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雪嶺とアリストクラット

儀式

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 見せたいものがある。それが終われば懐中時計もすぐそばで見せてあげる。
 ウツリは朝、そう言った。見せたいものは予想通り、今日の儀式の事だったようだ。

 ウツリと初めて出会った広場には、午前十時の激しい熱狂が集まっていた。
 「思えばあいつってすげえんだよな」
 そんな光景を、俺は木の太い枝に座りながら眺めている。枝は頑丈で、ひび割れ反り立った皮で掌が軽く切れた。血を服で拭う間も民衆から目を離さないでいた。急拵えにしては丈夫な組立式ステージ。そこから六十メートル先、色素の薄い髪質の女性のすぐ前の奴ら、挙動不審な二人組。
 こういう人が集まるところには必ず厄介事を持ち込もうとする連中がいるし、警備が弱いここなら尚更だ。だがもう少し観察してみれば、そいつらはステージの前に行きたいようなのに、人に呑まれて中々進めない。やがて九十度に回転すると、上手いこと前へと向かう人の波を割りながらさっさとステージから離れていった。
 ステージを眺めると、マツリと目があった。はにかんで手を振られる。その横にはSPのようにマツリに張り付くマサリがいた。二人は亜人の姿を隠すためにフードマントを羽織っている。この二人はウツリの希望で、儀式後に活躍するらしいのだが、しかしフードを被った状態でも民衆は明らかに困惑している。奴らの記憶の中では明らか他の軍とは色柄の違うフードを被った危険人物らしき二人が誰もステージにいることを、執事もメイドも…わずかな警備隊も誰も止めないことに。
 だが、皆の警戒心は尤もだった。俺達は今から今のウツリの望むこととは真逆の事をするのだから。

 それは昨日のこと。


 「ウツリを止めるには、勇者の力がいる」
 問題はどんな力か、だった。勇者は別に、なにか特別な力を持ち合わせているわけではないはずだ。現に、魔王と対峙した際にそんなマジカルパワーとかはでなかった。
 「どういう感じでなにをすればいい」
 そもそも俺は元だからな、と念を押しておくと、軽く微笑まれた。
 「ご安心を。懐中時計は聖剣とは対照的な関係にある。だから扱える人も対照的。恐らく大勢の人間には少なからずどちらの要素も兼ね備えているが、より強い方が適応されるんだ。例えば勇者適正の方が高いなら中々懐中時計は触れない」
 ああ、なるほど、とマサリは柏手をうつ。
 「だからか!自分、ウツリと触れると電気走ったみたいで嫌いなんだ。」
 ――勇者属性か~!まあ、当然なんだけどー?
 マサリはよっぽど勇者に憧れているのか、俺を頻繁にチラチラ見ながら頬に手を添え全身を喜びで表していた。俺は良かったなと一言添えて、そう言えば俺はウツリに触れられても何も感じなかったのを思い出す。
 「あんた、ほんとに勇者…?」
「疑うのかよ!?勇者だよ!…いや、やっぱり元だけど」
「じゃあ…案外勇者は聖女属性に拒絶されていないとか?それかあとでツケが回ってくるとか」
「怖っ!」
 俺が思わず身震いをすると、マサリはパンパンと両手を強く叩く。
 「まあなんとかなるよ!最悪の場合もなんとかするし!それより勇者…サトリは何をすれば良いの?あと、自分は?」
「貴女達は…そうね、といってもすることは…」
 じゃあ俺のアシストというか、俺がすることを他のやつが邪魔しないように、なにかを…

 「なら、僕はウツリさんの事を手伝いたいな。側にいて、いざというときは僕が守るよ」
 途端、全員が一斉にマツリを見た。いつの間にか目が覚めていたのだろうが、会話に入るタイミングを失っていたのか。
 マツリは目を擦りながら俺の背から降り、両頬を叩いてからセェガーとペナイトン男爵と向き合う。彼女達には身長差があるが、今この瞬間においてだけは何もかもが等しいように見えた。気迫も、存在も。
 「どこまで聞いてたの?」
「親子ってところと、サト兄の力が必要ってところ」
「全部じゃねえか」
「そんな顔でどうしたの、マサ姉、サト兄」
「「え?」」
 俺たちは顔を見合わせた。するとマサリの眉間に皺がよっていたのがよく見えた。細く繊細な指で眉間を撫でられ、俺もそうだったことに気づく。マツリはウツリを信じているはずで、今からのことはその理想を裏切る形になるだろう。
 「…いや、これからすることは危険だからさ、だから…」
「失望はしてないよ」
 マツリが呟く。
 「マサ姉が言ってたあれ、本物の聖女様が懐中時計を持っていれば、あの空間はとっくに正されてるってやつ。」
 あの空間とは、元人間の怪物で溢れていた白い空間で間違いない。
 「それは…言ったけど」
 マサリはセェガーと男爵から目をそらし、マサリに余計なことを言わないように目で訴えていた。恐らくはウツリのことを何か悪く言ったのか、それとも懐中時計を知っていることを隠したいのか。
 俺がばれないようにセェガーを見れば、セェガーは異様な雰囲気を醸し出しながらマサリを見つめていたことに気づく。疑念に近い。
 「あー、ああ、あれか。俺が言ったこと、伝えてくれてたんだな」
 咄嗟に俺はマサリが俺伝いにマツリに教えた様な口ぶりをしてやれば、マサリは激しく頷いた。マツリはそうだったんだ、と俺と同時に頷いた後、改めて焦った顔のマサリと向き合う。
 「あれはやっぱりショックだったけど、でも出会った初めに助けてくれたことは本当だから」
「「初め?」」
 セェガーと男爵は、こういう重苦しい雰囲気で見つけられた娘の善行により興味を示した。財布泥棒から助けてくれたこと。
 それすらも仕組まれてたんだ。しかし純粋な目を持つマツリにそうは言えず、俺はマツリの頭を撫でた。何度も俺はこうしてマツリに伝えないことが増えていく。
 「ああ、うちの娘が…」
 その話をしてやると、男爵達はわずかに喜んだように見えた。
 ウツリとこの家族との関係性や裏側に興味が沸くが、つまるところ今わかるのはこの家族の関係は緻密ではない。
 ただ、仲が良いんだと、それだけは見て取れた。
 やっぱり今のままじゃ、駄目だな。あのウツリは俺が嫌だ。
 「そろそろ教えてもらいましょうか。俺はどうすればウツリを元に戻せるのかを――」


 俺は魔石を突っ込んでいる方のポケットから小さな菱形の小瓶を取り出す。中身は一ミリほどの真っ黒い石と白い石が魔力で満たされた中プカプカ浮いていて、その石自体が不思議な素材であることを示してある。俺が大金を払ってでも作り方を習いたいくらい丁寧で伝統的な浄化剤で、そこに俺の…つまるところは勇者の血を垂らしたものだ。元ではあるが、俺のいわゆる適正は今も昔もずっと百パーセント勇者側だろうからな。
 これの中身をウツリの体に注ぐ。恐らくは口に突っ込んでやることになるだろう。タイミング的にはウツリが懐中時計に意識を強く預けた時に使えば良いんだ。だいぶ時間は限られているし、あるかもわからない。
 だが恐らく、ウツリは確実に懐中時計で何らかのパフォーマンスを行う。あれを介して強引に空を花火とかで飾ったり。ウツリが懐中時計に意識を強く預けた時はわかりにくいが、ウツリが懐中時計を使用したタイミングなら確実だろう。そっちの方が今、このままウツリとウツリじゃない何かと混在した彼女に与えるより確実だから。
 因みに、マサリとマツリには、民衆が動揺する事態となれば、マツリには揺籃歌で一時的に大人しくさせることを頼んである。マサリの使う電撃なんかは危ないし、そうでなくてもマサリは魔法がどれも強いため怪我をさせてしまう恐れだってある。
 「人、多いな…」
 密度のせいか、暑い。これら皆、ウツリを見に来てるわけだ。
 今回で恐らくウツリの聖女化計画は破綻する可能性が高い。
 俺は念のためにとマサリ達とお揃いのフードマントを改めて羽織直す。俺も変に絡まれないよう耳を隠す。
 「……あ」
 そんなこんなで儀式が始まるまでは主に観客を中止していた俺だったが、そこに見たことのある影を見つける。玉ねぎを犬に与えようとしていた子供の両親だ。確か小さな女の子と、十代の男の子供がいたはずだが、その二人の子供はいないようだった。二人はしきりに辺りを見渡し誰かを探しているように小さな輪郭の中で不安げな顔をしていた。迷子かもしれないな。耳を澄ましてみるが、乗車率二百パーセントの電車よりも混んだこの場所ではなにを話しているかも全くわからない。儀式が始まるのもまだ時間があるので、俺はそっちに歩み寄ってみることにした。人がいない木から数メートルところに着陸し、そのまま人混みを掻き分け両親の方へ近づく。
 「ちょっと、いいか」
「わっ!」
「あ?…あんた、この前の…」
 二人は驚いていたが、そこにこの前のような敵意はなかった。というより、そんな余裕すらなかったみたいだ。二人は俺がどこからやって来たのかを、頭に刺さっていたらしいいくつかの枝数秒で推測、理解し両肩を掴む。
 「上からっ…!」
「上から、家の子供達を見なかったかね!?」
「迷子か?」
「いや違う」
 父親の方は即答する。母親は先ほどから顔色が病的に悪く、今すぐにでも医者に見せた方がいいほどの呼吸の荒さだ。
 「失踪だ」
「…いつからだ。ポリスには行ったのか?」
「…丁度あんたと出会った日の夕方、パロンド――息子がパレィドを連れて散歩に出たっきり…警察には行った…がタイミングが悪くてな、楽観的で。親身になって聞いてくれやしない」
「儀式で皆浮かれてるんだろうな」
 こういう時、談笑ならば苦笑して親しくなろうとしたのだが、しかし今はそんなわけにもいかなかった。
 「あんたのせいだ」
 父親は俺を家族を奪われた際の悲しい怒りを纏いながら拳を突きつける。けれどそんな勢いに劣り、その拳は俺の胸の辺りで弱々しく服を擦っただけだった。
 「二人も、ずっと楽しみにしてた。ここはずっと二人の故郷だし、どこかに監禁されてなきゃ、ここで会えるはずなんだ」
 ぶらんと右腕がスローモーションで垂れる。
 「あんた、亜人なんだろ?身体能力バケモンなんだろ?」
「いやそれは偏見…」
「お願いします」
 人目も憚らず頭を下げたのは母親の方で、その光景はこの明るいはずの儀式前の国では常軌を逸しているのかもしれない。
 「本当に悪いけど、俺はこれから本当に大事な用があるんだ。今日中には見つけられないかもしれない」


 あの両親にはこれが終わったら少なくともどちらかが家に待機しておくよう伝えると、丁度そこで一際美しい声…とこの国で讃えられるだろう声が響き渡った。
 「ウツリ…」
 わっと誰もが歓声をあげ、俺はどうにかして広場の外枠の方へ抜けると、もう一度登った木の上を這おうと幹に手を掛ける。
 「あの…」
 ふと、ズボンを弱々しく引っ張られる。
 そこには小さな子供がいて、その姿にも先ほどと同様見覚えがある。
 ちょっと腰を曲げて視線を合わせ気味にすると半歩退かれるが、ショックだったのは隠して精一杯笑って見せた。
 「君はもしかしてパレィドかな?」
 「ひえ…………うん、そう…」
 ちゃんと受け答えはしてくれたが、俺が無理矢理言わせているような気がしているのでなるべく猫撫で声を出してみる。
 「お…俺、さっき君の親御さん達に会ったよ。」
「おやご…」
「あー…お母さんとお父さん。あの、人混みのどっかにいたんだ。案内するよ。で、兄貴は?」
 手を差し伸べればパレィドは暫く周囲を見渡し何度も手を伸ばしたり引っ込めたりして(その間時間が迫っていた俺はもどかしかったが)、最終的にはそっと掴んでくれる。
 ……誘拐現場ではないからな、断じて。
 ……………………。
 「あの、俺はサトリ。ちゃんと名乗ったから、別に怪しくないからな。安心してくれ。」
「シャトリ」
「まあ、そんな感じの名前だ。」
「きーて。お兄ちゃんね、ずっとあってないの」
「ずっと?…いつはぐれた?」
 人が多すぎてこちらもはぐれそうなので肩車を提案すると喜んでくれたのでさっと持ち上げ、両親を彼女自身も探しやすくした上でそう問いかけると、もう一度「ずっと」、と返ってくる。
 「ママとパパがいなくなったあと、お兄ちゃん、せーじょ様のおうちに行ってね、そこで別れた」
「聖女?」
 きっとウツリのことだろう。なぜここでウツリが出てくるんだ。
 「…じゃ、その後パレィドはどこにいた」
「せーじょ様のお家!キラキラしてたよ、メイドさんがいてね、ちょっと暗かったけど楽しかった」
「ちょっと暗かった?」
「うん」
「…君は俺達とおんなじ屋敷にいたってことか?でも、兄貴はいなかったと」
「ねえねぇ、どこいるんだろお兄ちゃんは?」
「さあ…俺も探すの手伝うから」
 少し先にパレィドの両親が見える。俺は周りに気を付けつつ、少し足を早める。ちょっと暗かった、で咄嗟に浮かんだのは地下室だった。地下室か。もしかすると兄貴もそこにいるんじゃないのか、なんて。だってそこはウツリ曰く、財布泥棒が閉じ込められてると語っていたところだ。何でそこに行ったんだ。パレィドを連れて。
 …………そしてあいつは本当に、どうやって俺の財布を盗んだんだ?あんなに気配を消せるのは本当にすごすぎるというか、本当にいるならちゃんともう一度会いたい。

 舞台上、ウツリは開会の言葉を自身ありげに長々と話しているが、もうじきに終わりそうで、台詞も佳境に入っている。
 「では、これからワタシは貴女方に本当の聖女の魔法を書けて差し上げましょう。しかしその前に、ワタシにはせねばならなければいけないことがあります――」
 そうして、彼女はなにかを始めようとしていている。同時に俺は探し人を見つける。
 「パレィド、あそこが両親だ、手を振ってくれ」
「あっ!本当だ!」
 親というものは本当に素晴らしいらしく、普段なら聞こえないような声もあっという間に気づいてしまう。切り取って写真にでも残しておきたい再会シーンだが、俺はそれを見届ける余裕まではなかった。親の元に到着する前にパレィドを持ち上げそのまま母親に手渡しそのままウツリの方へ向かう。くそ、前に進めないことはわかってたのに。
 「皆様に見ていただきたいのは、こちらです」
 それは、いつもの通りのウツリの声だった。
 だが、ウツリの人差し指と中指が重なって乾いた音がやけにしつこく響いた瞬間、俺はそれに目を奪われた。

 俺やマサリ達とは違ったボロいフードマントを全身に被り、ルンペン風だが一瞥してすぐに忘れてしまうようなその誰かが、舞台の目の前に設置された階段をゆっくり上がり、そのままマントを側の警備隊の一人に剥ぎ取られる。やや嫌がる姿を見せて露になったのは、あの玉ねぎの少年だった。パロンドだ。両手は縄でぐるぐる縛られている。
 どういうことか、咄嗟に浮かんだのは二つだ。ウツリが俺に突っかかっていたこいつのことを知り、気に入らなくて捕まえたか、パレィドと何故か一緒に自ら屋敷に行っていたことから、パロンドも何か一役買っているのか。
 「良いですか、皆さん。彼は『パント・ローリン』。パロンドという少年の姿を借り、数々の悪行を繰り返してきたペナトルイン王国の恥!」
「パントローリン?」
 どこかで聞き覚えがあるような気がしないでもない。
 その少年を俺は眺める。パントってやつが変身したのか?随分と高度なA級泥位の魔法か、もしくは魔法道具で。…前述ならそういう高度な魔法使いは少なくともあの屋敷にいると信じられるわけないし、後述なら説明はつくが、ウツリの持ち物とは違う気がする。それに、どちらにせよそういう魔法使いがいるか、あるいは魔法道具があればもっと容易い方法で聖女を騙ることができたはずだ。例えば、容姿を歴代の聖女を模して子孫を偽ったり、ペナトルイン王国御伽噺全集だかなんだかにもそういうこの国では伝説を自然と感じられる見た目というものがあるだろう。誰かを希代の犯罪者と同じように仕立てて英雄ごっこも出来たし、逆に神様の使いという設定を自らに課すことだって容易い。他にも、他にも。
 俺はまだ辛うじて近くに見えるパロンドの両親の方を眺めれば、剃りゃもちろん二人は唖然としているわけで。
 「おいちょっと、大丈夫か?」
「大丈夫なわけないだろ!おい、聖女様!聖女様!それは私達の息子です!聖女様!」
 当然、ウツリは気がつかずに、依然として大衆の誰に向けてでもなく少し心臓の上がった声色で次の言葉を紡ぐ。
 「ところで皆様。古代、我々の国にはかつて魔女狩りが行われていました。確かにそれは悪しき風習、疎まれるべき文化でした。四ヶ月後のお祭りも、そういった風習のせいで無実のまま亡くなった方々を弔うためですからね。」
 人々は実に真剣に一言一句を前のめりに聞いていたが、その次の台詞や、更にその後に起こる事柄を何となく察する人も少なくはなく、途中で歓声とは別の不安げな声が聞こえた。だがそれも、目の前の歪で圧倒的な威厳がすぐさま掻き消した。
 「ですが魔女狩りは、一面では間違いなく我々を守るための手段でもあったのです。魔女の選別方法は杜撰でしたが…とてつもなく恐ろしい力から我が身を守るための――そう、彼は人とは思えないほど気配がなく、人間離れした技を持つ。その力は勇者にすら勝る。これが、皆様は人間だとお思いですか?」
 勇者、と呼ばれて一瞬動けなくなる。そうだ、彼のことは俺も気が付けなかった。
 思わない。恐ろしい。そんな声があちこちから聞こえてくる。
 不味い、非常に不味い流れであることは確かだ。ウツリは非常に満足そうに頷いた。
 「そうでしょうそうでしょう。ですからワタシは、皆様の意見を!代表して!!この驚異を排除させて頂きます!」
 大衆の何割かはこれを不安がりながら眺めていた。ただ、他の何割かの暑い熱気に呑まれてなにも言い出せないでいる。もはや俺には、目の前のやつがパロンドだろうとパントだろうとどうだって良かった。
 ウツリは両手を空に掲げると、その手中から黒ずみの塊が現れる。と思えば、次の瞬間にはそこから黒い腕が見える。懐中時計の中で見た、元人間達。きっと、その腕だ。ただ、今はあいつらを外に出せるウツリの力に感心している場合じゃない。そっちへ今すぐにでも行きたいが、人が多すぎて前を通れない。ならばとマサリに呼び掛けようと考えるが、だめだ、マサリは必ず彼らを始末して解決する。なるべくそれは避けたい。マツリはすでに揺籃歌を準備してくれている。ああ、せめてこの人達が、一メートルほどの道を開けてくれれば。
 ――いや。
 「だぁー!もうまどろっこしい!おいおっさん!肩貸せ肩!」
 俺は必死の様子であるパレィドの父親の肩をがっしりと掴むと、両手でその場に固定するように押さえつける。
 それから左足を一気に持ち上げ、彼の右肩に足をかける。それからはもう簡単で、両手に力を込め、そのまま斜め上に飛ぶだけだった。なるべく一瞬の間に済ませたことで、パレィドの父親は何が起こったのかあんまり理解していないようだった。ただ、「ゴキッ」という嫌な音が聞こえた…よ、ような気がするので、恐らくは脱臼させてしまったかもしれない。
 空中をわたっていると、マサリがすぐにこちらに気が付く。小学生みたいな無邪気な笑みを浮かべ、手を振った。その真後ろには、今この瞬間に完全に姿を表した黒いデカブツがマサリを襲おうとしている。
 だが、それは俺にとってちょうど良い着地地点となった。マサリが奴を消滅させようとする前に手を出させないように小さな目配せとジェスチャーで伝える。マサリは頷いてくれた。
 俺は体を捻ってマサリの真後ろのその頭をつかむと、そのまま後ろに倒れこむ。そうして、とりあえず俺は着陸とデカブツの気絶に成功する。すぐにウツリの方に近づくと、俺はウツリの肩をつかんでゆする。
 「ウツリ、お前考えてんだよ!」
「…………」
「おい、ウツリ…」
 しかし反応はない。俯いたウツリの顔を覗き込めば、ウツリは青ざめた顔で、
 「ちょっとヤバイかもしんない」
 と呟いた。
 景色がぐわっと黒く染まったのは、もう一瞬のことだった。
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