魂魄シリーズ

常葉寿

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前章「呼ぶ声」

【魂魄・弐】『胡蝶は南柯の夢を見る』0話「槐の木」

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 夢のような淡い空間。そこに僕はいる。とても大きな木の下で眠る。木漏れ日が優しかったから。そよ風が心地よかったから。

 ――ソーメイ

 瞳を閉じて風の音を楽しんでいると、遠くから僕を呼ぶ声が聞こえる。その声の持ち主は誰だろう。記憶の本棚から数冊を取り出すけれど、彼の名前はない。いや、もう僕には関係がなかった。誰でもいい。

 まぶたをゆっくりと開く。風に揺らいだ葉が生い茂るこの大木は屋敷に植えられたものだ。誰の屋敷? そう、僕が追いやられたあの屋敷だ。そこに良い思い出など一つもない。

 そんな寂しい場所……なぜ、ここにいるのだろう。

 ――ソーメイ

 声が僕の名前を呼ぶ。好きな名前。大好きな名前。母上が付けてくれた名前。この名前を呼ぶのはあの男なのか。再び目を閉じる。

 ――ソーメイ

 ――ソーメイ

 あの男ではない。僕の名前を呼ぶのは誰? 二つの声が交互に呼び続ける。その懐かしい声の主は怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。

 二つとも力強く僕を呼んでいる。

 ――行くな

 どこへ行くなというのだろう。僕はここにいるのに。あの男が植えたえんじゅの樹の下にいるのに。再度、目を開けると真っ白な空間にうごめく、淡い光の波が僕を運んでいた。

 手を伸ばして触れてみる。それは光の蝶。手に力を込めると小さな光の粒となって消えた。

 ――行くな
 
 無数の蝶が僕を運ぶ。その行き先はどこ? どこでもいい。彼女のいない世界に用はない。そうか。この蝶たちは彼女がいるあの場所へ、僕を連れて行ってくれるのだ。

 この蝶たちは残り少ない僕の味方だ。大切な味方だ。では、僕を呼ぶあの声は?

 ――行くな

 ――彼女はもういない

 ――ナニヲイッテイルノダロウ

 彼女が居ない? そんなはずはない。彼女が居ない世界はもはや世界ではない。いなければ見つけるまで。彼女はいる。消える筈がない。

 そう、だから僕はあそこへ向かう。彼女を取り戻すために。あの笑顔を再び見るために。

 ――ソーメイ

 ――戻って来てくれ

 二つの声は懇願こんがんする。無意味だ。もう僕はあと戻りできない。これは決心ではない。決意でもない。そんな安っぽい言葉で語られるたぐいのものではない。

 彼女は僕のすべて。僕は全てを取り戻すのだ。そのためであれば……。

 ――ソーメイ、戻れッッ

 蝶たちは僕を包み閃光せんこうを放つ入り口へといざなう。ここまでくれば安心だ。もう二つの声は届かない。閃光のあとには静寂せいじゃく。そして暗黒。

 しばらく目を凝らすとわずかに影の輪郭がわかる。そうか、そこにいるのか。決意を固めて一歩ずつ進む。腐臭ふしゅうを放つそれを睨み付ける。

 ――僕ハ悪魔ニモ魂ヲ売ッテヤル
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