虹色の季節

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8、黒い影――不安

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―――




「あ~疲れた。打ち合わせっていうのも疲れるもんだね。」

 葉菜はそう言い、歩きながら両腕を頭上に上げ器用に伸びをした。


「そう言ってあんたはただお菓子食べてただけじゃない。先生と話してたのはほとんどわたし。」

 春香が自分を指差しながら隣を睨む。葉菜は両腕を降ろすと、ぶぅっと頬を膨らませた。


 もう夕暮れになっていた。土曜日とはいえ、会社帰りのサラリーマンや、夕食の買い物に出かける主婦たちで道には結構人がいた。

 気温は昼間よりは下がっていたが、まだうっすらと汗をかくほど暑い。背中にYシャツの布が張り付いて気持ち悪くらいだ。春香は早く家に帰って、シャワーでも浴びたいと内心思っていた。


「だってさ、先生の部屋に美味しそうなお菓子がいっぱいあって…。あ、そうだ!」
「な、何よ、急に…。あんたっていつもそうだよね。急に話題があちこち飛んで……」
「まぁまぁ、お義姉さん。ね、お願いがあるんですけど。」
「え……」

 何だか嫌な予感を抱きつつ、親友を見た。


「透さんの病院に寄って行かない?」
「やっぱり……さっき行ったじゃん。」
「ねぇ、いいでしょ?バレちゃったからには協力してよね、お義姉さん?」

 ポンッと肩を叩かれた春香は、シャワーはもう少しお預けになった事を悟った……



―――

 透はその頃ちょうど、昼間と同じように窓の外を見ていた。夕陽が街並みの向こうへと沈んでいく様が美しい。


 あの日……こんな足になってしまったあの惨劇の日……

 あの日の前日にもこんな夕陽を見た。あの日の朝だって普通に起きて会社に行って仕事をして、いつもと同じだった。

 あのコンビニに行く寸前だって、これっぽちもいつもと違うところなんてなかったのに…。


 この足だって普通に動いて、歩いて、走って…。

 何でこんな事になってしまったのだろう。この自分が一体何をしたというのだろう。


 そう、世の中はいつも人々のこんな思いで溢れ返っている。

 何で、どうして、何の為に……?


「透さん!」

 その時、廊下の方から元気な声が聞こえ、葉菜が笑顔を覗かせた。


「ごめんね、葉菜がどうしてもって聞かなくて…。昼間も来たから今日はもう帰ろうって言ったのに。」

 少し遅れて春香が苦笑しながら入ってきた。

 二人で並んでベッドの脇に立つ。

 今まで暗く澱んでいた自分の心を咄嗟に隠し、透は笑顔を作った。


「お兄ちゃん、どうしたの?怖い顔して……」

 でもさすがに実の妹にはわかってしまったらしい。すごく心配そうな顔で見つめてくる。透は慌てて首を振った。


「いや、ちょっと考え事をね。それより…」
「ん?」
「せっかく来てくれたのに悪いが、もうすぐ暗くなるしそろそろ帰った方がいいんじゃないかな?葉菜ちゃんのお家でも心配するだろうし。お前だって叔母さんが…」
「はいはい。まったく心配性なんだからお兄ちゃんは…」
「でも私たちも透さんの顔見たらすぐ帰るつもりだったんで。兄としてはやっぱり妹が可愛いですもんね?」

 にやにや顔の葉菜から視線を逸らし、透は誤魔化すように咳払いをした。


「まぁ、俺は別に……お前たちがいいならもっといてくれてもいいんだけど……」

 などと呟いている。二人は顔を見合わせてクスクスと笑った。透は照れくさくなって窓の外へと視線をやった。


「じゃ、お兄様の言いつけ通り帰りますか!」

 春香がそう言い、二人同時に廊下へと出て行きかけた時だった。


「あ、そういえば。」

 葉菜がふと何かを思いついたのか立ち止まる。


「さっきここ来る途中、私たち変な人を見たんですよ。ねぇ、春香?」
「え?あぁ、あの黒づくめの?」
「うん、そう。」

 黒づくめ、と聞いて一瞬あの日の事を思い出していた。

 あの犯人……上から下まで全身黒づくめで、典型的な強盗犯のスタイルをしたあの男。


 しかし次の瞬間には我に返り、小さく頭を振った。

 そんな事はあるはずがない。だってあの男は警察に捕まったのだから……


「まさか変質者とかじゃないだろうな。」

 心配になりながら二人を交互に見た。


「何か変な事されたのか?」
「ううん、何もしてこなかったよ。大丈夫。ただ…入院病棟の入り口の辺りを行ったり来たりしてるの。何だかそわそわしてるというか…。私たちその人が何処かに行った隙に入ってきたんだ。」

 深刻な顔で春香が言うと、傍らで葉菜も頷いた。

 透はう~ん、と唸って首を傾げた。


「何なんだろうな、その人。誰かの見舞いって訳でもなさそうだしな。」
「怖いっていうより気持ち悪いよね 。」
「うん……」

 三人ともしばらく無言で考え込んでいたが、やがて葉菜が明るい声を上げた。


「ま、そんな神経質にならなくても大丈夫じゃないですか?」
「でも万が一襲われたりとか……」
「大丈夫だって、お兄ちゃん。まだ暗くなってないし、葉菜と一緒だしね。何かあったらこれ。」

 と言ってカバンのポケットから何やら取り出した。


「じゃ~ん!」

 それは防犯用の小型警報器だった。最近発売された防犯グッズだ。


「叔母さんが買ってくれたの。ただ大きい音が鳴るだけだけど、無いよりはマシでしょ?」

 得意げにウインクなどしてみせて、それを再びポケットにしまった。


「そうか。叔母さんも叔父さんも変わりないか?」
「うん、近い内にまたお見舞いに来てくれるって。」
「嬉しいな。……本当に叔母さんたちには感謝してもしきれないよ。こんなに良くしてくれて。」
「そうだね。叔母さんたちには子どもがいないから、逆に嬉しいみたい。私の為に色々する事が。」
「そうか。」

「良かったですね。良い人たちに春香が引き取られて。」
「あぁ。俺たちの周りにはホント良い人たちばかりだ。葉菜ちゃん、君も含めてね。」
「そんな……」

 柄にもなく照れている。春香は噴き出しそうになるのを何とか堪えた。


「あの人、まだいるのかな。」

 唐突に葉菜がそんな事を言い、窓の方へと近づいていった。そっと下を覗く。


「良かった。もういないみたい。」

 ホッとした顔で振り向く。透も春香も安堵の表情になった。


「じゃあ、さっさと帰ろうか。」

 春香はそう言い、兄の方に向かって小さく『じゃあね』と手を振った。


「透さん、また来ますね。」

 葉菜も窓際から離れる。カバンを肩にかけなおしながら、透に向かってウインクなんてしていた。

 春香は呆れて先に病室から出ようとすると透に呼び止められた。


「春香、大丈夫だとは思うが気をつけるんだぞ。それに葉菜ちゃんをちゃんと送るように。」
「は~い。」

 振り向かずに片手だけ上げて返事をすると、そのまま廊下に出ていった。葉菜も後に続く。

 ドアが閉まる直前まで透は笑顔で手を振っていた。


「変な人……か。」

 ドアが閉まり二人の姿が見えなくなると、その笑顔が消える。

 漠然とした不安はどんなに手で払ってもしつこくつきまとう虫のように、いつまでも透の胸から離れなかった……



―――

 春香と葉菜の二人は、お互いの家へと別れる交差点で立ち止まった。

 夏の夕暮れ時はまだまだ続きそうで、完全に暗くなるにはもう少しかかるだろう。

 二人は立ち止まったまま、その夕陽を眺めた。


「ここでいいよ。私を送ったら春香が遅くなる。」
「え?でも……」
「大丈夫。あんたも早く帰りな。ね?」
「うん……」
「あんたに何かあったら透さんに会う顔がないからさ。」

 ニヤっと笑いながらそう言うと、くるりと踵を返して歩いて行く。


「あ……じゃあまた月曜日!」

 遠ざかっていく後ろ姿に声をかけると、さっきの春香みたいに手だけをひらひらさせる。そしてやがて見えなくなった。

 春香はしばらくそこから動けずにいたが、一つ息をつくと気を取り直したように歩き始めたのだった。



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