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本編

7話:だって死にたいなんて

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 太った月のある夜にしては空が黒過ぎるし、風が吹いているにしてもどこを曲がっても向かい風である気がした。
 緋色は、冷たいだろう汗を流しながら、必死に走っていた。
 いつまでも向かい風が行く手を阻む。
 黒い空であってもどこへ走るべきかは分かる。
「なんで、なんで……」
 緋色の声は響かない。
 緋色は自分自身がパジャマ姿で走っていることに気づく。
 止まるわけにはいかない。 
 間に合わなければならないのだ。どうしても止めなければならないのだ。
 ようやくマンションに着く。
 エレベーターの方が早く四階まで行けるだろう。
 それでも緋色は止まりたくなくて、階段を駆け抜けることにした。
 一段ごとの段差は思っていたよりも大きくて、部屋の天井は高めなのか一階上がるごとの段数も思っていたより多い。
「間に合って!」
 声は枯れてしまった気がした。
 声を上げたと同時にマンション全体が横にも縦にも揺れた気がして、ついには、緋色は足を止めるしかなかった。
 意図されたように阻まれる。
 それが悔しくなって、緋色は手すりに捕まって進み始める。
「もう何もいらないのに、これ以上何もいらないのに」
 階段を上がる度、重力が強くなっていく気がした。
 四階に辿り着くと、揺れが収まった。
 体が軽くなった気がした。
 部屋に着いた緋色は、開くことを祈りながらドアノブに手を掛ける。
「お願い!」
 扉が開いた。鍵はしていなかったらしい。
「どうして来てしまったの?」
 花柄のカーテンの向こうから声が聞こえた。
 うっすらと影が見える。
 途端、強い風が吹いて視覚が姿を捉えた。
 その姿は緋色が所属していたアイドルグループであるらぶらぶ・ホイップのショートケーキ担当にして、リーダーである女性の姿だった。
「だって死にたいなんて」
 緋色の声が空の向こうまで響いた気がした。
「緋色ちゃん、ごめんね」
 今にでも飛び降りてしまいそうだった。
 緋色は駆け足でリーダーに迫る。
「あたしはもう終わりみたい」
 リーダーの震えた声を聞いて、緋色は驚いてしまった。
 らぶらぶ・ホイップの最年長であるリーダーは緋色たちをまとめて引っ張った。
 だから緋色はらぶらぶ・ホイップが大好きだったし、グループの存在自体が居場所だったし、リーダーは姉のような存在だった。
 中学生、高校生を所属させていたこと、未成年がかわいらしく歌って踊る姿およびファンとの交流が性的搾取だとすることから徐々に炎上し、ついには活動休止になってしまった。 
 しかし緋色からすれば、らぶらぶ・ホイップさえあればそれ以上何もいらなかったし、リーダーにもらぶらぶ・ホイップさえあれば良いと思って欲しかった。だから、活動休止と解散が結びつかなかった。
 緋色は炎上する様子を見て人間不信に近い状態になっていた。
 そんな緋色を励ましてくれたのもリーダーだった。
 リーダーが死んでしまうなら、緋色は全人類を恨む覚悟でいた。
 否定することは簡単である。何も理解しなくてもできる。肯定することは簡単である。聡い人に従えばよい。語ることは困難である。本質を見抜かなければならない。認めることは困難である。同じ視点に辿り着かなければならない。
 ネット上に学生にアイドルとして労働させることと性的搾取についてのコメントが上がっていたが、緋色にとっては『ド正論』とか『その通り』、『性的搾取のために擁護してるだけ』といったすべての正しいらしい言葉が憎かった。
 ただその言葉が自分を侵食してこの世界の隅に、自分自身もらぶらぶ・ホイップという存在も追い込まれる気がした。
 有名になんて、目立とうとするなんて愚かだ。
 誰もが笑顔だったらぶらぶ・ホイップのコミュニティに土足で上がってきた“ド正論信者”がどんな形で責任が取れるだろうか?
 いや、正論を武器にして人の上に立った気でいるだけだ。緋色は日々歪んでいく。
 それでも、それでもこの世界を許してしまうのは、リーダーがいたからだった。
「まるであたしたちは始めからいなかったみたい」
 リーダーはおかしそうに笑う。
「あたしたち、搾取されてたらしい。ファンも私たちもあんなに笑ってたのに」
 リーダーはおかしそうに笑う。
「緋色ちゃん、じゃあね」
 リーダーはおかしそうに笑う。
 そして、ベランダの柵の上に立った。
「おっとっと。元アイドルなのにもうバランス感終わってるわ」
 リーダーはおかしそうに笑う。
 そして、振り返って緋色を一瞬見る。
 リーダーはおかしそうに笑う。
 そして、前へ倒れていくようにリーダーは飛び降りた。
 緋色は急いで走る。
「死なせないからっ」
 なんとか間に合った。
 リーダーの体重で緋色の両手が取れて落ちていく気がした。
「こういうときはね、助けちゃ駄目なんだよ?」
 その瞬間、手を広げてしまって、リーダーは地面に落下していく。
 これでも大事にしっかり握っていたはずなのだ。
「……や。やだ」
 緋色が地面を見るとリーダーの首は完全に折れていて、人ひとりの量とは思えないぐらいの血が流れる。
 
 ―――――――――――――――――
 冷汗が流れるとともに緋色は目を覚ました。
 やはり夢だったらしい。
 いろいろあり得ないことが続いていた。
 夢は冷めたら忘れるものであるが、詳細を語れるほど覚えていたあたりかなり衝撃的な悪夢だったらしい。
 緋色は過呼吸気味になっていた。
 少し時間が経つとようやく苦しさから解放される。
「私、リーダーが自殺を図ったことを知ったのは、リーダーの意識が戻ってからだから」
 夢の話の、リーダーの自殺を止めるために走っていたところから、現実ではないのだ。
 悪夢を見てしまったのは、今日が真由香と出かける日だからだろうか?
 緋色はスマートフォンの電源を点けて時間を確認する。そして、慌てて部屋を飛び出した。
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