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動き始める歯車に嘘をついた鬼
第一話
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「眠いしゃい」
狭い事務室。真ん中に応接用の長テーブルとソファを置き、窓側に所長の座るディスクを置いて、それ以外は配置など何も考えず滅茶苦茶に観葉植物が置かれた部屋。そんな部屋の中でふわりと大口をあけて少女が一人あくびをする。
たくさんの書類が積まれたディスク。黒い社長椅子に座るその少女。少女はそばにいるもう一人を横目でちらりと見た。
「警察からは何を言われたんしゃい」
すぐに視線を外して問いかける少女。もう一人の青年は静かな目でそんな少女を見つめていた。
「ここ最近の不審な貧血についてです」
「貧血ねぇ」
少女の問いに答えるその声はとても穏やかなものだった。心配することなどない。不安になることなどない。気にすることなど何一つないのだと思わせるような、まるでまだ幼い子供に声をかける母のように優しげな声。耳に甘やかに入り込み、脳髄の奥の奥までぐずぐずに溶かしてしまう。そんなどうしようもないほど穏やかな声だった。
そんな穏やかな声を聴きながら少女、山中理矢の顔は平穏とは程遠いところにあった。面倒だとでも言いたげな不機嫌な顔をしながら、その目は暗く淀んで哀しみをたたえている。
青年はそんな少女を見るともなしに見ながら一切の顔も声も変えない。ただ普通に話し続ける。
「はい、貧血です。警察が言うには、ここ最近の貧血で倒れる人の数が尋常ではなく、しかも、そのほとんどが夜に倒れているとのこと。それから倒れている人に共通点が。みな首筋に小さな二つの傷跡があった上に前後の記憶が曖昧なようです。」
「首筋に二つの傷跡。それに記憶喪失しゃいか」
「はい、傷痕に関しては本当に小さなものですが、それでも針よりは多少太いかと」
「そう」
少女の目が二人しかいない部屋の中に注がれる。何を見ているのか分からない目は部屋の中を見渡して、ゆっくりと窓の外へとむけられた。
「咬まれたんしゃいかね」
少女が独り言のように問いかければ青年はそれを待っていたかのように淀みなく答える。
「私が見た限りではそうかと。」
「ふーん、小さな痕……、蛇か、吸血鬼かのどちらかしゃい。蚊ではないかな」
少女の口元が緩く笑みを浮かべる。それは自分をあざ笑うかのように小さく引き攣った歪んだ笑みだった。そんな少女にも青年は何一つ変わることなく笑みを浮かべ続ける。何処までも穏やかで優しい笑みをずっと浮かび続ける。少女の言葉を肯定しながら柔らかな瞳で少女を見る。
「そうでしょうね。蚊でないことは確かですよ」
少女の足がふらりと降られた。目線だけ窓の方向を向いていたのがくるりと椅子を回転させて青年からその背も向けてしまう。大げさにされる背伸び。ぴゅぅと口笛の高らかな音を少女は鳴らす。 開け放されていた窓から一匹の鳥が少女の手の甲へと舞い降りる。
「どっちしゃいかね。調べんと駄目しゃい」
その白い鳥の翼を撫でながら、少女は窓の外の景色を見つめる。都会ではありながらも人の喧騒からは少し離れた場所に建つビル。その二階の窓から眺める世界。商店街と言えるほどではないが小さな店が立ち並び数人の人が過ぎ去っていく。 だけど少女が見つめるのはそんな景色ではなかった。甘い紅茶のような色をした目は景色を通り越してその先にあるものを見つめる。
「社長」
青年はそんな少女の名を呼ぶ。わずかに首だけを振り返った少女は生返事で言葉を返した。手の甲に乗った鳥を撫でながらその眼が見つめるものは変わらない。何処か疲労した様子を見せながら少女の口からは音にならないため息がでていく。
「ん、何しゃい?」
青年の優しい色をした目がそれを見ていた。その口元も顔さえも見えないはずだけど、青年は確かに見ていた。そして見ていながら青年は変わらぬ声を続ける。
「いい加減にして下さい」
「何がしゃい」
柔らかな青年の声。それに少女も同じような柔らかさで返す。まるで何処までも無垢で無知で何も知らない分からない子供なのだと訴えるような羽毛のような声で。青年は変わらない。変わらない笑みを浮かべ続ける
「気付いているなら、知っているなら、分かっているなら、それ相応の動きをして下さい」
青年が言う。その言葉に窓の外を見ていた少女の目が微かに揺れた。鳥を撫でていた手が止まり、その目が伏せられる。一分もかからなかった。再び顔を上げた少女は今度は窓の外を見ていなかった。同じ方向を見ながらもっと近い何かを見ていた。
「……気付いてないしゃいかもよ」
うっすらと笑みを浮かべて少女が言う。悪戯っ子のような茶化した笑みを浮かべようとして、青年の前にそれは止まった。変わらない目で青年が少女を見ていることが、少女には分かった。その眼を前にして少女はこれ以上騙すことは出来なかった。
いつまでも変わらない優しくて柔らかな目。まるで子を慈しむ母のように、宵闇の中で地を照らす星や月の光のように優しい目。まるで大切なものを抱きしめる腕のように、穏やかな天候の中人々陽気に誘う春の風のように柔らかな目。
いつまでも続き続けるそれは、少女には安心とそうしてどうしようもないほどの義務を突き立てた。
「それはないですね。昔からこうなることは分かっていましたから」
その眼と同じような色をして、そしてその眼とともに何処までも変わらないもはや普遍的とも思えるほどの声で青年は少女を刺す。少女の小さな肩が震えた。
「あんたは嫌いしゃい」
震える唇で少女はぽつりと呟く。悲しみを込めて、苦しみを込めて。
「あんたは嫌いしゃい」
もう一度呟いて少女は肩越しに男を見た。少女の思い描き続ける通りの変わらない顔して少女を見て立っている。少女の口角が自然と上がった。
「でも好きしゃいね。だって私は私よりもあんたの方が信じられるしゃいから。だからお願いね、清水。信じてるしゃいから」
どんなことがあろうと少女が思い浮かべる通りの姿をし続ける彼は、ゆらゆらといつだって揺れ続ける少女にはどうしたって必要だった。
「あいつの様子見てきてくれるしゃいか」
少女が静かにかけた声に手の甲にいた鳥は人間みたいに頷くような仕草をして、少女の手から飛び立った。白い羽根が部屋の中に舞う。ふんわり漂いその一つが落ちた先は机の上に置かれた資料の一つだった。 その羽が落ちた資料を感傷を込めた目で見つめる少女。……中川理矢。この事務所の社長だった
「猶予はそれほどないと思っていてくださいよ」
少女に青年は声をかける。
「分かってるしゃいよ」
それに応える少女の声は小さくわずかばかりの外の声に掻き消えていた
1
「甘い」
学校も終えいつものように公園で本を読んだ後、帰っていた少年、尾神蓮は後ろから聞こえたそんな声で振り向いた。確かにその声は聞こえてきたのに振り向いた先には誰もいない。人通りの少ないその道は微かな明かりだけが闇に飲み込まれてそこにあるだけだ。
「甘いね」
もう一度そんな声が聞こえた。また、後ろから。ゆっくりと少年、蓮はさっきまで自分が歩いていたその向きに顔を向ける。そこには誰かが居た。
でも、誰かは分からない。暗闇に隠れて姿が見えなかった。それでも街灯の光がわずかに届かなかった闇の 中に誰かがいることだけはハッキリと分かる。
暗闇の中に、はっきりと赤い瞳が浮かんでいる。
猫のように大きな赤い眼。
「凄く甘いね」
血走ったその目はにったりと獲物を見つけた猫のように笑う。
「甘いな。食べたいな。食べても良いよね」
笑った赤い眼。その眼は蓮の腰あたりにある。
つまり、子供のような身長。クスクスと笑いながら話すその声さえもどこか幼く甘く感じられた。
「食べるよ」
赤い眼をした子供は前へと一歩足を進めた。その瞬間風が吹く。目を瞬くよりも前に子供はすでに蓮のすぐ傍に来ていた。歪んだ口元の笑みが一瞬だけ視界に映り込んだ。
ドスと首筋に何かが当てられる感触。手刀を入れられたのだと蓮が気づいたときには、又に地面に倒れ子供に肩を押されて乗り上げられていた。子供、いや人間とは思えない力で押さえつけられ動くことさえままならなかった。そんな蓮に子供は嬉しそうに笑う。首元に顔を寄せて匂いを嗅ぎ、それから制服越しに首筋に歯を立てる。黒い生地が破れ肌に直接尖った歯が当たる。
「頂きます」
言葉と共に、首筋に小さな痛みが走る。小さく甘い痛み。
そこから何かが吸われるような、奪われるような感覚がする。甘い甘いうずきと共に。
身体から力が抜けていくような感覚がするなか、蓮は何とか腕を動かそうとした。掴まれた腕はされど抜けない。幾度目かの挑戦が失敗に終わると今度は逆に全身の力を抜いた。何かを吸うことに夢中になっている子供は蓮のそんな些細な動きには気を留める暇もなかった。 そんな子供ににやりと笑い、すっと、左足に力を込めた。そして、
「何すんだよ」
赤い眼のなにかを蹴り上げた。
「…っ」
飛び上がったそれ。無理やり突き刺さっていたものがぬけてちくりとした痛みが走る。ポタリと何かが顔に付いた。拭ったそれは生暖かく、暗い闇の中でもわかるほどの赤い色をしていた。
“血”
触れた首筋にも血が付いている。痛みはない。
「あんた、何」
赤い眼の何かを睨み付けながら、尾神蓮は腰を落として数歩、後ろに下がった。問いかける声は低く狭い路地の中に響き渡る。ゆらりと何かが動く。
「まだ、食べてない」
赤い眼の何かが言う。問いかけには答えずただ赤い眼を蓮に合わせて幼く舌足らずな声で話す。
「何食べているのかは知らないけど、これ以上は食べさせないよ」
蓮がさらに後ろに下がるのと同時に、赤い眼の子供が一歩前にでた。
最初より近くなった距離に子供赤い眼の何かのシルエットが分かった。ふんわりとした姿、髪は少し長く、そしてふわふわとしたスカートが風に打たれて揺れている。
少女、いや、女の子だ。 赤い眼をした女の子。
「食べるよ。お腹空いてるもん」
赤い眼が笑う。赤い眼の女の子が動く。
懐に入ってくる女の子はスカートだと言うことも気にせず蹴りを入れてくる。その足を蓮は掴みとめる。思った以上の衝撃によりバランスを崩しながらも軸は保ち、こぶしを丸空きの少女の脇に叩き込んだ。そのまま蹴りを一つ。掴んでいた足を払った。
「なら、応戦させてもらう」
離れた距離。女の子を睨み体勢を立て直しながら蓮は宣言する。地面に打ち付けられた女の子はそれでも立ち上がりその不気味な赤い目を蓮に向ける。
「良いけどね。どうせ無駄なことなんだから」
地面に打ち付けられた際、擦りつけた頬の血を手で脱ぎ取った女の子は、その手を舐めながら蓮に言葉を返した。口元に余裕の笑みを浮かべながら。 笑みを浮かべたまま女の子は地面をけろうとした。身構える蓮。だが蹴ろうとした女の子は突然その動きを止めると顔を抑え苦しみもがき始めたのだった。
「うっうう……」
女の子の口からうめき声が漏れ、苦悩するようにその頭は大きく振られた。突然のことに驚きどう対処するべきか判断できずにいた蓮はふっと気付く。
手のひら越しに見える女の子のルビーのように赤い目が、空のような青い眼に変わっていくことに。
驚きで言葉すらもなくした蓮に苦痛に耐えながらも女の子は何かを放り投げた。
ゆらりと蓮の目の前に広がり視界を奪うのそのなにかは布だ。そう認識したときには遅かった布が蓮の目を覆い、動きを止める。
暗闇に視界を閉ざされた中蓮は口笛の音を聞いた。そしてそれのすぐ後にバサリと何かが風を叩きつけるような音も聞こえてくる。それは一度ではなく数回続いた。
何が起きているか確かめようと蓮は目を覆う布に手を伸ばした。
開け放された視界。だがそこには誰もいなかった。あたりを見回した蓮はふっとあの音がまだしていることに気付く。その音がしている方向、上空を見上げた。
見上げたそこにはあの女の子がいた。赤かったはずの目を青い色に変えて、ひらりとスカートをはばたかせる女の子が。夜の空の上に浮かんでいた 。その女の子の背には大きな翼がはえ、その横には二つの小さな蝙蝠が 。
その二つと共に女の子は夜の闇の向こうへと消えていた。
大きな翼で空を飛んで 。
それを呆然と見送った蓮はなおもその後しばらくその場に立ち尽くした。首筋に手を伸ばし血がもう出ていないことを確認し、蓮は細い息を吐いた
「なんだったの」
疑問に満ちた声が漏れた。
喧騒がやまない夜の町の中、女の子はビルの屋上を囲むフェンスの上に強風を受けながら立っていた。
今は、静かな青い眼をして、
ひらひらと風に乗ってスカートが踊る。金色の髪が暗い宙に浮かび上がるのにその小さな体はピクリとも動かなかった。青い瞳だけがゆらゆらと揺れ続け、見るでもなしに眼下に広がる町並みを見下ろしていた。
すんと、女の子の鼻が息を吸い込む。小さく開けられた口からは尖った牙が見えた。気怠げにおろされた手が持ち上げられその牙をゆっくりと辿る。
「おいしかった」
恍惚とした声で女の子は告げる。頬が赤く染まりふぅうと熱い吐息が漏らされる。牙に触れた手がゆったりと赤く染まった白い頬を撫で上げる。その手が瞼に触れる。
「極上だった。食べたいな、あれを……」
熱を含んだ甘い声はまだ暑い夜の風の中に含まれ霧散していく。女の子の青い目が徐々に赤く変わりだしていく。
「お腹空いた」
血の通う赤い唇の下、鋭い牙が月の光を受けきらりと光る。熱く甘い舌足らずな声が空気を震わせ、口元にゆったりとした笑みが広がっていく。だが、その途中口元は苦しげにゆがめられる。風を受け変わらぬ姿で立ち尽くしていた女の子の体が苦痛に耐えるように背を丸めて呻く。
「うぅ…………」
赤に変わろうとした瞳がまた青に戻っていこうとする。
「alisu様」
誰もいなかったはずのその場にポンと音を立てて現れた蝙蝠が、女の子の名を心配げに呼ぶ。赤と青がまじりあう目がそれを見た。
「……気にしないで。それより帰るよ」
「はい」
ふらつく体を抑え込んで女の子は狭い足場を蹴る。高いビルの上、薄暗くのしかかる夜の闇、それをかき消そうかとするかのように明るく光を纏う地上の世界。そこに落ちていくかのように手を広げた女の子の背から黒い翼がはえる。
バサリと風を切るように力強く翼が一つ羽ばたけば落ちていた女の子の体はより深い夜の闇の中へと上がっていく。ふっと上昇していた女の子の体が動きを止める。
赤が色濃い瞳が眼下を見下ろした。
「おいしかった」
また女の子は呟く。甘い声で、
「眷属」
蝙蝠を女の子は呼んだ。恍惚とした声で。
「あの餌を探して」
「分かりました」
蝙蝠は飛んでいく。甘い声に命じられるままに。それを見つめて女の子は笑みを浮かべる。赤い舌がチロチロとその唇をなめた。
「食べないと。あの極上の餌を」
にやりと笑う女の子の目はその舌よりも唇よりも赤い色をしていた。
3
「はい、これ」
笑顔で渡された手紙と資料を見て少年、蓮は目を瞬かせた。ここは蓮が通う学校、そこの教室の一つで放課後は文芸部の活動場所として使われているところだった。
「何ですか、これ」
感情を載せない冷めた声で蓮は聞く。そんなことは気にせずに目の前の少女、文芸部部長はニコニコと笑みを浮かべ続け、そしてその口が開く。それを声と同じような変わらぬ目で見ながら、蓮の手は傍に置かれていた机の上の物へと伸びる。
「あのね、一年前知り合った葉水学園文芸部の友達から一週間交流会としてうちの部活の見学に来ないかって誘われたの。そのこと事態は随分前から話し合っていたことなんだけど、日にちがね。明日から一週間なんだけど、向こうから言われたのも二日前って急なら、私のほうも今日の朝急に予定が入って都合が合わなくなってね。向こうの方も先生とかと都合を合わせるのに戸惑って急なことになってすまないって謝ってくれているんだけど。まあ、でも、断るのも嫌だし、それにその子もう一つ部活してて主にそこの活動を見ることになるんだけど、そこが面白いところらしいから興味があるの。だから、私はいけないけど部員であるあなたに行って貰おうと思って」
一気にまくし立てた少女。蓮はそんな少女を半目で見ていた。その手には先ほど机の上から取ったペットボトルが握られている。
「蓮君。水をくれないかな」
「……」
カラカラの声で少女が頼んでくる。差し出された手に無言でペットボトルを渡した。渡された少女はごくごくと半分ほど飲み込んだ。少女からおっさん臭い声が漏れる。
「いつもありがとう。喋った後の水はおいしいよ。で、お願いね、蓮君」
キラキラと輝いた笑みで少女は最後の言葉を強調して言った。それに帰ってくるのは普段と全く変わらぬ冷たい声。
「何で」
大部分が省略された言葉に気を悪くすることもなく少女の笑みは変わらない。相変わらずの満面の笑みのまま胸を張って言葉を返す。
「君が我ら文芸部の数少ない部員だから」
「嫌です」
即答で返された冷たい声が二人だけの教室に空しく響き渡った。満面の笑みだった少女の顔がここでやっと困ったような顔に代わる。むーーとうなりながら蓮を見つめる。
「そう言われても私にはどうしても外せない用事があってね」
「俺にも用事があります」
「嘘おっしゃい。この私にそんな嘘が通じると思うの。どうせ用事っていても何処かの公園で日が暮れるまで本を読むか、本屋で大量の本を買ったのちに何処かの公園で日が暮れるまで本を読むのどっちかでしょ。と言うか結局本を読むだけでしょ。この私を舐めちゃダメなんだからね。四ヶ月も一緒にいて蓮君の行動パターンなんてすべてお見通しになったわ。君は親しい人は誰一人としていないし、誰とも話さない、遊ばないで、年中無休の暇人でしょうが。あ、でも一週間に一度はどっかジム行っているからその日だけは暇人じゃなくなるのか。でも総合的に見ると蓮君は暇人だよね」
いつの間にか少女が浮かべていた困ったような顔は笑みにすり替わっていた。勝利を確信したような不敵な笑みに。用事があるで押し切ろうとしていた蓮は表情こそ変えずとも口を閉ざす。
「……」
「言い返す言葉は。……ところで、蓮君。水を……」
「俺は嫌だから」
カラカラの声で催促してくる少女に水を渡しながら自分の意見を言う蓮。いつもの無表情ながらその声はいつもより固い。それを聞いても水を飲み終わった少女は笑う。
「蓮君。知っている?」
明るい声で少女が問いかけるのを蓮は見上げる。その口から出る声はいつもより数倍も冷たい。
「何をですか」
「部長の命令は絶対なんだよ」
だがすべてを気にしない少女は蓮に向けて親指を立てた。
「と言うことで、蓮君よろしくね。くれぐれも向こうの人に粗相のないように」
蓮は口を開いてそれから何も言わずに閉じた。もはや何を言っても変わることがないと理解して。
4
学校終わり、蓮が訪れたのは何かの施設だった。それなりに大きな外見からは何の施設かは判断できない。そこに一人足を踏み入れる。受付をすることもなく慣れた姿でその廊下を歩き一つの部屋に入っていく。その部屋は事務室なのか奥に一つの作業用の机があり、手前に客を案内するようのソファとテーブルがあった。それしかなかった。殺風景な部屋。電気すらもついてない。
「こんにちは」
「あら、蓮いらっしゃい」
平坦な声で声をかけた蓮に穏やかな顔をした女性が答えた。白衣を着たその女性は奥の机で何かの書類を見ていたようでかけていた眼鏡をそっと外す。誰に言われることもなく蓮は勝手にソファに座る。それを見てから女性は蓮に話しかけた。
「吸血鬼に襲われたそうね」
問いかける女性はおかしそうに笑みを浮かべているのに、問われた蓮は一瞬だけ眉を寄せた。真黒な目で女性を見つめながらその口は開かない。その代わりに蓮とは違う別の声が空気を震わせた。
「僕が教えたんだ」
暗い部屋の中、扉を開けることもなく蓮のすぐそばに男がいきなり現れる。首に腕を絡めてくる男に視線をやることもせず、蓮はただ何も感じさせない声をだすだけ。
「そう」
「怪我はなかったかしら」
「少し血を吸われた程度。あるとしたら向こうの方」
「あら。そう」
心配するようなふりをして問いかけた女性に、蓮は声を変えないまま淡々と答える。それを予期していたのか女性もまた朗らかに笑うだけだった。いきなり現れた男も口元にゆがんだ笑みを浮かべ楽しそうにしている。そんな二人を変わらず冷めた目で蓮は見る。
「俺はそれよりも別のことで報告しなくちゃいけないことがあるんだけど」
淡々と蓮が告げるのに女性と男、二人が動きを止めた。不思議そうな顔で蓮の姿を見つめる。
「あら、蓮から報告があるなんて珍しいわね」
「と言うか、初めてだよね」
いつもにはないことに首を傾げ二人は蓮を見続ける。言葉にこそ出さないものの蓮が何を言うのかにかなりの興味を抱いているのがその目から読み取れた。何とは言われることはないが、それでももうこれは言っていいのだろうと判断して蓮は口を開く。ほんの一瞬言うべきか言わざるべきか悩んでしまいながらも、それでも音として鼓膜を震わせた。
「……明日から一週間、部活の交流会で放課後別の高校に行くことになったから」
二人の目が見開かれ、蓮を見つめる。だがそれは今までとは違い、蓮のほうを向いているだけで蓮を見てはいなかった。空気が止まり、瞬きすらも起きない。じっと二人はどこかを見つめ続ける 。
「え、部活?」
最初に動き出したのは女性のほうだった。戸惑うように声を出し、困惑したような目で今度はちゃんと蓮を見つめる。
「蓮、部活していたの?」
信じられないというように問いかけてきた女性にああ、そこからかと蓮は思う。蓮が答えようとする前にはっとしたように男が我に返っていた。
「あれ? 言ってなかった? 蓮はしているよ」
我に返って男は女にそう告げる。それに対して女性は不可思議なものを見るかのような目で男を見た。信じられないと言いたげに口元がひくひくと動いた。つばを飲み込む音がやけに大きく響く。
「そうなの。良いの、あなたは」
「高校が生徒に部活を入ることを強制しているからね。教師が蓮にその件で色々言うのも面倒だし、許してあげているの。入っているのは、部員が蓮以外に一名しかいない文芸部だしね」
想像していた通りの女性の様子に男はうれしげに笑う。女もその説明に納得して深くうなづいた。
「ああ。成る程ね。でも文芸部……。活動してないでしょう。蓮」
「そりゃあね」
女性と男、二人が部室の中で何もしない蓮の姿を浮かんで笑う。そのそばで蓮は本を取り出してページを開こうとしていた。黒い目が女を一度だけ見る。
「報告、一応したからね」
告げればもはやそれで終わりと蓮の目は本の中に飲み込まれていく。女性はそんな連の姿を見てうなづきながら声をかける。それに返ってくるのは単語のみの答え。
「ええ。分かったわ。ただ一つ聞いておきたいのだけど、それはどこの高校なの」
「葉水学園」
それだけの言葉。それだけの言葉でありながら二人の動きは固まった。二対の目が驚きで見開かれ強張った顔で蓮を見つめる。
「え?」
二人のどちらからか、もしかしたら両方からそんな声が漏れ出る。その声に蓮は顔を上げて二人を見た。寄せられる眉。訝しげに見つめる蓮に二人はのろのろと動き出す。
「そ、うなの」
「おもしろく、ないね」
女性はまだ驚いた様子から立ち直れないように呟き、男はまるで苦虫を噛み潰したかのように顔をゆがめて呟いた。
「どうしたの」
「……なにもないわ。気にしないで頂戴」
蓮が問いかけるのに男は何も答えなかった。連から逃げるように顔を背けて唇をかみしめる。女性はあいまいな笑みを浮かべてごまかすように答えた。
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私立葉水学園。都心から少し離れた場所に立つその学園は幼稚園から大学までのエスカレーター式になっており、個性豊かな生徒が通うことで有名だった。その図書室で、放課後六人が顔をつきあわせていた。
「さて、君たち、今日から他校との交流会という事で人が来る」
少しぽっちゃりとした体型の六人の中では唯一の男である少年が最初の言葉を発した。周りの五人を真剣な顔で見つめている。彼らはこの図書室を部室とする図書部の部員達だった。殆どの学校は図書室の貸し出しや掃除などの手伝いを委員会などでやらせているが、この学校では部活として活動させていた。そして最初に話した少年がこの部の部長である。
「常先輩の友達の代理なんですね」
「そや、しーちゃん曰く優しい子だから大丈夫やと言いよった」
「まあ、優しい子かどうかは良いんだよ。ただね、よくないことが一つあって」
二人の少女が楽しそうに話すのに少年は深いため息をつきながら五人を見渡す。それに五人とも不思議そうな顔をして彼を見た。
「なんですか、先輩」
問いかけた後輩に一拍彼は間を置いた。そして手を強く握りしめ話し出す。
「君たち、他校から人が来るんだから行動にはくれぐれも気を付けてね。
倉田ちゃん、本読むのに夢中になりすぎないように。
江渕ちゃん、周りを苛めるのは少し控えめにね。
中平ちゃん、くれぐれも喧嘩だけは仕掛けないように。ちなみに喧嘩相手が襲ってくることもないように。
常、ツッコミはほどほどにね。
で、それで最後に山岡ちゃん、お願いだから変な行動+惚けないでね」
一人一人視線を合わせながら告げる彼は真剣だ。それに少女たちはあくまで真剣な目をして頷いた。
「善処するき」
「頑張ります」
「うーーん。取り敢えずは分かったって言っとくさ」
「了解」
あくまでも真剣なのは目だけだった。茶髪でボアカットの眠そうな顔をした少女、倉田亜梨吹は本を片手に頷いて。その手は今にも本の表紙をめくりそうだ。茶色交じりの黒髪ツインテールの少女、江渕鈴果は髪を弄りながら頷く。頷きながらも髪を弄ってない別の手は隣の少女、亜梨吹の腹をつついていた。黒髪パーマのポニーテールの少女、中平千はガッツポーズをしながら答えた。一人だけ目をキラキラに輝かせている。黒髪を後ろで一つに結んだだけの少女、副部長の常はまじめに頷いた。
そして最後の一人、ぼさぼさの髪をした少女、山岡沙魔敷猫は何か言いたげな目をしてじっと少年を見ていた。口をとがらせて少年に向かい抗議を漏らす。
「……なんか私だけみんなとちがくないですか。なんか私だけみんなよりも強く言われてないですか!」
最後にはぶっすりと頬を膨らませた少女に少年は生易しい目を向ける。ポンと少年の手が少女、沙魔敷猫の肩に置かれる。
「僕は他もそうだけど、特に君は心配なんだよ。お願いだから机の角で足を打たないでね。周りを見ないで本棚にぶつかったりしないでね。椅子に足を絡ませて転けたりしないでね。先生と先輩を言い間違えないでね。言い間違えても一回で訂正してね。先輩と先生何を言ってるのか分からないようにならないでね。分かった」
「……善処します」
力強く語られたのに沙魔敷猫は目をそむけながら今度こそ頷いた。それに隣の少女、千が少年が手を置いてない方の肩を叩いて励ます。少年はひとまず納得したように頷いてにこりと笑った。
「宜しく頼むよ。ぁ、それから風邪引かないようにね。他校の人に移したら駄目だから」
「分かってます」
「そう。ならもう少しで下井ちゃんが連れてくるはずだから君たち、少し待ってなさい」
「はーーい」
よい子のお返事をした五人に満足げに少年、小柴悠太は頷いた。六人が顔をつきあわせたまま図書室には沈黙が流れる。数人の体が緊張しているのかそわそわと揺れた。もう数人は興味がないのか当たりをぼんやりと眺める。そんな態度に残りの数人はため息をつく。 いつまで続くのだろうと思われた時間は急に開いた扉の音で終わりを告げる。
「失礼します。連れてきました先輩」
そこにいたのはまじめな顔をした眼鏡をかけた少女、下井真理亜と少年蓮の二人だった。
「ぁ、ご苦労様。下井ちゃん。で、こんにちは」
にっこりと挨拶した少年、小柴に返ってきたのは無反応だった。視線だけは合わされたがそれもすぐに逸らされる。何処を見るでもなく下を向いた目には恥ずかしさとかそう言うのは一切なかった。ただ単純にめんどくさいという思いだけが少年達にはくみ取れた。
「えっと、取り敢えず、自己紹介しようか。僕は小柴裕太。二年生でここの部長だよ。はい、常」
困惑しながらもそこは先輩であり部長、小柴は自己紹介へとつなげた。
「ほい。わたしゃあ、2年の常原楓や。文芸部との掛け持ちでやりゆう。しーちゃんとは去年であってその関係で交流会やらせてもらうことになったんや。はい、一年生」
「1年生の下井真里阿。部活はこれの他に水泳部、同好会はぬうん部、走研部、それから生徒委員会書記をやっている」
「一年生の山岡沙魔敷猫。みんなはさーって呼ぶから、呼んで良いよ。普通に呼ぶと長いし」
「一年生の中平千。性別、男に生まれたかった女」
「いらないよ、その一文」
「あたしは一年生の江渕鈴果」
「一年生の倉田亜梨吹です」
自己紹介は所々おかしなところがありながらも順調に進んだ。ただそれをされている人、蓮は顔を上げて相手を見ることをしなかった。ただ入ってきてから全く変わらぬ姿勢で立ち続けているだけ。聞いているのかすらも怪しい様子だった。一番最後の人を覗いて。
一番最後の少女の名を聞いて、蓮の目は見開かれる。
「ありす……」
本当に小さな声でその名は呼ばれた。その名の主と蓮の眼が会い、その名の主は顔を驚きで染めた。
「倉田ちゃん、どうした?」
「え、あ、何でもないです」
早口でまくし立てられるそれを蓮が見ていた。
「君の名前は?」
蓮に聞いてくるのを下を向いて答える。
「尾神」
その続きは暫く待っても訪れなかった。困ったように小柴と名乗った少年が笑い、周りはみんな引きつった笑顔を浮かべた。
6
不意に昨日の記憶を思い出した。
忘れようとしても忘れられない嫌な記憶。
その一番最初にいたある人を見て、心臓が鷲掴みされた感覚がした。恐怖で身体が震えてくる。一瞬だけあった気がした目が刃のように感じられた。 それでも匂いが漂ってくる。甘い匂い。おいしそうな甘ったるい匂い。
駄目だと思っているのにぐるぐるぐるとお腹の音が鳴る。誰も聞いてもいないのに誤魔化すように笑う。無意識のうちにした舌なめずりを気付かれないウチに止めた。
そして気付かれないように言葉を漏らす
「甘い。良い匂い」
かぐわしい匂いが鼻腔を満たす。
人工的な匂いではない優しい自然の匂い。
心からあふれ出しているようなそんな匂い。
「甘い」
甘い。とにかく甘い。鼻腔いっぱいに広がる甘い匂い。甘すぎるほど甘い匂い。
「お腹空いた」
口に出した言葉はだしてはいけない言葉。
狭い事務室。真ん中に応接用の長テーブルとソファを置き、窓側に所長の座るディスクを置いて、それ以外は配置など何も考えず滅茶苦茶に観葉植物が置かれた部屋。そんな部屋の中でふわりと大口をあけて少女が一人あくびをする。
たくさんの書類が積まれたディスク。黒い社長椅子に座るその少女。少女はそばにいるもう一人を横目でちらりと見た。
「警察からは何を言われたんしゃい」
すぐに視線を外して問いかける少女。もう一人の青年は静かな目でそんな少女を見つめていた。
「ここ最近の不審な貧血についてです」
「貧血ねぇ」
少女の問いに答えるその声はとても穏やかなものだった。心配することなどない。不安になることなどない。気にすることなど何一つないのだと思わせるような、まるでまだ幼い子供に声をかける母のように優しげな声。耳に甘やかに入り込み、脳髄の奥の奥までぐずぐずに溶かしてしまう。そんなどうしようもないほど穏やかな声だった。
そんな穏やかな声を聴きながら少女、山中理矢の顔は平穏とは程遠いところにあった。面倒だとでも言いたげな不機嫌な顔をしながら、その目は暗く淀んで哀しみをたたえている。
青年はそんな少女を見るともなしに見ながら一切の顔も声も変えない。ただ普通に話し続ける。
「はい、貧血です。警察が言うには、ここ最近の貧血で倒れる人の数が尋常ではなく、しかも、そのほとんどが夜に倒れているとのこと。それから倒れている人に共通点が。みな首筋に小さな二つの傷跡があった上に前後の記憶が曖昧なようです。」
「首筋に二つの傷跡。それに記憶喪失しゃいか」
「はい、傷痕に関しては本当に小さなものですが、それでも針よりは多少太いかと」
「そう」
少女の目が二人しかいない部屋の中に注がれる。何を見ているのか分からない目は部屋の中を見渡して、ゆっくりと窓の外へとむけられた。
「咬まれたんしゃいかね」
少女が独り言のように問いかければ青年はそれを待っていたかのように淀みなく答える。
「私が見た限りではそうかと。」
「ふーん、小さな痕……、蛇か、吸血鬼かのどちらかしゃい。蚊ではないかな」
少女の口元が緩く笑みを浮かべる。それは自分をあざ笑うかのように小さく引き攣った歪んだ笑みだった。そんな少女にも青年は何一つ変わることなく笑みを浮かべ続ける。何処までも穏やかで優しい笑みをずっと浮かび続ける。少女の言葉を肯定しながら柔らかな瞳で少女を見る。
「そうでしょうね。蚊でないことは確かですよ」
少女の足がふらりと降られた。目線だけ窓の方向を向いていたのがくるりと椅子を回転させて青年からその背も向けてしまう。大げさにされる背伸び。ぴゅぅと口笛の高らかな音を少女は鳴らす。 開け放されていた窓から一匹の鳥が少女の手の甲へと舞い降りる。
「どっちしゃいかね。調べんと駄目しゃい」
その白い鳥の翼を撫でながら、少女は窓の外の景色を見つめる。都会ではありながらも人の喧騒からは少し離れた場所に建つビル。その二階の窓から眺める世界。商店街と言えるほどではないが小さな店が立ち並び数人の人が過ぎ去っていく。 だけど少女が見つめるのはそんな景色ではなかった。甘い紅茶のような色をした目は景色を通り越してその先にあるものを見つめる。
「社長」
青年はそんな少女の名を呼ぶ。わずかに首だけを振り返った少女は生返事で言葉を返した。手の甲に乗った鳥を撫でながらその眼が見つめるものは変わらない。何処か疲労した様子を見せながら少女の口からは音にならないため息がでていく。
「ん、何しゃい?」
青年の優しい色をした目がそれを見ていた。その口元も顔さえも見えないはずだけど、青年は確かに見ていた。そして見ていながら青年は変わらぬ声を続ける。
「いい加減にして下さい」
「何がしゃい」
柔らかな青年の声。それに少女も同じような柔らかさで返す。まるで何処までも無垢で無知で何も知らない分からない子供なのだと訴えるような羽毛のような声で。青年は変わらない。変わらない笑みを浮かべ続ける
「気付いているなら、知っているなら、分かっているなら、それ相応の動きをして下さい」
青年が言う。その言葉に窓の外を見ていた少女の目が微かに揺れた。鳥を撫でていた手が止まり、その目が伏せられる。一分もかからなかった。再び顔を上げた少女は今度は窓の外を見ていなかった。同じ方向を見ながらもっと近い何かを見ていた。
「……気付いてないしゃいかもよ」
うっすらと笑みを浮かべて少女が言う。悪戯っ子のような茶化した笑みを浮かべようとして、青年の前にそれは止まった。変わらない目で青年が少女を見ていることが、少女には分かった。その眼を前にして少女はこれ以上騙すことは出来なかった。
いつまでも変わらない優しくて柔らかな目。まるで子を慈しむ母のように、宵闇の中で地を照らす星や月の光のように優しい目。まるで大切なものを抱きしめる腕のように、穏やかな天候の中人々陽気に誘う春の風のように柔らかな目。
いつまでも続き続けるそれは、少女には安心とそうしてどうしようもないほどの義務を突き立てた。
「それはないですね。昔からこうなることは分かっていましたから」
その眼と同じような色をして、そしてその眼とともに何処までも変わらないもはや普遍的とも思えるほどの声で青年は少女を刺す。少女の小さな肩が震えた。
「あんたは嫌いしゃい」
震える唇で少女はぽつりと呟く。悲しみを込めて、苦しみを込めて。
「あんたは嫌いしゃい」
もう一度呟いて少女は肩越しに男を見た。少女の思い描き続ける通りの変わらない顔して少女を見て立っている。少女の口角が自然と上がった。
「でも好きしゃいね。だって私は私よりもあんたの方が信じられるしゃいから。だからお願いね、清水。信じてるしゃいから」
どんなことがあろうと少女が思い浮かべる通りの姿をし続ける彼は、ゆらゆらといつだって揺れ続ける少女にはどうしたって必要だった。
「あいつの様子見てきてくれるしゃいか」
少女が静かにかけた声に手の甲にいた鳥は人間みたいに頷くような仕草をして、少女の手から飛び立った。白い羽根が部屋の中に舞う。ふんわり漂いその一つが落ちた先は机の上に置かれた資料の一つだった。 その羽が落ちた資料を感傷を込めた目で見つめる少女。……中川理矢。この事務所の社長だった
「猶予はそれほどないと思っていてくださいよ」
少女に青年は声をかける。
「分かってるしゃいよ」
それに応える少女の声は小さくわずかばかりの外の声に掻き消えていた
1
「甘い」
学校も終えいつものように公園で本を読んだ後、帰っていた少年、尾神蓮は後ろから聞こえたそんな声で振り向いた。確かにその声は聞こえてきたのに振り向いた先には誰もいない。人通りの少ないその道は微かな明かりだけが闇に飲み込まれてそこにあるだけだ。
「甘いね」
もう一度そんな声が聞こえた。また、後ろから。ゆっくりと少年、蓮はさっきまで自分が歩いていたその向きに顔を向ける。そこには誰かが居た。
でも、誰かは分からない。暗闇に隠れて姿が見えなかった。それでも街灯の光がわずかに届かなかった闇の 中に誰かがいることだけはハッキリと分かる。
暗闇の中に、はっきりと赤い瞳が浮かんでいる。
猫のように大きな赤い眼。
「凄く甘いね」
血走ったその目はにったりと獲物を見つけた猫のように笑う。
「甘いな。食べたいな。食べても良いよね」
笑った赤い眼。その眼は蓮の腰あたりにある。
つまり、子供のような身長。クスクスと笑いながら話すその声さえもどこか幼く甘く感じられた。
「食べるよ」
赤い眼をした子供は前へと一歩足を進めた。その瞬間風が吹く。目を瞬くよりも前に子供はすでに蓮のすぐ傍に来ていた。歪んだ口元の笑みが一瞬だけ視界に映り込んだ。
ドスと首筋に何かが当てられる感触。手刀を入れられたのだと蓮が気づいたときには、又に地面に倒れ子供に肩を押されて乗り上げられていた。子供、いや人間とは思えない力で押さえつけられ動くことさえままならなかった。そんな蓮に子供は嬉しそうに笑う。首元に顔を寄せて匂いを嗅ぎ、それから制服越しに首筋に歯を立てる。黒い生地が破れ肌に直接尖った歯が当たる。
「頂きます」
言葉と共に、首筋に小さな痛みが走る。小さく甘い痛み。
そこから何かが吸われるような、奪われるような感覚がする。甘い甘いうずきと共に。
身体から力が抜けていくような感覚がするなか、蓮は何とか腕を動かそうとした。掴まれた腕はされど抜けない。幾度目かの挑戦が失敗に終わると今度は逆に全身の力を抜いた。何かを吸うことに夢中になっている子供は蓮のそんな些細な動きには気を留める暇もなかった。 そんな子供ににやりと笑い、すっと、左足に力を込めた。そして、
「何すんだよ」
赤い眼のなにかを蹴り上げた。
「…っ」
飛び上がったそれ。無理やり突き刺さっていたものがぬけてちくりとした痛みが走る。ポタリと何かが顔に付いた。拭ったそれは生暖かく、暗い闇の中でもわかるほどの赤い色をしていた。
“血”
触れた首筋にも血が付いている。痛みはない。
「あんた、何」
赤い眼の何かを睨み付けながら、尾神蓮は腰を落として数歩、後ろに下がった。問いかける声は低く狭い路地の中に響き渡る。ゆらりと何かが動く。
「まだ、食べてない」
赤い眼の何かが言う。問いかけには答えずただ赤い眼を蓮に合わせて幼く舌足らずな声で話す。
「何食べているのかは知らないけど、これ以上は食べさせないよ」
蓮がさらに後ろに下がるのと同時に、赤い眼の子供が一歩前にでた。
最初より近くなった距離に子供赤い眼の何かのシルエットが分かった。ふんわりとした姿、髪は少し長く、そしてふわふわとしたスカートが風に打たれて揺れている。
少女、いや、女の子だ。 赤い眼をした女の子。
「食べるよ。お腹空いてるもん」
赤い眼が笑う。赤い眼の女の子が動く。
懐に入ってくる女の子はスカートだと言うことも気にせず蹴りを入れてくる。その足を蓮は掴みとめる。思った以上の衝撃によりバランスを崩しながらも軸は保ち、こぶしを丸空きの少女の脇に叩き込んだ。そのまま蹴りを一つ。掴んでいた足を払った。
「なら、応戦させてもらう」
離れた距離。女の子を睨み体勢を立て直しながら蓮は宣言する。地面に打ち付けられた女の子はそれでも立ち上がりその不気味な赤い目を蓮に向ける。
「良いけどね。どうせ無駄なことなんだから」
地面に打ち付けられた際、擦りつけた頬の血を手で脱ぎ取った女の子は、その手を舐めながら蓮に言葉を返した。口元に余裕の笑みを浮かべながら。 笑みを浮かべたまま女の子は地面をけろうとした。身構える蓮。だが蹴ろうとした女の子は突然その動きを止めると顔を抑え苦しみもがき始めたのだった。
「うっうう……」
女の子の口からうめき声が漏れ、苦悩するようにその頭は大きく振られた。突然のことに驚きどう対処するべきか判断できずにいた蓮はふっと気付く。
手のひら越しに見える女の子のルビーのように赤い目が、空のような青い眼に変わっていくことに。
驚きで言葉すらもなくした蓮に苦痛に耐えながらも女の子は何かを放り投げた。
ゆらりと蓮の目の前に広がり視界を奪うのそのなにかは布だ。そう認識したときには遅かった布が蓮の目を覆い、動きを止める。
暗闇に視界を閉ざされた中蓮は口笛の音を聞いた。そしてそれのすぐ後にバサリと何かが風を叩きつけるような音も聞こえてくる。それは一度ではなく数回続いた。
何が起きているか確かめようと蓮は目を覆う布に手を伸ばした。
開け放された視界。だがそこには誰もいなかった。あたりを見回した蓮はふっとあの音がまだしていることに気付く。その音がしている方向、上空を見上げた。
見上げたそこにはあの女の子がいた。赤かったはずの目を青い色に変えて、ひらりとスカートをはばたかせる女の子が。夜の空の上に浮かんでいた 。その女の子の背には大きな翼がはえ、その横には二つの小さな蝙蝠が 。
その二つと共に女の子は夜の闇の向こうへと消えていた。
大きな翼で空を飛んで 。
それを呆然と見送った蓮はなおもその後しばらくその場に立ち尽くした。首筋に手を伸ばし血がもう出ていないことを確認し、蓮は細い息を吐いた
「なんだったの」
疑問に満ちた声が漏れた。
喧騒がやまない夜の町の中、女の子はビルの屋上を囲むフェンスの上に強風を受けながら立っていた。
今は、静かな青い眼をして、
ひらひらと風に乗ってスカートが踊る。金色の髪が暗い宙に浮かび上がるのにその小さな体はピクリとも動かなかった。青い瞳だけがゆらゆらと揺れ続け、見るでもなしに眼下に広がる町並みを見下ろしていた。
すんと、女の子の鼻が息を吸い込む。小さく開けられた口からは尖った牙が見えた。気怠げにおろされた手が持ち上げられその牙をゆっくりと辿る。
「おいしかった」
恍惚とした声で女の子は告げる。頬が赤く染まりふぅうと熱い吐息が漏らされる。牙に触れた手がゆったりと赤く染まった白い頬を撫で上げる。その手が瞼に触れる。
「極上だった。食べたいな、あれを……」
熱を含んだ甘い声はまだ暑い夜の風の中に含まれ霧散していく。女の子の青い目が徐々に赤く変わりだしていく。
「お腹空いた」
血の通う赤い唇の下、鋭い牙が月の光を受けきらりと光る。熱く甘い舌足らずな声が空気を震わせ、口元にゆったりとした笑みが広がっていく。だが、その途中口元は苦しげにゆがめられる。風を受け変わらぬ姿で立ち尽くしていた女の子の体が苦痛に耐えるように背を丸めて呻く。
「うぅ…………」
赤に変わろうとした瞳がまた青に戻っていこうとする。
「alisu様」
誰もいなかったはずのその場にポンと音を立てて現れた蝙蝠が、女の子の名を心配げに呼ぶ。赤と青がまじりあう目がそれを見た。
「……気にしないで。それより帰るよ」
「はい」
ふらつく体を抑え込んで女の子は狭い足場を蹴る。高いビルの上、薄暗くのしかかる夜の闇、それをかき消そうかとするかのように明るく光を纏う地上の世界。そこに落ちていくかのように手を広げた女の子の背から黒い翼がはえる。
バサリと風を切るように力強く翼が一つ羽ばたけば落ちていた女の子の体はより深い夜の闇の中へと上がっていく。ふっと上昇していた女の子の体が動きを止める。
赤が色濃い瞳が眼下を見下ろした。
「おいしかった」
また女の子は呟く。甘い声で、
「眷属」
蝙蝠を女の子は呼んだ。恍惚とした声で。
「あの餌を探して」
「分かりました」
蝙蝠は飛んでいく。甘い声に命じられるままに。それを見つめて女の子は笑みを浮かべる。赤い舌がチロチロとその唇をなめた。
「食べないと。あの極上の餌を」
にやりと笑う女の子の目はその舌よりも唇よりも赤い色をしていた。
3
「はい、これ」
笑顔で渡された手紙と資料を見て少年、蓮は目を瞬かせた。ここは蓮が通う学校、そこの教室の一つで放課後は文芸部の活動場所として使われているところだった。
「何ですか、これ」
感情を載せない冷めた声で蓮は聞く。そんなことは気にせずに目の前の少女、文芸部部長はニコニコと笑みを浮かべ続け、そしてその口が開く。それを声と同じような変わらぬ目で見ながら、蓮の手は傍に置かれていた机の上の物へと伸びる。
「あのね、一年前知り合った葉水学園文芸部の友達から一週間交流会としてうちの部活の見学に来ないかって誘われたの。そのこと事態は随分前から話し合っていたことなんだけど、日にちがね。明日から一週間なんだけど、向こうから言われたのも二日前って急なら、私のほうも今日の朝急に予定が入って都合が合わなくなってね。向こうの方も先生とかと都合を合わせるのに戸惑って急なことになってすまないって謝ってくれているんだけど。まあ、でも、断るのも嫌だし、それにその子もう一つ部活してて主にそこの活動を見ることになるんだけど、そこが面白いところらしいから興味があるの。だから、私はいけないけど部員であるあなたに行って貰おうと思って」
一気にまくし立てた少女。蓮はそんな少女を半目で見ていた。その手には先ほど机の上から取ったペットボトルが握られている。
「蓮君。水をくれないかな」
「……」
カラカラの声で少女が頼んでくる。差し出された手に無言でペットボトルを渡した。渡された少女はごくごくと半分ほど飲み込んだ。少女からおっさん臭い声が漏れる。
「いつもありがとう。喋った後の水はおいしいよ。で、お願いね、蓮君」
キラキラと輝いた笑みで少女は最後の言葉を強調して言った。それに帰ってくるのは普段と全く変わらぬ冷たい声。
「何で」
大部分が省略された言葉に気を悪くすることもなく少女の笑みは変わらない。相変わらずの満面の笑みのまま胸を張って言葉を返す。
「君が我ら文芸部の数少ない部員だから」
「嫌です」
即答で返された冷たい声が二人だけの教室に空しく響き渡った。満面の笑みだった少女の顔がここでやっと困ったような顔に代わる。むーーとうなりながら蓮を見つめる。
「そう言われても私にはどうしても外せない用事があってね」
「俺にも用事があります」
「嘘おっしゃい。この私にそんな嘘が通じると思うの。どうせ用事っていても何処かの公園で日が暮れるまで本を読むか、本屋で大量の本を買ったのちに何処かの公園で日が暮れるまで本を読むのどっちかでしょ。と言うか結局本を読むだけでしょ。この私を舐めちゃダメなんだからね。四ヶ月も一緒にいて蓮君の行動パターンなんてすべてお見通しになったわ。君は親しい人は誰一人としていないし、誰とも話さない、遊ばないで、年中無休の暇人でしょうが。あ、でも一週間に一度はどっかジム行っているからその日だけは暇人じゃなくなるのか。でも総合的に見ると蓮君は暇人だよね」
いつの間にか少女が浮かべていた困ったような顔は笑みにすり替わっていた。勝利を確信したような不敵な笑みに。用事があるで押し切ろうとしていた蓮は表情こそ変えずとも口を閉ざす。
「……」
「言い返す言葉は。……ところで、蓮君。水を……」
「俺は嫌だから」
カラカラの声で催促してくる少女に水を渡しながら自分の意見を言う蓮。いつもの無表情ながらその声はいつもより固い。それを聞いても水を飲み終わった少女は笑う。
「蓮君。知っている?」
明るい声で少女が問いかけるのを蓮は見上げる。その口から出る声はいつもより数倍も冷たい。
「何をですか」
「部長の命令は絶対なんだよ」
だがすべてを気にしない少女は蓮に向けて親指を立てた。
「と言うことで、蓮君よろしくね。くれぐれも向こうの人に粗相のないように」
蓮は口を開いてそれから何も言わずに閉じた。もはや何を言っても変わることがないと理解して。
4
学校終わり、蓮が訪れたのは何かの施設だった。それなりに大きな外見からは何の施設かは判断できない。そこに一人足を踏み入れる。受付をすることもなく慣れた姿でその廊下を歩き一つの部屋に入っていく。その部屋は事務室なのか奥に一つの作業用の机があり、手前に客を案内するようのソファとテーブルがあった。それしかなかった。殺風景な部屋。電気すらもついてない。
「こんにちは」
「あら、蓮いらっしゃい」
平坦な声で声をかけた蓮に穏やかな顔をした女性が答えた。白衣を着たその女性は奥の机で何かの書類を見ていたようでかけていた眼鏡をそっと外す。誰に言われることもなく蓮は勝手にソファに座る。それを見てから女性は蓮に話しかけた。
「吸血鬼に襲われたそうね」
問いかける女性はおかしそうに笑みを浮かべているのに、問われた蓮は一瞬だけ眉を寄せた。真黒な目で女性を見つめながらその口は開かない。その代わりに蓮とは違う別の声が空気を震わせた。
「僕が教えたんだ」
暗い部屋の中、扉を開けることもなく蓮のすぐそばに男がいきなり現れる。首に腕を絡めてくる男に視線をやることもせず、蓮はただ何も感じさせない声をだすだけ。
「そう」
「怪我はなかったかしら」
「少し血を吸われた程度。あるとしたら向こうの方」
「あら。そう」
心配するようなふりをして問いかけた女性に、蓮は声を変えないまま淡々と答える。それを予期していたのか女性もまた朗らかに笑うだけだった。いきなり現れた男も口元にゆがんだ笑みを浮かべ楽しそうにしている。そんな二人を変わらず冷めた目で蓮は見る。
「俺はそれよりも別のことで報告しなくちゃいけないことがあるんだけど」
淡々と蓮が告げるのに女性と男、二人が動きを止めた。不思議そうな顔で蓮の姿を見つめる。
「あら、蓮から報告があるなんて珍しいわね」
「と言うか、初めてだよね」
いつもにはないことに首を傾げ二人は蓮を見続ける。言葉にこそ出さないものの蓮が何を言うのかにかなりの興味を抱いているのがその目から読み取れた。何とは言われることはないが、それでももうこれは言っていいのだろうと判断して蓮は口を開く。ほんの一瞬言うべきか言わざるべきか悩んでしまいながらも、それでも音として鼓膜を震わせた。
「……明日から一週間、部活の交流会で放課後別の高校に行くことになったから」
二人の目が見開かれ、蓮を見つめる。だがそれは今までとは違い、蓮のほうを向いているだけで蓮を見てはいなかった。空気が止まり、瞬きすらも起きない。じっと二人はどこかを見つめ続ける 。
「え、部活?」
最初に動き出したのは女性のほうだった。戸惑うように声を出し、困惑したような目で今度はちゃんと蓮を見つめる。
「蓮、部活していたの?」
信じられないというように問いかけてきた女性にああ、そこからかと蓮は思う。蓮が答えようとする前にはっとしたように男が我に返っていた。
「あれ? 言ってなかった? 蓮はしているよ」
我に返って男は女にそう告げる。それに対して女性は不可思議なものを見るかのような目で男を見た。信じられないと言いたげに口元がひくひくと動いた。つばを飲み込む音がやけに大きく響く。
「そうなの。良いの、あなたは」
「高校が生徒に部活を入ることを強制しているからね。教師が蓮にその件で色々言うのも面倒だし、許してあげているの。入っているのは、部員が蓮以外に一名しかいない文芸部だしね」
想像していた通りの女性の様子に男はうれしげに笑う。女もその説明に納得して深くうなづいた。
「ああ。成る程ね。でも文芸部……。活動してないでしょう。蓮」
「そりゃあね」
女性と男、二人が部室の中で何もしない蓮の姿を浮かんで笑う。そのそばで蓮は本を取り出してページを開こうとしていた。黒い目が女を一度だけ見る。
「報告、一応したからね」
告げればもはやそれで終わりと蓮の目は本の中に飲み込まれていく。女性はそんな連の姿を見てうなづきながら声をかける。それに返ってくるのは単語のみの答え。
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「どうしたの」
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私立葉水学園。都心から少し離れた場所に立つその学園は幼稚園から大学までのエスカレーター式になっており、個性豊かな生徒が通うことで有名だった。その図書室で、放課後六人が顔をつきあわせていた。
「さて、君たち、今日から他校との交流会という事で人が来る」
少しぽっちゃりとした体型の六人の中では唯一の男である少年が最初の言葉を発した。周りの五人を真剣な顔で見つめている。彼らはこの図書室を部室とする図書部の部員達だった。殆どの学校は図書室の貸し出しや掃除などの手伝いを委員会などでやらせているが、この学校では部活として活動させていた。そして最初に話した少年がこの部の部長である。
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「なんですか、先輩」
問いかけた後輩に一拍彼は間を置いた。そして手を強く握りしめ話し出す。
「君たち、他校から人が来るんだから行動にはくれぐれも気を付けてね。
倉田ちゃん、本読むのに夢中になりすぎないように。
江渕ちゃん、周りを苛めるのは少し控えめにね。
中平ちゃん、くれぐれも喧嘩だけは仕掛けないように。ちなみに喧嘩相手が襲ってくることもないように。
常、ツッコミはほどほどにね。
で、それで最後に山岡ちゃん、お願いだから変な行動+惚けないでね」
一人一人視線を合わせながら告げる彼は真剣だ。それに少女たちはあくまで真剣な目をして頷いた。
「善処するき」
「頑張ります」
「うーーん。取り敢えずは分かったって言っとくさ」
「了解」
あくまでも真剣なのは目だけだった。茶髪でボアカットの眠そうな顔をした少女、倉田亜梨吹は本を片手に頷いて。その手は今にも本の表紙をめくりそうだ。茶色交じりの黒髪ツインテールの少女、江渕鈴果は髪を弄りながら頷く。頷きながらも髪を弄ってない別の手は隣の少女、亜梨吹の腹をつついていた。黒髪パーマのポニーテールの少女、中平千はガッツポーズをしながら答えた。一人だけ目をキラキラに輝かせている。黒髪を後ろで一つに結んだだけの少女、副部長の常はまじめに頷いた。
そして最後の一人、ぼさぼさの髪をした少女、山岡沙魔敷猫は何か言いたげな目をしてじっと少年を見ていた。口をとがらせて少年に向かい抗議を漏らす。
「……なんか私だけみんなとちがくないですか。なんか私だけみんなよりも強く言われてないですか!」
最後にはぶっすりと頬を膨らませた少女に少年は生易しい目を向ける。ポンと少年の手が少女、沙魔敷猫の肩に置かれる。
「僕は他もそうだけど、特に君は心配なんだよ。お願いだから机の角で足を打たないでね。周りを見ないで本棚にぶつかったりしないでね。椅子に足を絡ませて転けたりしないでね。先生と先輩を言い間違えないでね。言い間違えても一回で訂正してね。先輩と先生何を言ってるのか分からないようにならないでね。分かった」
「……善処します」
力強く語られたのに沙魔敷猫は目をそむけながら今度こそ頷いた。それに隣の少女、千が少年が手を置いてない方の肩を叩いて励ます。少年はひとまず納得したように頷いてにこりと笑った。
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「そう。ならもう少しで下井ちゃんが連れてくるはずだから君たち、少し待ってなさい」
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「一年生の中平千。性別、男に生まれたかった女」
「いらないよ、その一文」
「あたしは一年生の江渕鈴果」
「一年生の倉田亜梨吹です」
自己紹介は所々おかしなところがありながらも順調に進んだ。ただそれをされている人、蓮は顔を上げて相手を見ることをしなかった。ただ入ってきてから全く変わらぬ姿勢で立ち続けているだけ。聞いているのかすらも怪しい様子だった。一番最後の人を覗いて。
一番最後の少女の名を聞いて、蓮の目は見開かれる。
「ありす……」
本当に小さな声でその名は呼ばれた。その名の主と蓮の眼が会い、その名の主は顔を驚きで染めた。
「倉田ちゃん、どうした?」
「え、あ、何でもないです」
早口でまくし立てられるそれを蓮が見ていた。
「君の名前は?」
蓮に聞いてくるのを下を向いて答える。
「尾神」
その続きは暫く待っても訪れなかった。困ったように小柴と名乗った少年が笑い、周りはみんな引きつった笑顔を浮かべた。
6
不意に昨日の記憶を思い出した。
忘れようとしても忘れられない嫌な記憶。
その一番最初にいたある人を見て、心臓が鷲掴みされた感覚がした。恐怖で身体が震えてくる。一瞬だけあった気がした目が刃のように感じられた。 それでも匂いが漂ってくる。甘い匂い。おいしそうな甘ったるい匂い。
駄目だと思っているのにぐるぐるぐるとお腹の音が鳴る。誰も聞いてもいないのに誤魔化すように笑う。無意識のうちにした舌なめずりを気付かれないウチに止めた。
そして気付かれないように言葉を漏らす
「甘い。良い匂い」
かぐわしい匂いが鼻腔を満たす。
人工的な匂いではない優しい自然の匂い。
心からあふれ出しているようなそんな匂い。
「甘い」
甘い。とにかく甘い。鼻腔いっぱいに広がる甘い匂い。甘すぎるほど甘い匂い。
「お腹空いた」
口に出した言葉はだしてはいけない言葉。
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言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
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