26 / 58
ラジェス帝国編
26話 懐かしい人
しおりを挟む
口の中に、血の味が広がった。
僕は猫の獣人だから、人族と比べると犬歯が牙に近く尖っている。恐らく、その犬歯がレグラス様の皮膚を食い破ったんだ。
意図せずに洩れ出る「ふーっ」という威嚇音は、僕が怖がっているからだ。
でもそんなこと、レグラス様が知るわけもない。
ただ急に噛み付いてきた、厄介な獣人……と思われたと思うと、もうどうして良いか分からなくて、ぽろぽろと涙が溢れ出してしまった。
でも緊張で強張った身体から力を抜くこともできなくて、噛み付いた口を開けることもできない。
レグラス様に発情した僕を「慰め」させただけじゃなくて、こんな噛み付いて傷付けてしまうなんて。僕は一体どうしたら……。
混乱する僕の耳に、レグラス様の静かな声が響いた。
「サグ、ソル、それからダレンも、一度席を外してほしい」
カタン、とダレン様が立ち上がる気配がする。側に控えていたサグとソルが、レグラス様の命に従って離れていくのが分かった。
三人とも、一言も言葉を発せず、静かに立ち去っていく。カチャリと小さく音を立てて開いた扉は、そのすぐ後にパタンと軽い音を立てて閉じてしまった。
それが何となく、彼らの中で僕に対しての関心がなくなった音に聞こえて、淋しくて堪らない。
逆立った尻尾を抱き締めたまま、ふるふると小さく身体を震わせる僕の名前を、レグラス様がそっと呼んだ。
「ーーフェアル」
返事をしなきゃ……。
そう思ってはいるけど、自分の身体は思うように動いてくれない。
そんな僕の額に、レグラス様は口付けを一つ落としてきた。
「怖がらせて済まなかった」
ちゅっ、とリップ音の後にレグラス様が囁く。そのまま彼の唇は僕の鼻筋を辿り、軈て未だ噛みついたままの僕の口の近くまで降りてきた。
薄っすらと目を開けてみると、僕はレグラス様の左の人差し指の、第二関節と第三関節の間に噛み付いているのが見えた。
ふと、目の前にレグラス様のお顔がドアップで映り込む。
ビクリと肩を揺らすと、肩越しに覆い被さるように僕を覗き込んでいたレグラス様は、その長い睫毛が縁取る目を伏せた。
彼の僅かに薄い唇が開いて、赤い舌が覗く。じっと注視していると、その舌先が僕が噛み付いている所に伸びてきた。
ぺろり……と、躊躇なくその部分が舐められる。
「君は何も悪くない。何も恐れる必要はない。だから、どうか私の話を聞いてくれないか?」
レグラス様の囁く声は、静謐な空間の中で穏やかに響く。僕を気遣うようなその声に、強張っていた僕の身体から力が抜けた。
そろりと口を開けると、しっかり歯型がついたレグラス様の指が見える。と同時に、ぷくりと血が出て盛り上がり、流れ落ちそうになって、僕は咄嗟に舐め取った。
「……ありがとう」
肩を抱くように回されたレグラス様の右手が、僕の額にかかる髪を掻き上げる。もう一度、額に唇を落としてきた。
「………噛んでしまって、ごめんなさい」
俯きながら小さな声で謝罪する。
何を考えるべきか、どう言葉を紡ぐべきか……頭の中は真っ白で、何も思い浮かばない。謝意の言葉も、随分辿々しく、幼子のような言葉しか出てこなかった。
「ーーっ、ふ……」
そんな僕に、レグラス様は思わず……といった様子で、小さく笑いを洩らした。
レグラス様の、珍しい笑い声に思わず顔を上げると、彼は少し懐かしそうに目を細めて僕を見ていた。
そして唇は笑みの形のまま、僕の額に当てていた手でクシャっと頭を撫でてくる。
「君の幼い頃を思い出すな……」
「ーー僕?」
レグラス様の言葉に、僕はキョトンと瞬き首を傾げた。
レグラス様の言葉って、まるで僕の子供の頃を知っている様な感じだったのだ。
そんな僕を見つめていたレグラス様は、僕の脇に手を入れると軽々と持ち上げ、彼の膝を跨ぎ向かい合うような形で座らせた。
「……っ、え?」
ーーなに、この状況……。
思いっきり困惑する僕を他所に、レグラス様は僕の額と自分の額をコツンと合わせて目を閉じた。
「ああ、君だ。実のところ、君に噛まれるのは、二回目なんだ、私は」
「え?」
覚えのない事を言われて、僕は言葉をなくす。
じっと至近距離にあるレグラス様の整った顔をじっと見つめていると、彼は僕の視線に気付いたのか、ゆっくりと瞼を開き綺麗なアイスブルーの瞳を覗かせた。
「久しぶりだな、『フィー』」
久し振りに呼ばれた僕の愛称に、数日前に見た夢を思い出す。
母様が居なくなって、淋しくて淋しくて。
感情に引き摺られて魔力暴走を起こしそうになった時に助けてくれた、綺麗な青年。
彼が名乗った名前は、確か……。
「ラス、様?」
「そう」
良くできたとばかりに、頬に口付けられる。
あの時の僕は幼すぎて、お名前を紡ぐのが難しかったんだ。それに気付いて、彼が教えてくれた愛称だけを覚えていた。
「え?本当に?」
信じられなくて、ぱちぱちと何度も瞬きをしてしまう。
昔すぎて、幼すぎて、ラス様の姿形は忘れてしまっていたけど、綺麗なお顔だった事と、その美しいアイスブルーの瞳はよく覚えていた。
レグラス様は合わせていた額を離し、すっと上半身を起こすとゆるりと眦を緩めた。
「私を見ても気付いていない様だったから、暫く様子を見ようと思っていたが、まぁ仕方ないだろう」
「レグラス様が、ラス様?本当に?……でも……」
言葉を切って、僕は口を噤む。
僕の国から帝国に留学で送り出されるのは名家のハズレ者だった。
でも帝国から来る留学生は、確か皇族だったはずなんだけど……。
ーーえ……、レグラス様って皇族なの?
僕は猫の獣人だから、人族と比べると犬歯が牙に近く尖っている。恐らく、その犬歯がレグラス様の皮膚を食い破ったんだ。
意図せずに洩れ出る「ふーっ」という威嚇音は、僕が怖がっているからだ。
でもそんなこと、レグラス様が知るわけもない。
ただ急に噛み付いてきた、厄介な獣人……と思われたと思うと、もうどうして良いか分からなくて、ぽろぽろと涙が溢れ出してしまった。
でも緊張で強張った身体から力を抜くこともできなくて、噛み付いた口を開けることもできない。
レグラス様に発情した僕を「慰め」させただけじゃなくて、こんな噛み付いて傷付けてしまうなんて。僕は一体どうしたら……。
混乱する僕の耳に、レグラス様の静かな声が響いた。
「サグ、ソル、それからダレンも、一度席を外してほしい」
カタン、とダレン様が立ち上がる気配がする。側に控えていたサグとソルが、レグラス様の命に従って離れていくのが分かった。
三人とも、一言も言葉を発せず、静かに立ち去っていく。カチャリと小さく音を立てて開いた扉は、そのすぐ後にパタンと軽い音を立てて閉じてしまった。
それが何となく、彼らの中で僕に対しての関心がなくなった音に聞こえて、淋しくて堪らない。
逆立った尻尾を抱き締めたまま、ふるふると小さく身体を震わせる僕の名前を、レグラス様がそっと呼んだ。
「ーーフェアル」
返事をしなきゃ……。
そう思ってはいるけど、自分の身体は思うように動いてくれない。
そんな僕の額に、レグラス様は口付けを一つ落としてきた。
「怖がらせて済まなかった」
ちゅっ、とリップ音の後にレグラス様が囁く。そのまま彼の唇は僕の鼻筋を辿り、軈て未だ噛みついたままの僕の口の近くまで降りてきた。
薄っすらと目を開けてみると、僕はレグラス様の左の人差し指の、第二関節と第三関節の間に噛み付いているのが見えた。
ふと、目の前にレグラス様のお顔がドアップで映り込む。
ビクリと肩を揺らすと、肩越しに覆い被さるように僕を覗き込んでいたレグラス様は、その長い睫毛が縁取る目を伏せた。
彼の僅かに薄い唇が開いて、赤い舌が覗く。じっと注視していると、その舌先が僕が噛み付いている所に伸びてきた。
ぺろり……と、躊躇なくその部分が舐められる。
「君は何も悪くない。何も恐れる必要はない。だから、どうか私の話を聞いてくれないか?」
レグラス様の囁く声は、静謐な空間の中で穏やかに響く。僕を気遣うようなその声に、強張っていた僕の身体から力が抜けた。
そろりと口を開けると、しっかり歯型がついたレグラス様の指が見える。と同時に、ぷくりと血が出て盛り上がり、流れ落ちそうになって、僕は咄嗟に舐め取った。
「……ありがとう」
肩を抱くように回されたレグラス様の右手が、僕の額にかかる髪を掻き上げる。もう一度、額に唇を落としてきた。
「………噛んでしまって、ごめんなさい」
俯きながら小さな声で謝罪する。
何を考えるべきか、どう言葉を紡ぐべきか……頭の中は真っ白で、何も思い浮かばない。謝意の言葉も、随分辿々しく、幼子のような言葉しか出てこなかった。
「ーーっ、ふ……」
そんな僕に、レグラス様は思わず……といった様子で、小さく笑いを洩らした。
レグラス様の、珍しい笑い声に思わず顔を上げると、彼は少し懐かしそうに目を細めて僕を見ていた。
そして唇は笑みの形のまま、僕の額に当てていた手でクシャっと頭を撫でてくる。
「君の幼い頃を思い出すな……」
「ーー僕?」
レグラス様の言葉に、僕はキョトンと瞬き首を傾げた。
レグラス様の言葉って、まるで僕の子供の頃を知っている様な感じだったのだ。
そんな僕を見つめていたレグラス様は、僕の脇に手を入れると軽々と持ち上げ、彼の膝を跨ぎ向かい合うような形で座らせた。
「……っ、え?」
ーーなに、この状況……。
思いっきり困惑する僕を他所に、レグラス様は僕の額と自分の額をコツンと合わせて目を閉じた。
「ああ、君だ。実のところ、君に噛まれるのは、二回目なんだ、私は」
「え?」
覚えのない事を言われて、僕は言葉をなくす。
じっと至近距離にあるレグラス様の整った顔をじっと見つめていると、彼は僕の視線に気付いたのか、ゆっくりと瞼を開き綺麗なアイスブルーの瞳を覗かせた。
「久しぶりだな、『フィー』」
久し振りに呼ばれた僕の愛称に、数日前に見た夢を思い出す。
母様が居なくなって、淋しくて淋しくて。
感情に引き摺られて魔力暴走を起こしそうになった時に助けてくれた、綺麗な青年。
彼が名乗った名前は、確か……。
「ラス、様?」
「そう」
良くできたとばかりに、頬に口付けられる。
あの時の僕は幼すぎて、お名前を紡ぐのが難しかったんだ。それに気付いて、彼が教えてくれた愛称だけを覚えていた。
「え?本当に?」
信じられなくて、ぱちぱちと何度も瞬きをしてしまう。
昔すぎて、幼すぎて、ラス様の姿形は忘れてしまっていたけど、綺麗なお顔だった事と、その美しいアイスブルーの瞳はよく覚えていた。
レグラス様は合わせていた額を離し、すっと上半身を起こすとゆるりと眦を緩めた。
「私を見ても気付いていない様だったから、暫く様子を見ようと思っていたが、まぁ仕方ないだろう」
「レグラス様が、ラス様?本当に?……でも……」
言葉を切って、僕は口を噤む。
僕の国から帝国に留学で送り出されるのは名家のハズレ者だった。
でも帝国から来る留学生は、確か皇族だったはずなんだけど……。
ーーえ……、レグラス様って皇族なの?
351
お気に入りに追加
1,133
あなたにおすすめの小説
完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
転生したけど赤ちゃんの頃から運命に囲われてて鬱陶しい
翡翠飾
BL
普通に高校生として学校に通っていたはずだが、気が付いたら雨の中道端で動けなくなっていた。寒くて死にかけていたら、通りかかった馬車から降りてきた12歳くらいの美少年に拾われ、何やら大きい屋敷に連れていかれる。
それから温かいご飯食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったり、柔らかいベッドで寝かせてもらったり、撫でてもらったり、ボールとかもらったり、それを投げてもらったり───ん?
「え、俺何か、犬になってない?」
豹獣人の番大好き大公子(12)×ポメラニアン獣人転生者(1)の話。
※どんどん年齢は上がっていきます。
※設定が多く感じたのでオメガバースを無くしました。
宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている
飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話
アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。
無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。
ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。
朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。
連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。
※6/20追記。
少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。
今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。
1話目はちょっと暗めですが………。
宜しかったらお付き合い下さいませ。
多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。
ストックが切れるまで、毎日更新予定です。
麗しの眠り姫は義兄の腕で惰眠を貪る
黒木 鳴
BL
妖精のように愛らしく、深窓の姫君のように美しいセレナードのあだ名は「眠り姫」。学園祭で主役を演じたことが由来だが……皮肉にもそのあだ名はぴったりだった。公爵家の出と学年一位の学力、そしてなによりその美貌に周囲はいいように勘違いしているが、セレナードの中身はアホの子……もとい睡眠欲求高めの不思議ちゃん系(自由人なお子さま)。惰眠とおかしを貪りたいセレナードと、そんなセレナードが可愛くて仕方がない義兄のギルバート、なんやかんやで振り回される従兄のエリオットたちのお話し。完結しました!
期待外れの後妻だったはずですが、なぜか溺愛されています
ぽんちゃん
BL
病弱な義弟がいじめられている現場を目撃したフラヴィオは、カッとなって手を出していた。
謹慎することになったが、なぜかそれから調子が悪くなり、ベッドの住人に……。
五年ほどで体調が回復したものの、その間にとんでもない噂を流されていた。
剣の腕を磨いていた異母弟ミゲルが、学園の剣術大会で優勝。
加えて筋肉隆々のマッチョになっていたことにより、フラヴィオはさらに屈強な大男だと勘違いされていたのだ。
そしてフラヴィオが殴った相手は、ミゲルが一度も勝てたことのない相手。
次期騎士団長として注目を浴びているため、そんな強者を倒したフラヴィオは、手に負えない野蛮な男だと思われていた。
一方、偽りの噂を耳にした強面公爵の母親。
妻に強さを求める息子にぴったりの相手だと、後妻にならないかと持ちかけていた。
我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。
こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。
同性婚が当たり前の世界。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
平民男子と騎士団長の行く末
きわ
BL
平民のエリオットは貴族で騎士団長でもあるジェラルドと体だけの関係を持っていた。
ある日ジェラルドの見合い話を聞き、彼のためにも離れたほうがいいと決意する。
好きだという気持ちを隠したまま。
過去の出来事から貴族などの権力者が実は嫌いなエリオットと、エリオットのことが好きすぎて表からでは分からないように手を回す隠れ執着ジェラルドのお話です。
第十一回BL大賞参加作品です。
傷だらけの僕は空をみる
猫谷 一禾
BL
傷を負った少年は日々をただ淡々と暮らしていく。
生を終えるまで、時を過ぎるのを暗い瞳で過ごす。
諦めた雰囲気の少年に声をかける男は軽い雰囲気の騎士団副団長。
身体と心に傷を負った少年が愛を知り、愛に満たされた幸せを掴むまでの物語。
ハッピーエンドです。
若干の胸くそが出てきます。
ちょっと痛い表現出てくるかもです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる