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第1話 浮気
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14年も愛を囁き合って寝食を共にしたとしても、縁が切れるときは一瞬だということをアルスカは知った。
彼は最愛の人だと思っていた恋人に最後の手紙を残すつもりでペンをとったが、この感情を言い表す的確な言葉がないことに気が付いた。この感情を伝えるべく言葉を尽くしたならば便箋が100枚あっても足りない。
結局、彼はただ別れの言葉と、2人で貯めた金の半分を貰う旨を書いた。
アルスカはこのガラ国で恋人と14年暮らした。彼の恋人――ケランは男である。それでも、男女の夫婦と何ら変わらずに愛し合っていた。
半年ほど前から、ケランの帰りが遅くなることが増えた。ある日、どうしても不審に思う気持ちを抑えきれず、アルスカは恋人を尾行した。このとき、アルスカには確信に似た直感と、どうか誤解であってほしいと願う気持ちがあった。しかし、アルスカは見てしまった。
14年間愛し合ったケランは、仕事場から出ると、その足で見知らぬ男と合流した。2人は手をつなぎ、頬を寄せ合った。愕然とするアルスカの目の前で、その影は宿に消えいった。
それ以来、アルスカはずっと苦しかった。アルスカはガラ国の出身ではない。ケランへの愛のためにこの国にやってきたのだ。その愛が枯渇したことにより、異国の風はより冷たさを増した。
その苦しみは筆舌に尽くしがたい。抉られた魂が痛み、炎に炙られて心が泣く。それでもアルスカは平静を装い、恋人と唇を重ね、体をつなげることもあった。それは彼がこの現実を受け入れていない証拠でもあった。
やがて魂のみならず、体が悲鳴を上げだすと、ようやくアルスカは裏切りの意味を理解した。
アルスカは急に食べ物が食べられなくなった。彼は何度も吐き、えずき、生理的な涙を流して苦しんだ。彼は自暴自棄になった。酒でパンを流し込み、大声を出して、家に寄り付かず、ときには道端で寝ることもあった。
そうして自分を追い込むうちに、ふと彼は正気を取り戻した。
荷物をまとめて家を出る。アルスカは一度だけ家を振り返った。荷物をまとめているときは、無様に泣きはらした目をしてこの家を離れるのだと思っていたが、それは杞憂に終わった。
心はどこまでも晴れやかで、新しい生活への期待に溢れている。長く暮らしたこの家に愛着がないわけではなかったが、アルスカは異国の人間だ。もうここにいる理由はない。それに何より、彼は10代で故郷の東方を出て以来、根なし草だ。どこでも生きていけるという自信があった。
こうしてアルスカは旅に出た。目的地は彼が青年時代を過ごした隣国メルカの地である。そこで友人を頼るつもりだった。
彼は正気ではあったが、まだどこか夢見心地であった。この悪夢が終わり、かつてのまぶしい朝が来ることを願っている。しかし、それが叶わぬことも彼は知っている。
*****
アルスカは隣国メルカのサザンという街の裏通りにある鄙びた宿で友人を待った。その友人とは卒業以来会っていなかったが、ひと月ほど前に来訪を知らせる葉書を出していた。友情を信じるならば、再会を果たすことができるはずだ。
宿の毛布は擦り切れている。井戸の水は赤銅色に濁り、表面に小蠅の死骸が浮いていた。窓の向こうはずっと曇り空であり、時折耐えかねたようにぱらぱらと涙を流す。
ガラ国は乾燥した砂漠の多い国であった。湿った空気を吸い込むと、異国の地にやってきたのだと痛感させられた。
アルスカは酒でも飲んで時間を潰すつもりだったが、この国は戒律により春の三カ月は禁酒と定められていた。酒場であってもこの時期は水と牛乳しか供さない。教会を中心に発展を遂げたこの街は厳格に戒律を尊守しているのだ。
赤毛と碧眼、鷲鼻がこの国に多い顔立ちであり、黒髪黒目で低い鼻をしているアルスカは明らかな異邦人である。それでもこの国の決まりに従うべく、彼は酒を諦めた。
アルスカは手持無沙汰になって窓辺で曇天を眺めながら煙草をふかした。この煙草は非常に強く、大の大人をも陶酔させる。この時期、メルカ国で楽しむことができる唯一の娯楽である。
アルスカもその昔、この国に留学でやって来て初めてこの煙草を吸ったときは、あまりの強さに前後不覚となり憲兵の世話になった。
当時、夜中にわけのわからないこと叫ぶ者の多くが国賊的思想を持っていたため、アルスカも拘束され、思想調査を受けたのだった。異邦人であり、まだ言語を勉強中だったアルスカは四苦八苦しながら自分に危険思想がないことを数週間かかって説明した。
2、3日ほどそうして窓辺で青春時代の苦い記憶に耽っていると、どんどん煙草は灰になり、とうとう残り1本となってしまった。
アルスカは深いため息を漏らした。彼は酒と煙草以外で退屈を誤魔化す手段をすっかり忘れてしまっていたのだ。
窓の外を通行人が通る。人々はシャツとズボンだけで、自分の目的地へと俯いて足早に駆けていく。
長い戦争で、物資を供出し続けているせいだろうか。街に活気はなく、この街に来るまでに通り過ぎてきた街道沿いの街々に比べて全体的に煤け、古びていた。
しかし、この街を出て東に歩くと、すぐに広大な農地を見ることができる。そこでは農夫たちが農道にしゃがみ込んで呑気に雑談をしているのだから、すべてが戦争一色、というわけではないことをアルスカはすでに知っていた。
アルスカは最後の煙草を大事に吸った後、所在なく街の地図を広げて眺めた。この街は古くからある田舎の街と、教会の建物が立ち並ぶ比較的新しい街に分かれている。
この宿は古い街の西端に位置し、こちら側には戦火に追われた東方の人々があちこちで下働きをしている。そのため、アルスカと同じ黒髪に黒い目の人間もよく見かけた。彼らはこの国で使われている言葉とは異なる言葉を話す。それはアルスカの故郷の言葉でもある。アルスカも彼らと同じ東方の出身なのだ。
この国の人々の中にはどうせ分からないだろうとアルスカたち東方の民にからかいの言葉を投げつける者もいる。かつてアルスカが学生の頃にそのような暴言を吐かれたら、アルスカはこの国の言葉で何倍にも反駁し相手を黙らせた。アルスカはこの国の大学で4年間言語だけでなくその手の輩に対する処置も学んだのだ。
もっとも、それは彼の故郷が戦火で焼け落ちる前のことであり、いまはアルスカのような東方の民に対する風当たりはさらに強くなっている。
それは、戦争で物資が不足し、人々の心がすさんでいるからだ。
14年前、信じられないほど豊かだと思ったメルカ国が堕ちる。アルスカはしばしその現実を飲み込めなかった。
アルスカが睡魔の中でぼんやりと考え事をしていると、部屋にノックの音が響いた。
「フェクス、キタ」
東方系の顔立ちの男がたどたどしく、そう告げた。彼はみすぼらしい服を着て、右手に箒を持っている。アルスカは彼に礼を言って宿の入口へ向かった。
宿の薄汚れた扉の脇に、フェクスは立っていた。アルスカはその顔を見て、苦笑いをした。
その昔、学友の間で美少年と名高かったフェクスであるが、十数年の月日で丸い頬が削げ、指が節くれ立って、目じりには皺ができていた。この国でありきたりな赤毛の髪には白いものが混ざり、碧眼までもがくすんでしまったように感じさせる。
それでもフェクスがこちらにくしゃっとした笑顔を向けると、青年のときを共に過ごした鮮やかな記憶が一気に蘇り、アルスカは懐かしさで胸がいっぱいになった。
「長旅だったでしょう。疲れていませんか」
フェクスは丁寧な言葉を使った。それでアルスカも思わず他人行儀に返した。
「もう十分休みました」
「いつ着いたのですか?」
「3日ほど前でしょうか」
「早かったんですね。葉書には春祭りの後と書いてありましたが……念のため寄ってよかったです」
しばらく当たり障りのない会話をした後、フェクスは気楽に笑ってアルスカの背を叩いた。
「歳をとったな、お互い」
それを合図として、彼らは青年のころに戻ったように笑いあった。
「相変わらずお前の発音は完璧だな。この国に来るのは久しぶりじゃないのか」
フェクスに尋ねられて、アルスカは大学を卒業してからの年数を指折り数えた。
「14年ぶりかな」
「それはすごい。ふつう、言語ってのは使わないと忘れるらしいが、お前は前よりうまくなってる」
「ありがとう。少し前まで通訳の仕事をしていて、話す機会があったおかげかな」
「それはいい商売だ。こんなご時世だ。さぞ儲かっただろう」
遠慮のない物言いをする友人に、アルスカは苦笑した。
「まぁ、明日のパンに困らないくらいさ」
「もったいないな。お前がこっちの国の生まれならもっと稼げるのに」
歳をとると円滑な人間関係構築のためのいくつかの技術を自然と身に着けられると思っていたが、そうでもない場合もあるようだ。アルスカは青年時代となんら変わらない奔放な男に安堵を覚えた。
変わってしまった街で、変わらない友人がまぶしかった。
このフェクスという男はかつて大学で政治を学んでいた。若いころのフェクスは野心家の片鱗を見せていたが、その失言の多さから敵が多く、学生時代に大きな実績を残せなかった。
しかし、アルスカたち留学生にも平等に接し、文化を学びたがるような節もあったため、決して政治家に向いていないわけではないとアルスカは思っていた。むしろ、フェクスのような男が失言癖を治して政治家になってくれれば、きっといい未来があると思ったくらいだ。
アルスカは尋ねた。
「フェクスはここで何の仕事を?」
「軍の仕事を手伝って食いつないでる」
その言葉に羞恥が含まれていることにアルスカは気が付いた。
大学時代、2人の青年は壮大な夢を語ったものであった。フェクスは政治家になると息まいていた。それが14年後、ただ日銭を稼ぐだけのくたびれた壮年になってしまったのだ。
アルスカも自身の堕落をよく知っているだけに、フェクスの羞恥が痛いほどわかった。かつて、アルスカも故郷とこの国の懸け橋になると目を輝かせたが、ついに外交の仕事には就けなかった。いつかそのうちもう一度外交の仕事を探そうと思っているうちに、戦火によって故郷を失い、夢は夢のまま終わった。
しかし、アルスカはその羞恥に気づかないふりをした。彼は円滑な人間関係の構築を学んでいたのだ。
「へぇ、いい仕事じゃないか」
フェクスは肩をすくめた。
「いいもんか。手の付けられない連中のお守りだ。ところで、なぜこんな街に? 何も面白くない街なのに」
「実は、仕事を探しているんだ。軍で通訳を探していないか?」
「なんでまた」
「家を飛び出してきたんだ。いま、少しの金と、数着の服しか持ってない」
「はあ?」
アルスカは事の次第を語った。
「ケランと別れた。それで、家を出たんだ。この国に住むのは私の夢だったから、心機一転しようと思って」
フェクスは目を見開いた。
「なんで別れたんだ? あんなに仲良かったのに」
「ケランに浮気された」
「それくらい……」
フェクスの失言を遮って、アルスカは言い切った。
「許せない。私たちは男同士で、子どもを望めないんだ。気持ちがないなら、一緒にいる理由がない。死ぬ気で働けばひとりで生きていくのには困らないさ」
「でも……」
まだ納得しないフェイスに、アルスカは哀れっぽい声を出して懇願した。
「頼むよ。私みたいな異邦人がこの国で仕事を得るためには、あなたの協力が必要不可欠なんだ」
彼は最愛の人だと思っていた恋人に最後の手紙を残すつもりでペンをとったが、この感情を言い表す的確な言葉がないことに気が付いた。この感情を伝えるべく言葉を尽くしたならば便箋が100枚あっても足りない。
結局、彼はただ別れの言葉と、2人で貯めた金の半分を貰う旨を書いた。
アルスカはこのガラ国で恋人と14年暮らした。彼の恋人――ケランは男である。それでも、男女の夫婦と何ら変わらずに愛し合っていた。
半年ほど前から、ケランの帰りが遅くなることが増えた。ある日、どうしても不審に思う気持ちを抑えきれず、アルスカは恋人を尾行した。このとき、アルスカには確信に似た直感と、どうか誤解であってほしいと願う気持ちがあった。しかし、アルスカは見てしまった。
14年間愛し合ったケランは、仕事場から出ると、その足で見知らぬ男と合流した。2人は手をつなぎ、頬を寄せ合った。愕然とするアルスカの目の前で、その影は宿に消えいった。
それ以来、アルスカはずっと苦しかった。アルスカはガラ国の出身ではない。ケランへの愛のためにこの国にやってきたのだ。その愛が枯渇したことにより、異国の風はより冷たさを増した。
その苦しみは筆舌に尽くしがたい。抉られた魂が痛み、炎に炙られて心が泣く。それでもアルスカは平静を装い、恋人と唇を重ね、体をつなげることもあった。それは彼がこの現実を受け入れていない証拠でもあった。
やがて魂のみならず、体が悲鳴を上げだすと、ようやくアルスカは裏切りの意味を理解した。
アルスカは急に食べ物が食べられなくなった。彼は何度も吐き、えずき、生理的な涙を流して苦しんだ。彼は自暴自棄になった。酒でパンを流し込み、大声を出して、家に寄り付かず、ときには道端で寝ることもあった。
そうして自分を追い込むうちに、ふと彼は正気を取り戻した。
荷物をまとめて家を出る。アルスカは一度だけ家を振り返った。荷物をまとめているときは、無様に泣きはらした目をしてこの家を離れるのだと思っていたが、それは杞憂に終わった。
心はどこまでも晴れやかで、新しい生活への期待に溢れている。長く暮らしたこの家に愛着がないわけではなかったが、アルスカは異国の人間だ。もうここにいる理由はない。それに何より、彼は10代で故郷の東方を出て以来、根なし草だ。どこでも生きていけるという自信があった。
こうしてアルスカは旅に出た。目的地は彼が青年時代を過ごした隣国メルカの地である。そこで友人を頼るつもりだった。
彼は正気ではあったが、まだどこか夢見心地であった。この悪夢が終わり、かつてのまぶしい朝が来ることを願っている。しかし、それが叶わぬことも彼は知っている。
*****
アルスカは隣国メルカのサザンという街の裏通りにある鄙びた宿で友人を待った。その友人とは卒業以来会っていなかったが、ひと月ほど前に来訪を知らせる葉書を出していた。友情を信じるならば、再会を果たすことができるはずだ。
宿の毛布は擦り切れている。井戸の水は赤銅色に濁り、表面に小蠅の死骸が浮いていた。窓の向こうはずっと曇り空であり、時折耐えかねたようにぱらぱらと涙を流す。
ガラ国は乾燥した砂漠の多い国であった。湿った空気を吸い込むと、異国の地にやってきたのだと痛感させられた。
アルスカは酒でも飲んで時間を潰すつもりだったが、この国は戒律により春の三カ月は禁酒と定められていた。酒場であってもこの時期は水と牛乳しか供さない。教会を中心に発展を遂げたこの街は厳格に戒律を尊守しているのだ。
赤毛と碧眼、鷲鼻がこの国に多い顔立ちであり、黒髪黒目で低い鼻をしているアルスカは明らかな異邦人である。それでもこの国の決まりに従うべく、彼は酒を諦めた。
アルスカは手持無沙汰になって窓辺で曇天を眺めながら煙草をふかした。この煙草は非常に強く、大の大人をも陶酔させる。この時期、メルカ国で楽しむことができる唯一の娯楽である。
アルスカもその昔、この国に留学でやって来て初めてこの煙草を吸ったときは、あまりの強さに前後不覚となり憲兵の世話になった。
当時、夜中にわけのわからないこと叫ぶ者の多くが国賊的思想を持っていたため、アルスカも拘束され、思想調査を受けたのだった。異邦人であり、まだ言語を勉強中だったアルスカは四苦八苦しながら自分に危険思想がないことを数週間かかって説明した。
2、3日ほどそうして窓辺で青春時代の苦い記憶に耽っていると、どんどん煙草は灰になり、とうとう残り1本となってしまった。
アルスカは深いため息を漏らした。彼は酒と煙草以外で退屈を誤魔化す手段をすっかり忘れてしまっていたのだ。
窓の外を通行人が通る。人々はシャツとズボンだけで、自分の目的地へと俯いて足早に駆けていく。
長い戦争で、物資を供出し続けているせいだろうか。街に活気はなく、この街に来るまでに通り過ぎてきた街道沿いの街々に比べて全体的に煤け、古びていた。
しかし、この街を出て東に歩くと、すぐに広大な農地を見ることができる。そこでは農夫たちが農道にしゃがみ込んで呑気に雑談をしているのだから、すべてが戦争一色、というわけではないことをアルスカはすでに知っていた。
アルスカは最後の煙草を大事に吸った後、所在なく街の地図を広げて眺めた。この街は古くからある田舎の街と、教会の建物が立ち並ぶ比較的新しい街に分かれている。
この宿は古い街の西端に位置し、こちら側には戦火に追われた東方の人々があちこちで下働きをしている。そのため、アルスカと同じ黒髪に黒い目の人間もよく見かけた。彼らはこの国で使われている言葉とは異なる言葉を話す。それはアルスカの故郷の言葉でもある。アルスカも彼らと同じ東方の出身なのだ。
この国の人々の中にはどうせ分からないだろうとアルスカたち東方の民にからかいの言葉を投げつける者もいる。かつてアルスカが学生の頃にそのような暴言を吐かれたら、アルスカはこの国の言葉で何倍にも反駁し相手を黙らせた。アルスカはこの国の大学で4年間言語だけでなくその手の輩に対する処置も学んだのだ。
もっとも、それは彼の故郷が戦火で焼け落ちる前のことであり、いまはアルスカのような東方の民に対する風当たりはさらに強くなっている。
それは、戦争で物資が不足し、人々の心がすさんでいるからだ。
14年前、信じられないほど豊かだと思ったメルカ国が堕ちる。アルスカはしばしその現実を飲み込めなかった。
アルスカが睡魔の中でぼんやりと考え事をしていると、部屋にノックの音が響いた。
「フェクス、キタ」
東方系の顔立ちの男がたどたどしく、そう告げた。彼はみすぼらしい服を着て、右手に箒を持っている。アルスカは彼に礼を言って宿の入口へ向かった。
宿の薄汚れた扉の脇に、フェクスは立っていた。アルスカはその顔を見て、苦笑いをした。
その昔、学友の間で美少年と名高かったフェクスであるが、十数年の月日で丸い頬が削げ、指が節くれ立って、目じりには皺ができていた。この国でありきたりな赤毛の髪には白いものが混ざり、碧眼までもがくすんでしまったように感じさせる。
それでもフェクスがこちらにくしゃっとした笑顔を向けると、青年のときを共に過ごした鮮やかな記憶が一気に蘇り、アルスカは懐かしさで胸がいっぱいになった。
「長旅だったでしょう。疲れていませんか」
フェクスは丁寧な言葉を使った。それでアルスカも思わず他人行儀に返した。
「もう十分休みました」
「いつ着いたのですか?」
「3日ほど前でしょうか」
「早かったんですね。葉書には春祭りの後と書いてありましたが……念のため寄ってよかったです」
しばらく当たり障りのない会話をした後、フェクスは気楽に笑ってアルスカの背を叩いた。
「歳をとったな、お互い」
それを合図として、彼らは青年のころに戻ったように笑いあった。
「相変わらずお前の発音は完璧だな。この国に来るのは久しぶりじゃないのか」
フェクスに尋ねられて、アルスカは大学を卒業してからの年数を指折り数えた。
「14年ぶりかな」
「それはすごい。ふつう、言語ってのは使わないと忘れるらしいが、お前は前よりうまくなってる」
「ありがとう。少し前まで通訳の仕事をしていて、話す機会があったおかげかな」
「それはいい商売だ。こんなご時世だ。さぞ儲かっただろう」
遠慮のない物言いをする友人に、アルスカは苦笑した。
「まぁ、明日のパンに困らないくらいさ」
「もったいないな。お前がこっちの国の生まれならもっと稼げるのに」
歳をとると円滑な人間関係構築のためのいくつかの技術を自然と身に着けられると思っていたが、そうでもない場合もあるようだ。アルスカは青年時代となんら変わらない奔放な男に安堵を覚えた。
変わってしまった街で、変わらない友人がまぶしかった。
このフェクスという男はかつて大学で政治を学んでいた。若いころのフェクスは野心家の片鱗を見せていたが、その失言の多さから敵が多く、学生時代に大きな実績を残せなかった。
しかし、アルスカたち留学生にも平等に接し、文化を学びたがるような節もあったため、決して政治家に向いていないわけではないとアルスカは思っていた。むしろ、フェクスのような男が失言癖を治して政治家になってくれれば、きっといい未来があると思ったくらいだ。
アルスカは尋ねた。
「フェクスはここで何の仕事を?」
「軍の仕事を手伝って食いつないでる」
その言葉に羞恥が含まれていることにアルスカは気が付いた。
大学時代、2人の青年は壮大な夢を語ったものであった。フェクスは政治家になると息まいていた。それが14年後、ただ日銭を稼ぐだけのくたびれた壮年になってしまったのだ。
アルスカも自身の堕落をよく知っているだけに、フェクスの羞恥が痛いほどわかった。かつて、アルスカも故郷とこの国の懸け橋になると目を輝かせたが、ついに外交の仕事には就けなかった。いつかそのうちもう一度外交の仕事を探そうと思っているうちに、戦火によって故郷を失い、夢は夢のまま終わった。
しかし、アルスカはその羞恥に気づかないふりをした。彼は円滑な人間関係の構築を学んでいたのだ。
「へぇ、いい仕事じゃないか」
フェクスは肩をすくめた。
「いいもんか。手の付けられない連中のお守りだ。ところで、なぜこんな街に? 何も面白くない街なのに」
「実は、仕事を探しているんだ。軍で通訳を探していないか?」
「なんでまた」
「家を飛び出してきたんだ。いま、少しの金と、数着の服しか持ってない」
「はあ?」
アルスカは事の次第を語った。
「ケランと別れた。それで、家を出たんだ。この国に住むのは私の夢だったから、心機一転しようと思って」
フェクスは目を見開いた。
「なんで別れたんだ? あんなに仲良かったのに」
「ケランに浮気された」
「それくらい……」
フェクスの失言を遮って、アルスカは言い切った。
「許せない。私たちは男同士で、子どもを望めないんだ。気持ちがないなら、一緒にいる理由がない。死ぬ気で働けばひとりで生きていくのには困らないさ」
「でも……」
まだ納得しないフェイスに、アルスカは哀れっぽい声を出して懇願した。
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