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第一話 精霊のお見合い事情

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 俺を誘拐した精霊は、巨大な谷に住んでいた。
 谷の外に出るには断崖絶壁を越えるしかない。
 精霊にとってはひとっ飛びの崖も、人間の俺には目が眩むほどの高さだ。

 18歳になった俺はその崖を下から見上げていた。
 いま、俺はこの崖を登らなくてはならない。
 俺はぐいっと手袋をつけると、崖に足をかけた。春の谷はぬるい風が上から吹き下ろしてくる。俺は顔を振って張り付いてくる髪を払い、食料の入った荷物を背負い直して、手に力を入れた。

 5メートルほど登ったところで、下から俺を呼ぶ声が聞こえた。

「あー!! もう! またそんなことをして!! 下りてください! 坊ちゃん! 危ないですよ!」

 俺は負けじと大きな声で言い返した。

「嫌だ!」
「坊ちゃん!」

 俺はまた手を伸ばす。下を見てはいけない。ただ上を睨む。そして大きく息を吸い込んで叫んだ。

「今日こそ俺は人間の村に帰るんだ!」

 0歳で誘拐された俺は絶賛、人間界に帰る道を探してサバイバル中だ。


 そもそも、なぜ俺が精霊に誘拐されたのかというと、それは精霊の生態に関係している。精霊は生殖することができないのだ。しかし彼らは人間の子を攫い、20歳まで養育したあとで、その子の肉体を精霊に変えることができる。
 要するに、18歳の俺はこのままあと2年ほどこの谷にいたら、精霊にされてしまうのだ。

「精霊になるなんて、まっぴらごめんだ!」

 俺の決意の言葉の一拍あとに、風がふわりと吹いて、俺の体は宙に放り出された。地面に激突する寸前でもう一度風が吹いて、俺はゆっくりと地面に下される。
 この芸当ができるのは、現在俺の養父となっている精霊しかいないだろう。
 俺が地面に伏したまま顔だけ上げると、そこにはやはり予想通り、紫の瞳がこちらを覗き込んでいた。

「げっ、父さん……」
「ハルはいけない子だね」

 父は18年経った今でも、出会ったときのまま、眩いほどに美しい。しかし、もうその美貌に騙されて心をときめかせる俺ではない。
 父は笑顔のまま風を操り、俺の手袋と荷物を奪い去った。

「何するんだよ!」

 俺は為すすべもなく、ただ口だけで抗議した。父は穏やかに言う。

「諦めて精霊になりなさい。悪いものじゃないよ」

 父はこう言うが、俺にとっては悪いことばかりだ。


「坊ちゃん、お怪我は? 前みたいに怪我をしてませんよね!?」

 俺の世話係であるファが駆け寄ってくる。彼は父に仕えるスライムであり、今現在俺の世話係を命じられている。
 ファは、その真っ黒の体を楕円にしたりまん丸にしたりしながら撥ねている。

「怪我なんてしてねぇよ。父さんがうっかり落とさなければ怪我しないんだよ」

 以前、同じようにここを抜け出そうと壁を登ったとき、俺は足を踏み外してしまったのだ。その時も父が風を操って助けようとしてくれたのだが、父もうっかり風の操作を誤って俺を地面に落としてしまったのだった。
 そうして、俺の右眉の上には傷が残ってしまっていた。

「あのね、私がかわいい息子をうっかり落とすわけがないだろう。濡れ衣だ」

 父は断固として操作ミスを認めない。もう2年も前のことなのに、お互いに意地を張り続けている。血こそ繋がっていないが、実は似たもの親子なのかもしれない。

 父はファに命じる。

「ファ、ハルの支度を頼む。風呂に入れて、着替えさせてくれ」
「はい、かしこまりました」

 ファは従順に頷くと、ぷかぷかと体を揺らした。上機嫌な父の様子を見て、俺は嫌な予感がした。

「ええ?ま、まさか……」

 父はにっこりと笑うと、こう言った。

「ようやく見合いが決まったよ、ハル」

 俺は石像よろしく固まった。

 ついに恐れていた時が来てしまったのだ。
 俺が精霊になりたくない主な理由は、そう、結婚だ。
 精霊になるには、必ず魔族と婚姻を結ばなければならないのだ。

 父は俺が20歳になる前になんとか縁組をまとめようと、見合い相手を探し、俺はそれから逃げまわっていた。
 別に、俺は見合い相手の口が3つあるとか、角が生えているとか、全身が毛に覆われているとか、そういった理由で抵抗しているのではない。
 俺だってまっとうな日本人としてゲームや漫画を人並みに嗜み、それなりに性癖をゆがめられてきた。したがって、魔族と結婚すると聞いたときに、ダークエルフのお姉さんやケモミミ娘を想像して鼻の穴を膨らませたわけだ。
 しかし、現実はそううまくいかないらしい。

「今回の見合い相手は、ヴァンパイアだ。それはそれは強い魔力をもっているらしいよ」
 
 俺は顔をしかめながら、一縷の望みにかけて尋ねた。

「あの、ちなみに、性別は……?」

 父は応える。

「雄だよ」

 そう、精霊の結婚相手は雄なのだ。

「嫌だ――!!」

 俺は絶叫した。






 俺はこの谷で父シャラスと父の伴侶であるワイバーンと召使いのファの4人で住んでいる。
 父の伴侶——カリマは、これまでよくしてくれているとはいえ、爬虫類のような目は感情が見えなくて怖いし、俺の背丈ほどもある鋭い爪と牙には足が竦む。
 それを知ってか知らずか、カリマは俺が逃げ出さないように見張る役割りをすることが多い。

 今日も、カリマは建物の外から俺を見張っている。カリマは巨体で、家の中には入らないが、窓から中をうかがうことができる。
 俺は窓枠いっぱいに広がった爬虫類特有の瞳に怯えながら風呂に入った。

「別に、もう逃げないよ」

 正確には逃げられない、だが。湯につかりながら俺がそう呟くと、カリマはくつくつと喉の奥で笑った。カリマは建物の外にいるにも関わらず、彼の笑い声が腹の下にまで響く。
 巨大なワイバーンはこう言った。

「あまりシャラスに迷惑をかけるな」
「……」

 俺は返事をしなかった。このワイバーンは二言目にはシャラス、シャラスと精霊の父のことばかり言う。夫婦だから当然なのかもしれないが、形式上とはいえ、18年も息子をやっている俺としては複雑だ。

 俺は皮肉を込めて尋ねた。

「息子の幸せは祈ってくれないの?」
「理解の範疇外だ。ワイバーンは子育てをしない」

 俺は鼻先まで湯に沈めた。ここに俺の味方はいないのだ。

 俺がふてくされていると、体を大きく膨らませたファが入って来た。

「坊ちゃーん、かけますよー?」

 そうして俺が返事をするよりも早く、彼は口からぴゅーっと泡を吐いた。湯船はあっという間に泡で覆われて、いやな匂いが充満した。

「うへぇ、俺、この匂い苦手」

 俺は鼻をつまむ。つんと鼻をつく独特の草を煮て魔法をかけた泡だ。

「何をおっしゃります! 人間の匂いを消さないと! 見合い相手はヴァンパイアでしょう? 首筋に噛みつかれてしまいますよ!」

 ファに叱られ、俺はしぶしぶながら泡を全身に塗りこめていく。
 こうした煩わしい準備の先にかわいい女の子が待っているなら心踊る話なのだが、待っているのはヴァンパイアで、しかも野郎なのだ。ため息が出る。俺がいったい前世で何をしたというのだ。

 俺が前世の記憶を持っていると打ち明けても、この家族は驚かなかった。

「ああ、そういうものなんだ? 人間って、みんなそうなの?」

 父のこの言葉を聞いて、俺はうなだれた。父もカリマもファも、人間という種族への理解度が低い。前世持ちが珍しいのかどうなのか、俺が知りたいくらいだ。



 衣服を整えて俺が居間に戻ると、正装をした父が立っていた。彼はファによって整えられた俺を見て満足げに頷いた。

「ああ、なんとか形になったね。ハル、愛想よくするんだよ」
「……」
「相手の方は月が空高く上ったころにお越しになるそうだよ」
「……」
「……無視するなんて……これが思春期かい……!? 父さんは悲しい!」

 父は顔を覆って大袈裟に肩を揺らした。俺は舌打ちした。

「思春期じゃなくても、勝手に見合いなんて組まれたらどんな親孝行な奴でも無視したくなるだろうが!」

 俺の叫びを聞いて、父はくわっと目を見開いた。

「精霊はか弱い種族なんだよ!? 強い雄と番になって守ってもらわないと……何度も説明しているのに、息子の物覚えが悪くて父さんは悲しい!」
「物覚えの問題じゃない! 俺は! 男と! 夫婦になるのが嫌なんだ!」

 なんでだ。なんでお見合い相手がダークエルフのお姉さんやケモミミ娘じゃないんだ。俺は俺の身の上に降りかかった不幸にむせび泣いた。


 父と言い合いをしていると、家の外からカリマの声がした。

「シャラス、ヴァンパイアの群れが谷に入ってきたぞ」
「ああ、思ったより早かったね」

 父はぱっとよそ行きの顔をする。俺はため息をついた。

 
 わざわざワイバーンの巣である辺境の谷まで来てくれた相手を無下にすることはできない。一度くらいは会って、丁重に断るしかないだろう。
 俺は襟を正して、前髪を直した。
 しかし、俺の決意は悪気のない父の一言で砕かれた。

「そういえば、ヴァンパイアは人間の血が好物なんだって。食事会にハルの血を出すかい?」
「……俺は! 絶対に! 結婚しないからな!」

 俺はありったけの力を込めて叫んだのだった。
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