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第8話・引っ越し蕎麦
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「真弓、いつでも待ってるからね」
「ありがとうございます。お世話になりました」
私は正面玄関まで見送ってくれた恭子さんにお辞儀をし、両手に大きな荷物を抱えて歩き出した。
2021年9月。私は看護師になってずっと働いてきた中央病院を、休職という形で離れることにした。
楽しかった思い出ももちろんある。それはここが春彦と再会した場所であること。交際に発展して結婚したきっかけの場所。決して裕福というわけではなかったが、幸せな結婚生活だった。
だが、やはり春彦を亡くした悲しい場所の思い出の方が強烈だった。
もちろん、春彦との最後の日々は今も大事な思い出として胸に残っている。だが、レイナや桃子との一件を差し引いてもこの場所で仕事を続けていくのは困難だった。春彦を亡くしたという喪失感の方がはるかに上回っていた。
退職の意思を示した私を最後まで引き留めたのは、恭子さんだった。それで、私はとりあえず休職という形を取ったのだ。
角を曲がって病院が見えなくなった時、私は歩みを止めて空を見上げた。高い空にうろこ雲が浮いている。
──春彦くんならどう思うかな……。せっかくの仕事を辞めて、もったいないって怒る?
春彦なら何でもない様子で「いいんじゃない?」と言ってくれそうだった。勝手な思い込みかもしれないが、やっと吹くようになった涼しい風が春彦の思いを代弁していると感じた。
明日からは、予定のない真っ白な生活。それは今の私にとって救いを感じるほど消耗していたのだ。
春彦がそばにいるような気がして、帰宅する足取りは軽く感じられた。
*
良雄が運転する2トントラックの助手席から降りた美緒が、うーんと背伸びをした。良雄と美緒の間の小さな隙間のような座席にいた私も降りた。
「はぁ、乗り心地悪かった」
「私も。お尻が痛い」
私は美緒と顔を見合わせて笑う。いつもはきれいめな服装に身を包んでいる美緒も、今日はジーンズ姿だ。
「でも、ありがとね。美緒も良雄くんも」
ちょうど良雄も運転席から降りてきた。
「おぅおぅ、任せろ真弓ちゃん。けどなぁ……」
良雄が目の前のアパートを見上げてため息をつく。
「春彦のやつ、真弓ちゃんをこんなとこに住まわせるなんて……」
「いいの。前の家は家賃高かったし。それに今は私も無職だし」
「そうよ、良雄。真弓は倹約家なんだし、絶対貯金あるって」
「美緒はそう言うけどさぁ。俺はなぁ、春彦に腹が立ってるんだよ……」
悪態をついているが、良雄はすでに泣きそうになっている。そんな良雄に向かって美緒が発破をかけた。
「こら、良雄。泣いてる場合じゃない。今日はあんたが頼りなんだから」
「おぅ。そうだったな」
年が明けて2022年1月。季節を度外視した薄いロングTシャツの腕をまくり上げて、良雄がにやりと笑う。
「じゃ、真弓ちゃん。とっとと済ませちゃおうか」
「うん、お願いします」
春彦と一緒に暮らしていたマンションを引き払い、私はアパートに引っ越すことに決めた。家賃のことももちろんだが、春彦との思い出が詰まったマンションに1人で暮らし続けることもつらかったのだ。
良雄が驚異的な力を発揮し、アパートの2階に借りた部屋へどんどん家具や家電を運んでいく。
その様子を眺めながら、美緒がしんみりと言った。
「病院辞めちゃって、これからどうすんのよ……」
「うーん。まだ決めてないんだけど、とりあえず看護師免許持ってるから、いざとなったらどうにでもなるかな」
「だよね。いいなぁ、つぶしの利く職業って」
驚異的な速さでほとんどの荷物を運び込んでくれた良雄が、汗まみれになりながら最後に残った段ボールを私に差し出した。
「真弓ちゃん。俺が家具とか家電は運んだから。真弓ちゃんは春彦と一緒に入居するんだ」
「ありがとね。良雄くん……」
私は良雄から段ボールを受け取る。それは春彦の遺影や位牌を入れたものだった。私はその段ボールにマジックで大きく「春彦」と書いていた。
郊外ながら日当たりのよさで選んだアパートのリビング。そこに形ばかりの祭壇を作り、春彦の遺影と位牌を安置する。
「いい居場所だね、真弓」
「けど、日当たりよすぎて暑すぎないか?」
「それは、暑がりの良雄くんの感想でしょ? 春彦には、これくらいがちょうどいい……」
「確かにな……。あいつ、あっつい夏が苦手だったもんな……」
「そこは……ここが春彦くんにちょうどいい場所だって言えよ良雄のバカ」
「そうだな、美緒。春彦はこんなあったかい場所が似合ってる」
「ありがとね、2人とも……」
何となく3人で合掌する。
その時インターホンが鳴って私は肩をびくっと震わせたが、美緒が玄関先に向かった。そして、4人分の丼鉢を乗せたお盆を持って戻ってきた。
「引っ越し蕎麦。頼んどいたんだ~」
「美緒、さっすが~。俺、働きすぎて腹減って倒れそうだった」
マンションから持ってきたダイニングテーブルに美緒が3つの丼鉢を置き、もう1つを春彦の遺影の前に置いた。
「真弓。伸びないうちに食べるよ」
「そうだね。良雄くんも倒れそうだし」
割りばしを割って、蕎麦をすする。
──春彦くんもきっとここにいるよね。私たちは4人でいるんだよね。
半分ほど蕎麦を食べて、ふと見る春彦の遺影の前に置かれた蕎麦。それは心なしか少し減っているように感じた。
*
アパートでの1人暮らし、というか春彦の遺影にすがりついたままの2人暮らしにも徐々に慣れてきた2022年4月。朝も昼も夜もない、ただただ遺影の中の春彦と過ごす日々を、私は送っていた。
それでも外の世界で起こる出来事には意識を向けることは忘れないでいた私の目に飛び込んできた、ネットニュースの見出し。
『県立中央病院、カルテ改ざんか!?』
かつて勤めていて、今もなお休職状態にある病院の不正を伝える記事だった。
──でも、今の私には関係ない……。
だが、次の瞬間着信音を奏でるスマホ。そこに表示された懐かしい人の名前に、つい私は出てしまう。
その相手──恭子さんは、疲れ果てた様子でこう言った。
『例の事件で、看護師も大量辞職しちゃってね……。もう限界なんだ……』
「ありがとうございます。お世話になりました」
私は正面玄関まで見送ってくれた恭子さんにお辞儀をし、両手に大きな荷物を抱えて歩き出した。
2021年9月。私は看護師になってずっと働いてきた中央病院を、休職という形で離れることにした。
楽しかった思い出ももちろんある。それはここが春彦と再会した場所であること。交際に発展して結婚したきっかけの場所。決して裕福というわけではなかったが、幸せな結婚生活だった。
だが、やはり春彦を亡くした悲しい場所の思い出の方が強烈だった。
もちろん、春彦との最後の日々は今も大事な思い出として胸に残っている。だが、レイナや桃子との一件を差し引いてもこの場所で仕事を続けていくのは困難だった。春彦を亡くしたという喪失感の方がはるかに上回っていた。
退職の意思を示した私を最後まで引き留めたのは、恭子さんだった。それで、私はとりあえず休職という形を取ったのだ。
角を曲がって病院が見えなくなった時、私は歩みを止めて空を見上げた。高い空にうろこ雲が浮いている。
──春彦くんならどう思うかな……。せっかくの仕事を辞めて、もったいないって怒る?
春彦なら何でもない様子で「いいんじゃない?」と言ってくれそうだった。勝手な思い込みかもしれないが、やっと吹くようになった涼しい風が春彦の思いを代弁していると感じた。
明日からは、予定のない真っ白な生活。それは今の私にとって救いを感じるほど消耗していたのだ。
春彦がそばにいるような気がして、帰宅する足取りは軽く感じられた。
*
良雄が運転する2トントラックの助手席から降りた美緒が、うーんと背伸びをした。良雄と美緒の間の小さな隙間のような座席にいた私も降りた。
「はぁ、乗り心地悪かった」
「私も。お尻が痛い」
私は美緒と顔を見合わせて笑う。いつもはきれいめな服装に身を包んでいる美緒も、今日はジーンズ姿だ。
「でも、ありがとね。美緒も良雄くんも」
ちょうど良雄も運転席から降りてきた。
「おぅおぅ、任せろ真弓ちゃん。けどなぁ……」
良雄が目の前のアパートを見上げてため息をつく。
「春彦のやつ、真弓ちゃんをこんなとこに住まわせるなんて……」
「いいの。前の家は家賃高かったし。それに今は私も無職だし」
「そうよ、良雄。真弓は倹約家なんだし、絶対貯金あるって」
「美緒はそう言うけどさぁ。俺はなぁ、春彦に腹が立ってるんだよ……」
悪態をついているが、良雄はすでに泣きそうになっている。そんな良雄に向かって美緒が発破をかけた。
「こら、良雄。泣いてる場合じゃない。今日はあんたが頼りなんだから」
「おぅ。そうだったな」
年が明けて2022年1月。季節を度外視した薄いロングTシャツの腕をまくり上げて、良雄がにやりと笑う。
「じゃ、真弓ちゃん。とっとと済ませちゃおうか」
「うん、お願いします」
春彦と一緒に暮らしていたマンションを引き払い、私はアパートに引っ越すことに決めた。家賃のことももちろんだが、春彦との思い出が詰まったマンションに1人で暮らし続けることもつらかったのだ。
良雄が驚異的な力を発揮し、アパートの2階に借りた部屋へどんどん家具や家電を運んでいく。
その様子を眺めながら、美緒がしんみりと言った。
「病院辞めちゃって、これからどうすんのよ……」
「うーん。まだ決めてないんだけど、とりあえず看護師免許持ってるから、いざとなったらどうにでもなるかな」
「だよね。いいなぁ、つぶしの利く職業って」
驚異的な速さでほとんどの荷物を運び込んでくれた良雄が、汗まみれになりながら最後に残った段ボールを私に差し出した。
「真弓ちゃん。俺が家具とか家電は運んだから。真弓ちゃんは春彦と一緒に入居するんだ」
「ありがとね。良雄くん……」
私は良雄から段ボールを受け取る。それは春彦の遺影や位牌を入れたものだった。私はその段ボールにマジックで大きく「春彦」と書いていた。
郊外ながら日当たりのよさで選んだアパートのリビング。そこに形ばかりの祭壇を作り、春彦の遺影と位牌を安置する。
「いい居場所だね、真弓」
「けど、日当たりよすぎて暑すぎないか?」
「それは、暑がりの良雄くんの感想でしょ? 春彦には、これくらいがちょうどいい……」
「確かにな……。あいつ、あっつい夏が苦手だったもんな……」
「そこは……ここが春彦くんにちょうどいい場所だって言えよ良雄のバカ」
「そうだな、美緒。春彦はこんなあったかい場所が似合ってる」
「ありがとね、2人とも……」
何となく3人で合掌する。
その時インターホンが鳴って私は肩をびくっと震わせたが、美緒が玄関先に向かった。そして、4人分の丼鉢を乗せたお盆を持って戻ってきた。
「引っ越し蕎麦。頼んどいたんだ~」
「美緒、さっすが~。俺、働きすぎて腹減って倒れそうだった」
マンションから持ってきたダイニングテーブルに美緒が3つの丼鉢を置き、もう1つを春彦の遺影の前に置いた。
「真弓。伸びないうちに食べるよ」
「そうだね。良雄くんも倒れそうだし」
割りばしを割って、蕎麦をすする。
──春彦くんもきっとここにいるよね。私たちは4人でいるんだよね。
半分ほど蕎麦を食べて、ふと見る春彦の遺影の前に置かれた蕎麦。それは心なしか少し減っているように感じた。
*
アパートでの1人暮らし、というか春彦の遺影にすがりついたままの2人暮らしにも徐々に慣れてきた2022年4月。朝も昼も夜もない、ただただ遺影の中の春彦と過ごす日々を、私は送っていた。
それでも外の世界で起こる出来事には意識を向けることは忘れないでいた私の目に飛び込んできた、ネットニュースの見出し。
『県立中央病院、カルテ改ざんか!?』
かつて勤めていて、今もなお休職状態にある病院の不正を伝える記事だった。
──でも、今の私には関係ない……。
だが、次の瞬間着信音を奏でるスマホ。そこに表示された懐かしい人の名前に、つい私は出てしまう。
その相手──恭子さんは、疲れ果てた様子でこう言った。
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