8 / 21
第7話・中華まん
しおりを挟む
春彦の通夜から葬儀を含んで1週間休んだのち、私は仕事に復帰した。仕事熱心というよりは、仕事をしていないとどうにかなりそうだったからだ。
それよりも、春彦のいない家に帰るのが怖かった。そして、家で1人きりで食事をするのがもっと怖かった。春彦を失ったことにより、私は再び食べられない生活に戻っていた。
それでも私が何とか踏ん張れたのは、美緒と良雄や恭子さん、そしてほかならぬ春彦の存在だった。
美緒や良雄はこまめに連絡を取ってくれたし、恭子さんは私を食堂に連れ出して少しでも食べさせようとしてくれた。
そして、あの日春彦がつないだ命のバトン。この世界のどこかに春彦の思いが生きているという事実は、私を徐々に前向きな気持ちにさせてくれた。
桜の季節が過ぎ、梅雨を迎える頃、ついに私は1人でいる時でも食べられるようになった。そして、梅雨が明けて本格的な夏が到来する頃、やっと春彦のいない生活をスムーズに送れるようになった。
だが、じわりじわりと私をむしばむもの。それにまだ私は気づいていなかった。
*
「やっぱ、ちょっと疲れてるのかなぁ……」
ちょうど春彦が最初の発作を起こした8月を迎える頃、私は時々めまいを起こすようになっていた。
その日も朝から体調がすぐれなかった。それでもだましだまし仕事をしていたが、昼休憩で入ったトイレの個室で思いがけない会話を耳にした。
「もう千家さんの相手するのしんどいんですけどー」
さげすむような言い方と、聞こえてきた自分の苗字にドキッとする。便座に座りながら、私は必死で気配をなくそうとした。
甘ったるい声と話し方から、同じ消化器内科の小山レイナか。私の1つ下の後輩だ。
「あーね。腫れ物だもん。仕方ないって」
もう1人の声が笑いを殺すように返事をする。こちらも同じ消化器内科の先輩、大木桃子だ。2人は洗面台で化粧直しをしているのか、奥の個室まで入ってくるような気配はなかった。
「桃子先輩、受ける。そんなダイレクトに言わなくても」
「だってそうじゃん。いつまでも悲劇のヒロインぶっててうざいもん」
「わー、それ、千家さんに言っちゃおっかなー」
「むしろ言っちゃってよ。最近話しかけてもあいつ何かぼーっとしてるし、ほんとどんな顔するか見たいわ」
きゃっきゃっと笑いながら話すレイナと桃子が、トイレから出て行く気配を待つ。
途端に揺れる視界。座っているのも苦痛になるほどのめまいに、私はトイレットペーパーホルダーにとっさにつかまった。
──私、みんなからあんなふうに思われてたんだ……。
自分でも予想外のことだった。表向きは私に普通に接していたのに、陰では馬鹿にしていたのだ。気遣いだと感謝していたのに、本当は扱いに困っていたのだ。
それに、最愛の夫である春彦は最期まで立派だったのに、魂としての死を迎えてからも多くの人を救う尊い存在となったのに。春彦の尊厳までをも傷つけられた思いだった。
──これから何を頑張ればいいんだろう。
再び強いめまいに襲われる。
──春彦くんに負けないように頑張るって誓ったのに。
春彦のことを思うとささくれだった気持ちが少しだけやわらいだ。そのうちめまいもおさまり、私は個室から出た。
そのまま食堂に向かう。コンビニで買ったおにぎりがあったが、消化器内科の休憩室で食べる気にはなれなかったし、レイナや桃子と顔を合わせるのはもっと嫌だった。
だが食堂に到着するものの食欲はなく、食品サンプルを眺めながら、やはり戻って買っていたおにぎりを食べようかと私は考えていた。
「真弓!」
突然飛び込んできた声に、びくっとする。声が聞こえた左の方向に顔を向けると、恭子さんがいた。
「恭子さん、びっくりした……」
だが、恭子さんは私の言葉に返事をすることなく、今度は私の右側に移動する。そしてまたすぐに左側へと移動した。
「真弓。右の耳、聞こえてる? さっき、右の耳に向かって話したんだけど」
「えっ……?」
同時に、食堂に来る前のトイレで桃子が言っていたことを思い出した。
──最近話しかけてもあいつ何かぼーっとしてるし。
そう思うと、最近確かに会話がスムーズにかみ合わないことがあった。聞き返すこともたびたびあった。それは相手の声が小さいからだと思っていたが……。
「真弓。今から受診するよ」
「えっ。あっ、はい……」
*
緊急入院した耳鼻科病棟。私は恭子さんに強制的に連れてこられた耳鼻科で突発性難聴の診断を受け、点滴を受けている。
病気に気づいてくれた恭子さんが、ベッドに横たわる私に微笑んだ。
「手遅れにならなくてよかったよ。とりあえず、ここでしばらく休みなさいね」
「すいません、ありがとうございます」
突発性難聴は早く治療を進めることが何より大事だ。私の場合は右耳がほとんど聞こえなくなっていたこととめまいを併発していることで重度だと診断されて入院になったが、聴力を取り戻すことはぎりぎり可能だと担当医は言ってくれた。
「あぁそうだ。渡し忘れるとこだった」
「何ですか?」
聞こえる方の左耳に寄せて話してくれる恭子さんの気遣いが嬉しかった。
「真弓、食堂で何か食べたそうにしてたじゃん」
「あぁ……お腹空いてるかも……」
耳鼻科病棟というある意味安全地帯に連れてきてもらった効果か、私は今になって初めて空腹を覚えた。
「真弓が診察室にいる間、買って来たんだ~」
国民的猫型ロボットが道具を出す時の効果音をまねながら恭子さんが掲げたのは、中華まんだった。
「今シーズン初入荷だって!」
恭子さんは得意そうに言うが、匂いが漏れているのが気になった。
「ちょっと、ここ大部屋ですって!」
「じゃあ、さっさと食べちゃいなさい」
起き上がって、ほくほくの中華まんを受け取る。一口かじると、その温かさにほっとする。
「美味しい……」
「うん、よかった。きっとね、今は休む時なんだよ。ちょっと休んだら、すぐに元気になれるよ」
「はい、ありがとうございます」
恭子さんにそう返事をしながら、だが私はこの職場での潮時を感じていた。
それよりも、春彦のいない家に帰るのが怖かった。そして、家で1人きりで食事をするのがもっと怖かった。春彦を失ったことにより、私は再び食べられない生活に戻っていた。
それでも私が何とか踏ん張れたのは、美緒と良雄や恭子さん、そしてほかならぬ春彦の存在だった。
美緒や良雄はこまめに連絡を取ってくれたし、恭子さんは私を食堂に連れ出して少しでも食べさせようとしてくれた。
そして、あの日春彦がつないだ命のバトン。この世界のどこかに春彦の思いが生きているという事実は、私を徐々に前向きな気持ちにさせてくれた。
桜の季節が過ぎ、梅雨を迎える頃、ついに私は1人でいる時でも食べられるようになった。そして、梅雨が明けて本格的な夏が到来する頃、やっと春彦のいない生活をスムーズに送れるようになった。
だが、じわりじわりと私をむしばむもの。それにまだ私は気づいていなかった。
*
「やっぱ、ちょっと疲れてるのかなぁ……」
ちょうど春彦が最初の発作を起こした8月を迎える頃、私は時々めまいを起こすようになっていた。
その日も朝から体調がすぐれなかった。それでもだましだまし仕事をしていたが、昼休憩で入ったトイレの個室で思いがけない会話を耳にした。
「もう千家さんの相手するのしんどいんですけどー」
さげすむような言い方と、聞こえてきた自分の苗字にドキッとする。便座に座りながら、私は必死で気配をなくそうとした。
甘ったるい声と話し方から、同じ消化器内科の小山レイナか。私の1つ下の後輩だ。
「あーね。腫れ物だもん。仕方ないって」
もう1人の声が笑いを殺すように返事をする。こちらも同じ消化器内科の先輩、大木桃子だ。2人は洗面台で化粧直しをしているのか、奥の個室まで入ってくるような気配はなかった。
「桃子先輩、受ける。そんなダイレクトに言わなくても」
「だってそうじゃん。いつまでも悲劇のヒロインぶっててうざいもん」
「わー、それ、千家さんに言っちゃおっかなー」
「むしろ言っちゃってよ。最近話しかけてもあいつ何かぼーっとしてるし、ほんとどんな顔するか見たいわ」
きゃっきゃっと笑いながら話すレイナと桃子が、トイレから出て行く気配を待つ。
途端に揺れる視界。座っているのも苦痛になるほどのめまいに、私はトイレットペーパーホルダーにとっさにつかまった。
──私、みんなからあんなふうに思われてたんだ……。
自分でも予想外のことだった。表向きは私に普通に接していたのに、陰では馬鹿にしていたのだ。気遣いだと感謝していたのに、本当は扱いに困っていたのだ。
それに、最愛の夫である春彦は最期まで立派だったのに、魂としての死を迎えてからも多くの人を救う尊い存在となったのに。春彦の尊厳までをも傷つけられた思いだった。
──これから何を頑張ればいいんだろう。
再び強いめまいに襲われる。
──春彦くんに負けないように頑張るって誓ったのに。
春彦のことを思うとささくれだった気持ちが少しだけやわらいだ。そのうちめまいもおさまり、私は個室から出た。
そのまま食堂に向かう。コンビニで買ったおにぎりがあったが、消化器内科の休憩室で食べる気にはなれなかったし、レイナや桃子と顔を合わせるのはもっと嫌だった。
だが食堂に到着するものの食欲はなく、食品サンプルを眺めながら、やはり戻って買っていたおにぎりを食べようかと私は考えていた。
「真弓!」
突然飛び込んできた声に、びくっとする。声が聞こえた左の方向に顔を向けると、恭子さんがいた。
「恭子さん、びっくりした……」
だが、恭子さんは私の言葉に返事をすることなく、今度は私の右側に移動する。そしてまたすぐに左側へと移動した。
「真弓。右の耳、聞こえてる? さっき、右の耳に向かって話したんだけど」
「えっ……?」
同時に、食堂に来る前のトイレで桃子が言っていたことを思い出した。
──最近話しかけてもあいつ何かぼーっとしてるし。
そう思うと、最近確かに会話がスムーズにかみ合わないことがあった。聞き返すこともたびたびあった。それは相手の声が小さいからだと思っていたが……。
「真弓。今から受診するよ」
「えっ。あっ、はい……」
*
緊急入院した耳鼻科病棟。私は恭子さんに強制的に連れてこられた耳鼻科で突発性難聴の診断を受け、点滴を受けている。
病気に気づいてくれた恭子さんが、ベッドに横たわる私に微笑んだ。
「手遅れにならなくてよかったよ。とりあえず、ここでしばらく休みなさいね」
「すいません、ありがとうございます」
突発性難聴は早く治療を進めることが何より大事だ。私の場合は右耳がほとんど聞こえなくなっていたこととめまいを併発していることで重度だと診断されて入院になったが、聴力を取り戻すことはぎりぎり可能だと担当医は言ってくれた。
「あぁそうだ。渡し忘れるとこだった」
「何ですか?」
聞こえる方の左耳に寄せて話してくれる恭子さんの気遣いが嬉しかった。
「真弓、食堂で何か食べたそうにしてたじゃん」
「あぁ……お腹空いてるかも……」
耳鼻科病棟というある意味安全地帯に連れてきてもらった効果か、私は今になって初めて空腹を覚えた。
「真弓が診察室にいる間、買って来たんだ~」
国民的猫型ロボットが道具を出す時の効果音をまねながら恭子さんが掲げたのは、中華まんだった。
「今シーズン初入荷だって!」
恭子さんは得意そうに言うが、匂いが漏れているのが気になった。
「ちょっと、ここ大部屋ですって!」
「じゃあ、さっさと食べちゃいなさい」
起き上がって、ほくほくの中華まんを受け取る。一口かじると、その温かさにほっとする。
「美味しい……」
「うん、よかった。きっとね、今は休む時なんだよ。ちょっと休んだら、すぐに元気になれるよ」
「はい、ありがとうございます」
恭子さんにそう返事をしながら、だが私はこの職場での潮時を感じていた。
0
お気に入りに追加
7
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる