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第二十八話 絶望

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 絶望していても、太陽は昇って朝が来る。料理人は食事をつくり、ヒューイットが運んでくる。それを食べれば、ひとまずその1日を生きていられる。
 これはありがたいことだ。明日飢えて死ぬかもしれないという日々を送ってきたルーカスにとって、それだけで十分幸せなはずだった。

 しかし、ルーカスは絶望している。
 ルーカスは生きるのに必要なものは食べ物だけではないことをこのとき知った。

 ――ほんとうに、大好きになっていたんだ。

 どこか他人事のように思う。ルーカスの魂は肉体から離脱して、後ろから肉体が生きている様子を眺めている。そうしなくては心を保てない。
 バートンはルーカスを避け続けている。それは飢えることより辛かった。ルーカスにとって経験したことのない辛さだった。
 ルーカスは死んだように生きた。
 やがて大好きだった物理学の授業も、カルヴァ大学の講義も、ルーカスは行かなくなった。
 ルーカスの心を映すように、庭の木々が葉を落とした。カルヴァに長い冬がやって来たのだ。冷たい風はルーカスの心を凍らせた。
 ただひとり部屋でぼんやりとして過ごした。時というものが鈍足に感じた。ルーカスはどんどん現実から心が遠くなっていった。



 そんなルーカスの様子は使用人たちによってバートンに伝えられた。
 バートンはちょうど軍の宿舎の仮眠室で横になっていた。そこに、邸宅から電話がかかってきたのだ。
 ルーカスはバートンがルーカスを避けるために邸宅に寄り付かなくなったと思い込んでいたが、それは半分不正解であった。無論、バートンの中にルーカスに会わせる顔がないという気持ちがあるのは事実である。しかし、真実、バートンは忙しくなっていた。隣国と本国の関係性が急激に悪化し、カントット国に軍備配備を急速に進める必要があったのだ。

 邸宅の使用人はバートンに言い募った。
「坊ちゃんに少しお時間をさけませんか」
「……そうしたい気持ちはあるんだけれどもね……」
「お忙しいですか?」
「……」

 あの日の自分の行為に対する罪悪感があるのは間違いない。しかし、それよりもバートンの頭を占めるのは「恐れ」であった。
 バートンの脳髄にはあの日のルーカスの匂いが染みついている。官能的で、魅力的な匂い。バートンはあれほど脳を揺るがす強烈な匂いを放つΩに会ったのははじめてだった。

「マトックス、私はまだルーカスに会える気がしないんだ」

 バートンは頭を抱えながらそう言った。次にルーカスと会ったら、自分を自制できるか自信がなかった。

「ほんとうにすまない」
「……バートン様はしばらくの間、Ωの匂いから遠ざかっていらっしゃいましたから、仕方ないですね。こちらはこちらでなんとかします」

 マトックスはそう言って主を慰めた。

「そうなんだろうか……」

 バートンは目を伏せる。確かに彼はしばらくの間臭覚を失い、Ωの匂いを嗅いだのは久しぶりだった。久しぶりだったから、体が驚いているだけだ。ただ、それだけ。バートンはそう自分に言い聞かせようとして、失敗した。

「こんなのは、初めてなんだよ」
 思いつめたようなバートンの声を聞いて、マトックスは提案した。
「……坊ちゃんにお相手ができればΩの匂いも消えます。どうでしょう、お見合い相手を探されては」
「ああ……しかし……」

 バートンはその提案を聞いて唸った。バートンはルーカスが落ち込んでいるのは「Ωであること」が原因だと思っていた。そのルーカスが、お見合いを受け入れるとは思えなかった。そしてなにより、バートンもそれが嫌だと思った。お見合いに行くルーカスを想像したとき、バートンの胸に苦みが広がった。
 しかし、マトックスは言い募った。

「よろしければ、何人かこちらで見繕って坊ちゃんに提案します」
「そう簡単に見つからないだろう」
「陸軍には番をもてないαがたくさんいらっしゃるでしょう」
「それはそうだが……」
「坊ちゃんのあの匂いは強すぎます。手を打つなら早い方がよろしいでしょう」
 信頼するマトックスの言葉に、バートンは胸の奥の苦みを飲み込んだ。
「……わかった。君に任せるよ」
「ありがとうございます」
 電話は切れた。バートンは受話器を片手に、その場に佇んだ。

 その数日後、マトックスは何枚かの書類をもってルーカスの部屋を訪ねた。
 ルーカスはろくに食事も摂らず、相変わらず部屋に引きこもったままであった。バートンの邸宅にやって来て数か月、ようやくふっくらとしてきた頬には再び影が落ちていた。
 マトックスは挨拶もそこそこに、さっそく本題を切り出した。

「お見合いをされませんか」
「え?」

 ルーカスは何を言われているのかわからず、思わず聞き返す。お見合い? 誰が? 誰と?
 ルーカスの疑問を察して、マトックスは説明を付け加える。

「陸軍には素敵なαがいらっしゃいまして。バートン様が信頼されている方たちばかりです。いかがでしょう、お食事だけでも」
 ルーカスは言葉を失う。バートンに信頼されている部下とのお見合い。バートンが自分にお見合い相手を斡旋したのだと思った。ルーカスの目の前は真っ暗になった。
 マトックスはルーカスの動揺に気が付かずに続ける。
「よき伴侶に恵まれましたら、Ωであることも受け入れられるようになりますよ」

 ルーカスは言った。
「……帰ります」
「え?」
 今度はマトックスが聞き返す番だった。ルーカスは顔をあげた。
「僕、帰ります」
「な、そんな、坊ちゃん」
 ルーカスは両手で耳をふさぎ、幼子のように頭をめちゃくちゃに振りながら叫んだ。
「帰る! 帰る! もう帰る!」
 故郷に帰る。バートンがいないところに帰る。そして、彼の人生から退場する。そうすれば、この心の痛みは癒えるはずだ。


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