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第1章過去と前世と贖罪と

49・ここにある居場所

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「どうしてだろうなぁ…」

降りしきる雨の中、セツナはそう言った。
雨に濡れているせいで分からないが、
彼女は多分泣いているんだろう。

「日本での事は…例えばさ。
本で読んだ内容とか、テレビで見た知識は覚えているんだ。
でも人の名前とか、顔が思い出せない…。
同級生で仲が良かった子は、
その子がどんな子だったのかは大体覚えている。
でも名前分かるのに顔が思い出せなかったり、その逆だったり、
あるいはどっちも思い出せなかったりする…。
担任の先生に至っては、男なのか女なのかも分からない…」

セツナは静かに語り始めた。
だが等のエドナにはそれを聞いている余裕はなかった。
セツナの体はエドナの左腕に掴まれることによって、
時計塔の下に落ちずに済んでいる。
エドナは下を見ているため、
今のセツナがどれだけ地面と離れた場所に居るのかも理解している。
おそらくエドナが手を離せば地面に真っ逆さまだ。
そしてこの高さでは絶対に助からない。
飛翔魔法を使えば落ちることはないと思うが、
正気でない今のセツナには、
それは無理だということをエドナは悟っていた。

「私のお母さんは…エドナに似ているんだ…。
どうしてそう思うのかも、よくわからない。
顔は似てない事は分かるんだけど、
具体的にどういう顔だったのかは、思い、出せない…」
「セツナッ…! 早く手を掴んで!!」

ただでさえ今は雨が降っている、
そのうち手を滑らせてしまうかもしれない。
せめて右腕が動けば…!
エドナはもう叶わないとは思っていても、
そう思わずにはいられなかった。

「それにね…。地獄神から言われたんだ。
私はもう二度と元の世界に帰れないって…。
どうしてかなぁ…」

セツナは泣きそうな表情をした。

「私、何か悪いことしたのかな…。
どうしてこの世界に来てしまったんだろう。
日本で、お母さんと、友達と一緒に暮らせたらそれで幸せだったのに。
どうしてこんな異世界に来てしまったんだろう…」

イセカイ、ニホン?
エドナには理解できない言葉だったが、それを理解する余裕もなかった。

エドナは自分でもセツナの手を掴んでいられるのか、
不思議でならなかった。
左手は明らかに悲鳴をあげている。
もうもたないであろう事は理解している。
それどころか重力に引っ張られ、
エドナの体がずり落ちそうになっていた。

「俺、人呼んでくる!」

見かねたガイが人を呼ぶために塔の下に降りていった。
だが人が来るまでにどれだけかかるだろうか、
その時間まで本当に持つのだろうか。
ただでさえ今は、降りしきる雨が体力を奪っているというのに――。

「お願いだから、手を伸ばして!!
このままだとあなたは死んでしまうのよッ!!」
「死――?」

その言葉に反応したのか、セツナは顔を上げた。
普段からは考えられない程、無表情だった。

「死ぬのって、そんなにダメなことなの?」
「ダメよ! あなたは生きないといけない!!」
「私は――死んだ方が良いのかもしれない」

ガラスのような目が、エドナの姿を映す。
だがその瞳が、
エドナの姿を映してないことは、明白だった。

「何でそんなこと言うの?」
「私は――人を殺してしまった」
「え?」
「直接には…殺していないけど、殺したも同然の人達がいる…。
私ね。閉じ込められてたの。ずっと外に出してもらえなかった。
日本に帰りたかったの。
だから隙をついて、逃げ出そうとしたの――」

それはひょっとしてヒョウム国でのことか?
だがあの国は伯爵夫人が言うには、セツナが生まれる以前に滅んでいる。
一体どういうことだ。

「でもすぐに捕まった。
そしたらね。皇帝が私を逃した責任だって言って、
私の身の回りの世話をしていたメイドとか、警備の兵士とか、
そういう人達を、まとめて処刑してしまった…。
その方が私には効果的だからって、殺し、た…」
「セツナ…あなたは」

だからそんなにも不安そうな表情をしているのか、
だからそんなにも…自分自身を、卑下しているんだ。

「私はずっと日本に帰りたかったけど…。
私が逃げだしたら、
その責任を取らされて誰かが殺されてしまう…。
…だからずっと牢獄の中に閉じ込められていた。
ずっとずっとそこに居たよ。
時間の感覚も分かんなくなっちゃったから、
どれだけそこに居たのか覚えてないけど…」

セツナは無表情にエドナを見る。

「これでも私って、生きてても良いのかな…。
その人達は死んじゃったのに、私は生きてても良いのかな…」
「セツナ…っ」

もう左腕は限界だった。感覚ももう無くなっている。
こうしてセツナの腕をつかんでいること自体、奇跡に近い。

「それにね。アーウィンも殺されちゃった」
「……アー、ウィン?」
「私を助けてくれようとしたんだけど…殺されちゃった。
本当に命がけで私を助けてくれようとしたのに、
私は何もできなかった…」
「お願い、手を伸ばして…!
このままじゃ本当に落ちてしまう…っ」
「私は死んだ方がこの世界にとって良いんだよ…。
だってもともと異分子なんだから」
「正気に戻って!! お願い、セツナァッ!!」

その時、エドナは右腕が動かなくなった時、
医者の言うままに諦めてしまったことを後悔した。
どうして諦めてしまったのだろう。
ひょっとしたら他にも何か方法があって、
動かせたかもしれないのに…。
どうして土壇場になって、いつもいつも後悔するんだ!

「動け、動けぇぇ!!」

右腕にそう命令するが、ピクリとも動かなかった。
もう…エドナの体は半分がずり落ちていた。
右腕は動かず、足にひっかけられそうな突起もこの時計塔には無い。
重力に従って、いつセツナと一緒に落下してもおかしくない。

「お願いだから、死なないで!!」

気がつけばエドナの瞳から涙がこぼれていた。
どうしても、今のエドナではセツナを助ける事は出来ない。
だがエドナは自分が死ぬことよりも、
セツナが死んでしまうことの方が恐ろしい。
こんな状況だというのに既視感を感じた。

前にもこんなことがあった気がする――。

前にもセツナを失ってしまったことがあるような――。

「どうしてここまでするんですか…」

これまで呼びかけ続けてきたせいか、
セツナは初めてエドナを見た。

「あなたに死んでほしくないからよ…!!」
「どうして生きないといけないの…?」

セツナの言葉には、何の抑揚も入っていなかった。
ただ彼女がどうしようもなく孤独で、
どうしようもなく罪悪感にさいなまれているのだと、
エドナには理解できた。

「私は地獄に落ちた方が、きっと、正しい…」

その言葉を聞いた瞬間、エドナは自分でも勝手に口が動いていた。

「どうして…どうしてあなたが地獄に落ちないといけないの…ッ?
だってあなたは何もしていないじゃない!!」

血を吐くようにエドナはそう言った。

「何もしていないのに、どうしてあなたが苦しまないといけないの!?
どうしてあなたが地獄に落ちないといけないの!?
こんな事は間違っている!!」

自分でもどうしてそんな言葉が出たのか、わからない。
だが魂の限り、エドナは叫んだ。

「あなたは幸せにならないといけないの…!
どうしても幸せにならないといけないの…!
幸せになる権利はあなたにもあるの!!」
「し、あ、わ、せ…?」

まるでその言葉を生まれて初めて聞いたような、
そんな反応だった。

「一番不幸になった人が、一番幸せにならないのなら、
何のために生きているのか、分からないじゃない!!」

その言葉は自分でも意外なものだった。

そうだ――幸せにならないといけないんだ。
不幸のままじゃダメなんだ。
幸せに――幸せに生きないといけないんだ。
そのためにみんな生まれてきたんだ。

生まれてくることを修行と言う人がいる。
だけど辛い思いだけしてそれで終わるのか?
それが人生なのか?
違う――。そうじゃないんだ。幸せになる権利はあるんだ。
誰にも、誰にでも、当然セツナにも――。

「あなたは誰よりも幸せになる権利はある!!
ここで死んでいいなんて事は無い!!」
「生きてて、…良いの、かな?」

ひょっとしたらずっとセツナは死にたかったのかもしれない。
自分のせいで人が死んでしまったと彼女は思っているんだ。

そうか…だからセツナは記憶を無くしたんだ。
もし思い出してしまえば、こうして自殺しようとするから――。

「生きてて良いに決まっているじゃないっ!!
あなたが死ぬなら私も後を追って死ぬわ!」

エドナの言葉で徐々に正気に戻りつつあったのか、
セツナの瞳に光が戻りかけていた。

「それでも…私は、自分が許せない……」
「だからって死ぬの!?
そんなことをしたって何にもなりやしない!」

もう半分どころか、体のほとんどが落ちそうになっていた。
今ならまだ手を離せば助かるが、
エドナは最後までセツナを説得し続けた。

「でも、お母さんはきっと私を許してくれない…」
「許してくれるわ…!」
「みんな私のせいで不幸になってしまった…。
私はこの世界にとって異分子だから、
みんな私と関わったせいで不幸になった…」
「そんなことはない!
だってあなたは私の心を救ってくれたじゃない!」
「――え?」
「私は誰にも認められなかった…!
ただ女だと言う理由だけで、
私と言う存在を見てくれることはなかった!
でもあなたが…あなたが私は初めて認めてくれたのよ!!」

どこに行っても、女性差別は無くならなかった。
誰もがエドナを女だとしか見ない。
正当の実力を評価されることもなかった。
認めてくれた師は居た、友は居た。
だが彼らは死んでしまった。
それゆえエドナは失うことの恐怖か、人と接することを恐れていた。
でもセツナはエドナを認めてくれた。必要だと言ってくれた。
それはエドナの20年の人生の中で、初めての体験だった。

「あなたが死んだら、私は悲しい…!
だからあなたが、居場所がなくて苦しいのなら、
私がその居場所を作るから…!」

雨が降る。土砂降りの雨が、腕はもう限界だった。
もう力が入らない。エドナの体が――徐々にずり落ちていく。

「だから死なないで…!」

その瞬間、限界を迎えたエドナの体は時計塔からずり落ちた。

「セツナァッ!」

この高さで落ちれば、きっと助からない――。

もうダメだと思った。その瞬間――。

「《飛翔(フライ)》」

ピタッと、エドナの体が空中で制止した。

「…え?」

予想していた衝撃はなかった。

「アーウィンも同じことを言った…」

エドナと一緒に宙に浮かんでいるセツナがそう言った。

その表情は無表情。
だが彼女はエドナの手をとると、一緒に塔の上にまで降りた。

「お前に居場所が無いのなら、俺がお前の居場所になると…」

そう言っているセツナはまだどこか瞳が虚ろだった。
完全に正気に戻ったわけではなさそうだった。

「何も関係がないのに、私のことを助けようとしてくれた…」

いつの間にか雨は止んでいた。
雲の切れ間から光が満ちてくる。そ
れをセツナはぼんやりと見ていた。

「私はおそらく、ここに居てはいけないのだと思う」
「どうして、…そんなことを思うの?」
「世界にとって異分子だから」
「異分子?」
「私はここの世界の人間じゃない。よその世界から来た。
だからよそ者である私は存在しているだけで人を不幸にしてしまう。
世界にとっての癌…みたいな存在なんだと思う」

ガンというのが何なのかエドナには分からなかった。
そもそもよその世界から来たというのも、信じられない話だった。
だがこんな状況で冗談など言うはずがない。
だから多分それは本当のことであるのだろうか――。

「生き返っても私は何も変わっていない。
むしろ酷くなっている。
脆くて、今にも壊れそうなそんな心だけがここにある。
人を救うだなんてとんでもない。
私の方が救ってほしいぐらいなのに――」

そう言うとセツナは笑った。
だがその笑みがエドナには痛々しく見えた。

「牢獄でずっと私のこと助けてくれる誰かを待っていた。
だからアーウィンが助けに来てくれた時は嬉しかった。
でもそのせいでアーウィンは殺された。
私は存在しているだけで…人を不幸にしてしまうのかもしれない」

どうしてセツナがそう思うのか、一体ヒョウム国で何があったのか。
それはエドナにも想像できるものではなかった。だが――。

「…そんなこと、傲慢でしかないわ」
「え?」
「あなたはもう他にどうしようもなかったのよ。
どうしようもなく、どうしようも出来なかった。
人が死んでしまったのも、殺されてしまったのも、
あなたにはどうすることも出来なかった。
それはその人達の運命だったのよ。そこまでの命だったの」

エドナはセツナの手を握りしめた。

「人の命には限りがある。
私だっていつか死ぬし、あなただっていつか死ぬわ。
そういった人の生死を、あなたが管理しているわけじゃない。
人が死ぬのはどうしようも出来ないことなのよ」
「あなたはアーウィンに似ている…」

セツナは真っ直ぐにエドナを見た。

「私の母に似ているだけじゃない。
真っ直ぐで意志が強いところは彼に似ている」

そう言うとセツナは地面に倒れた。

「せ、セツナっ?」
「ん…。エドナさん?」

そういうセツナの瞳には完全に光が戻っていた。

「うわっ、なんで私、パジャマ?
それになんでこんなにずぶ濡れなんですか?」

その様子を見てエドナは心の底から安心した。
良かった…いつものセツナだ…。

「よかった。正気に戻ったのね」
「え? 何のことですか?」

そう聞かれたがエドナは答えるつもりはなかった。
さっきのことを話して、また不安定になったら困る。

「おーい、大丈夫かー!」

その時、ガイが現れた。その後ろには大柄な男が立っていた。

「とりあえず引っ張ってここまで連れてきたけど、
もう必要ないみたいだな」

「そうね…」

ガイが連れてきたらしき人物は、
困惑したような表情でエドナ達を見ていた。
彼からすれば見えない何かに服を引っ張られて、
ここに連れられてきたのかもしれない
とりあえず言い訳を考えないといけないが、緊張がとけたせいか、
一気に疲労がやってきた。

「ごめんちょっと休ませて…くしゅん!」

そう言った時、エドナはくしゃみをした。
そういえば雨の中ずっとセツナを探していたし、
ずっとセツナの腕をつかんで、説得するために叫んでいた。
だいたいからして…あの男達から受けた傷はまだ治ったわけでもないのだ。
通院しているが、まだ安静にするようにと医者に言われているのだ。
しかもなんだか寒気もする、これはもう完全に…風邪ひいた。

「大丈夫ですか?」
「…あなたは本当に手がかかる子よ…」

そうため息をついた時、エドナはまたくしゃみをした。

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