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第三十話 逃避行

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 カントット国はどこに行っても何もない。食べ物も、薬も、服も足りない。鉄も足りない。鉄道を動かす石炭も足りない。
 カルヴァから南へ向かう鉄道は一日に三本しか走っていない。そのうち、キルスまで行くものはない。途中の驛で乗り継ぐ必要がある。


 ルーカスたちは驛にやってきた。そこには、切符を買い求める人の長蛇の列があった。
「どうしよう」
 つぶやくルーカスの肩を同行人――ケイ・タムが叩いた。
「驢馬車を拾うぞ」
「なに、それ?」
「農村とカルヴァを行き来してる馬車だ。馬じゃなくて、驢馬が牽いてるから、驢馬車」
「農村に行くの?」
「そこから歩けばミラ驛がある。ミラ驛まで出れば混雑も少ないだろうし」
 ルーカスは控えめに頷く。
 ケイは道行く人の流れに逆らい歩き出す。その後ろを必死で追いながら、ルーカスはこの旅に彼が同行してくれることを心から感謝した。



 驢馬車はカルヴァの西の端に停まっていた。ケイはその持ち主に運賃を交渉して、ルーカスの分も含めて支払った。ルーカスは促されるままに車に乗り込んだ。
 しばらく待っていると、驢馬車には同じくカルヴァから出発する人々が乗り込んで来た。ルーカスたちのほかに8人。彼らの会話から察するに、食料のないカルヴァを出て農村に直接食料を買いにいくようだった。
 やがて驢馬車は走り出し、牧歌的な風景の中を進んでいく。カルヴァの近郊は広大な野菜畑が広がっていた。その上に、冷たい木枯らしが吹いている。
 車の主は呑気に口笛を吹いて、時折驢馬に鞭をふるった。

 ルーカスは小さく、隣に座っているケイに謝罪した。
「お金……ごめん」
 ルーカスは手近なものをまとめて窓から邸宅の外に出たのはいいものの、金がなかった。彼の個人的な金はすべて例の贈り物につかってしまっていたし、彼が与えられている金銭はロイが管理している。驢馬車は鉄道より安いが、それすらルーカスには支払えなかった。

 ケイはこともなげに答える。
「いいってことよ。ま、貴重品は肌身離さず――基本だぜ」
 ルーカスとは対照的に、ケイは財布はもちろんのこと、通帳や身分証まで持っていた。彼は驛に行く前に銀行に寄って金を全額下して、肌着の下に隠していた。その額は地方なら家一軒買えるほどである。
 ケイは得意げに続ける。
「中尉からもらったもの、こまめに売りさばいて貯めていたんだ」
「賢いなあ……」
 ルーカスはケイの抜かりのなさに舌をまいた。ルーカスは邸宅を出る時に例のファン・リーからもらった短剣を持ち出していた。ルーカスはそれを次の驛で売りさばいてお金にすることを決めた。
 ルーカスはうんうん、と頷く。賢いケイの生き方を見習わなくては、と思った。

 ケイはルーカスの反応を見ると、得意気な笑みから一変し、苦笑した。
「君、故郷の方は、空襲どうだった?」
「うーん。イレはすごかったらしいけど、僕が住んでいたマイトレのあたりはあんまりなかったんだ。あと、キルスも」
「それはよかったな」
 ケイはルーカスの方に体を寄せた。誰にも聞かれないように、声を落とす。
「俺はカルヴァの生まれでさ。全部燃えたんだ。それで、必死で生きてさ。こんなんになった」
 ルーカスは次に続けるべき言葉がわからなかった。賞賛も、励ましも違う気がした。それで、ただ「……そっか」とだけこぼした。この国では誰もが傷を負っている。

 ケイはぱっと笑う。
「キルスの方で店でも開こうかな」
「え? カルヴァに戻らないの?」
「キルスを見て決める。よさそうな街なら、そうする。そのために勉強して、金を貯めてきたんだからな」

 ルーカスはここまでのケイの言動を見て、ずっと疑問だったことをついに訊いた。
「中尉のこと、あんまり好きじゃないんだ?」
「うーん。好きとか、嫌いとか、そういうのは、もういいかなぁ。中尉は駐在期間が終わればダン帝国に帰るだろうし」
 その言葉はルーカスにとって意外だった。ダン帝国に帰る。つまり、ケイも中尉もその関係をダン帝国にいる間だけと割り切っているようだった。

 ――だからか……。
 ルーカスはケイが常に言っていた「不安定な立場」という意味を理解した。ケイは自分が替えの効く存在であると認識しているのだ。
 ――でも、それって、中尉のほうは……?

 黙り込んだルーカスを見て、ケイは慌てて付け加える。
「あ、感謝はしているんだぜ? もちろん」
「う、うん」
「でも、ずるずるいっしょにいても、別れがつらいだけだから、まぁ、ちょうどいい」
 ケイは自分に言い聞かせるように言った。

 車は驢馬の速度でカルヴァを離れていく。緩やかな坂を上り、そして下ると、もうそこはカルヴァではなくなる。
 途端に、冬の寒さが増す。
 二人の脳裏ではカルヴァでの思い出が鮮やかに蘇っていた。離れがたい気がした。しかし、離れなければいけない気もした。

 ケイが口を開いた。
「なぁ、俺、心理学の授業も出てるんだけど」
「心理学?」
「そこで、監禁された人間の心理ってのを習ってさ」
 ケイは習った内容をゆっくりと説明する。
 監禁され自由を奪われた人間は、監禁している人間に親しみをもつようになるというものである。中には愛情に似たものを抱くようになる人間もいるらしかった。
 ケイは落ち着いた声で尋ねる。
「自分の状況と照らし合わせてみて、どう思う?」
「……」

 ケイの言いたいことを、ルーカスは正確に理解した。
「僕が、バートンさんのことを好きな気持ちが、嘘だって言いたいんだね」
「嘘とは言わないさ。ただ、そういう場合もあるから、冷静になれって言いたいんだ」
 ルーカスは首を振る。
「哲学ではこう習ったよ。学生は、習ったばかりの事柄を身近なところにあてはめたがる、って」
 ケイは引き下がらなかった。
「じゃあ、それも踏まえて、どう思う?」
「……僕は……」
 ルーカスは言葉を濁す。自分の気持ちが、わからなくなった。
 いまわかっていることは、ひとつだけだ。
「いまは、バートンさんと離れられて、ほっとしている」
「そうか」

 カルヴァを離れてまだ1日目だ。気持ちが変わるとしたら、これからだとケイは思った。この心優しい友人は、ルーカスのことを本気で心配していた。ルーカスがこれ以上αのことで傷つくことがなければいいと思っていた。それは、自分もαのことで傷つきたくない気持ちを投影している。


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