虹色の季節

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18、影の正体――真実

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透は開けていた窓から流れてきた風で揺れる、壁掛けのカレンダーを見つめていた。

八月ももうすぐ終わろうとしているが、まだまだ残暑が厳しくて外に出るのが億劫だ。今日はリハビリを頑張って疲れたという理由で散歩を断ってしまった。

「暇だ…」
散歩を断った事を少々後悔しながらも、もう寝てしまおうと体をベッドに預けた。

今回の入院は三ヶ月前からのもので、自分一人で家の中を歩いてみようとして転んだのが原因だった。

「はぁ~…」
透は春香にこっぴどく叱られた事を思い出して自嘲気味に笑った。

思えばこの十年で六回の入院をした。期間はまちまちだが、一回当たり三ヶ月から半年くらいは入院生活をしているだろう。一番長かったのは怪我をした当時で一年間だったが。
透はもう一度ため息をつくと、目を閉じた。
その時だった。

『コンコン』
と遠慮がちなノックの音が聞こえ、透は緩慢な動きで扉の方を向いた。

「!!」
開いた口が塞がらないとはよく言ったものだと、冷静な自分が分析する。だがもう一人の自分はただただ呆然とその人物を見つめる事しか出来なかった。

「……親父…」
そこには17年前に勝手にいなくなった父がいた。何とも言えない複雑な顔でこちらを見ている。
透は思わず起き上がろうとしたが、太股の鈍い痛みに顔をしかめた。

「…何で…?」
その後の言葉が続かない。透は病室の入り口に佇む男――自分の父親を睨みつけた。

「すまなかった…。透っ…!」
「あんたなんかに名前呼ばれたくない!」
「………」
大きい声が出たが構わず叫んだ。

「あんたのせいで母さんはっ!」
「透……」
「春香だってそうだ。俺だって…。あんたのせいで皆不幸になったんだ!」
「落ち着け、透!」
「離せ!」
手近な物を手当たり次第に投げつける。父はそれらを避けながら近づいてきて、透の両肩を掴んで止めようとした。透はそれを振り払って枕に顔を伏せた。

「出て行け!」
「透、聞いてくれ!私は…」
「言い訳なんて聞きたくない!あんたはもう死んだんだ。春香だってそう思ってる。二度と俺たちの前に現れるな!」
そう捲し立てるとシーツを頭から被った。

「…わかった。でも、これだけは知っていて欲しい。ずっと…お前たちの事見てた。十年前お前が大怪我したって聞いて、この街に戻ってきたんだ。それからずっとお前たちの事見守ってた。」
「………」
衝撃の言葉に呆然とする。透はゆっくりと顔を上げた。

「…まさか黒づくめの正体って、父さんだったのか?」
思わず『父さん』と呼んでしまった事など気づかない様子の透に、父は頷いた。

「不気味がらせていた事はわかっていた。だけど普通に会いに行ったところで会ってくれる訳ない事はわかっていたから、陰から見守る事しかできなかったんだ。すまなかった……」
「……」
沈痛な面持ちで頭を深く下げた父の姿を見下ろした後、透はゆっくりと目を閉じた。
怯えていたこの十年は一体何だったんだろう、と思いながら……

「もうここには来ない。この街を出るつもりだ。」
「どこに行くんだ。当てはあるのか?」
「当てなどない。でもまぁ、心配するな。どうにでもなるもんさ。」
「別に…心配なんてしてない。」
17年ぶりの父子の会話は、どこか気恥ずかしくて懐かしくて……だけど少し切なかった。

「春香には……」
「わかってる。会わないよ。まぁどうせ、私の事なんて覚えちゃいないだろうが。まだ小さかったし。」
苦笑交じりにそう言う父の顔。透はゆっくりと体を起こすと、そんな父を真っ直ぐに見つめた。

「覚えてるよ。」
「え?」
「あいつ、いつもあんたの写真持ち歩いてんだ。十年もストーカーしてたのに気づかなかったのかよ。」
冗談を言ったのに父は笑わなかった。真剣な顔をしてこちらを見返してくる。

「そうか……」
そう一言呟いたっきり黙った父を、透はどこか優しい表情で見ていた。

「聞いていいか?」
「何だ?」
「…どうして俺たちを、母さんと春香を捨てた?別れた後の家族の事なんてあんたにとってはその程度だったのか?」
「……」
「何で黙る?何か後ろめたい事でもあるんじゃないのか?」
「…私が全部悪いんだ。母さんは何も関係ない。」
すっと逸らされた父の目を見て、透はハッと気づく。

『まさか…』と声にならない声が出た。

「まさか母さんの方から…?」
「……」
「父さん!」
口を真一文字に結んでいた父だったが、透の強い視線に負けたのか重い口を開いた。

「…あの頃母さんの体調が急に悪くなっただろう?その時既にあいつの余命は一年半と宣告されていたんだ。」
「え…?」
「私はその時がくるまでずっと母さんの傍にいて、最期を見送りたかった。だけどあいつは……私に別れてくれと言った。何故だと問い詰めたらあいつ、何て言ったと思う?」
「私が死んでいくのを、貴方に見せたくないから。」
透がそう答えると、父は泣き笑いの表情で頷いた。
透は『やっぱり…』と心の中で呟いた。

「そして何より、お前たちに知られたくなかったから。特にあの時まだ9歳だった春香には、あと一年半しか生きられないという事実を教える訳にはいかなかった。言ったその時から重い宿命を背負わす事になる。それは自分が死ぬ事より辛い事なんだって……」
苦しそうに歪む父の顔を、ただ見つめる事しかできなかった。

父から聞いた話は簡単には信じられなかったが、母の性格を考えればありえない事ではないとも思う。
母は人一倍気を使う人で、自分の病気の事で心配や迷惑をかけたくないといつも言っていた。具合が悪くて倒れた時でさえ、自分たちに対して『ごめんね』と何度も謝るような人だったのだ。

最愛の夫に自分の最期を見せたくない。大事な子どもたちに自分の余命を知られたくない……
母のそんな切実な願いを叶える為に父は……
自分の身を削る思いで離婚届に判を押したのだろう。だって記憶の中の父は、家族思いで優しい人だったから……

「別れた後も近くで見届けようとした。あいつの最期を。でも土壇場になって怖くなって……。私は逃げたんだ…!あいつやお前たちに憎まれてても仕方がない。」
「…父さん。きっと母さんは父さんがいなくなって、ホッとしたんだろうな。これで本当に死ぬ所を見せなくてもいいって安心したと思う。逃げたなんて思ってないだろうし、もちろん憎んでさえなかったよ。」
「だけどお前たちは私の事憎んでるだろう?お前は病気の母さんとまだ幼い春香を捨てた酷い父親だとずっと思ってたはずだ。」
真剣な顔で見つめられ、透は言葉に詰まった。

「…そうだよ。ずっとそう思ってきた。今の話聞いたって『はい、そうですか』って割り切れるもんじゃない。簡単に許せるものでもない。だけどあんたを憎む事で俺は今日まで生きてこられたのかも知れないって、今ならそう思えるよ。」
「…そうか。」
父の視線が自分の足に注目したのを感じて、透は苦笑しながら身じろぎをした。

「怪我した時は自分でも死ぬんだなって思った。意識がスーッと遠くなっていって、体から力が抜けて…。あぁ、俺はもうこのまま死んでいくんだなって覚悟した。その時、母さんが夢に出てきて俺を救ってくれた。それから俺は春香を守る為に生きようと思った。こんな足だし、逆に守られているけど、父さんがいなかった事が今までの俺を突き動かしていたんだって思う。もし父さんがいてくれていたら、俺はたぶんここにはいない。」
「透、お前……」
「まだ完全に許した訳じゃないけど、父さんの気持ちも母さんの本当の想いもわかったから。…会えて良かった。今の話、春香にも聞かせてやれよ。ちゃんと会いに行って顔を見てやれよ。あいつだったらきっと許してくれる。母さんに似て優しい奴だから。」
「そうだな。でも…会わないよ。会えない。」
「どうして?会いに行ったらあいつ、喜ぶと思う。父さんの事大好きだったからさ。」
「お前から言っといてくれ。お父さんは元気で生きてるって。さっきの話も春香に言うかどうかはお前に任せるよ。私はもうこのまま誰もいない街に行って、一人でひっそりと暮らす。今日来たのは透、お前だけにでも会いたかったんだ。私がちゃんと生きてるって事を伝えたかったんだ。…最後に会えて、良かった……」
「父さん…。俺も会えて良かったよ。父さんの事誤解したままでなくて、本当に良かった。会いにきてくれてありがとう。」
見つめた瞳が段々と潤んでくるのがわかって、つられて自分の目も霞むのを感じる。

二人はしばらく涙目で見つめ合って、やがて照れたように目を逸らした。

「じゃあ……」
「…あぁ。」
どちらからともなく伸ばした右手が、若干の戸惑いを含みながら触れる。そして強く固く握りあった。

「リハビリ頑張れよ。」
「言われなくても。いつか…そう、いつか歩けるようになったら…」
期待を込めながら父を見た透だったが、静かに首を振った姿に愕然とした。

この人はもう覚悟を決めているのだ。本当にもう自分たちには会わないと。
これから何処に行くのか、何処に向かうのか、絶対に教えてはくれないのだと。

「いや、何でもない。…元気でな。」
「お前もな。春香によろしく。…あぁ、春香といえば……」
「?」
たった今思い出したとばかりに口を開けた姿に、透は頭に疑問符を浮かべた。

「あいつな、どうやら彼氏ができたみたいだぞ。この前一緒にいるところを見たんだ。」
「えっ!?」
「少なくとも春香の方は間違いなく相手の男に惚れてる。ただ……」
「ただ、何だよ?」
「あの男、何か裏があるような気がするんだ。過去に後ろめたい事でもしたような顔をしてる。」
「どういう事だよ?」
「…まぁ、父親の勘だよ。春香はあいつに似てしっかり者だから大丈夫だとは思うがな。」
笑ってそう言う父の顔を見ていたら、ふっと視線を向けられた。

「そんなに心配なら本人に直接聞いてみろよ。」
「なっ!」
「顔に書いてあるぞ。じゃあな。」
軽く片手を振りながら部屋を出て行く姿を呆然と見送っていた透だったが、ハッと我に返るとベッド脇に立てかけておいた松葉杖を乱暴に手に取った。

「…っ!」
だが床に足をついた瞬間、鋭い痛みが全身に走ってベッドに蹲った。

「くそっ…!」
固く握った拳を布団にめり込ませる。それを何度も繰り返した。

自分の足が動かない事を、こんなにも悔しく思った事はないかも知れない。流れる涙を拭いながら目を閉じた。
あんなに恨んでいた父親と再会して、誤解していた事を知らされて……
やっとわかり合えた、離れていた分を取り戻したい、本当はそう思っていたのに……

別れは案外あっさりと訪れ、幸せな親子の時間はすぐに終わりを迎えた。
そう、17年前と同じように……

透は止まる気配のない涙を拭う事さえできなかった……


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