上 下
22 / 69
2.黄金の夜鳴鶯

妬み嫉みは怖いもの

しおりを挟む
 翌朝、ドーラは『ステルラ』の店の外にある看板に臨時開店と書いた。
 普段の夜会の翌日は疲れる上に寝不足になるので、午後にしか開かないことが多いが、今日は昨日、アレクサンドルから頼まれた客人がやってくるので、早めに開けておいたのだ。

「今日は珍しく早いな」

 今からポローシェ侯爵のもとへ行くらしいミールが、開店準備をしていたドーラに声をかけた。

「うん。今日はお客さんがくる予定なんだ」

 昨日、頼まれたことを話すと、ミールは難しい顔をして、そうか、とだけ言った。
 彼の様子に何かあるのかと思ったが、彼は何も言わずにそのまま出かけていってしまった。
 もしかしたら、彼が今、ポローシェ侯爵の屋敷で行なっている仕事と関係があるのかもしれないが、ドーラが一人で深く考えても仕方がないことだと思ったので、客がくるまでのしばらくの間、新作の準備をすることにした。

 今は秋。
 もうすぐ冬になり、社交シーズンが本格的に始まる。

 そうすると売れるのは香水や化粧品。

 叔母のエリザベータが健在のときは、叔母の象徴でもある薔薇の香水が主力商品だったけど、ドーラが店主となってからは、柑橘や百合の香りを多く使用した製品が多い。

 今シーズンの香水のテーマを何にしようかと思ったとき、ふと、先だっての『調査』を思い出した。

 アイゼル=ワード大公国の白亜の大公邸。
 遠い雪国の建物は堅実さとともに、寂しさを覚えるものだった。

「メインとなる匂いにはセージ、かな」

 いくつかの香りを嗅いで、あの白亜の宮殿に一番合いそうな香りを記入した。

 そして、ハーブ系の香りであるセージの精油と相性が良いといわれるハーブ系、樹脂系、樹木系の精油からピックアップしていくことにした。

「トップで香らせるのはセージとローレル。そして、その次のミドルにはニアウリとロザリーナ――でも、多分それだけだと華やかさが少ないから、ラベンダーでまとめる。
 最後にフランキンセンスとブルーサイプレスで、甘さを出す」

 そう呟きながら、処方箋に書き込んでいくドーラ。

 そして、書き上げた処方箋をもとに実際に調合していく。

 小さいガラス瓶に精油を一滴ずつ落とし、全部のものを入れ終わるとガラス棒でかき混ぜる。
 そうして出来上がったブレンドオイルをムエットと呼ばれる試香紙につけて、匂いを嗅ぐ。

 すぐに揮発する成分が多いトップノートやミドルノートの香りを中心に足りないと思った香りを足していき、その滴下数を処方箋にメモしていく。

 そうしてあの白亜の宮殿、そしてそこで生活する人々を想像させるような香りを作り上げた。

 もちろん、あとからじっくりと香るベースノートの存在も忘れていない。
 少し時間をおいてからもう一度、嗅ぐことができるように、端っこに日付やどのような精油を入れたかなどを記した後、クリップにとめて窓際においた。
 そうすることによって、人がつけた状態と同じ条件にしておくことができる。


 当然ながら一シーズンに売り出す香水は一種類だけではない。

 他にもローズの精油やマートルの精油、ハッカの精油を中心とした香水をそれぞれ作り上げた。
 もちろん、試作品である。

『ステルラ』の香水を一人で作り上げられる調香師はドーラ一人だけだが、一人で作れない調香師なら、ミールだっている。だから、彼の意見や彼らの後見人であるポローシェ侯爵にサンプルをつけてもらうこともある。

 一つの商品を作るのには、まだまだ時間がかかる。

 いくつかの試作品を作った後、時計を見ると、もうすぐ昼だった。
 臨時回転だったから、午前中は客が来なかったようだけれど、さすがにアポイントメントをしている客人がそろそろ来る。

 簡単な食事を済ませると、店の看板を『午後は予約のみ』と書き換えた。

 午前中に作った試作品の香りを再び嗅いだ。

 最初に作ったセージを中心としたブレンドオイルからはフランキンセンスやブルーサイプレスの香りが、ローズを中心としたものからはオークモスやミルラの香りが、マートルを中心としたものからはベチバーやベンゾインの甘い匂い、ハッカを中心としたものからはスギやヒノキの柔らかい香りが漂ってきた。


「どれも決められない、かな」

 ドーラは息をつきながらそう呟いた。

 ちょうどその時、店の扉が開く音がした。
 そちらへ向かうと、昨日会った青年、ハヴルスク侯爵の子息であるアレクサンドルと、紺色の髪をした少女――コレルンファ伯爵令嬢クララが来ていた。

「ごきげんよう、『ステルラ』の女主人殿」

 相変わらずの笑顔でアレクサンドルが挨拶をした。
 一方、クララは少し元気がなさそうに見えた。

「いらっしゃいませ、お二人とも」

 ドーラはアレクサンドルの挨拶にごきげんよう、です、と言って、彼らを応接間に案内した。



「じゃあ、僕から状況説明を軽くしておくね」

 ドーラが二人に紅茶を差し出した後、アレクサンドルがそう切りだした。彼女としては昨日、依頼をされたときに『コレンルファ伯爵令嬢を救ってほしい』としか聞いていなかったので、大歓迎だ。
 一方のアレクサンドルに連れられたクララはそれに微かな頷きをしただけで、ずっとうつむいていた。

「君も知っていると思うけれど、彼女の父親であるコレンルファ伯爵、というのは、うちの遠縁でさ。その関係もあって、しょっちゅうこちらから奥さんを出したり、向こうから奥さんをもらったりという関係があるんだ。
 んで、彼女も例に漏れず、僕たち兄弟の奥さんになるように昔から仲良くしていたんだ」

 そういうとますますクララはうつむいた。
 アレクサンドルも彼女の様子に気づいているのだろうが、気にする様子もない。

「僕とあの馬鹿――ドミトリーは性格が正反対でいろいろと苦労を彼女にもかけちゃったんだ。彼女はいつのまにか、あの馬鹿を好きになってね。
 もちろん、僕はそれについて文句はないさ。それが僕たちの家族の関係だからね」

 アレクサンドルはやれやれと肩をすくめながら説明を続けた。
 ドーラにはその関係がよく分からなかったが、顧客のプライベートなところまでは踏み込まない、という調香師としてのスタンスを守った。


「でも、ドミトリーもクララのことが気に入ったようだったから、僕としちゃあ、安心だった」

 アレクサンドルはそこで不意に言葉を切った。
 クララもその言葉でより一層、深く沈んだような面持ちになった。

「ハヴルスク侯爵家としても公認のことだから、クララがデビューしてからの舞踏会だって、ずっとあいつから離れなかった。
 僕はあいつに近づく女どもをただ、ひたすら追い払った。それなのに」


 彼はそこで、拳を強くテーブルに打ちつけた。

「あいつは先月のシーズン最初の夜会が終わってから、なんて言ったと思うか? 『俺は永遠の愛を見つけたから、クララとは結婚できない』って言いやがったんだ」

 怒りが治らないアレクサンドルはプライベートなことを話し始めた。自分たちのことを話されているのに、隣のクララは黙ったままだった。

「しかも、そんとき、隣に誰がいたか分かるか? エンコリヤ公爵んところのあばずれだよ」

 ドーラは彼の口から出た名前は聞いたことがなかった。
 エンコリヤ公爵、ということはポローシェ侯爵よりも大公に近い存在だから、もしかしたら大公邸ですれ違ったことがあるかもしれないが、正式な対面はない。

 アレクサンドルはますますヒートアップしていく。

「なんのために今まで、うるさくつきまとう女どもを追い払ってきたのか、労力を考えろっていうもんだよ」

 そこでようやく、クララがアレクサンドルの服をつかんだ。
 彼はここがどこだか、そして、誰に向かって言っているのか、気付いたようで、すまない、とドーラとクララに謝罪した。

「ううん。怒ってくれてありがとう。私じゃあ、彼に強く言えないから」

 クララは首を横に振った。ドーラもアレクサンドルの説明で彼女が落ち込むのは無理もない話であり、普通の婚約破棄でさえ女性にとっては醜聞になるものだ。二人の手助けをしていた実の兄にとっては怒りが治らないだろうと理解できたので、軽く首を横に振った。
 アレクサンドルは二人の返答にもう一度、申し訳ない、と言って机の上に置かれた紅茶を飲んだ。
 少し落ち着いたのか、赤かった顔色が元になっていた。

「まあ、その、なんていうのかね。結局のところはクララが落ち込んで、夜も寝れやしないって言ってるから、なんとかできないかっていうその、事情を説明したかったんだ」

 アレクサンドルは先ほどまでの激情に恥じているのか、少しどもりながら説明した。

 ドーラはふう、と息をついた。
 三人の事情は分かったし、彼の彼女に対する気持ちは分かった。

 
「分かりました。では、クララさん、あなたは眠れなかったりする不調をなんとかしたいですか?」

 もちろん、彼女がそれで苦しんでいるのは分かっていたが、彼女の口から直接は聞いていない。
 医学的な治療ではないが、患者自身の同意が必要だ。

 まさかドーラに聞かれるとは思わなかったのか、クララもアレクサンドルも少し驚いた顔をした。

「――――はい」

 それでも彼女はしっかりと頷いた。


「きちんと眠りたいし、起きているときもあの人のことばっかり考えたくない。すごくいらいらするし、ずっと不安なままも嫌だから」


 ドーラはその言葉を聞いて、わかりました、と大きく頷き、

「だったら、全力で手伝いましょう」

 そうにっこりと笑った。ドーラの笑みに少し驚いた顔をした二人だったが、やがてにっこりと互いに笑みを浮かべた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約者の浮気相手が子を授かったので

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。 ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。 アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。 ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。 自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。 しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。 彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。 ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。 まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。 ※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。 ※完結しました

私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?

新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。 ※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!

(完結)お姉様を選んだことを今更後悔しても遅いです!

青空一夏
恋愛
私はブロッサム・ビアス。ビアス候爵家の次女で、私の婚約者はフロイド・ターナー伯爵令息だった。結婚式を一ヶ月後に控え、私は仕上がってきたドレスをお父様達に見せていた。 すると、お母様達は思いがけない言葉を口にする。 「まぁ、素敵! そのドレスはお腹周りをカバーできて良いわね。コーデリアにぴったりよ」 「まだ、コーデリアのお腹は目立たないが、それなら大丈夫だろう」 なぜ、お姉様の名前がでてくるの? なんと、お姉様は私の婚約者の子供を妊娠していると言い出して、フロイドは私に婚約破棄をつきつけたのだった。 ※タグの追加や変更あるかもしれません。 ※因果応報的ざまぁのはず。 ※作者独自の世界のゆるふわ設定。 ※過去作のリメイク版です。過去作品は非公開にしました。 ※表紙は作者作成AIイラスト。ブロッサムのイメージイラストです。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

五年目の浮気、七年目の破局。その後のわたし。

あとさん♪
恋愛
大恋愛での結婚後、まるまる七年経った某日。 夫は愛人を連れて帰宅した。(その愛人は妊娠中) 笑顔で愛人をわたしに紹介する夫。 え。この人、こんな人だったの(愕然) やだやだ、気持ち悪い。離婚一択! ※全15話。完結保証。 ※『愚かな夫とそれを見限る妻』というコンセプトで書いた第四弾。 今回の夫婦は子無し。騎士爵(ほぼ平民)。 第一弾『妻の死を人伝てに聞きました。』 第二弾『そういうとこだぞ』 第三弾『妻の死で思い知らされました。』 それぞれ因果関係のない独立したお話です。合わせてお楽しみくださると一興かと。 ※この話は小説家になろうにも投稿しています。 ※2024.03.28 15話冒頭部分を加筆修正しました。

私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】

小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。 他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。 それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。 友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。 レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。 そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。 レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。

友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」 貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。 「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」 耳を疑いそう聞き返すも、 「君も、その方が良いのだろう?」 苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。 全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。 絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。 だったのですが。

処理中です...