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第3話 悪夢の終わり
しおりを挟むケランに厳しい言葉を浴びせて以来、ケランはアルスカに話しかけてくることはなくなった。しかし、彼の姿を見ない日はない。ケランはいつもフェクスの家の前にじっと立って、アルスカの出勤と帰宅を見ていた。
アルスカはケランを不気味に思った。それは、フェクスも同意見であった。
ケランはたびたびフェクスにアルスカについて仲介してほしいと依頼しに来た。フェクスが首を振ると、ケランは烈火のごとく怒鳴り散らした。フェクスはその様子を見て、尋常ではないと思った。
2人は相談して、憲兵に窮状を訴えることにした。
「なんとかしてください」
アルスカは憲兵に向かってこう頼んだ。しかし、異邦人であるアルスカを救おうとする憲兵はいない。アルスカは歯がみした。
貧しい東方出身のアルスカと、裕福なガラの出身であるケランでは、アルスカの分が悪い。これが、もし彼がか弱い女性であったなら、または彼がメルカ人であったならば、また違った対応をされたのは間違いない。
しかし、その不平等を叫んだところでどうしようもない。差別というのは差別される側ではなく、差別する側の問題なのだ。アルスカにどうにかできる性質のものではない。
「……しばらく、仕事は日が落ちる前に切り上げろ。俺も迎えに行くから」
憲兵に訴えに行った帰り道で、フェクスはそう言った。彼はアルスカの身を案じていた。いまはどこに行くにしてもアルスカとフェクスは一緒に出歩いている。これがアルスカひとりになったら、一体どうなるのかわからなかった。
しかし、アルスカは首を振った。
「それは申し訳ない。それに、そんなに早く仕事は終わることができない。いま、補佐官の中で私が一番翻訳が遅いんだ」
「命とどっちが大事だ」
アルスカは黙った。彼はどうするべきかわからなかった。安全を優先するならばこのままフェクスに送り迎えを頼むべきだ。しかし、いつまでも気のいい友人に迷惑をかけるわけにもいかないと思っていた。
また、最後がどうであったにせよ、14年も共に暮らしたケランが自分に対してそこまで無茶はしないだろうという驕りもあった。
その日、アルスカはひとりで帰路についた。アルスカは朝から咳をしながら仕事をしていて、みかねた上官に帰宅するよう命じられたのだった。まだ日が高く、アルスカは油断していた。
道の真ん中に立ちふさがる人影がある。その人物の顔は逆光で見えない。それでも、アルスカは14年のつきあいでその人影がケランであるとわかった。
「あ……」
怒鳴りつけて追い払おうとしてしかし、声が出なかった。その人物は異様な雰囲気を発し、ゆらゆらと上体を揺らしている。
アルスカは無意識のうちに一歩後退した。
ケランは笑い出す。ケタケタとした無機質な声だ。アルスカの背中に汗が噴き出した。
「なんで、わかってくれないんだ」
そう言って、ケランは大きく一度揺れた。アルスカは嫌な予感がした。それは身の危険を伝える第六感のようなものなのだ。ようやくアルスカは叫んだ。
「こっちに来るな!」
このとき、アルスカはケランの右手に銀色の輝きを見た。
それがナイフであると気が付くより早く、アルスカはケランに背を向けて走り出していた。逃げなければならないと思った。脳内では警鐘が鳴り響いている。しかし、恐怖が足の動きを阻害する。
--間に合わない。
そう思った。アルスカはすべてが緩慢に見えた。世界はゆるやかに動き、ナイフを構えたケランの足音が大きく耳に響く。
アルスカは目をつむった。
そして次に目を開けた時、彼の目の前には返り血を浴びて呆然と立ち尽くすケランと、その足元に倒れ込むフェクスがいた。
彼はアルスカを迎えに来たところで、襲い掛かるケランを見た。そしてアルスカを庇ってそのナイフの前に飛び出したのだった。
アルスカは絶叫した。
*****
それから、フェクスは街の大きな病院に運ばれた。彼は腹部をナイフで刺され、大量に出血していた。
医者が手を尽くした甲斐あって、彼は一命は取り留めたものの、昏睡状態が続いた。
アルスカはフェクスの傍を離れなかった。
気のいい上官はアルスカに長期休暇を許した。
アルスカは後悔していた。すべてはケランの不義から始まったことではあるが、アルスカは向き合うことから逃げた。これはアルスカの不義だ。ケランを壊してしまったのはほかでもない、アルスカなのだ。お互いに不義に不義を重ね、積もった澱がフェクスを襲った。
フェクスにとっては災難な話だ。
戦争で金も物資も食料も足りないというときに、異邦人が家に転がりこんで来ただけでなく、さらにその異邦人の元恋人に刺された。
どれほど謝罪をしても足りない。アルスカはフェクスの体を見つめて頭を掻きむしった。
アルスカは懸命に介抱した。ひと匙、水のような粥をすくってフェクスの唇に当てる。根気のいる重病人の看病を、彼は弱音ひとつ吐かずにやりつづけた。
そうして10日ほど経ったとき、フェクスの指がぴくりと動いた。アルスカはそれを見逃さず、フェクスに向かって呼びかけた。
「フェクス」
彼の声に応えるように、フェクスのまぶたがゆっくりと開いた。それを見て、アルスカの口からはまっさきに責める言葉が出た。
「無茶を……なんで……」
アルスカの声は途切れ途切れではあるが、フェクスは言わんとするところを理解した。
それから数日後、フェクスは起き上がれるほどに回復した。そこに至って、ようやくフェクスはアルスカの言葉に反論した。
「守って、悪いか。……好きなんだ、お前のことが」
アルスカは泣きたくなった。恋や愛を捨ててやって来たこの国で、愛を囁かれるとは思わなかった。
「気の迷いだな」
アルスカの言葉に、フェクスは笑った。
「そうだな。14年間会わなくても消えないくらい、強烈な気の迷いだ」
「……」
フェクスは片眉を跳ね上げて、おどけて見せた。
「ケランと別れたって聞いて、俺は喜んだんだ。最低だろ?」
「……そんなことは……」
「で? どうなんだ? 俺は命を掛けたんだが、お前の気は迷いそうか?」
アルスカは首を振った。
「そんな言い方は卑怯だ……」
「ああ、俺は卑怯だ。お前が異邦人で、立場が弱いのをいいことに、家に居候させて、あげくに罪悪感で縛ろうとしてる。……嫌ってくれていい。……異邦人に家を貸さないってのは嘘だ。お前は家を借りれるし、なんなら軍の宿舎もある」
アルスカはこの馬鹿な男を叱った。
「もっとやり方があっただろう。死ぬところだったんだぞ」
「これしか口説き方を知らない。正攻法で口説いて、学生の頃にケラン相手に惨敗した。覚えてるか? 俺、お前に結構言い寄ってたんだぞ?」
2人は黙った。アルスカの気持ちを整理するには時間がかかる。フェクスもそれを理解している。彼は目を閉じた。待つのには慣れている。
*
フェクスが死にかけてからというもの、アルスカは献身的に彼を支えた。その原動力は罪悪感でもあったし、別の気持ちでもあった。アルスカはその気持ちに気づかないふりをしていた。
あのあと、逃げ出したケランは見知らぬ街で憲兵に捕縛された。ガラの地では金持ちの彼も、ここではただの異邦人だ。彼はメルカ人を害した罪で厳しい罰を受けることになる。
獄中から、ケランは何通もの手紙をアルスカに送った。しかし、アルスカはそれらを読まずに捨てた。もう二度と会うことのない人間に心を乱されたくないのだ。それでも、手紙を捨てた屑入れの中から嫌な気配がする気がして、アルスカを悩ませた。
フェクスは立ち上がれるようになると、医者の忠告を無視して歩き回った。アルスカはフェクスを見張るので大忙しだ。そうして、次第に屑入れに投げ捨てた紙切れのことなど、すっかり忘れてしまった。
さらに、アルスカが仕事に復帰すると、ますますケランのことは過去のものになっていった。
そうして日常を取り戻していったある日、アルスカが料理をしていたら、後ろからフェクスが抱きついてきた。アルスカが振り向くと、フェクスは舌を出してこう言った。
「お前に任せてたら、いつになるか分からない」
アルスカはフェクスの言わんとするところを理解した。フェクスはぐっと腰を押し付け、そのそそり立ったものを慰めてくれと言外に求めている。
アルスカは驚いた。
「……な!」
「だって、嫌なら、出てくだろ。でも、いてくれる。それが答えだ」
満足げなフェクスに、アルスカは反論の言葉を持たない。彼は口をぱくぱくと開いたり閉じたりしたあと、耳まで赤くなって、俯いた。
「……自分でも、どうかしてると思う」
「俺もだ。この国では同性愛者は破門だ」
「……」
「そうなっても、いいと思ってる」
そこまで言うと、フェクスはアルスカの顎を掴んで、強引に唇を重ねた。
「ん……」
生娘でもあるまいし、いまさら怖がることなど何もないはずなのだが、それでもアルスカは怖かった。
それは、この行為によってフェクスの人生が変わってしまうからだ。アルスカは服を脱ぐ手を何度も止めそうになったが、そのたびに敏感なところを嘗められて、ぐずぐずとシーツに沈んでしまった。
フェクスは夢中でアルスカの乳首に吸い付いた。
かつて学生だったころ、いまよりずっと性欲が盛んだったフェクスには、この乳首を夢に見て射精した夜があった。フェクスは赤くなったそれを転がし、吸い上げ、執拗に舐った。
アルスカは身を捩り、だめだ、だめだと首は振るのだが、フェクスの体を押しのけることはできなかった。アルスカは己の業の深さを思い知った。
いま、彼はフェクスを欲している。そしてその気持ちは理性ではとめられないほどに膨れ上がり、性欲として花開いていた。
「ん……ああぁ、あっ……」
アルスカの理性が溶けて腰が揺れだすと、フェクスはさらに強く乳首にしゃぶりついた。それからそこに噛みついて、自分のものになったことを刻み付けた。
フェクスは上体を起こして、アルスカの体を見つめ、そこに自分の歯形が残ったのを見て股間を熱くさせた。
「入れたい……いいか? ちゃんと言ってほしい……」
フェクスの言葉に、アルスカは頷いた。
「入れてほしい……愛してる」
「ああ、俺も、愛してる」
アルスカのそこはフェクスをすんなりと受け入れた。フェクスは夢中で腰を振った。アルスカの体に残った前の男の気配を追い出すように、奥へ奥へと腰を進めた。
「あっ、あっ、ああっ……!」
「アルスカ、アルスカ、アルスカ……」
「んん、ああ、あっ!!」
「--っ!」
アルスカが大きく仰け反ったとき、フェクスも中へ熱い飛沫を放った。
情事の熱が引いたあと、アルスカは口を開いた。
「苦労するよ」
アルスカはこの国で同性の恋人を持つということがどういうことかをよく知っている。同性愛者は教会から破門され、また迫害を受ける。フェクスはこれから、この関係を世間から隠して、さらに異邦人であるアルスカを守らなければならない。東方の難民はいまこの国の治安悪化の直接的な原因である。東方の民であるアルスカへの風当たりは強い。
アルスカの言葉を十分に理解したうえで、フェクスは言った。
「それを、変えたかった」
「……」
アルスカは黙った。フェクスの言葉にはかつての青年時代の熱が戻っていた。アルスカが次の言葉を見つけるより前に、フェクスが続けた。
「いや、いまからでも変えればいい。俺、もう一度行政官から始めようと思う」
アルスカは頷いた。そうなればどんなにいいだろうと思った。アルスカが愛したこの国が、アルスカを受け入れ、愛してくれるなら、それは夢のような話だ。
2人は見つめ合い、ゆっくりとキスをした。それから、照れたように笑った。青年のように夢物語を語り、愛を囁きあうにはお互いに顔に皺が多くなりすぎた。
それでも2人は夢想した。この国の未来と、2人の未来に光があることを。
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