20センチの愛を君に

新実 キノ

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20センチの愛を君に

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「きひっ……きひひ……きッヒヒひひひ…………」

 人通りの少ない深夜の路地裏。
 暗闇の中で耳障りな高音を響かせながら蠢く影に、懐中電灯の光を当てる。

「動くな。殺人、傷害、公務執行妨害で逮捕する。観念しろ――甘莉あまり憂依うい

 大きな瞳を爛々と輝かせた少女が、歪な笑顔をこちらに真っ直ぐ向けて声を弾ませる。

「わぁ~、久しぶりぃー警部~。バレちゃったんだあ、アタシの名前」
「警視だ。たかが女の子一人を何度も取り逃がす間抜けだがな、身元を洗うくらいはできるんだよ。……また派手にやりやがったな……」

 ぽたぽたと赤い雫が滴る包丁を手に、べっとりと血に濡れた上体を不気味に揺らす少女。その足元には、建物と建物の間の狭い幅いっぱいにドス黒い血溜まりが広がり、目を背けたくなるほど無数の穴が開いた惨たらしい死体が転がっていた。

「そいつは誰だ? どうして殺した?」
「えぇ~? 誰って……んっとー……きひひ、名前忘れちゃったぁ。あと、理由? 理由は簡単、アタシが殺したかったからだよぉー」

 憎たらしい不敵な笑みを浮かべながら楽しそうに死体をぐりぐり踏みにじる呆れた態度に、俺は深い溜め息をこぼす。

「はぁ~……俺は慈悲深い紳士だから、まだ年端もいかない少女を刑務所に送るなんて心が痛むんだよ、マジで。でも、お前が救いようのない奴で助かった。その点に関してだけは、心から感謝するよ」
「むぅ~、失礼だなぁーキミは。言っとくけどねぇ、アタシはちゃあんと殺す人を選んでるんだよお? 偉いんだよお?」

 そう言って、天莉はわざとらしく頬を膨らませながら包丁を振り回し、血を飛び散らせて憤慨する。
 コイツのイカれた戯言に付き合うのは時間の無駄だ。しかし、今は増援が来るまでの時間を稼がなければいけない。無駄にすることに意味がある。

「へぇ……じゃあお聞かせ願おうか、その基準を」

 こちらの意図を知ってか知らずか、天莉はあまりにも無邪気で無警戒な様子で、友人と談笑するように嬉々として語りだした。

「アタシはねぇ~、悪い人しか殺さないの。コレだってねぇ、すっっごく酷いヤツだったんだよお? 優しいおじいちゃんおばあちゃんに嘘ついてお金を騙し取ってさぁー、捕まってもすぐにシャクホーされて、何回も何回もやってるんだよぉ? ぜ~んぜん反省しないでさあ。ね? 殺しとくべきでしょ? アタシ、イイことしたでしょ? ねっ?」
「……詭弁だな。そいつが死んでもいいクズだったとしても、人殺しは人殺しだ。結局は自分のエゴでルールを破り、秩序を乱し、身勝手な言い訳をして悪事を正当化しているようにしか聞こえねえな。お前も所詮、そいつと同類だ」

 俺の反論に対して甘莉はつんと唇を尖らせてしゃがみ込むと、八つ当たり気味に死体を何度も突き刺した。

「んもぉ~、素直じゃないんだからあ、まったく……。アタシはねぇー、分かってくれると思ってるんだけどなぁ~、キミなら」
「残念ながら永遠に理解できねえな。だが、まあ、話だけは聞いてやるよ……手錠をかけた後に、ゆっくりとな」

 しんと静まり返った夜の街に突如として響き渡るパトカーのサイレンに、慌ただしい大勢の足音。
 予想よりも随分と早く、それもかなりの人数が駆けつけてくれたようだ。

「いやぁー遅かったねえ。さぁてさて、今日は負けちゃうかなあ~、鬼ごっこ。きっヒヒひひひ♪」




「――連続殺人による被害者は今回で8人目。警察はまたしても犯人の少女を取り逃がす……か……」

 一昨日の失態が大きく一面で掲載された新聞をやるせない気持ちで視界から遠ざけてから、ベランダに出て咥えた煙草に火をつける。

「はぁ……完全に遊ばれてる気がする……。くそ、あのガキ……」

 20連勤した後の貴重な休日にもかかわらず、朝っぱらから一気に憂鬱だ。
 それに、一昨日の夜から一睡もせず、今日の朝近くまで捜索にマスコミ対応に始末書……さすがに疲れた。
 せっかく睡眠で回復した活力が煙とともに根こそぎ吐き出されながら、俺はストレスの根源である少女をぼんやりと頭に思い浮かべる。

 甘莉憂依――。
 2002年12月24日生まれの16歳。3年前に就寝中の両親を包丁で刺殺。身柄を確保した当時、彼女は適正体重の半分以下まで痩せ細り、全身に打撲跡と複数の骨折があったことから日常的に虐待を受けていたものと思われる。
 その後、情状酌量した上で保護観察処分となり更生施設へ送還されるも、そこで入所者から陰湿なイジメを受けたと見られ、わずか半年で脱走。しばらく行方をくらませていたが、昨年から謎の猟奇殺人を繰り返すようになる。
 
「……同情はするけど……不憫だからって犯罪が許されてたまるか」

 苛立ちを抑えるべく二本目の煙草を取り出そうと箱を振るが、何の手ごたえもない。
 思わず舌打ちしてから箱をくしゃりと握りつぶし、手すりにもたれかかってガクリとうなだれる。

「たまの休みだってのに負の連鎖かよ……。仕方ねえ、買いに行くか……」

 手早く着替えて、近くのコンビニへと足を運ぶ。
 途中で食料も残り少なかったことを思い出し、袋がはち切れそうなくらい煙草とカップ麺を買って、足早に店を後にする。
 今日は一日中、部屋に引きこもって惰眠を貪るか……。
 まったく、我ながら侘しく物寂しい、つまらない生活だな……。

「やっほー警部~。2日ぶりぃ~」
「………………は?」

 不意に声をかけられて振り向くと、遺憾ながら嫌というほど見慣れてきた少女が腰まで伸びた長い黒髪を揺らしながら勢いよく手を振っていた。

「なっ……ちょ、おま……な、なんで……ッ」
「いやー偶然だねぇ。もしかして、この辺に住んでるのー? ってか私服! へぇ~初めて見たぁ。今日お休みなの? お買い物? 何買ったの? 多くない?」

 非番の日に殺人鬼とばったり出くわした俺の驚愕と動揺などお構いなしに、何食わぬ顔でのこのこ近づいて矢継ぎ早に疑問符を連投する甘莉。
 とても刑事に対する犯罪者の行動とは思えない。バカなのか舐めてるのかどっちかだ。いや、おそらくどっちもだ。

「……うるせえな、いいから大人しくしてろ。すぐ本部に連絡を……」
「きひひ、今から? 間に合うわけないよぉーだ。残念でしたぁ~♪」
「ぐっ……」

 素直に認めるのも癪だが、たしかにコイツの言う通りだ。狭い路地裏に大人数で囲んであの様だったんじゃ、とても……。いや待て、周りの一般人から協力を得ればあるいは……。しかし、誰もが知っている指名手配犯ならともかく、コイツは未成年のため顔写真すら報道されていない。加えて、今の俺は私服。この場で叫んだところで信じてもらえる可能性は限りなく低い。むしろ最悪の場合、俺が逆に通報されそうだ。
 ――という悲しい結論に至った俺は、慌てて取り出したスマホを断腸の思いで戻し、大きく肩を落とした。

「……何が目的だ。俺を嘲笑いに来たのか?」
「へ? 別にぃ? たまたま見かけたから嬉しくって声かけただけだよお~。アタシ他に友達いないしぃー。きひひひひ」
「おい、俺と仲良しみたいに言うんじゃねえよ。つーかお前、俺の名前も知らねえだろうが」
「あーっ! そう! それ! キミはアタシのこと知ってるのに、アタシは知らないってズルくない? ねえねえ、名前はぁ~?」

 お前に個人情報を開示する理由も義務も義理もねえよ。と言いたいところだが、答えるまでしつこく聞いてくる気がする。それはめんどくさすぎる。機密情報なら論外だが、俺個人のことくらいなら構わないだろう。

「……烏羽からすば嗣夜つぐやだ」
「ほうほう、イイ名前だねぇー。んじゃあ、歳は? 誕生日は~?」
「29歳。1989年12月24日」
「へぇ~、思ったより若いんだねえー。って、ワオ! 誕生日アタシと同じだあ! じゃあじゃあ、趣味は? 特技は? 好きな食べ物は? それからぁ~~……」
「あ゛~もうやめだ! どんだけ聞いてくるんだよ、さすがに答えてられっか!」
「ええぇ~~? いいじゃん、別にぃー」
「ったく……」

 普段は尋問する側だが、逆の立場になるとここまでストレスが溜まるとは……。
 心身ともに休ませる貴重な一日にするはずが、とんだ厄日になりやがった。
 くそっ、煙草煙草……。

「ぅにゃぁあああっ!」
「ッッ!?!」

 買ったばかりの煙草を開封し、早速一本を口元に近づけた。その途端——。
 隣を歩いていた甘莉は、目にも止まらぬ速さで上着のポケットから包丁を取り出すと、奇声を上げながら俺の指すれすれに全力で振り下ろして煙草を一刀両断した。

「なっ……なっ……?!」

 たった今起こった身も凍るような出来事に硬直する俺をよそに、甘莉は俺からレジ袋をひったくって、買い貯めた2カートンの煙草をアスファルトに叩きつけた。

「タバコはねぇー、体に悪いんだよお! キミだけじゃないんだよ、周りの人にはもっと悪いの! だからダメ! ぜーーったい!!」
「……いや……おま…………」

 ツッコミどころしかない。
 しかし、何から言えばいいのか悩んだ末に……俺は諦めた。

「…………はぁ~~……分かった分かった、俺が悪かった。それよりお前、その包丁ってもしかして……」
「うん、いつも使ってるヤツ~。すごいんだよぉーこれ。すっごく軽いしぃ、おっきいしぃ、キレイに切れるしぃー、特注品なんだあ。欲しい? もしかして欲しいの? 仕方ないなぁー、今度お揃いのをプレゼントしてあげる。きひひひひっ♪」
「いや、いらねえよ……」

 結局この日、甘莉を捕まえるチャンスが訪れることはなく、ひとしきり質問攻めにされた挙句、無駄話に付き合わされただけに終わった。
 せめて尾行して家を突き止めようとしたものの、いつもながら実に見事な子猫のごとき身軽さと機動力によって容易く逃げられてしまった。あんな小娘に翻弄されるなんて、はらわたが煮えくり返る以上に、ただただ虚しくて滑稽だ。



 それから数か月、なぜか頻繁に甘莉と遭遇するようになった。月に1回程度の殺人で取り逃がす度に、無能だなんだと世間や警察内部からのバッシングで神経をすり減らされているというのに、早朝の出勤時、深夜の退勤時、休日の外出時にと、もはや嫌がらせとしか思えない頻度でのほほんと現れる甘莉に、俺は心底辟易していた。
 唯一の救いは、甘莉が本当にクズしか殺していないことだ。報道やSNSで調べたというターゲットは、もれなく強盗、傷害、詐欺、殺人といった重罪を、一切の罪悪感も抱かずクソみたいな私利私欲のために犯して毛ほども後悔していない、そんな害虫を煮詰めたようなゴミ野郎だった。中には、俺が苦心の末に逮捕したのに証拠不十分で不起訴処分になったカスや、自分の物かも怪しい金を払って保釈されたカスもいて、内心……いや、まあ……だからどうってわけでもない。
 とにかく、最近では悲しいことに親以上に甘莉と会っていたのだが、実のところそれは偶然を装った罠だった。それが判明したのは、とある日の深夜。仕事の疲れで泥にように眠っていた俺は、突然けたたましく鳴り響いたインターホンの連打によって強制的に起こされた。てっきり、たちの悪い酔っ払いかと思ったのだが、ドアを開けた先には……

「こんばんはっ! いやぁ~、ちょっと汚れちゃってさあ。ちょーど警部のアパートが近かったから、お風呂でもーって思ったんだよねぇ~」
「………………ハ?」

 愛用の包丁を握り締め、乾いた血がこびりついた顔に屈託のない笑みを浮かべる甘莉が、当然のように立っていた。

「お前……どうして俺のアパートを……」
「もぉ~、そろそろ『お前』ってやめてよー、傷つくなあ。それじゃ、お借りしまぁーーす♪」

 寝起きで回転しない脳ではとても処理しきれない衝撃を受けて固まっている間に、甘莉は我が家を歩くように自然な動作で風呂場へと消えていった。
 この時、俺はようやく悟った。いつなのかは分からないが俺は尾けられていて、とっくに住所が割れていたのだ。なんとも間抜けな話だが、言い訳をするならば刑事が尾行されるだなんて一体誰が危惧するだろうか。
 いや、そんなことより今はこの状況……これは甘莉を捕らえる絶好のチャンスなのではないか?
 ほんの一瞬そう考えたものの、俺はすぐに思い直して大きくため息をつく。
 いくら殺人犯とはいえ……いや、殺人犯である上に16歳の少女が、自宅の風呂に入っていたなどと世間に知られようものなら、確実に俺は社会的に死ぬ。誰の目にも俺の方がヤバい。

「……なあ……お前、なんで俺に付きまとうんだ?」

 風呂場のドアを背にしてへたり込み、ふと疑問に感じたことをぽつりと呟く。

「あ、バレたぁ? まあまあ、いいじゃない。別に迷惑はかけてないでしょ~?」
「大迷惑だっつーの。俺は特別捜査本部の副本部長だ。つまり、お前の担当。逮捕できないと責任大。ったく、出世できねえどころの話じゃねえよ……」
「ありゃりゃ、それはお気の毒様~。……んー、ぶっちゃけるとねぇ……」

 いつも通り能天気に、馬鹿みたいに元気に、おちゃらけた態度で甘莉は答える。

「似てるから……かなあ。だから安心するんだよぉ~、一緒にいると」
「……似てる? お前と、俺が?」

 甘莉は自分のことをあまり話さない。その理由が、楽しく話せるような過去を持っていないからだと俺は知っている。
 一方の俺はどうだ。
 俺は小さい頃から正義の味方に憧れていた。学生時代は娯楽にかまけることなく、青春や恋愛などという非生産的な俗事を鼻で笑ってひたすら勉学に励み、肉体を鍛え、その結果、キャリア組のエリート警察官として20代で警視にまでなった。改めて振り返ると虚しくて孤独な過去ではあるが、理想も環境も境遇も経験も立場も、何もかも甘莉とは違う。

「初めて会った時のこと、覚えてるー?」

 ……覚えている。忘れようがない。あの日、知らない女に襲われているという被害者からの通報を受けて、俺は現場に向かった。

「まだ慣れてなくってさぁー、うっかり警察呼ばれて逃げられて……いやー焦ったよ~。なんとか追いついて、喉をサクッと掻っ切った時はホント感動したなぁ~」

 そうだ。まさにその直前、俺は到着した。正義の味方を目にして安堵した男の顔が瞬時に陰り、救いを求める手は空を切って、勢いよく吹き出す血が俺を染め上げた。

「あの時……キミを見て、思ったんだあ。この人はアタシとおんなじだって」
「…………は?」
「知ってる人だったんでしょ? もがいて苦しんで呻いて動かなくなるのを見てる時のキミ……ざまーみろって書いてあったよぉ、顔にさあ。きひひひひっ」
「なっ!? そ、そんな……ことは……」

 ない。そんなことはない。その、たった一言の否定が、どうしても口から出てこない。
 たしかに、俺はあの男を知っていた。悪質な煽り運転を繰り返した末、相手の運転手に暴行を加えて重傷を負わせた男で、道路交通法違反および傷害罪で執行猶予中だった。被害者は事件のせいで精神を病み、体に後遺症も残って今なお通院を余儀なくされているというのに、あの男は最後まで反省の態度がなく、一言の謝罪すらなかった。
 真性のクズ。
 生きていても何の価値もないゴミ。
 そう思っていたのは間違いない。
 だが……。

「アタシねー、分かっちゃうんだぁ、そういうの。……怒らせないように、機嫌を悪くしないようにって、お母さんとお父さんの顔色ばっかり気にしてたから……」
「ッ…………」
「あの時ねー、アタシすっごく嬉しかったんだあ。生まれて初めて褒められたような気がしたから……。よくやった、偉いぞって……。キミとアタシはねぇ、おんなじ気持ちの仲間なんだよー。悪いやつをやっつけるヒーローになりたいの。違うのは、やり方だけ」
「…………違う。そのやり方は……お前のやり方は……間違っている……」
「それにさぁー……アタシのこと、ちゃんと捕まえようと思ってる? どうしても本気には見えないんだよねえ、いっつもさあ。キミはもう気づいてるんじゃないのぉ? 自分が、本当はどうしたいのか」
「…………違う……俺は……違う…………」

 論理的に否定することも、感情的に言い返すこともできず、俺はただそれだけを独り言のように力なく繰り返した。
 そんな情けない俺に、甘莉はいつものようにからかうことなく、ドア越しに優しくささやいた。

「まあ、今はいいや。いつか……キミにも、きっと分かるよ。そのきっかけが…………アタシだったら、いいなぁ……」



 ――――2019年12月24日。
 最初に出会った時から約1年。今もなお甘莉の殺人は続き、被害者の数は13人に上っていた。
 俺は相変わらず甘莉を捕まえることができず、しかし一方、プライベートでは絶えず甘莉と交流するという奇妙な関係がずるずると続いていた。
 甘莉と会う度に、言葉を交わす度に、俺は何とも言えない虚無感とやりきれない鬱々とした感情が溜まっていき、今日も全く仕事に身が入らないままとっくに定時を過ぎていた。

「7時か……どうすっかな……」

 例年ならばクリスマスイブだからといって早く帰ることはないし、そもそも予定もない。ゆえに普段と変わらず、もう1時間くらいは残業に勤しむことを迷う必要はないのだが……。

「やる気出ねえな……。そういや、あいつの誕生日でもあったな。……別に祝う気はねえけど、ケーキくらい買ってやるか……」

 ふと、そんなことを考えてしまった自分に舌打ちし、顔をしかめて口内に転がしていたのど飴を噛み砕く。
 警察官が犯罪者にプレゼントだなんて、どうかしている。昔の自分であれば絶対にあり得ない思考回路だ。そんなことよりも、一刻も早く甘莉を逮捕することに尽力すべきだ。自分の誕生日であることから、甘莉はプレゼントをせびるため今日も俺と接触を図ってくるに違いない。そこを狙って、あらかじめ人員を配置しておけば……。

「……いや、やっぱり今日くらいは見逃してやるか……」

 別に、捕まえることを躊躇っているわけではない。
 ただ、いくら犯罪者相手とはいえ、そんな姑息な手段で罠にはめるのは人道に反する。むしろ、クリスマスケーキを交渉材料にして更生させることを――

「烏羽警視、交通事故です! 重体1名! 申し訳ございませんが、すぐに現場まで急行願います!」

 とりとめのない考えだけがぐるぐると頭の中を回る最中、がらんとした署内に飛び込んできた若手の刑事が切迫した声を上げる。本来は交通課の仕事だが、間が悪いことに今日は雪のせいで事故が立て続けに起こり、ほとんどが出払っている。
 ほんの少しだけケーキのことが頭をよぎったが、俺は再びのど飴を口に放り込んで気持ちを切り替える。

「分かった、怪我人の関係者に連絡しておけ。場所はどこだ?」
「場所は、ここから徒歩で5分程の所です。そして、あの……その怪我人というのが……」


 俺の通勤路にして主な買い物場所でもある、近場のコンビニ。今は車がガラスを突き破って、商品棚をなぎ倒してしまっている。だが、俺はそんな凄惨な状況に目もくれず、生々しいタイヤ痕が残る雪上のそばでぐったりと倒れる少女に駆け寄った。

「甘莉! 大丈夫か!? おい、しっかりしろっ!」

 見た目以上に軽くて細い体を抱き起こして必死に問いかけるが、頭から止めどなく血が流れるばかりでぴくりとも動かない。わずかに呼吸はしているものの、周りの雪を真っ赤に色づかせる出血量と青白い顔、骨が飛び出して異様な方向に曲がった右足が容態の深刻さを物語っている。
 いや……これは、もう……。

「くそっ! 救急隊はまだかっ!? 包帯とガーゼ持ってこい! 急げ!!」
「……あの~、警察の人っすよね? ちょっといいすか?」

 背後から緊張感のない声で呼びかけられて振り返ると、20代半ばの若い男がスマホを片手に気だるげな様子で頭を掻いていた。
 この緊急事態に何の用だと思ったが、俺は胸に絡みつく不安を悟られないよう、深々と呼吸をして平静を装った。

「どうした? 見ての通り忙しいんだ。急用じゃなければ後にしてくれ」

 色々な感情が複雑に渦巻き、無意識の内に乱暴な言葉遣いになってしまったものの、男は聞いているのかいないのか、スマホを操作しながら目も合わせず億劫そうに答える。

「あー、これやっちゃったの俺なんすよ。んで、これってやっぱ逮捕になるんすかね? それより先に事情聴取? まあいいや。とりあえず、すげー寒いんで俺はそこのファミレスに行ってますんで。こっち片付いたら呼んでください」
「…………何だと?」

 こいつ……今、何て言った?
 俺がやった?
 これを? コイツが?

「あーあ、これからデートだったのについてねーなぁ。せっかく店も予約してたってのに……。つーか、これ新車なんだけど。もったいね~」
「お前……何を言ってるんだ! 自分がやったことが分かってるのか? この惨状を見て何も思わないのかっ!?」

 事故の原因は明らかだ。この被害規模は相当のスピードを出していないとあり得ない。辛うじて確認できるタイヤは冬用でもなく、雪上ではいつも以上に気を付けて運転しなければならないことは馬鹿でも理解できる。どう考えても、この男の過失だ。それなのに、さっきから何なんだ。まるで他人事のように……。

「チッ……言われなくても分かってますよ、うるさいなぁ。別に、俺が悪くないとは言ってないでしょ? そもそも、その人とか店への賠償は保険から出ますし、それでいいじゃないっすか。ったく、マジめんどくさいことになったなぁー」

 男の軽薄で無礼で欠片も反省のしていない態度に、俺は強く拳を握り締める。
 こんな……。
 こんな奴のせいで、甘莉は……。

「――――きて……くれたんだぁ……けいし……」
「っ! 甘莉……!」

 今だかつて感じたことのない衝動が爆発する寸前、消え入るようなか細い声が腕の中から聞こえてきた。

「よかっ……たあ……。こ……これ…………キミ……に……」

 途切れ途切れの小さな声でそう言った甘莉は、大事そうに両手でしっかりと胸に抱いていた物を、震えながらゆっくりと差し出した。ツリーの絵が描かれた緑の包装紙に包まれた、長方形の箱。巻いてある赤いリボンに挟まれたクリスマスカードには『Merry Christmas』と華やかで無機質な文字が印字され、その下に丸っこくて下手くそな文字が手書きで追記されていた。

『&ハッピーバースデー』

 例えようのない息苦しさを感じた。
 心臓を締め付けられているような、そんな息苦しさを。
 喉が狭窄して、目頭が熱くなって、体が強張る。
 思うように動かない手を無理やり動かし、やっとの思いで箱を受け取った俺は、いつもの小生意気な笑みを気丈に張り付ける甘莉に何も言うことができず、ただ耐えるように奥歯を強く噛み締めていた。

「……さい……ごに……おねがい…………しても……いい……?」

 見ていられない。けれど見ずにはいられずに、俺は甘莉の目をじっと見つめながら大きく頷く。
 甘莉は、弱々しく、ぎこちない動きで俺の耳元まで口を近づけ、たった一言だけ呟いた。

「…………ッ……分かった………………」

 俺は、ほんの少し迷っただけで、すぐにその願いを了承した。理由を説明することはできない。だが、もう、そうするしかないのだと思って、そっと撫でるように、優しく包装を解いた。

「もしもーし、もういいっすかぁ? こっちも寒くて死にそうなんすけどー。つーか、もうだるいんで俺のことは明日にしません? あっ! それと、その人の家族とかに俺の連絡先教えないでくださいよ。絶対めんどくさいんで」

 ――ああ……そうか……。
 ようやく……ようやく、分かった。
 甘莉……君が言っていたことは、全部正しかったんだ。
 間違っていたのは、俺だった。
 もう取り返しはつかないけれど。
 今さら遅いかもしれないけれど。
 せめて…………これからは、間違えないようにするよ。

 君のように――――。



『只今、緊急ニュースが入りましたのでお伝えいたします。本日午後7時30分頃、東京都〇〇区△△3丁目のコンビニエンスストアにて、26歳の男を警察官が射殺する事件が起きました。目撃証言から、容疑者は最寄りの警察署に勤務する烏羽嗣夜警視と見られ、被害者の頭や腹に計4発の実弾を発砲して、現在は逃亡しています。また、容疑者は現場にて、交通事故により重体だった17歳の少女の胸に、刃渡り20センチ程度の刃物を刺して殺害した疑いも持たれており、警視庁は烏場容疑者を殺人容疑で全国に指名手配して行方を追っています。付近の住民の方は、くれぐれも外出を控えるようにしてください』



 ――――数か月後。

「はあ……はあ……何なんだよ、俺が一体何したってんだよ、ちくしょうっ!」

 人通りの少ない深夜の路地裏。
 暗闇の中で耳障りな悪態をつきながら逃げ惑う醜い豚の足に、弾丸をぶち込む。

「ぐあああああああっ! ひ、ひぃぃっ! たた、助けてくれえええっ!!」

 地べたを這いずり回り、往生際悪く泣きわめいて許しを請うクズを見下ろし、俺は最高に晴れ晴れとした気分で愛用の包丁を振り下ろした。
 何度も、何度も、何度も……。

「きひっ……きひひ……きッヒヒひひひ…………」
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