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第1章

03:開封された左腕

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波多野はたのさん、前回約束しましたよね?」
 主治医は私の左腕のガーゼとテーピングを見るなりそう言った。
「切りたくなったらどうするって言ってました?」
「……輪ゴムを腕に巻いて、引っ張ってパチンとする」
「実行しましたか?」
「……はい」
「効果無しですか」
「無効でした」
「傷はどの程度です? また縫いましたか?」
「いえ、ほんの少しです。七センチくらい。縫うほどの傷ではありません」
「七センチ——」
 まだ若い精神科医は呆れたような悲しげなような表情を浮かべ、
「刃物はご両親に預けているはずですよね?」
 と何か食い下がるように言葉を投げてきた。
「はい、でも彼らは隠すのが下手なんです」
「探し出して切ったんですか?」
「はい」
「ご両親はご存知なんですか?」
「分かりません。何も言いません」
「切りたいと思った時、ご両親やお友達に相談する、という話はどうなりましたか」
 私はいい加減この会話にうんざりしていた。
 切ったのは事実だ。もう取り返しの付かないことで、過去の話だ。
 そりゃ、約束を破った私が悪いのかもしれない。
 でもあの時は——
「あの時は『体内の血液を入れ替えないと死ぬ』と思っていましたから、相談とか、そんな余裕はありませんでした。むしろ手首を切らなかっただけマシですし、自分で自分を褒めたいくらいです。私は別に死にたいわけではないので。ああ、そうだ、頓服のレキソタンを増やしていただけますか?」
 この医者はどうも、私を恐がっているように見える時がある。どうしてかは分からないが。
 ただ、診察室を辞す際、彼は言った。

「波多野さん、あまり自傷行為が悪化すると、医療保護入院といって、精神科病棟に私の判断で入院していただくことになりますよ」

 脅しにしては声音が弱々しかったし、皮肉にしては趣味が悪すぎた。
 私は無表情で一礼し、待合室に戻った。


 帰路、駅のホームで私は茫洋と自らの症状について考えていた。
 私は『トーシツ』で、鬱病も併発している。『トーシツ』は統合失調症の略で、少し前まで『精神分裂病』と呼ばれていた精神障害だ。
 トーシツの陽性症状のせいで、幻聴幻覚といった厄介な連中と四六時中戦っている。不幸中の幸いは、私がそれらの声なり見えるものを『現実のものではない』と理解していることだ。この認識がなければどこに行っても警察を呼ばれるレベルの挙動不審者になること請け合いだ。

 また、「せん妄」までいってないと信じたいが、珍妙な強迫観念に囚われることがよくある。さっきの『体内の血液を入れ替えないと死ぬ』といった思考などがそれにあたる。こればかりは自分でそれが正常なのか異常なのか判別がつかないので、そういう考えが浮かんだ時はなるべく親のところに報告に行くようにしている。が、さっき医者に述べたように、そんな余裕がない時も多い。

「四番線に通過列車参ります、お下がりください。四番線通過列車です」

 しゃがれた駅員のアナウンスで現実に帰還する。
 私は足を動かさない。
 通過列車。
 白線の内側に。
 私は右足だけ白線の上に置いてみる。
 そして電車が猛スピードで眼前を通過するのをただただじっと待つ。風圧で髪が乱れる。

 ほら、今日も飛び込まなかった。
 
 分かってる。
 私は気が狂うほどに正常だ。
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