に興味を持っているふりをして自分の犯した事件が世間にバレないようにそばで見張る為、こっちの大学を受けて暮らしていたんじゃないのか?」
そういえば紙山さんは前にそんな疑問を話していたと思い出す。
「例えば、ノベルティカレンダーに隠した凶器を見張る為、とか」
差し出された問いに硯君は何かを堪えるように両目を閉じた。
「君は知らなかったはずだ。五年前、紙山文具にあったノベルティカレンダーが燃えない紙で納品された事など知らなかった。だから速見を殺した時、コテージごと燃やしてしまえばいい、そう思った」
硯君の口元が震えているように見えた瞬間、硯君は両目をカッと見開くと同時に枕を裏返してきらりと光る細長いものを紙山さんに向けると飛びかかった。心臓が痛いくらいに高鳴り私は扉を開け放って病室の中に飛び込んだ。紙山さんの前に身体を投げ出して両手を大きく広げる。
「やめて!!」
必死の思いで叫んだ私に硯君は目を丸くして手にしたペーパーナイフを振り上げたまま次の瞬間、包帯を巻いた両膝を折り曲げて横向きに倒れていった。両足を手術したばかりの彼に思ったような動きができる訳もなかったのだ。彼は勢い余ってベッドの下に転げ落ちた。
激しく息を吐いた私の肩にそっと手をかけた紙山さんは硯君の手から転がったペーパーナイフを落ち着いた様子で拾った。そして彼の肩を掴むとナイフの刃先を彼の口先へと向けた。
「俺は悔しい。凶器に文房具を使うな」
「紙山さんやめて!」
その腕を掴んで止めた私に構わず紙山さんは声を荒げた。
「いい先生に恵まれたっていうのは犯した罪を隠してくれるような教師ってことか?速見の相方の刑事に頼んで調べてもらった。お前は高校三年の時、母さんの生徒だった。そうだろう?」
紙山さんは叩きつけるように続けた。
「五年前、難関大学の受験に失敗して卒業後も自宅にずっとひきこもっているのを両親に相談されて知っていた母さんはそのペーパーナイフを店から万引きして、それを注意したじいさんをカッとなって殺したお前に刺されてもなお、逃がしたんじゃないのか?お前の将来を守る為に」
「……」
「店に駆けつけた時、母さんは死ぬ間際、俺に“ごめん”って言ったんだ。あれは”嘘をついてごめん“って事だろう。本当は顔見知りのお前を逃す為に母さんはその場にいない子供をでっちあげ、通り魔にやられたって嘘を吐いたんだ。顔見知りの人間を普通なら人は”通り魔“なんて言わない。母さんの教え子だったお前は当然疑われることもない。違うか?」
紙山さんの推理を聞いていた硯君は目を赤く潤ませて唇を強く噛んだ。自白を促すかのように口調の厳しかった紙山さんはやがて刃先を力なく下ろした。硯君は両目から溢れ出てしまったものを手でごしごしと拭った。
「先生は、いい先生でした。守ってくれたことを知って僕は心を入れ替えて新しい土地でやり直したくてこっちを受験して合格できた。でも事件の事がずっと頭にあって。とりあえず凶器のこれはカレンダーごと隠したけど、コテージの鍵を後日来た時にかけられてしまって中に入れなくて困っていた。幸い使わない為に鍵をかけたと知って安心していたのに。そこにあいつ、速見が学食にいる俺を尋ねて来て」
訥々と語る彼の目は後悔に満ちてみえた。
「紙山文具の事件の事をあっちから話してきて、俺が先生の教え子であることも知っていた。それで何か知っていることはないかと問い詰められて。事件を起こして以来、そんなこと初めてで怖くなって……。こいつを消さなきゃ逮捕されるって思って」
「コテージにおびき寄せた」
「はい。証拠らしきものを見つけたって誘ったら喜んで来ました。コテージのドアを壊して侵入して金庫の中を開けてみせて、それから刺してコテージに火をつけました」
初対面で私を助けてくれた彼が発するとは思えない重い言葉を彼は病室の床に落とした。三人も尊い命を。命を何だと思っているんだろう。私は拳を握り締めて溢れ出る涙を同じ床に落とした。
「俺、自首します。警察を呼んでもらいます」
そう言ってベッドの傍らのナースコールを握る為にベッドの上に這い上がろうとした硯君の手首を紙山さんはぎゅっと掴んだ。
「俺が黙っていると言ったら?」
「何を言って!」
息を呑んだ硯君と驚いて声を上げた私に紙山さんはわかっていると言って一連の事件に使われたペーパーナイフを私の手に渡した。それはいろんな重みを背負った凶器だった。
紙山さんは何も言わないまま硯君の身体をゆっくりと抱き起してベッドにそっと横たわらせると、ナースコールを取って彼の目線の先に置き病室を出て行った。開け放たれた扉の向こうに紙山さんの俯いた背中が見えた。五年越しに犯人が見つかったというのに。事件が迷宮入りせずに済んだというのに。それはとても哀しい後ろ姿に見えた。
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