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第2部

前進⑨

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俺を椅子に座らせると、由良さんの温もりは離れていった。

触れている部分がなくなれば一気に存在を感じ取ることができなくなり、この部屋に自分1人が残されたような孤独を錯覚する。

数秒前まで触れていたのだから彼が遠くに行っていることなんてあり得ないのに。

「…由良さん。」

不安になって、彼の存在を確かめるためだけに彼の名を呟く。

「ん?どうしたの?」

よく知った甘い声が少し遠くから聞こえてきた。

「あの、…なんでもないです。」

…用もないのに名前を呼ぶなんて、何やってるんだ、俺…。

後悔して机に突っ伏そうにも縛られた手が邪魔をしてできないから、由良さんの声が聞こえてきた方向に耳を傾けながら彼がこちらにくるのを待つ。

ぐつぐつという音、食器や冷蔵庫を開ける音、そして電子レンジの音。

今までほとんど気にしていなかったそれらの音の情報が、今は唯一の由良さんの存在を感じる手段となる。

しばらくして、目の前でことんという音がした。

朝作った卵スープの匂いが鼻をかすめる。

湯気が立つ感覚すら肌で感じられて、少し驚いた。視覚以外がとても敏感になっている。

「幹斗君、お待たせ。」

耳元で由良さんの声がして、不意打ちに身体がぴくりと震えた。

けれど由良さんの声がとても近くて嬉しい。

「口を開けて。」

再び由良さんの声が鼓膜を震わせる。

俺は彼の指示通り口を開こうとして。

…あれ。

それなのになかなか口を開くことができなかった。

口を開く。それだけの行為をなんらかの感情が拒んで、自分でも何が起こったのかわからない。

「僕からものを食べるのが怖い?」

由良さんの少し寂しそうな声が聞こえてきて、首を横に振る。

そうじゃない。由良さんから与えられるものを不安に思うなんてことはない。

…じゃあなんで…。

そこまでで一旦考えるのをやめ、由良さんをこれ以上待たせるわけにはいかないからと躊躇いながら無理やり唇を開いた。

「いい子。」

綿菓子のような声に褒められて脳がふわふわと気持ちいい。

口の中に何かが入ってきて、舌の上に落とされて。

咀嚼して初めてそれがどの食べ物なのかに気がついた。

口の中のものを全て飲み込むとまた由良さんに口を開けるように指示される。

ただ食事をしているだけなのに、彼と自分の境界が曖昧になったような不思議な感覚に陥った。

しかし何度それを繰り返しても慣れることなく口を開くことを躊躇ってしまうのはどうしてだろう。

ぐるぐると思考を巡らせ、やっとその理由らしいものを見つけた。

視界が塞がれている分由良さんのことをいつもよりずっとたくさん考えてしまっていて、彼の表情を見ることができないから彼の目に自分がどう映っているのかを過敏に意識している。

だから口を開くとき、恥ずかしかったのだ。

口を開く自分が由良さんにどう見えるか、それを見て由良さんがどんな表情をしているのかが気になって仕方がなくて。

頭が由良さんのことでいっぱいで、その由良さんに生活を支配されて。

彼にどんどん侵されていく。

いずれ彼なしでは呼吸すらままならなくなるのではないかなどと馬鹿なことを考えて、でもそうなっている自分を想像して幸せに浸るのだから、きっとどうかしている。
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