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舞台は日本の中心へ

孤独な人

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―――

 近江までの道のりがわからない蘭と蝶子は、秀吉に先導されながら山道を歩いていた。


「すみません、引っ越しの準備で忙しいのに……」
「いや、別に。信長様の命令ですから。」

 恐縮する蝶子に秀吉は素っ気なく返す。蝶子は苦笑しながら隣を歩く蘭を横目で見た。

「お二人は今から行く小谷城で一泊してきて下さい。信長様の方から浅井殿に連絡がいっているので手厚くもてなしてくれるでしょう。私は一旦帰って明日の朝お迎えにあがります。」
「え?それじゃあ秀吉さんが大変じゃない。帰りは同じ道を戻ればいいんだから大丈夫ですよ。」
「いえ、そのような訳にはいきません。あなた達に何かあれば私が信長様に処罰されてしまいます。」

 秀吉が珍しく焦ったような顔で振り向く。蝶子は思わず笑ってしまった。蘭は秀吉がどんな罰を下されるのかを想像して密かに体を震わせた。


「さ、もうすぐ着きますよ。あれが小谷城です。」

 秀吉がおもむろに前方を指差す。蘭と蝶子は揃って顔を上げた。

 今まで歩いてきた道など比べ物にならないくらいの険しい山道が行き着く先に、立派な天守閣を誇る城が聳え立っていた。


(あれが小谷城……浅井長政の本拠地か。)

 蘭は心の中でそう呟いた。



―――

「市さん!」
「まぁ、帰蝶様。お待ちしておりました。お久しぶりですがお変りない様子で何よりです。」
「市さんこそ、相変わらずお綺麗ですよ。子ども産んだなんて信じられないくらい。」

 蝶子が大袈裟に言うと、市は口に手を当てて笑った。

「まだ一人目でしかも女の子ですから、家老達から無言の圧力をかけられています。早く男の子を産んで後継ぎにせよ、と。」
「そんなのセクハラですよ!訴えてやればいいんです。そういう奴は。」
「セ、セクハラ……?」
「いえ、何でもないです!こいつの言う事は気にしないで下さい。」

 蘭が焦った顔で部屋に入ってくる。市はそんな蘭を見上げると柔らかく微笑んだ。


「蘭丸も変わらないですね。どうですか?お兄様の側近は。」
「えぇ。色々大変な事もありますが頑張っています。」
「そうですか。それは良かった。貴方の存在がお兄様にとってとても大切なものだと感じています。それに帰蝶様のお陰でお兄様は柔らかくなられた。文の文面からでもそれが感じられてわたしはとても嬉しいです。」
「そんな事は……私は別に何も……」

 蝶子が顔を真っ赤にしながら畳の上に正座する。それを見た蘭はまた面白くない気持ちになった。

「奇妙丸は元気ですか?」
「もう元気、元気!5歳ってあんなに行動範囲が広いんですね。目を離すとすぐお庭に出て行っちゃうし。でも今から勉強は頑張らせてますよ。集中力はあるから蘭なんかよりよっぽど偉いです。」
「おい!?」
「うふふ。相変わらず仲が宜しいですね。」
「「仲良くないし!」」

 市の言葉に思わずハモる二人。市は今度は顔を袖で隠しながら肩を震わせた。どうやらツボに入ったみたいだった。

「そんなに笑わないで下さいよ、もう……」
「すみません。あぁ、でも久しぶりに笑いました。最近子育てに忙しかったので。」
「そういえば少し顔色が悪いみたい。ちゃんと眠れてます?疲れた時は乳母に任せて休まないと……」
「……えぇ。でも母親はわたしですから。長政様は外で身を削って戦っています。わたしはこの小谷城の中を守る義務がある。そして長政様の大事なお子を、きちんと育てる責任があるのです。」
「だからって……」

 市の真面目過ぎる考えに二人共言葉を失う。市は慌てて手を振ると弁解した。


「これはあくまでわたしの場合ですから、帰蝶様も蘭丸も気にしないで下さいね。」
「わかってますよ。」

 蝶子が笑顔で言うと、市はホッとした表情になった。


「あの……一つ聞いてもいいですか?」

 今まで黙っていた蘭が突然言葉を挟んだ。市が蘭の方に向き直る。

「何ですか?」
「たぶん、失礼な事を言うと思うので最初に謝っておきます。ごめんなさい。」
「もう、だから何?ハッキリ言いなさい。」
「昨日光秀さんに会いました。それで聞きました。光秀さんも市様の事、好きだったって。」
「え……?」
「お二人は両想いだったんですよ。でもその事を信長様が気づいていたとしたら……知っていて離れ離れにしたんだとしたら……」
「だったら何だって言うの?市さんが近江に来たのも光秀さんが京都に行っちゃったのも、全部信長の思惑通りだったっていうの!?あいつがそんな卑怯な事すると本気で思ってるの?」
「蝶子、落ち着け。」

 思わずといった様子で立ち上がって叫ぶ蝶子の肩に、蘭はそっと手をかける。その顔は苦しげに歪んでいた。


(俺だってこんな事言いたくない!でも……聞いてみたいんだ。信長様の事を一番理解しているこの人に。)

 一度抱いてしまった気持ちに、知らないフリをして蓋をする事が出来る蘭ではなかった。意を決して市を見据える。市は目を閉じていた。しかしすぐに目を開けると言った。


「もしそうだとして、わたしはお兄様を恨む事はしません。例えお兄様の真意をわたし自身が知っていようとも。」
「わかっていて大好きな人と離れて、その代わりに会った事もない人のところにお嫁に行くの?」

 蝶子が震える声で言った。市は小さく頷く。

「はい。」
「どうして!?」
「お兄様が孤独な人だからです。」
「孤独……?」
「信長様が孤独?あんなにたくさんの家臣の人がいるのに。」
「確かに慕ってくれる者は数えきれない程いるでしょう。ただし本当の意味でお兄様をわかってくれる人はいない。妹のわたしでさえ、支えになってあげる事はついに出来なかった。」
「そんな事は……」

『ない』と言う前に市は勢いよく首を振る。

「でもそんなお兄様の前に希望を持って現れてくれた人がいた。しかもたった二人。されどその二人は何百人、何千人の大軍よりも価値があった。それがあなた達よ。」

 市の真っ直ぐな瞳に見つめられ、蝶子は口にしかけた反論の言葉を飲み込んだ。


「わたしの人生はお兄様の為にあるようなものなのです。だから心が引き裂かれようと騙されていようと、最後まであの方に従うつもりです。」
「市さん……」
「帰蝶様、蘭丸。お願いがあります。お兄様を……織田信長を裏切らないで下さい。あなた達までいなくなったら、本当に一人になってしまう。」

 突然土下座をしたと思ったら悲痛な声でそう言う市。蘭と蝶子はそんな姿に息を飲んだ。

 しばらくの沈黙。そして唐突に蝶子が口を開いた。


「当たり前でしょ。何たって私は織田信長の正室なんだから。市さんにこの城を守る義務があるのなら、私にはあいつの手綱を握る責任がある。で、蘭にはあいつの隣であいつを死なないようにする約束がある。だから、だから……任せて下さい。」
「蝶子、お前……」

 きりりと引き締まった蝶子の横顔に、蘭はどうしようもなく胸を掻き乱された。


「ありがとう、ございます……」

 そう言って上げた市の顔には涙の筋が何本も残っていた。


(そっか……俺はこいつのこういう男気のあるところが好き、なんだ……ずっと憧れていたんだ。だけど気づいた瞬間に失恋するなんて、俺ってバカだな……)

 蝶子が今この瞬間誰の事を強く思っているのかわかってしまった蘭は、泣きそうになるのをグッと堪えたのだった……



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