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第八章 私はずっと幸せだから

02.

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 三者面談を終えた私は、いつも通りに鍵を借り、空き教室へと向かった。

 ルーティーンは繰り返すからこそ意味がある。

 土曜午後の学校は閑散としている。電気のついていない廊下も教室も薄暗い。

 だが、窓の外は冬の日差しに満ちていて、校内の空気も、凛と冷えてはいても、凍えるような冷たさではなかった。

 鍵を開け、ドアを開ける。

 空き教室の、いつもの席に着く。

 隣の席は空いている。それだけで、教室が広くなったように感じる。



 二学期期末テストの最終日。

 結局私は間に合わなかった。

 病院の廊下に居た中年の男女二組は、それぞれ鹿島くんのご両親と、安曇のご両親であると、安曇に紹介された。安曇は私のことも紹介してくれた。

『こちら鶴崎舞夕さん。怜央の友だちで……ライバル』

 私のこと、そして学校での私たちのことについて、安曇はご両親たちに説明した。

 夏休みには一緒に勉強していたこと。成績優秀でテストではライバルだということ。そして、鹿島くんの病気についても知っていたこと。

 安曇の説明を受け、鹿島くんのご両親は『息子がお世話になりました』と深く頭を下げた。

 『息子は、怜央は、ご存知の通り□※○・▲―に侵され、余命僅かという状況でした。一度は何もかもお諦めたあの子が気力を取り戻したのは、負けたくない相手がいたからだと聞いております。本当にありがとうございました。』

 その語り口調は、既に過去形だった。

 ご両親が話をしている間、安曇はずっと白い封筒を抱きしめていた。

 教室を出るとき、安曇は手ぶらだったように思う。

 本人に確かめたわけではないが、恐らくあの手紙は鹿島くんからのものだったのだろう。



 通夜には、鹿島くんのクラスメイトほぼ全員が来ていたという。他のクラスの生徒も、結構な数が来ていたそうだ。

 後日、安曇からそう聞いた。

 私も当然出席していたけれど、分かったのは制服姿の弔問客が多かったということ、そして鹿島くんはやはり人に好かれる人だったということだけだ。他の生徒のことなどよく知らない。

 病院でもそうだったが、鹿島くんのご両親は達観した顔で弔問客の挨拶に返礼をしていた。病床に伏せる息子の願いを叶えようと、学校に行かせるような人たちだ。覚悟はできていたのだろう。

 でも、私はその顔の裏に隠しているものがあると感じた。

 予想できる未来であっても、覚悟があっても、現実の重さは心の準備など簡単に踏み潰して襲いかかってくる。私はそう、知っている。

 鹿島くんのご両親の脇には、安曇とそのご両親とが控えていて、やはり弔問客に頭を下げていた。鹿島くんのご両親よりも、寧ろ安曇のご両親の方が、涙の跡が目立っていた。



 今も、鹿島くんのご両親の言葉が、耳を離れない。

 『□※○・▲―』。

 その病は、私からお父さんと鹿島くんを奪っていった。

 だというのに私はその正体をまるで知らない。

 知ったところで、どうにかできるとは限らない。

 でも、知らなければ何も始められない。

 だから勉強をしようと思った。

 大学で専門的な勉強をして、相手のことを知りたいと思った。

 そのためにはまず大学に入らなければならない。

 将来医者になりたいとか、お父さんや鹿島くんみたいな人を救おうという気持ちは……なくはないけれど、未だ真剣には考えていない。

 目の前とかその一歩先、精々そのくらいの前を見て『意味』を決めていく。

 それで私はやっと前に進めるようになる。

 私は勉強するために勉強しようと、そう決めた。

 それが私の『意味』だ。

 鞄から教科書とノートを取り出す。今日は期末テストの復習をするつもりで来た。どの教科もほぼ全問できていたけれど、だからこそ今のうちにもう一度確認し、完全に身に着けておきたい。そうすれば来年受験生になってから慌てることもなくなる。

 ノートを開くと、折りたたんだルーズリーフが舞い落ちた。

 鹿島くんの箴言メモ集だ。

 そういえば借りたままだった。

 鹿島くんのご両親に返した方がいいだろうか。

 そんなことを思いながらメモを開く。

 『最後に見直し、最後の最後は見直しの見直し』。

 ちゃんとやってる。ミスは殆どしてないよ。

 『身体的ルーティーンが精神の安定をもたらす』。

 欠かしてないよ。今もやってる。

 『後悔しない選択肢を選べ』。

 大丈夫。後悔はしていないから。

 『教科書は裏切らない 辞書は嘘をつかない』。

 そういえば。

 鹿島くんはいつも分厚い紙の辞書を使っていた。

 あれは図書室で借りたものだったはずだ。

 今、私のルーティーンは二つある。

 一つ、空き教室に来ること。
 一つ、『アイスト』を起動し、レネの顔を見ること。

 もう一つくらい増やしておいてもいいかもしれない。空き教室に来れない場合や、『アイスト』を起動できない場合のために。

 なんて、そんなのは言い訳でしかない。

 ただ単に、あの辞書を見たくなっただけだ。

 私は例の辞書を借りに、隣の図書室へと向かった。

 図書室に入ると、受付カウンターに座る女子生徒がちらりと私を見てすぐ視線を落とした。図書委員だろう。見知らぬ子だ。上靴が見えて
ないので、何年生かすら分からない。きっと向こうも私のことなんて知らないはずだ。

 カウンター以外には人の気配がなかった。

 テストが終わってもうすぐ冬休みに入るという土曜の午後だ。そんなに人が来るわけがない。

 図書室には何度か来たことがある。記憶を頼りに窓際の奥へ進むと、やはりあった。腰までの高さの本棚に、大判の書籍が詰まっている。参考図書のコーナーだ。

 指差し、背表紙を確認していく。

 国語辞書は数冊あった。装丁はまちまちだったが、鹿島くんが使っているいたものはすぐに分かった。一番分厚かったからだ。

 その辞書を取り出し、本棚の上に置く。

 特に目的はないが、何となくページを捲っていく。

 ぬめり感のある丈夫な薄紙は、指に張り付く一方で、紙同士は滑らかに剥がれ捲りやすい。

 使いやすい。鹿島くんが愛用するだけのことはある。

 と、後ろの方のページの間に妙な隙間があることに気づいた。 開いてみると、そこには薄く白い封筒が挟まっていた。

 その封筒には見覚えがあった。

 病院で、安曇が持っていたものとよく似ている。

 急いで手に取り開くと、中には一枚の便箋が入っていた。

   『君は前に復讐を受けているのだ』

 出だしの一文を見て確信した。

 これを書いたのは鹿島くんだ。

 何度も見慣れた筆跡。

 そしてこの文章。

 便箋が挟まれていた辞書のページを見返す。

 とある見出し語が、太文字で記載されていた。

 『友情』。

 もう間違いなかった。

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