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動き始める歯車に嘘をついた鬼
第四話
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初めて会った日の事は今でも事細かに覚えてる。忘れる日なんてきっとこない。それだけ最低最悪な出会いだったから。
その日は何もかもが完璧な日だった。空は雲一つない晴れ、大地からは溢れんばかりの気が感じられ、周囲の空気は何処までもすんでいた。流れる清流には一点の曇りもなくきらきらと輝いていて。体のコンディションから精神状態。私自身も完璧に仕上げて初めての精霊降ろしをするにはこれ以上ないと言うほどのタイミングだった。
高知県香美市に産まれ、いざなぎ流の使い手とした育てられた私はそれは苛酷な修行を幼い頃から受け続けてきた。あの日はそんな私が一人前と認められるための試験の日だった。いざなぎ流は高知県にて独自に伝えられてきた神道の一つ。そして精霊降ろしはいざなぎ流の使い手なら誰もができて当然なこと。精霊を降ろして初めて一人前となれる。精霊降ろしの儀はそれは大切なことだった。
だからこそ何もかもを完璧な状況で降ろせるようにと天候や大地の気を詠み、ベストな日を決めその日のために体調から何から何もかも作り上げた。
絶対に成功する。そう言いきれるほど何もかもが最高の日だった。
実際ほぼ成功していたのだ。精霊をその場に降ろすことに成功し、契約を交わす段階に入ろうとしたそのとき、結界を破り無理矢理契約の場に突入してきたバカさえ現れなければ成功していたのだ。突然現れたその馬鹿は今まさに契約しようとしていた私と精霊の間に割ってはいり、契約はその馬鹿と交わされてしまった。
愕然とした。いつのまにかおろした精霊もその場から消えていて、契約の儀は失敗に終わった。失意に震える私を見上げたのは大きな蒼い目で、そのバカこそアイツ、亜梨吹だった。
私、江渕鈴華と倉田亜梨吹の最低な出会いの日。
あの日の事を私はきっと死んでも忘れない。
そんな最低な出会いを果たしたその日、亜梨吹は私の家で暮らすことになった。一度交わした契約は余程の事がない限り取り消すことはできず、またそれにはそれ相応の対価も必要となる。必然的に共にいるしかなくなったのだ。その頃私はまだ小学五年生で一日の大半は学校で過ごしていて、そんな私にくっついている亜梨吹もそのうち家の計らいで学校に通うようになった。吸血鬼と学校と言う組み合わせが普通に妙で最初の頃は学校にいる亜梨吹をいつも奇妙なものを見るような目で見ていた。亜梨吹は吸血鬼としては変わっていて、日の光を浴びても多少具合が悪くなる程度で普通に過ごせるし、にんにくも食べれないだけで平気だった。夜こそ完全に吸血鬼の姿になってしまうが、昼は完全な人間の姿へと擬態することも可能で私はたまに亜梨吹が吸血鬼なのか分からなくなることがあった。でも間違いなく亜梨吹は吸血鬼で生きるために人の血を必要としていた。だけれど亜梨吹は人の血を吸うことをしなかった。それがなぜかは分かっていながらも私には何も言うことはできなかった。ただ血を吸わずに飢え渇き悶え苦しむ亜梨吹を見ていることしかできなかった。
血を吸って良いよとも言おうと思った。だって本気でそう思っていたから。出会って始めの頃は出合い方のせいもあり嫌っていたけど、共に暮らし共に過ごす日々は楽しくて、毎日笑っている隣には彼女がいて、いつしか誰より仲のいい親友になっていた。数年後数十年後ずっと傍にいるのだと。契約とかそんなことも関係なく、ただ友達としてこれから先もずっと傍にいるのだと信じて疑わないようになるにはそうかからなかった。
だから本気で自分の血を吸われてもいいと思っていた。
だけどそれを亜梨吹はしなかった。それをしたら取り返しがつかないことになるからと最後まで拒み続けた。
そして選んだ結末は最悪だった
2
朝、起きたらお味噌汁の臭いが鼻を満たした。それと同時に甘い臭いも僅かに漂ってくる。無意識に口のなか涎が貯まる。それに強く絶望した。ガンガンとうるさくドアの音が鳴る。
「はよおきい!遅刻するで!!」
甲高い怒鳴り声は耳に響いて朝から脳を揺さぶる。隣はもう別の住人の部屋でドンと壁を叩く音が鳴り響いた。うるせ!眠れねえだろうが!!うるせぇのはそっちやんか!ってか、また学校サボるつもりか、このアホ!!部屋を挟んで廊下と隣の部屋から怒鳴りあいの喧嘩をされたら、いくら眠くても起きずにはいられない。ダルい体を無理矢理起こした。厚いカーテン越しにも日の強さを感じて憂鬱になる。制服に着替える。その間もまだ両隣からの喧嘩は続いていた。近所迷惑にも程があるいつもの朝。不思議なことにもう片方の隣からの苦情がきたことはない。
「おはよう」
「遅いき!! はよこれ食べ。いくで」
口のなかに無理矢理放り込まれたパン一枚。手に押し付けられた鞄。歯磨きも顔も洗ってないのに引っ張られるまま玄関にどうしようもないいつもの朝。
ぐるぐるとお腹がなる。
甘い臭いを強く感じて頭を振った。
夜強く感じていたはずのそれが、どんどん日の高いうちにも感じだすようになり、ついには朝まで空腹を感じだした。終わりはもうすぐそこに、何て思ってもう終わってしまっていたことに気づく。
まだ食パンを加えた姿であることも気にされず、玄関のドアは開け放たれる。ガンって音が鳴り響くほど荒々しくドアを開けた本人は靴を一瞬ではいて外だ。いつもはそのまま一人歩き出すのに何故だか今日は振り返った。
「ほら、どうしたん? はよいくで。ボンヤリしてる時間なんてもうないんやきな。後数分でも遅れたら遅刻確定やき」
せかされて早く靴を履かなければと思うのに足も手も動かなかった。朝に弱い頭は外に出ようとした今、ようやく覚醒して昨日のことを思い出す。おぼろげな記憶のなか、最後にみたのは黒髪の彼の姿だ。
まだ交遊期間は続く。彼は今日も学校に来るだろうか。そしたら……もう。
いくでと急かす声が耳を打つ。嫌だと言いそうになる。嫌だいきたくないと。
だけどそれはただの時間稼ぎだ。どうしようもないことは彼女が一番知っている。仮に今日会わなかったとして、彼の口から人から漏れても終わりだし、それすらなかったとしてももうすぐ終わりはやってくる。
彼女にできるのはせめて終わりを少しでもさきに伸ばすことだけ。それしかできない。
甘い匂いが目の前から漂う。はようはようと急かす声の主の臭いすらもそう思い始めた今理性なんてもう欠けらしかない。
それでも焼ききれそうな脳みそをなんとか繋ぎあわせる。
いつか、その日が来たら私が終わらせてやるしゃいよ
いつかの声が聞こえた。それに少しだけホッとした。ああ、早く、だけどまだもう少しだけ待って、でも早く
矛盾した心がぐるぐる揺れた。
2
部活も終わり後は帰るだけとなった時刻、葉水学園図書室ではさっさと蓮が退室していく。いつもと同じだけの時間が今日この部屋では流れていて、まふでこれからも続くかと言わんばかりに平和な会話が続いた。
「今日も彼が一番だったね」
「終わろうかと言ったらすぐ帰りますもんね。おしゃべりしっていたらいいのに」
「まあ、無理だろうね……。さて、今日は僕も用事があるし。おしゃべりはこれくらいね」
「えーー」
「文句言わない。話してても途中で遅いって先生が来るかもだし」
「あ、それは嫌だ。帰ろう。クラスであって何でまた放課後に狸爺の顔見なくちゃならんのか」
「先生に対して酷い言い様や。まあ、わしも賛成やけど
「みんな。酷いな……。さあ。私帰ろう」
「さっさと逃げていく君が一番酷いと思うぞ。まあ帰ろうか」
そうして全員が図書室から出て行った。それぞれ他の用事があったりと図書室の扉の前で別れる。倉田亜梨吹はそのまま江渕鈴果と共に帰路につこうとした。だが、校門前、呼び止められ振り返る。
黒い姿が見えた。
塀に寄りかかった小さな体。長い黒い髪。さきに一人で帰ったはずの尾神蓮だった。
呼吸が止まる。そのまま心臓すらも止まりそうだった。
「ちょっとあんたに用事があるんだけど。来てくれる」
黒い目はただ真っ直ぐに亜梨吹をいぬく。他のものは欠片もその目の中には入っていない。亜梨吹だけをみつめ亜梨吹だけに問い掛けている。その目に朝感じていた恐怖がよみがえる。それは部活が始まるまでの間ずっと続いていたものだけど、部活が終わり何も言い出さない蓮を見ていると次第に忘れていてしまっていた。このままなかったことにしてくれるんだなんてそんな都合の良いことを考えて。
そんなはずはないとよく考えずとも分かっただろうに、亜梨吹は今まで思考を停止していたのだ。終わりを少しでも遅くしたいから。
バクバクと心臓が鳴り響く。足は地面に縫いついたかのように動かない。
「あんた……」
亜梨吹の隣で鈴果が怯えるような表情をして蓮を見ていた。何もまだ言ってないのにその表情はもう全てを知っているかのようで胸がキリキリと音をたてた。
「あんたに用はないよ。俺が用があるのはこいつだけ。そう言うわけだから借りるね」
その目に亜梨吹だけを写したまま蓮は告げる。動けないままの亜梨吹のもとにゆっくりと近づけばその服の裾をわしづかんだ 。驚く二人の様子などきにせずに蓮は裾をつかんだまま歩き出す
「ちょ」
鈴果が何かを言おうとするのに亜梨吹は何も言えなかった。ただ鈴果に向かって微笑む。そのくちもとからは自分に向けたどうしようもない嘲笑か溢れていた。
「ちょっと、行ってくるね」
きっとちょっとでは終わらないけれど。
3
カツカツと二つぶんの足音が響く。捕まれたままの服の裾がずっと視界の中から消えない。まるで終わりへと導く重たく冷たい手錠のようだと亜梨吹は感じた。それに導かれ向かう場所はきっと一つ。
ああ、せめて最後はどこか空が見える場所がいいなと思った。
そんなことを思いながら導かれるまま進んでいるとやがて何処かの建物の中にはいっていた。開けっ放しにされていたドア、数年手入れされていないのかボロボロの床。廃墟の中に入ったのだとすぐに気付く。建物の奥に奥にと亜梨吹の裾を掴んだまま蓮は歩いていく。
立ち止まったのは窓もない日も当たらない部屋だった。薄暗い部屋。立ち止まっても亜梨吹は顔をあげることはできない。それどころかますます下を向いて捕まれている服の裾すらも見えなくなってしまう。この地面を抉って逃げることはできないだろうかなんてえきもないことを考えて震える息がもれる。
その音が届いたのか。裾が手離される。顔をあげた亜梨吹を黒い目がじっと見ていた。それは吸い込まれそうなほど深い闇ではっと息を飲む。
「あんたはどうしたいの」
端的な問いだった。たった一言だけの。とても簡単でとても短くとても静かな問いかけ。だけどそこにはすべてが詰まっていた。その音だけでこの男はもう何もかもを知っているのだと気付いてしまった。倉田亜梨吹と言う存在の全ては知らないのかもしれない、それでも大切なこと亜梨吹が誰にも言えない言いたくない大切な真実はすべて知ってしまっているのだ。どうしてだとかそんな言葉はでてこなかった。
ただ胸にすとんと落ちる。
亜梨吹は何もない目で蓮の姿を見つめた。闇のような黒い目は亜梨吹の全てをうつして、逃げ出すことを許さない。
「私は」
認めたくないことを認めなければならなかった。喉がまるで張り付いたかのように動かない。それでも必死に言葉を紡ごうとして、まるで切り裂かれるような痛みが喉奥を襲う。
認めたくなんてなかった。
亜梨吹はずっと認めたくなんてなかった。だからずっと見ないふりをし続けてそれがいつしか最悪の事態を巻き起こしていた。それでも亜梨吹は自分を人だと思っていたかった。その虚像を抱えていたかった。
初めて亜梨吹が目を開けた日の事を彼女はよく覚えている。視界一杯に広がった泣き出す一歩手前の二対の瞳。うるうると濡れたそれをじっと見上げるとダムが決壊したかのように雫が後から後から降り注いできた。
父は吸血鬼の中の吸血鬼、ドラキュラ伯爵。そして母は吸血鬼を倒すために二百年もかけて作られた一点の曇りなき聖なる乙女。
相反する二つの存在は、なのに互いに愛し求めあい結ばれて、その結晶として産み落とされたのが亜梨吹だった。
ただそれは決して世界には認められない行為だった。
噛み合うことのない筈のパーツ達が無理矢理に噛み合わせて歯車を動かした。鳴り始めたその音は汚く醜く歪んだ音だった。
その歪みのせいで産まれてから四年亜梨吹は目を開けなかった。息もしてどういう理屈か成長もする。ただ目だけを開けなかった。両親はたいそう心配して毎日毎日亜梨吹のもとに付き添った。そして目を開けた亜梨吹を見たとき二人は泣きながらに喜んでその日は城中大騒ぎだった。それから亜梨吹はたいそう可愛がれ、どんなバカ親も呆れるぐらいに過保護に育てられた。二匹の使い魔を与えられ、必要とする血もすべて父が与えてくれて、城の外には一度もでたことはなかった。
それがどうしてかなんて一度も考えることもなく亜梨吹はその日常を甘受していた。
それが壊れたのはそう昔のことではない。むしろ妖怪の中でも特に長い時間を生きる吸血鬼の感覚からしたら一瞬にも近いたった十年まえのこと。
亜梨吹の住んでいた城が突如紅色の炎に包まれたのだ。それがなぜ起きたことなのか亜梨吹は何も知らない。ただ気付いたら城が燃えいて父の姿は何処にもなく亜梨吹に使えていた二匹の眷属だけが亜梨吹のそばで騒ぎ立てていた。彼らに言われるまま亜梨吹は城を飛び出し、火の手から逃れた。だがそれだけでは終わらず火から逃げ出したあと呆然とする亜梨吹をなにものかが追い立ててきた。石を投げ矢を放たれ銃を撃たれる。聖水が飛び散り、十字架が迫る。訳もわからないまま亜梨吹は逃げ出し、そして何者かから追われる形で辿り着いたのがこの日本。そして、亜梨吹の親友江渕鈴華のもとだった。
最初の頃はそれはもう酷いものだった。今まで父親と母親、それに眷属としかあったことのない亜梨吹は初めてまともに見て話す人間に警戒していたし、鈴華は鈴華で亜梨吹が大事な儀式を邪魔したことを怒っていて二人まともに話すことすらしなかった。だけど二人で共に過ごすうちに亜梨吹と鈴華の間には確かな友情が結ばれていた。さらに亜梨吹は学校にも行き出して他の人間とも仲良くなっていた。
だけどここで最大の問題があった。
亜梨吹は自分が吸血鬼だと言うことを知らなかったのだ。父と母、それに眷属との最低限な暮らしでは自分が普通とは違うと言うことすらも知る機会がなかった。他の人たちも自分と同じように血を吸うものだと思い、自分が他とは違う存在なのだと言うことに気付いていなかった。
気付いたのはいつの頃だったか。幸いなことに亜梨吹には鈴華や眷属たちがいた。亜梨吹が人間とは違うことを知っていた彼らのお陰で自分のことを知る前に周りに知られることにはならないですんだ。それからずっと人間のふりをして暮らしてきている。
そうやって暮らしだしてそのうち亜梨吹は他とは違う自分がいやになりだしていた。学校でできた友達も家の周りにいる人々もみんな人間で、亜梨吹みたいに人の血を必要としない。人を傷つけることなく生きていける。それが堪らなく羨ましく亜梨吹もそうなりたかった。人間でありたかった。
そう思うようになってから亜梨吹は極力血を吸わないようになった。血を吸うのは本当に必要となった時だけ。足がふるえてもう歩けないそんな状況になって初めて血を吸う。鈴華や家の人々、学校の友達の血は何があっても絶対に吸わなかった。限界の限界に達しもう動けなくなった後すらも亜梨吹は彼らの血だけは吸わなかった。それをしたら何かが終わる気がしたから。
亜梨吹は必死に人間になろうとした。
でも、結局人間にはなれなかった。
亜梨吹が鈴華と出会って三年。中学三年になったある日、その異変は起きた。
突然だった。ある日なんの前触れを感じることもなく亜梨吹は急変した。血を吸いたくって堪らなくなり、そして気付けば人の血を吸っていた。夜の町。まだ人が多くいる時間帯。人の目の前で亜梨吹は血を吸っていて、意識が朦朧とするなか愕然とその場に立ち尽くした。
悲鳴悲鳴悲鳴
辺りを多いつくすその音に亜梨吹の方こそ叫びだしそうになった。だけどできなかった。口が震えて音を出すことすらできなかった。滴る血が甘い匂いを撒き散らしガンガンと頭に響いた。
そんな亜梨吹の目に写ったのは、ショーウインドに写る真っ赤な己の目だった。
蒼いはずの自分の目が血のように赤く変わっていて、胸の奥底からは食べたい食べたいと血への渇望が沸き上がる。亜梨吹は怖くなってその場を立ち去った。震える体で家に駆け込み、部屋でベッドで丸くなって夜を過ごした。すべてを夢だと思おうとした。明日になれば何もかも元通りになると。
だがそうはならなかった。
翌日のニュースでは昨日のことが大々的に取り沙汰にされどの番組もその話をしていた。さらに昨日聞こえた胸の奥底からの血への渇望はなりやまぬことなく亜梨吹を責め立て続けた。血の匂いが何時もより甘く感じてくらくらと目眩がした。
何もかもが変わってしまっていた。
何故こんなことになってしまったのか分からず、部屋に閉じ籠ってしまった亜梨吹にどうしようもない真実を与えたのは眷属達だった。
亜梨吹が産まれた時から傍にいた眷属たちは亜梨吹のことを亜梨吹以上に知っていた。彼女の両親から託されていたのだ。
亜梨吹は選ばなくては行けなかったのだ。人間か妖怪かを。
ドラキュラ伯爵に聖なる乙女。
亜梨吹の父と母は決して相容れることなき存在だった。触れ合えばどちらか片方死んでしまうはずの。
邪と聖。死と生。夜の者と昼の者。二人はそういう存在だった。
それなのに二人は愛し合い亜梨吹をうんだ。
邪と聖、悪と善の子供を産んだ。
何よりも邪なる血と、何よりも聖なる血が混じり合い、混沌の禁忌の子を産んだ。
子供の中で邪と聖は大きく反発し合った。
亜梨吹の中で二つは戦い続ける。
そして戦い大きく広がり続けるそれは、やがては血を求めだす。人の血を。邪の血を。聖の血を。
戦いを止める為に。
邪悪なる心を持つ人の血を食べれば亜梨吹は妖怪に。完全なるドラキュラ伯爵となり多くの人の血を吸い続けなければ生きていけなくなる。
聖なる心を持つ人の血を食べれば亜梨吹は半妖に。完全なる人間にはなれなくともそれに近い存在になる。血はほんのちょっと吸うだけで数年近く生きていける。ほぼ人間と同じように生きていけ瞳のなかに写る自分の醜い姿をこれ以上見たくなくてる。
亜梨吹は選ばなければ行けなかった。
だがその為に必要なのは丸々一人の血。混じりあってはいけない。純粋な一人。悪か聖か。こんな混沌とした世で雑じり気のないどちらかの血を吸わなければいけなかった。
そうでなければ亜梨吹は血に負け飢えに負け、闇に意識を乗っ取られただ人を襲うだけの化け物と成り果てる。
亜梨吹の父はそれを食い止める為、亜梨吹を屋敷へと軟禁していた。屋敷には結界が貼られており亜梨吹のなかで起きている血の戦いを留めておくことができた。そうして亜梨吹にはなにも言わずに守り続けていた。もう少し亜梨吹が大人になってからどちらを選ぶのか問うつもりだったのだ。
だがその前に亜梨吹は城をでてしまった。そして亜梨吹はなにも知らぬまま時が来てしまったのだった。
眷属たちは亜梨吹に何度も本当のことを言おうとした。だか言えなかった。人間と仲良く暮らす亜梨吹をみてまさか人間を殺せなんて言えるはずもなかった。
それでも言わなければと悩んでいるうちにそのときは来てしまったのだ。
亜梨吹のなかに鬼が芽生えた。
鬼は血を求める。急がなければ亜梨吹は亜梨吹でなくなってしまう。急いで決めなければ。
だけど亜梨吹は決められなかった。
正確に言うと食べられなかった。人か妖怪か。そう問われた時、亜梨吹は何の迷いもなく人を選ぶ。人になりたかったから。
だけど人になるために人の血をすべて吸い、人を殺すことはできなかった。それをするには亜梨吹は人を知りすぎた。人を好きになりすぎた。
ならばせめて死刑が決まったような悪人の血だけでも吸い、己を保つようにと周りから催促されてもそれもできなかった。
人を殺してしまえばもう取り返しのつかない化け物になる気がして。もう人間になれない気がして。
少しずつ意識が腹のうちに巣食う何かに奪われていくのを見ていることしかできなかった。どんどんどんどん正気でいられる時間が減っていく。それを震えながら耐え続けるしかできなかった。
いつか化け物になるカウントダウンを数え続けているしかなかった。
人を多く襲うようになりながら、それでも最後の一線だけは保ち、後少し後少しと伸ばし続けた。
そして、それももう終わりだ。
『人の血を吸ったとかこのニュース本当なのかね』
『バカじゃない。本当のわけないじゃない』
『そうそう。化け物じゃないんだから』
いつか聞いた声が甦る。
それが苦しいほどに胸を締め付ける。人間になりたかった。
「だから、後少しだけ待って。もう後少し後少し経てば私は死ぬから。それまで待って。
お願い。まだ私は人間でいたい」
ボロボロと涙がこぼれ落ちた。みっともなくも床に膝をついて目の前にある姿にすがり付いた。
まだ人間でいたい。人間でないのだとしても鈴華や他のみんながいる場所で偽りでも同じ人間として共にいたかった。最後の最後まで。
「馬鹿じゃないの」
冷たい声が静かに響いた。古びた廃墟に痛いほどに響き渡る。
顔を上げた亜梨吹の目に冷たい闇が写る。
「人間になりたいとかふざけんなよ。人間じゃないならそれを受け入れるしかないだろう。それを受け入れて自分の在り方で生きていくしかないだろう」 真っ黒な目。何処までも引きずり込まれていきそうなほどの。
「そんなの……」
「どんだけ頑張った所で生まれついたものいがいにはなれはしない。人は人だし、妖怪は妖怪だ。変わることなどできやしない。だったらその運命の中で自分が出来る最善を尽くして生きていくしかないだろうが。どんなに苦しくてもどんなに辛くても血反吐を吐きながらも例え溶岩を飲み込むようなことだとしても、それでもそれでも望まれ続ける限り、自分が望み続ける限り生きていくしかないんだ。」
「そんなの」
できるはずがないという言葉は睨み付ける瞳を前に消えていく。頬を伝う涙が床を濡らし水溜まりをつくる。
「例え人を殺そうとも誰かが自分が生きることを望むならそれだけは諦めたら駄目なんだ。
あんたはまだ生きたいんだろうが。だから泣くんだろうが。生きたいから死にたくないから泣いてるんだろうが」
決してあらげられてない声なのに激昂にも似た激しさを感じ、皮膚に僅かな痛みすらも感じた。
人間になりたかった。ずっとずっとそれだけを思い続けて亜梨吹は生きてきた。涙が止まらない。口がうまく動かない。懸命に頭をふる。泣いてるせいで所々途切れながらそれでも言葉を紡ぐ。癇癪を起こした子供のように。
「違う。亜梨吹は、亜梨吹はもう死にたいんや。化け物になるぐらいなら人間になれんぐらいなら死んだ方がましなんや!」
語気をあらげた声が悲しいほどの切なさを帯びて廃墟のなかこだまする。それを聞いてるはずの蓮は変わらない冷たい目でただため息をつく。
「そう。でもあんたがいくらそう思っててもあんたに生きていてほしいって思ってる人は他にいるみたいだけど」
「え?」
そうして告げた言葉に亜梨吹は不思議そうに蓮を見上げた。見開かれた目、ぽかんと開いた口。何をいうのかとそのかおは語る。急に止まった涙が一筋転がり落ちる。蓮はすっと視線をはずす。やってきた入り口のほうを見つめ、くいと顎で指す。亜梨吹はなにも考えずに振り返り、そして固まった。
いつからいたのかそこには一つの影があった。半分だけ身を隠しながらもこちらを見つめる一つの影があった。涙はまだでてないだけど泣き出しそうなほど潤んだ瞳をしていた。噛み締められている唇からは涙の代わりのように赤い血が流れていた。
どくりと心臓が音をたてた。そのさらに奥の方から食べろ食べろと悪魔の声がわめきたてる。その衝動を必死に押さえながら亜梨吹は影をみた。それは彼女が誰よりもよく知る友達の姿だった。
「鈴華ちゃん。何で」
「あんたが心配だったからだろう。ずっと後つけてたけど」
泣いていたせいではない震える声が彼女を呼ぶ。その後に続けられた蓮の言葉にさらに目が大きく見開かれる。その体も震える。全く彼女は気付いていなかった。ずっと自分のことに精一杯で気付けずにいた。
「鈴華ちゃん」
もう一度名前を呼んだ。名前を呼ぶだけでなくもっと言いたいことがあるのに、聞きたいのに声にはできなかった。空気をはむように口だけが動かされる。あ、あと意味のない音だけが漏れる。だけどその顔はその目は亜梨吹がいいたいこと全てを写し出してい。どうして、なんで、何故、分かっていてくれたんじゃないのか。聞きたい疑問も言いたいことも全部写していた。
鈴華の唇が震えた。ただでさえ噛み締めすぎて血が流れていた唇にさらに歯が深く刺さり、血を溢れさせる。握りしめた手も皮膚を突き破り、爪が刺さっていた。
「心配やったからや。ずっとずっと心配やった!毎日が不安で明日がくるのが恐くて眠るのが辛かった。いつかがくるのが恐ろしくて仕方なかった。 友達やん。友達やからずっと」
獣の咆哮だった。大切なものを奪われそうになりながらそれを見てることしかできない獣の咆哮。最後の足掻きとばかりに鳴り響く。だが次第にそれも弱くなり、最後には泣き声に変わる。
今鈴華のなかでは怒りと悲しみが数多の数渦巻いていた。大切な友達が苦しんでるのになにもしてやれない自分への怒り、悲しみ。勝手に鈴華が自分のことを分かって見守ってくれているのだと思っている亜梨吹に対しての怒りに悲しみ。その事を口に出せない自分への怒り、悲しみ。亜梨吹が死んでしまうかもしれない悲しみ。そしてそうなった後も鈴華は大丈夫だと思っている亜梨吹への怒り。
今だけじゃない。もう長いことそれは鈴華の心のなかに住み着いて渦巻き続けていた。それでも鈴華には亜梨吹を助けてやれる方法が何一つ分からず、何も言えないままでいた。その感情が今この場に来て爆発した。
泣き声が響く先程まで泣いていた亜梨吹よりももっと大きな声で鈴華がなく。時折獣の咆哮すらもまじる。涙で目の前なんてもう見えてないだろうに、その目は亜梨吹を強く見つめていた。
ふざけんなという声が聞こえてくるような力強さだった。
亜梨吹はそれを呆然とみていることしかできなかった。ずっと亜梨吹は鈴華は自分のことをわかってくれているのだと思っていた。亜梨吹が鈴華に直接言ったことはないけど、亜梨吹の体のことは眷属たちに聞いて知っている筈なのにそれでも何も言ってこなかったから。何も言ってこないでただ亜梨吹を見ていた。亜梨吹のそばにいて、何も知らなかった頃のままに振る舞ってくれていた。亜梨吹の葛藤だって、願いだって、化け物になる前に死んでしまおうと決めてしまったことだってすべて知ってる筈なのに。眷属たちが亜梨吹に内緒で話していたことを亜梨吹はしっている。亜梨吹を説得してくれと頼んでいた眷属たちを知っている。だけど鈴華華にも言って来なかった。ただ亜梨吹が望むいつも通りの日々を送ってくれた。
だから鈴華は亜梨吹のことを分かってくれて望むように生きれるように見守ってくれているのだと勝手に思っていた。その裏でどれほど傷つけていたのか何て考えたこともなかったのだ。自分のことで精一杯で鈴華のことを見えていなかった。勝手に自分が死んでも鈴華ならあんまり悲しまずに生きていてくれると思っていた。
体の奥から震えた。急激に体が冷え、指先一本ですら動かせなくなる。そんな状況でできるのはただ見つめ続けることだけだ。
「分かっただろう。あんたはしんじゃいけないんだ」
蓮の静かな言葉が耳を打つ。目の前には亜梨吹のせいで泣き続けてる鈴華の姿。その泣き声が鼓膜から脳みそまでも叩きつけるように震わせるなかでその声は確かに聞こえて、固まった亜梨吹の脳をぶち動かす。
死にたくないと思った。死ねないとも思った。こんなに亜梨吹のことを思ってくれる大切な友を残して死んでいいはずがないとも。
だけど、だけど
「うるさい!!」
泣き声を打ち消すように亜梨吹の叫びが響く。
「じゃあどうしろって言うんや!!亜梨吹に血を吸えって言うんか!? 亜梨吹に人を殺せって!! そんなんできるはずないやん!!」
生きたいと思った。まだ鈴華と生きていたいと思った。生きていなくてはいけないのだとも思った。だけどどうしようもないことを亜梨吹が一番知っていた。自分が自分として生きていくためには人を殺すそれ以外の方法がないのだということを誰よりも知っていた。
知っていたから諦めたのだから。
「できなくてもやるんだ。そうするしかないんだよ」
蓮の言葉が響く。亜梨吹の叫びで泣いていた鈴華も泣き止んでおり、静かな空間に響くただ真っ直ぐなこえ。
「そんなん、そんなん亜梨吹は人で」
「人でなんていられない。人になんてなれるはずがない。どんなにうまく擬態した所であんたが妖怪である事実だけは変わりがないんだから
受け入れろ。何もかも。そうやって生きていけ。」
できるわけない。人でいたいといまだ訴える亜梨吹の声を蓮はすべて切り捨てた。蓮の目に小さな肩が見える。何もかもを諦めてしまった実物以上に小さく見える肩が。その向こう側には息を飲んでこれからを見守る鈴華の姿。その目もまた諦めたような色をしていて蓮を酷く苛立たせった。
ほかのなにを諦めてもいい。だけど人には絶対に諦めてはいけないことがある。それが生きることだ。人だけじゃないこの世のありとあらゆる生物、動物だろうが虫だろうが妖怪だろうが生きとし生けるものすべて生きることだけは諦めてはいけない。
だってそれが生きるということで、それがちっぽけな存在にだってできる産んでくれた両親、これまで関わってくれたすべての人に対する最大の感謝で恩返しだから。
苛立ちに突き動かされるまま蓮は一歩大きく踏み出した。
「受け入れろ! 生きたいって思うなら! 死にたくないって少しでも思うなら思ってくれる人がいるなら!誰を犠牲にしても、何を犠牲にしても受け入れて生き続けろ! 別のものになんてなれはしないけど、そうやって自分の生き方に自信をもって生きていけばいつかあんたを受け入れてくれる人が現れる。あんたにはもうその一人がいるだろうが」
叫びながら蓮は亜梨吹に近付く。蓮の声は耳に入りながらも亜梨吹は必死に聞かないように心を蓋にした。もう無駄なのだと無理なのだと。
そんな亜梨吹の手を蓮が掴む。蓮を見ないようにしていた亜梨吹は近づいてきていたことに気付いてなくて酷く驚く。そんな無防備な亜梨吹の頭をつかみ、自分の首筋へと力強く押し付けた。驚いて小さく開いたままだった口は蓮の都合がいいことに学ランにとささる。その下には皮膚があり、大きな血管が流れている。亜梨吹も鈴華も目を丸くしてこの出来事をみた。
「なにを」
鈴華の震える声が蓮に問う。蓮は鈴華をみずに亜梨吹だけをみつめる。亜梨吹はその視線を感じながらただひたすらに衝動に耐えた。息をしているだけで漂う甘い匂い。自分好みでずっと食べたいと思い続けていた血。それがちょっと歯を食い込ませるだけで食べれる位置にある。潜む鬼の声が体全てを支配する。食べろ食べろと鳴り響き周りを気にする暇もない。
「食べろ」
なにやっとるんや」
あまりにあっさりと蓮が告げる。その言葉すらもはや聞こえてはいない。代わりに反応するのは鈴華だ。だけど鈴華を蓮はもう気にしていない。すべての意識を亜梨吹に向けている
「食べろ!おなかいっぱい。全部が全部満たされるまで!」
語気をあらげた建物がゆれるほどに強い声。鬼の意識と戦っていた亜梨吹がその言葉をとらえる。信じられないという思いで蓮を見上げる。首筋から僅かに離れる口。蓮は許さないとばかりに後頭部を抑えた手に力を込める。頭がつぶれるのではないかと思うほどの力で推されてぶつりと学ランが破ける。そして歯の先が柔らかい肉の皮膚に触れる。
歓喜が亜梨吹を突き抜けた。
一瞬にして目は赤く染まり、首筋に歯を突き立てる。薄い一枚の皮膚を切り裂いて歯は肉のなかに沈んでいく。鉄臭くも甘い血の味が舌にのり頬が恍惚と蕩ける。 もっともっと吸いたいと心の底から沸き上がる
「あんたなにやっとるんかわかとるんか!
死ぬんやからな!!」
鈴華の叫びにもにた声が響いた。叫びながらも鈴華はその場から動くことができなかった。早く早くふたりもとに行って止めなければ最悪なことになる。そうわかるのにどうしても足がもつれて動かなかった。た からさけぶしかない。ヤメロヤメロと。動けない自分が情けなくて怒りにも任せながら叫ぶしか。
その声は鬼に圧されていた亜梨吹の意識を奪い返してくれた。亜梨吹の目に蒼が戻る。赤と混じりながら輝きを見せる
食べようとする意識を抑え、必死に口を話そうとした亜梨吹だが、それは蓮によって阻まれる。首筋に押し当ててくる手の力により深く深く歯は刺さる。鈴華のやめろという声が聞こえる。亜梨吹もくぐもりながらも同じことをいう。
「俺は死なない。人間だけどそれでも俺は化け物だから死なない」
強く押し付けながら蓮は前を見据えていった。その声にその瞳鈴華の声がやむ。何をいっているのだと思いながらそれを問うことはできない。
蓮の声が続く。
「だから吸え。全部全部。俺は死なない。絶対に。普通じゃないから。だからあんたも普通じゃないあんたの生き方を全うしろ!!
それがそんな形でこの世に生まれついたあんたの役割だ!!」「そんなの……」
亜梨吹から力が抜ける。口のなかに血が広がっていく。それが喉を通り胃に辿り着き、体中に広がって力を与えていく。
満たされる感覚が酷く何も考えられなくなっていく。駄目なのにそう思うのに蓮の声が響いて抗うことができなくなっていく。
「食べろ!」
意識が薄らいで感じる甘い血の味しか頭に入らなくなっていた。
その日は何もかもが完璧な日だった。空は雲一つない晴れ、大地からは溢れんばかりの気が感じられ、周囲の空気は何処までもすんでいた。流れる清流には一点の曇りもなくきらきらと輝いていて。体のコンディションから精神状態。私自身も完璧に仕上げて初めての精霊降ろしをするにはこれ以上ないと言うほどのタイミングだった。
高知県香美市に産まれ、いざなぎ流の使い手とした育てられた私はそれは苛酷な修行を幼い頃から受け続けてきた。あの日はそんな私が一人前と認められるための試験の日だった。いざなぎ流は高知県にて独自に伝えられてきた神道の一つ。そして精霊降ろしはいざなぎ流の使い手なら誰もができて当然なこと。精霊を降ろして初めて一人前となれる。精霊降ろしの儀はそれは大切なことだった。
だからこそ何もかもを完璧な状況で降ろせるようにと天候や大地の気を詠み、ベストな日を決めその日のために体調から何から何もかも作り上げた。
絶対に成功する。そう言いきれるほど何もかもが最高の日だった。
実際ほぼ成功していたのだ。精霊をその場に降ろすことに成功し、契約を交わす段階に入ろうとしたそのとき、結界を破り無理矢理契約の場に突入してきたバカさえ現れなければ成功していたのだ。突然現れたその馬鹿は今まさに契約しようとしていた私と精霊の間に割ってはいり、契約はその馬鹿と交わされてしまった。
愕然とした。いつのまにかおろした精霊もその場から消えていて、契約の儀は失敗に終わった。失意に震える私を見上げたのは大きな蒼い目で、そのバカこそアイツ、亜梨吹だった。
私、江渕鈴華と倉田亜梨吹の最低な出会いの日。
あの日の事を私はきっと死んでも忘れない。
そんな最低な出会いを果たしたその日、亜梨吹は私の家で暮らすことになった。一度交わした契約は余程の事がない限り取り消すことはできず、またそれにはそれ相応の対価も必要となる。必然的に共にいるしかなくなったのだ。その頃私はまだ小学五年生で一日の大半は学校で過ごしていて、そんな私にくっついている亜梨吹もそのうち家の計らいで学校に通うようになった。吸血鬼と学校と言う組み合わせが普通に妙で最初の頃は学校にいる亜梨吹をいつも奇妙なものを見るような目で見ていた。亜梨吹は吸血鬼としては変わっていて、日の光を浴びても多少具合が悪くなる程度で普通に過ごせるし、にんにくも食べれないだけで平気だった。夜こそ完全に吸血鬼の姿になってしまうが、昼は完全な人間の姿へと擬態することも可能で私はたまに亜梨吹が吸血鬼なのか分からなくなることがあった。でも間違いなく亜梨吹は吸血鬼で生きるために人の血を必要としていた。だけれど亜梨吹は人の血を吸うことをしなかった。それがなぜかは分かっていながらも私には何も言うことはできなかった。ただ血を吸わずに飢え渇き悶え苦しむ亜梨吹を見ていることしかできなかった。
血を吸って良いよとも言おうと思った。だって本気でそう思っていたから。出会って始めの頃は出合い方のせいもあり嫌っていたけど、共に暮らし共に過ごす日々は楽しくて、毎日笑っている隣には彼女がいて、いつしか誰より仲のいい親友になっていた。数年後数十年後ずっと傍にいるのだと。契約とかそんなことも関係なく、ただ友達としてこれから先もずっと傍にいるのだと信じて疑わないようになるにはそうかからなかった。
だから本気で自分の血を吸われてもいいと思っていた。
だけどそれを亜梨吹はしなかった。それをしたら取り返しがつかないことになるからと最後まで拒み続けた。
そして選んだ結末は最悪だった
2
朝、起きたらお味噌汁の臭いが鼻を満たした。それと同時に甘い臭いも僅かに漂ってくる。無意識に口のなか涎が貯まる。それに強く絶望した。ガンガンとうるさくドアの音が鳴る。
「はよおきい!遅刻するで!!」
甲高い怒鳴り声は耳に響いて朝から脳を揺さぶる。隣はもう別の住人の部屋でドンと壁を叩く音が鳴り響いた。うるせ!眠れねえだろうが!!うるせぇのはそっちやんか!ってか、また学校サボるつもりか、このアホ!!部屋を挟んで廊下と隣の部屋から怒鳴りあいの喧嘩をされたら、いくら眠くても起きずにはいられない。ダルい体を無理矢理起こした。厚いカーテン越しにも日の強さを感じて憂鬱になる。制服に着替える。その間もまだ両隣からの喧嘩は続いていた。近所迷惑にも程があるいつもの朝。不思議なことにもう片方の隣からの苦情がきたことはない。
「おはよう」
「遅いき!! はよこれ食べ。いくで」
口のなかに無理矢理放り込まれたパン一枚。手に押し付けられた鞄。歯磨きも顔も洗ってないのに引っ張られるまま玄関にどうしようもないいつもの朝。
ぐるぐるとお腹がなる。
甘い臭いを強く感じて頭を振った。
夜強く感じていたはずのそれが、どんどん日の高いうちにも感じだすようになり、ついには朝まで空腹を感じだした。終わりはもうすぐそこに、何て思ってもう終わってしまっていたことに気づく。
まだ食パンを加えた姿であることも気にされず、玄関のドアは開け放たれる。ガンって音が鳴り響くほど荒々しくドアを開けた本人は靴を一瞬ではいて外だ。いつもはそのまま一人歩き出すのに何故だか今日は振り返った。
「ほら、どうしたん? はよいくで。ボンヤリしてる時間なんてもうないんやきな。後数分でも遅れたら遅刻確定やき」
せかされて早く靴を履かなければと思うのに足も手も動かなかった。朝に弱い頭は外に出ようとした今、ようやく覚醒して昨日のことを思い出す。おぼろげな記憶のなか、最後にみたのは黒髪の彼の姿だ。
まだ交遊期間は続く。彼は今日も学校に来るだろうか。そしたら……もう。
いくでと急かす声が耳を打つ。嫌だと言いそうになる。嫌だいきたくないと。
だけどそれはただの時間稼ぎだ。どうしようもないことは彼女が一番知っている。仮に今日会わなかったとして、彼の口から人から漏れても終わりだし、それすらなかったとしてももうすぐ終わりはやってくる。
彼女にできるのはせめて終わりを少しでもさきに伸ばすことだけ。それしかできない。
甘い匂いが目の前から漂う。はようはようと急かす声の主の臭いすらもそう思い始めた今理性なんてもう欠けらしかない。
それでも焼ききれそうな脳みそをなんとか繋ぎあわせる。
いつか、その日が来たら私が終わらせてやるしゃいよ
いつかの声が聞こえた。それに少しだけホッとした。ああ、早く、だけどまだもう少しだけ待って、でも早く
矛盾した心がぐるぐる揺れた。
2
部活も終わり後は帰るだけとなった時刻、葉水学園図書室ではさっさと蓮が退室していく。いつもと同じだけの時間が今日この部屋では流れていて、まふでこれからも続くかと言わんばかりに平和な会話が続いた。
「今日も彼が一番だったね」
「終わろうかと言ったらすぐ帰りますもんね。おしゃべりしっていたらいいのに」
「まあ、無理だろうね……。さて、今日は僕も用事があるし。おしゃべりはこれくらいね」
「えーー」
「文句言わない。話してても途中で遅いって先生が来るかもだし」
「あ、それは嫌だ。帰ろう。クラスであって何でまた放課後に狸爺の顔見なくちゃならんのか」
「先生に対して酷い言い様や。まあ、わしも賛成やけど
「みんな。酷いな……。さあ。私帰ろう」
「さっさと逃げていく君が一番酷いと思うぞ。まあ帰ろうか」
そうして全員が図書室から出て行った。それぞれ他の用事があったりと図書室の扉の前で別れる。倉田亜梨吹はそのまま江渕鈴果と共に帰路につこうとした。だが、校門前、呼び止められ振り返る。
黒い姿が見えた。
塀に寄りかかった小さな体。長い黒い髪。さきに一人で帰ったはずの尾神蓮だった。
呼吸が止まる。そのまま心臓すらも止まりそうだった。
「ちょっとあんたに用事があるんだけど。来てくれる」
黒い目はただ真っ直ぐに亜梨吹をいぬく。他のものは欠片もその目の中には入っていない。亜梨吹だけをみつめ亜梨吹だけに問い掛けている。その目に朝感じていた恐怖がよみがえる。それは部活が始まるまでの間ずっと続いていたものだけど、部活が終わり何も言い出さない蓮を見ていると次第に忘れていてしまっていた。このままなかったことにしてくれるんだなんてそんな都合の良いことを考えて。
そんなはずはないとよく考えずとも分かっただろうに、亜梨吹は今まで思考を停止していたのだ。終わりを少しでも遅くしたいから。
バクバクと心臓が鳴り響く。足は地面に縫いついたかのように動かない。
「あんた……」
亜梨吹の隣で鈴果が怯えるような表情をして蓮を見ていた。何もまだ言ってないのにその表情はもう全てを知っているかのようで胸がキリキリと音をたてた。
「あんたに用はないよ。俺が用があるのはこいつだけ。そう言うわけだから借りるね」
その目に亜梨吹だけを写したまま蓮は告げる。動けないままの亜梨吹のもとにゆっくりと近づけばその服の裾をわしづかんだ 。驚く二人の様子などきにせずに蓮は裾をつかんだまま歩き出す
「ちょ」
鈴果が何かを言おうとするのに亜梨吹は何も言えなかった。ただ鈴果に向かって微笑む。そのくちもとからは自分に向けたどうしようもない嘲笑か溢れていた。
「ちょっと、行ってくるね」
きっとちょっとでは終わらないけれど。
3
カツカツと二つぶんの足音が響く。捕まれたままの服の裾がずっと視界の中から消えない。まるで終わりへと導く重たく冷たい手錠のようだと亜梨吹は感じた。それに導かれ向かう場所はきっと一つ。
ああ、せめて最後はどこか空が見える場所がいいなと思った。
そんなことを思いながら導かれるまま進んでいるとやがて何処かの建物の中にはいっていた。開けっ放しにされていたドア、数年手入れされていないのかボロボロの床。廃墟の中に入ったのだとすぐに気付く。建物の奥に奥にと亜梨吹の裾を掴んだまま蓮は歩いていく。
立ち止まったのは窓もない日も当たらない部屋だった。薄暗い部屋。立ち止まっても亜梨吹は顔をあげることはできない。それどころかますます下を向いて捕まれている服の裾すらも見えなくなってしまう。この地面を抉って逃げることはできないだろうかなんてえきもないことを考えて震える息がもれる。
その音が届いたのか。裾が手離される。顔をあげた亜梨吹を黒い目がじっと見ていた。それは吸い込まれそうなほど深い闇ではっと息を飲む。
「あんたはどうしたいの」
端的な問いだった。たった一言だけの。とても簡単でとても短くとても静かな問いかけ。だけどそこにはすべてが詰まっていた。その音だけでこの男はもう何もかもを知っているのだと気付いてしまった。倉田亜梨吹と言う存在の全ては知らないのかもしれない、それでも大切なこと亜梨吹が誰にも言えない言いたくない大切な真実はすべて知ってしまっているのだ。どうしてだとかそんな言葉はでてこなかった。
ただ胸にすとんと落ちる。
亜梨吹は何もない目で蓮の姿を見つめた。闇のような黒い目は亜梨吹の全てをうつして、逃げ出すことを許さない。
「私は」
認めたくないことを認めなければならなかった。喉がまるで張り付いたかのように動かない。それでも必死に言葉を紡ごうとして、まるで切り裂かれるような痛みが喉奥を襲う。
認めたくなんてなかった。
亜梨吹はずっと認めたくなんてなかった。だからずっと見ないふりをし続けてそれがいつしか最悪の事態を巻き起こしていた。それでも亜梨吹は自分を人だと思っていたかった。その虚像を抱えていたかった。
初めて亜梨吹が目を開けた日の事を彼女はよく覚えている。視界一杯に広がった泣き出す一歩手前の二対の瞳。うるうると濡れたそれをじっと見上げるとダムが決壊したかのように雫が後から後から降り注いできた。
父は吸血鬼の中の吸血鬼、ドラキュラ伯爵。そして母は吸血鬼を倒すために二百年もかけて作られた一点の曇りなき聖なる乙女。
相反する二つの存在は、なのに互いに愛し求めあい結ばれて、その結晶として産み落とされたのが亜梨吹だった。
ただそれは決して世界には認められない行為だった。
噛み合うことのない筈のパーツ達が無理矢理に噛み合わせて歯車を動かした。鳴り始めたその音は汚く醜く歪んだ音だった。
その歪みのせいで産まれてから四年亜梨吹は目を開けなかった。息もしてどういう理屈か成長もする。ただ目だけを開けなかった。両親はたいそう心配して毎日毎日亜梨吹のもとに付き添った。そして目を開けた亜梨吹を見たとき二人は泣きながらに喜んでその日は城中大騒ぎだった。それから亜梨吹はたいそう可愛がれ、どんなバカ親も呆れるぐらいに過保護に育てられた。二匹の使い魔を与えられ、必要とする血もすべて父が与えてくれて、城の外には一度もでたことはなかった。
それがどうしてかなんて一度も考えることもなく亜梨吹はその日常を甘受していた。
それが壊れたのはそう昔のことではない。むしろ妖怪の中でも特に長い時間を生きる吸血鬼の感覚からしたら一瞬にも近いたった十年まえのこと。
亜梨吹の住んでいた城が突如紅色の炎に包まれたのだ。それがなぜ起きたことなのか亜梨吹は何も知らない。ただ気付いたら城が燃えいて父の姿は何処にもなく亜梨吹に使えていた二匹の眷属だけが亜梨吹のそばで騒ぎ立てていた。彼らに言われるまま亜梨吹は城を飛び出し、火の手から逃れた。だがそれだけでは終わらず火から逃げ出したあと呆然とする亜梨吹をなにものかが追い立ててきた。石を投げ矢を放たれ銃を撃たれる。聖水が飛び散り、十字架が迫る。訳もわからないまま亜梨吹は逃げ出し、そして何者かから追われる形で辿り着いたのがこの日本。そして、亜梨吹の親友江渕鈴華のもとだった。
最初の頃はそれはもう酷いものだった。今まで父親と母親、それに眷属としかあったことのない亜梨吹は初めてまともに見て話す人間に警戒していたし、鈴華は鈴華で亜梨吹が大事な儀式を邪魔したことを怒っていて二人まともに話すことすらしなかった。だけど二人で共に過ごすうちに亜梨吹と鈴華の間には確かな友情が結ばれていた。さらに亜梨吹は学校にも行き出して他の人間とも仲良くなっていた。
だけどここで最大の問題があった。
亜梨吹は自分が吸血鬼だと言うことを知らなかったのだ。父と母、それに眷属との最低限な暮らしでは自分が普通とは違うと言うことすらも知る機会がなかった。他の人たちも自分と同じように血を吸うものだと思い、自分が他とは違う存在なのだと言うことに気付いていなかった。
気付いたのはいつの頃だったか。幸いなことに亜梨吹には鈴華や眷属たちがいた。亜梨吹が人間とは違うことを知っていた彼らのお陰で自分のことを知る前に周りに知られることにはならないですんだ。それからずっと人間のふりをして暮らしてきている。
そうやって暮らしだしてそのうち亜梨吹は他とは違う自分がいやになりだしていた。学校でできた友達も家の周りにいる人々もみんな人間で、亜梨吹みたいに人の血を必要としない。人を傷つけることなく生きていける。それが堪らなく羨ましく亜梨吹もそうなりたかった。人間でありたかった。
そう思うようになってから亜梨吹は極力血を吸わないようになった。血を吸うのは本当に必要となった時だけ。足がふるえてもう歩けないそんな状況になって初めて血を吸う。鈴華や家の人々、学校の友達の血は何があっても絶対に吸わなかった。限界の限界に達しもう動けなくなった後すらも亜梨吹は彼らの血だけは吸わなかった。それをしたら何かが終わる気がしたから。
亜梨吹は必死に人間になろうとした。
でも、結局人間にはなれなかった。
亜梨吹が鈴華と出会って三年。中学三年になったある日、その異変は起きた。
突然だった。ある日なんの前触れを感じることもなく亜梨吹は急変した。血を吸いたくって堪らなくなり、そして気付けば人の血を吸っていた。夜の町。まだ人が多くいる時間帯。人の目の前で亜梨吹は血を吸っていて、意識が朦朧とするなか愕然とその場に立ち尽くした。
悲鳴悲鳴悲鳴
辺りを多いつくすその音に亜梨吹の方こそ叫びだしそうになった。だけどできなかった。口が震えて音を出すことすらできなかった。滴る血が甘い匂いを撒き散らしガンガンと頭に響いた。
そんな亜梨吹の目に写ったのは、ショーウインドに写る真っ赤な己の目だった。
蒼いはずの自分の目が血のように赤く変わっていて、胸の奥底からは食べたい食べたいと血への渇望が沸き上がる。亜梨吹は怖くなってその場を立ち去った。震える体で家に駆け込み、部屋でベッドで丸くなって夜を過ごした。すべてを夢だと思おうとした。明日になれば何もかも元通りになると。
だがそうはならなかった。
翌日のニュースでは昨日のことが大々的に取り沙汰にされどの番組もその話をしていた。さらに昨日聞こえた胸の奥底からの血への渇望はなりやまぬことなく亜梨吹を責め立て続けた。血の匂いが何時もより甘く感じてくらくらと目眩がした。
何もかもが変わってしまっていた。
何故こんなことになってしまったのか分からず、部屋に閉じ籠ってしまった亜梨吹にどうしようもない真実を与えたのは眷属達だった。
亜梨吹が産まれた時から傍にいた眷属たちは亜梨吹のことを亜梨吹以上に知っていた。彼女の両親から託されていたのだ。
亜梨吹は選ばなくては行けなかったのだ。人間か妖怪かを。
ドラキュラ伯爵に聖なる乙女。
亜梨吹の父と母は決して相容れることなき存在だった。触れ合えばどちらか片方死んでしまうはずの。
邪と聖。死と生。夜の者と昼の者。二人はそういう存在だった。
それなのに二人は愛し合い亜梨吹をうんだ。
邪と聖、悪と善の子供を産んだ。
何よりも邪なる血と、何よりも聖なる血が混じり合い、混沌の禁忌の子を産んだ。
子供の中で邪と聖は大きく反発し合った。
亜梨吹の中で二つは戦い続ける。
そして戦い大きく広がり続けるそれは、やがては血を求めだす。人の血を。邪の血を。聖の血を。
戦いを止める為に。
邪悪なる心を持つ人の血を食べれば亜梨吹は妖怪に。完全なるドラキュラ伯爵となり多くの人の血を吸い続けなければ生きていけなくなる。
聖なる心を持つ人の血を食べれば亜梨吹は半妖に。完全なる人間にはなれなくともそれに近い存在になる。血はほんのちょっと吸うだけで数年近く生きていける。ほぼ人間と同じように生きていけ瞳のなかに写る自分の醜い姿をこれ以上見たくなくてる。
亜梨吹は選ばなければ行けなかった。
だがその為に必要なのは丸々一人の血。混じりあってはいけない。純粋な一人。悪か聖か。こんな混沌とした世で雑じり気のないどちらかの血を吸わなければいけなかった。
そうでなければ亜梨吹は血に負け飢えに負け、闇に意識を乗っ取られただ人を襲うだけの化け物と成り果てる。
亜梨吹の父はそれを食い止める為、亜梨吹を屋敷へと軟禁していた。屋敷には結界が貼られており亜梨吹のなかで起きている血の戦いを留めておくことができた。そうして亜梨吹にはなにも言わずに守り続けていた。もう少し亜梨吹が大人になってからどちらを選ぶのか問うつもりだったのだ。
だがその前に亜梨吹は城をでてしまった。そして亜梨吹はなにも知らぬまま時が来てしまったのだった。
眷属たちは亜梨吹に何度も本当のことを言おうとした。だか言えなかった。人間と仲良く暮らす亜梨吹をみてまさか人間を殺せなんて言えるはずもなかった。
それでも言わなければと悩んでいるうちにそのときは来てしまったのだ。
亜梨吹のなかに鬼が芽生えた。
鬼は血を求める。急がなければ亜梨吹は亜梨吹でなくなってしまう。急いで決めなければ。
だけど亜梨吹は決められなかった。
正確に言うと食べられなかった。人か妖怪か。そう問われた時、亜梨吹は何の迷いもなく人を選ぶ。人になりたかったから。
だけど人になるために人の血をすべて吸い、人を殺すことはできなかった。それをするには亜梨吹は人を知りすぎた。人を好きになりすぎた。
ならばせめて死刑が決まったような悪人の血だけでも吸い、己を保つようにと周りから催促されてもそれもできなかった。
人を殺してしまえばもう取り返しのつかない化け物になる気がして。もう人間になれない気がして。
少しずつ意識が腹のうちに巣食う何かに奪われていくのを見ていることしかできなかった。どんどんどんどん正気でいられる時間が減っていく。それを震えながら耐え続けるしかできなかった。
いつか化け物になるカウントダウンを数え続けているしかなかった。
人を多く襲うようになりながら、それでも最後の一線だけは保ち、後少し後少しと伸ばし続けた。
そして、それももう終わりだ。
『人の血を吸ったとかこのニュース本当なのかね』
『バカじゃない。本当のわけないじゃない』
『そうそう。化け物じゃないんだから』
いつか聞いた声が甦る。
それが苦しいほどに胸を締め付ける。人間になりたかった。
「だから、後少しだけ待って。もう後少し後少し経てば私は死ぬから。それまで待って。
お願い。まだ私は人間でいたい」
ボロボロと涙がこぼれ落ちた。みっともなくも床に膝をついて目の前にある姿にすがり付いた。
まだ人間でいたい。人間でないのだとしても鈴華や他のみんながいる場所で偽りでも同じ人間として共にいたかった。最後の最後まで。
「馬鹿じゃないの」
冷たい声が静かに響いた。古びた廃墟に痛いほどに響き渡る。
顔を上げた亜梨吹の目に冷たい闇が写る。
「人間になりたいとかふざけんなよ。人間じゃないならそれを受け入れるしかないだろう。それを受け入れて自分の在り方で生きていくしかないだろう」 真っ黒な目。何処までも引きずり込まれていきそうなほどの。
「そんなの……」
「どんだけ頑張った所で生まれついたものいがいにはなれはしない。人は人だし、妖怪は妖怪だ。変わることなどできやしない。だったらその運命の中で自分が出来る最善を尽くして生きていくしかないだろうが。どんなに苦しくてもどんなに辛くても血反吐を吐きながらも例え溶岩を飲み込むようなことだとしても、それでもそれでも望まれ続ける限り、自分が望み続ける限り生きていくしかないんだ。」
「そんなの」
できるはずがないという言葉は睨み付ける瞳を前に消えていく。頬を伝う涙が床を濡らし水溜まりをつくる。
「例え人を殺そうとも誰かが自分が生きることを望むならそれだけは諦めたら駄目なんだ。
あんたはまだ生きたいんだろうが。だから泣くんだろうが。生きたいから死にたくないから泣いてるんだろうが」
決してあらげられてない声なのに激昂にも似た激しさを感じ、皮膚に僅かな痛みすらも感じた。
人間になりたかった。ずっとずっとそれだけを思い続けて亜梨吹は生きてきた。涙が止まらない。口がうまく動かない。懸命に頭をふる。泣いてるせいで所々途切れながらそれでも言葉を紡ぐ。癇癪を起こした子供のように。
「違う。亜梨吹は、亜梨吹はもう死にたいんや。化け物になるぐらいなら人間になれんぐらいなら死んだ方がましなんや!」
語気をあらげた声が悲しいほどの切なさを帯びて廃墟のなかこだまする。それを聞いてるはずの蓮は変わらない冷たい目でただため息をつく。
「そう。でもあんたがいくらそう思っててもあんたに生きていてほしいって思ってる人は他にいるみたいだけど」
「え?」
そうして告げた言葉に亜梨吹は不思議そうに蓮を見上げた。見開かれた目、ぽかんと開いた口。何をいうのかとそのかおは語る。急に止まった涙が一筋転がり落ちる。蓮はすっと視線をはずす。やってきた入り口のほうを見つめ、くいと顎で指す。亜梨吹はなにも考えずに振り返り、そして固まった。
いつからいたのかそこには一つの影があった。半分だけ身を隠しながらもこちらを見つめる一つの影があった。涙はまだでてないだけど泣き出しそうなほど潤んだ瞳をしていた。噛み締められている唇からは涙の代わりのように赤い血が流れていた。
どくりと心臓が音をたてた。そのさらに奥の方から食べろ食べろと悪魔の声がわめきたてる。その衝動を必死に押さえながら亜梨吹は影をみた。それは彼女が誰よりもよく知る友達の姿だった。
「鈴華ちゃん。何で」
「あんたが心配だったからだろう。ずっと後つけてたけど」
泣いていたせいではない震える声が彼女を呼ぶ。その後に続けられた蓮の言葉にさらに目が大きく見開かれる。その体も震える。全く彼女は気付いていなかった。ずっと自分のことに精一杯で気付けずにいた。
「鈴華ちゃん」
もう一度名前を呼んだ。名前を呼ぶだけでなくもっと言いたいことがあるのに、聞きたいのに声にはできなかった。空気をはむように口だけが動かされる。あ、あと意味のない音だけが漏れる。だけどその顔はその目は亜梨吹がいいたいこと全てを写し出してい。どうして、なんで、何故、分かっていてくれたんじゃないのか。聞きたい疑問も言いたいことも全部写していた。
鈴華の唇が震えた。ただでさえ噛み締めすぎて血が流れていた唇にさらに歯が深く刺さり、血を溢れさせる。握りしめた手も皮膚を突き破り、爪が刺さっていた。
「心配やったからや。ずっとずっと心配やった!毎日が不安で明日がくるのが恐くて眠るのが辛かった。いつかがくるのが恐ろしくて仕方なかった。 友達やん。友達やからずっと」
獣の咆哮だった。大切なものを奪われそうになりながらそれを見てることしかできない獣の咆哮。最後の足掻きとばかりに鳴り響く。だが次第にそれも弱くなり、最後には泣き声に変わる。
今鈴華のなかでは怒りと悲しみが数多の数渦巻いていた。大切な友達が苦しんでるのになにもしてやれない自分への怒り、悲しみ。勝手に鈴華が自分のことを分かって見守ってくれているのだと思っている亜梨吹に対しての怒りに悲しみ。その事を口に出せない自分への怒り、悲しみ。亜梨吹が死んでしまうかもしれない悲しみ。そしてそうなった後も鈴華は大丈夫だと思っている亜梨吹への怒り。
今だけじゃない。もう長いことそれは鈴華の心のなかに住み着いて渦巻き続けていた。それでも鈴華には亜梨吹を助けてやれる方法が何一つ分からず、何も言えないままでいた。その感情が今この場に来て爆発した。
泣き声が響く先程まで泣いていた亜梨吹よりももっと大きな声で鈴華がなく。時折獣の咆哮すらもまじる。涙で目の前なんてもう見えてないだろうに、その目は亜梨吹を強く見つめていた。
ふざけんなという声が聞こえてくるような力強さだった。
亜梨吹はそれを呆然とみていることしかできなかった。ずっと亜梨吹は鈴華は自分のことをわかってくれているのだと思っていた。亜梨吹が鈴華に直接言ったことはないけど、亜梨吹の体のことは眷属たちに聞いて知っている筈なのにそれでも何も言ってこなかったから。何も言ってこないでただ亜梨吹を見ていた。亜梨吹のそばにいて、何も知らなかった頃のままに振る舞ってくれていた。亜梨吹の葛藤だって、願いだって、化け物になる前に死んでしまおうと決めてしまったことだってすべて知ってる筈なのに。眷属たちが亜梨吹に内緒で話していたことを亜梨吹はしっている。亜梨吹を説得してくれと頼んでいた眷属たちを知っている。だけど鈴華華にも言って来なかった。ただ亜梨吹が望むいつも通りの日々を送ってくれた。
だから鈴華は亜梨吹のことを分かってくれて望むように生きれるように見守ってくれているのだと勝手に思っていた。その裏でどれほど傷つけていたのか何て考えたこともなかったのだ。自分のことで精一杯で鈴華のことを見えていなかった。勝手に自分が死んでも鈴華ならあんまり悲しまずに生きていてくれると思っていた。
体の奥から震えた。急激に体が冷え、指先一本ですら動かせなくなる。そんな状況でできるのはただ見つめ続けることだけだ。
「分かっただろう。あんたはしんじゃいけないんだ」
蓮の静かな言葉が耳を打つ。目の前には亜梨吹のせいで泣き続けてる鈴華の姿。その泣き声が鼓膜から脳みそまでも叩きつけるように震わせるなかでその声は確かに聞こえて、固まった亜梨吹の脳をぶち動かす。
死にたくないと思った。死ねないとも思った。こんなに亜梨吹のことを思ってくれる大切な友を残して死んでいいはずがないとも。
だけど、だけど
「うるさい!!」
泣き声を打ち消すように亜梨吹の叫びが響く。
「じゃあどうしろって言うんや!!亜梨吹に血を吸えって言うんか!? 亜梨吹に人を殺せって!! そんなんできるはずないやん!!」
生きたいと思った。まだ鈴華と生きていたいと思った。生きていなくてはいけないのだとも思った。だけどどうしようもないことを亜梨吹が一番知っていた。自分が自分として生きていくためには人を殺すそれ以外の方法がないのだということを誰よりも知っていた。
知っていたから諦めたのだから。
「できなくてもやるんだ。そうするしかないんだよ」
蓮の言葉が響く。亜梨吹の叫びで泣いていた鈴華も泣き止んでおり、静かな空間に響くただ真っ直ぐなこえ。
「そんなん、そんなん亜梨吹は人で」
「人でなんていられない。人になんてなれるはずがない。どんなにうまく擬態した所であんたが妖怪である事実だけは変わりがないんだから
受け入れろ。何もかも。そうやって生きていけ。」
できるわけない。人でいたいといまだ訴える亜梨吹の声を蓮はすべて切り捨てた。蓮の目に小さな肩が見える。何もかもを諦めてしまった実物以上に小さく見える肩が。その向こう側には息を飲んでこれからを見守る鈴華の姿。その目もまた諦めたような色をしていて蓮を酷く苛立たせった。
ほかのなにを諦めてもいい。だけど人には絶対に諦めてはいけないことがある。それが生きることだ。人だけじゃないこの世のありとあらゆる生物、動物だろうが虫だろうが妖怪だろうが生きとし生けるものすべて生きることだけは諦めてはいけない。
だってそれが生きるということで、それがちっぽけな存在にだってできる産んでくれた両親、これまで関わってくれたすべての人に対する最大の感謝で恩返しだから。
苛立ちに突き動かされるまま蓮は一歩大きく踏み出した。
「受け入れろ! 生きたいって思うなら! 死にたくないって少しでも思うなら思ってくれる人がいるなら!誰を犠牲にしても、何を犠牲にしても受け入れて生き続けろ! 別のものになんてなれはしないけど、そうやって自分の生き方に自信をもって生きていけばいつかあんたを受け入れてくれる人が現れる。あんたにはもうその一人がいるだろうが」
叫びながら蓮は亜梨吹に近付く。蓮の声は耳に入りながらも亜梨吹は必死に聞かないように心を蓋にした。もう無駄なのだと無理なのだと。
そんな亜梨吹の手を蓮が掴む。蓮を見ないようにしていた亜梨吹は近づいてきていたことに気付いてなくて酷く驚く。そんな無防備な亜梨吹の頭をつかみ、自分の首筋へと力強く押し付けた。驚いて小さく開いたままだった口は蓮の都合がいいことに学ランにとささる。その下には皮膚があり、大きな血管が流れている。亜梨吹も鈴華も目を丸くしてこの出来事をみた。
「なにを」
鈴華の震える声が蓮に問う。蓮は鈴華をみずに亜梨吹だけをみつめる。亜梨吹はその視線を感じながらただひたすらに衝動に耐えた。息をしているだけで漂う甘い匂い。自分好みでずっと食べたいと思い続けていた血。それがちょっと歯を食い込ませるだけで食べれる位置にある。潜む鬼の声が体全てを支配する。食べろ食べろと鳴り響き周りを気にする暇もない。
「食べろ」
なにやっとるんや」
あまりにあっさりと蓮が告げる。その言葉すらもはや聞こえてはいない。代わりに反応するのは鈴華だ。だけど鈴華を蓮はもう気にしていない。すべての意識を亜梨吹に向けている
「食べろ!おなかいっぱい。全部が全部満たされるまで!」
語気をあらげた建物がゆれるほどに強い声。鬼の意識と戦っていた亜梨吹がその言葉をとらえる。信じられないという思いで蓮を見上げる。首筋から僅かに離れる口。蓮は許さないとばかりに後頭部を抑えた手に力を込める。頭がつぶれるのではないかと思うほどの力で推されてぶつりと学ランが破ける。そして歯の先が柔らかい肉の皮膚に触れる。
歓喜が亜梨吹を突き抜けた。
一瞬にして目は赤く染まり、首筋に歯を突き立てる。薄い一枚の皮膚を切り裂いて歯は肉のなかに沈んでいく。鉄臭くも甘い血の味が舌にのり頬が恍惚と蕩ける。 もっともっと吸いたいと心の底から沸き上がる
「あんたなにやっとるんかわかとるんか!
死ぬんやからな!!」
鈴華の叫びにもにた声が響いた。叫びながらも鈴華はその場から動くことができなかった。早く早くふたりもとに行って止めなければ最悪なことになる。そうわかるのにどうしても足がもつれて動かなかった。た からさけぶしかない。ヤメロヤメロと。動けない自分が情けなくて怒りにも任せながら叫ぶしか。
その声は鬼に圧されていた亜梨吹の意識を奪い返してくれた。亜梨吹の目に蒼が戻る。赤と混じりながら輝きを見せる
食べようとする意識を抑え、必死に口を話そうとした亜梨吹だが、それは蓮によって阻まれる。首筋に押し当ててくる手の力により深く深く歯は刺さる。鈴華のやめろという声が聞こえる。亜梨吹もくぐもりながらも同じことをいう。
「俺は死なない。人間だけどそれでも俺は化け物だから死なない」
強く押し付けながら蓮は前を見据えていった。その声にその瞳鈴華の声がやむ。何をいっているのだと思いながらそれを問うことはできない。
蓮の声が続く。
「だから吸え。全部全部。俺は死なない。絶対に。普通じゃないから。だからあんたも普通じゃないあんたの生き方を全うしろ!!
それがそんな形でこの世に生まれついたあんたの役割だ!!」「そんなの……」
亜梨吹から力が抜ける。口のなかに血が広がっていく。それが喉を通り胃に辿り着き、体中に広がって力を与えていく。
満たされる感覚が酷く何も考えられなくなっていく。駄目なのにそう思うのに蓮の声が響いて抗うことができなくなっていく。
「食べろ!」
意識が薄らいで感じる甘い血の味しか頭に入らなくなっていた。
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