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 揚げ出し豆腐って家で作れるんだな、と旭は思った。
 大き目の揚げ出し豆腐は黄金色の餡を纏っており小葱と鰹節まで添えられている。箸を入れると程よい弾力があり、切り分けた一片を口に運べば上品な出汁の旨味に鰹節の香りが口いっぱいに広がって、出汁をたっぷりと吸ってほろほろと崩れる衣と豆腐の舌触りにほっとする。
 食欲を誘う香りは赤魚の西京焼きだ。高級な魚では無いが、箸で解し一口頬張ると濃いめの西京味噌に食欲が刺激され白い飯が進む逸品になり、炊き立てで艶やかな白飯をがつがつと口に放り込んでしまった。濃いめの味付けに白飯の甘さが際立ち、赤魚一枚で何杯もおかわりをしてしまいそうだ。事実半分ほど食べ終えたところで白飯の茶碗は空になってしまったが、すぐに炊きたての白飯がこんもりと盛られたおかわりがテーブルに乗せられた。
 西京焼きの脇に添えられているほうれん草のお浸しもまた、濃くなった口の中をさっぱりさせるのに良い仕事をしている。そしてみそ汁は油揚げと玉ねぎがたっぷりと入っていて、素朴な麹味噌とふくよかな出汁の風味がどこか懐かしさを感じる一杯だった。
「美味かった……こんなに美味い家庭料理を食べたのは久しぶりだ」
 旭は心底満たされた気持ちでテーブルの上に並べられていた料理を全て平らげて手を合わせる。けして高級な食材や料理では無いのだが丁寧に出汁から取られた手抜きの無い美味さだった。
 大学入学を機に故郷の新潟から離れ、もう何年も実家に帰っていない旭は久しぶりに外食以外で誰かの手作りの料理を食べたような気がする。去年まで付き合っていた彼女は料理が得意なタイプでは無かったのでデートの際は基本的には外食だったのだ。
「そうか、君の口に合ったようで良かったよ」
 目の前から聞こえて来た低く艶のある声に旭は一瞬にして我に返った。
 がばりと勢い良く顔を上げると、それほど大きくは無いダイニングテーブルを挟んだ反対側に座って頬杖をついていた男と目が合った。
 浅黒い褐色の肌にタイトな黒いシャツと同じく黒いパンツ。長い脚を少し窮屈そうにテーブルの下で組み、黒く艶やかな長い髪を背中へと流した男はくっきりとした二重の金色の瞳で旭を見つめ返していた。まるで役者かモデルのように整った顔をしている。
「っ?! え、ちょっ、何で俺普通に飯食ってたの?!」
 そうだ、仕事を終えて帰宅したら独り暮らしの部屋に何故かこの男がいて、ダイニングテーブルには食欲をそそる料理が並んでいたのだ。驚いて警戒したはずだというのに、旭はいつの間にかスーツのジャケットを脱いで食卓に座り幸福感すら感じながら腹いっぱいに美味い食事を平らげていた。
「せっかくアサの為に作ったんだ、美味しく食べて貰いたいからちょっと大人しくしてもらったまでだよ」
 そう言って笑った男の細められた金色の瞳が怪しく光ったような気がして、旭はぞくりと背筋に寒気を感じた。
「……あんた、誰。なんで俺の家にいんの」
 漸く警戒心を前面に押し出して旭は椅子を引き軽く腰を浮かせる。いざという時にすぐに逃げ出せるようにと思ったが、スマートフォンはダイニングテーブルの上で男の手元に置かれていた。
「誰、なんてつれない事言うなよ。毎晩あんなに仲良くしているじゃないか」
 仲良く、と含みを持たせた言い方をした男はうっそりと美しく笑う。じくりと腹の奥が疼き、旭はここ数日ずっと見続けている夢を思い出した。浅黒い肌の美しい男にじっくりと身体を開かれ、経験したことの無かった快楽に堕とされていく夢。
 確かに目の前にいる男は、その夢で何度も何度も旭を抱いた男と同じ姿をしている。
 唯一の違いと言えば、夢の中の男は旭をじっくりと快楽に溺れさせながら背中にある黒く大きな翼を広げていたことだろう。
「っ……ありえない、だって、あれは夢で……」
 ガタリ、と音を立てて男が立ち上がる。旭より頭ひとつ分大きな男はゆったりとした動きでテーブルを回り込み旭の前に立ち、旭を見下ろした。旭はその動きを目で追っていたが、目の前に立たれて漸く逃げ出すチャンスを失ったという事に気づく。椅子ごと後ろに下がろうとした旭の腰を、男の長い腕が抱き寄せた。
「え、あ、ちょっと」
「アサ、いい子だから落ち着いて」
 低く艶のある声で囁かれた旭はびくりと肩を揺らした。
 この男は夢の中でも旭の事を何故かアサと呼ぶ。その声で、その顔でその名を呼ばれただけで旭は条件反射的にぞくりと腰の奥の方が戦慄いた。駄目だ、こんなのはおかしい、あり得ないと思うのにこの男はどう考えても旭が夢の中で幾度も肌を重ねて来た男としか思えなかった。
「お、俺は……」
 口を開くと旭を抱き寄せた男の匂いがふわりと鼻腔に広がる。どことなくエキゾチックで甘い香り。そしてそれに混じる男の香り。けして強すぎる香りでは無いはずなのに、旭はくらりと脳が揺れたような気がした。じわりと口の中で唾が湧き出てきて、こくりとそれを飲み下す。確かな体温と甘い香りは夢では感じた事が無いものだった。
 バクバクと心臓が酷く音を立てて暴れている。
「名乗るのが遅くなったね。俺はエドシエル……アサ、お前の悪魔だよ」
「エド、シエル……悪魔?」
 名前なんて聞いている場合じゃない。今すぐこの頭のおかしな男から逃げなければ何か酷いことをされるかもしれない。頭の片隅ではそう思っているというのに、旭はじわじわと自分の奥底から湧き上がってくるような熱くどろどろとした衝動に戸惑って動けずにいた。
 エドシエルと名乗った男は美しい金色の瞳を細めて笑う。相変わらず片腕で旭の腰を抱きながら、もう片方の腕を持ち上げ彼を見上げる旭の頬を長くごつごつとした指の背でするりと撫でた。
「っ……」
 途端、旭はぞくぞくとした震えがうなじから腰のあたりを駆け抜けて肩がびくりと跳ねた。この指の動きを、見下ろす楽し気な金色の瞳を良く知っている。旭をぐずぐずに蕩けさせる前に見せるものだ。またじわりと唾が湧いてきて、飲み下したごくりという音がやけに大きく響いた気がして顔が熱くなった。
「アサ、可愛い俺の男……お前を迎えに来たよ。たっぷり愛してやるから、ちゃあんと孕むんだよ?」
 まるで愛おしいものでも見るように蕩けた金色の瞳、楽し気に笑う赤い唇から覗く白い歯、アサと呼ぶ低く甘い声。どれもみな夢の中で旭の身体を快楽に染めたものであり、旭の正常な思考を霞ませていくものだった。
 少し身を屈めたエドシエルの近づく顔に自然と瞼を伏せてしまう。触れた唇が暖かく、鼻腔いっぱいに広がる男の香りに頭の芯が甘く痺れて来る。
「んっ……!」
 抵抗なく唇を開いた旭の口腔にぬるりと入り込んで来た長い舌のその熱さに、体がビクンと震えた。この熱は、この生々しい感触は夢で味わった事が無い。途端ぼんやりとしていた思考がクリアになり、慌てて抵抗しようとエドシエルの胸を押して引きはがそうとするものの、服の上からでもわかるしっかりと鍛え上げられた厚い身体はろくに運動もしてこなかった旭の力などではびくともしない。
「っ……ん、ふっ……」
 エドシエルは旭が引こうとした顎をやんわりと、だが少し強引さを滲ませて指で軽く上向かせると更に深く口腔に厚く長い舌を潜り込ませる。逃げようとする舌はすぐに絡めとられ、ぬち、ずりゅ、と舌の表面同士が擦れ合うと旭は全身の毛穴がぶわりと開き産毛が逆立つようなぞくぞくとした感覚が走り思わず彼の袖を掴んだ。分厚い舌は旭の口腔を余すところなく這い回り、上顎をぞりぞりと擦られるとひくんと肩が震えてたまらず鼻から高い声が漏れてしまう。
「は、ふ……ん、ふっ……」
 たっぷりと時間をかけた濃厚なキスがたまらなく気持ちが良い。頭の中がふわふわと緩んでいき、同時にじわりと身体が熱くなってゆくようだった。溢れそうな唾液をこくりと飲み下して旭は自らも彼の分厚い舌に自らの舌を擦り付ける。ぬちゅ、ずりゅ、ずりゅ、と下品な音が口腔から耳に響きじわりと涙が滲む。甘く痺れて来た舌先をじゅうっと吸われるとカクンと膝が崩れ、咄嗟に目の前の男の肩に腕を回してしがみ付いた。
 唇が離れる。熱をもった舌が外気に晒され少しひんやりと感じ、唇が離れてしまったことを残念に思う。じくじくと下肢に重い熱が溜まり、旭は苦し気にひとつ息を吐いた。
「っ……え、エド」
「うん、エドで良いよ、アサ。もう我慢出来ない?」
 突き放さなければいけない。こんな得体の知れない男、夢の中から来た男だなんてそんな非現実的な話を信じられるわけがない。両脚に力を籠めて、それから思いきり突き飛ばしてからスマートフォンを奪い返して玄関から逃げよう。逃げて、すぐに警察を呼ぶのだ。それが一番良いに決まっている。
 うっとりと細められた金色の瞳が旭を見下ろす。
 旭は甘苦しい熱に耐え切れず、こくりと顎を引いて頷いた。
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