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本編
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朝。
ベッドの傍らのガラス窓から、燦然と眩しい陽射しが差し込んでくる。
どうやら今日は晴天のようだ。この世界には前世のように天気予報などという便利なものはないので、その日になってみるまで天候はわからない。
ここ数日雨天が続いていたので、晴れてくれて良かった。
わたしはベッドのなかでぬくぬく蒲団にくるまれながら、パッチリと目をひらいた。
寝起きは良いほうだ。目覚まし時計などなくても、起床時刻になれば、かってに目が醒める。
半身を起こし、体を伸ばす。気持ちの良い朝だ。まさに仕事日和。
となりのベッドで寝ている夫リベルを起こしてしまわないよう、そうっと蒲団から出た。
もっとも、リベルは睡眠が深い。めったなことでは起きないだろう。
じっさい、その綺麗な顔を覗き込んでみると、すやすやと眠りつづける様子だった。心のなかだけで、おはようございます、と告げる。
あるいは本当の夫婦だったらキスのひとつもして起こしているところかもしれないが、わたしたちは契約婚。偽りの夫婦関係に過ぎない。相手の生活は尊重しなければならないのだ。
ただ、そうやって夫の寝顔を眺めていると、いつものように胸の奥からあたたかい感謝の気持ちが湧き上がって来た。
この人は、契約妻であるわたしに対し、きわめて親切に振る舞ってくれている。そんな義理などないにもかかわらず、わたしがやることなすこと、ことごとく適切に助力し、話相手が欲しいときは黙って話を聴いてくれさえするのである。
何て善い人なのだろう。仮の夫婦とはいえ、この人と結婚して良かった。心からそう思う。
リベルのほうも、そう思ってくれていたら良いのだけれど。
寝間着を着替え、簡単に身支度を整えてから、なるべく物音を立てないようそうっと部屋の外へ出て、忙しなく動き回る侍女たちに挨拶する。
朝食の準備はすでにできているらしい。まずはそれをいただきながら、読むべき書類に目を通そう。
一応は伯爵夫人の身の上なのにあまり行儀が良くないが、時間がもったいないのでしかたない。昨日に続いて、今日もたくさんの仕事がわたしを待っているのだ。幸せなことだ。
さあ、今日もいっしょうけんめい働こう!
◆◇◆
それからしばらく書類仕事をし、陽がなかぞらに昇り詰めようとする頃に、リベルが起床してわたしの仕事部屋を訪れた。
まだいくらか眠たそうに、宝石のように綺麗な青い目を擦っている。低血圧なのだ。
わたしはにっこりと笑いかけながら、こんどはしっかり声に出して挨拶した。
「おはようございます、リベルさま」
「おはよう、セレスティナ。今日も精が出るね」
わたしの机の上に山と積まれた書類を見て、いささか呆れたように云う。
本来は伯爵であるかれの仕事なのだが、わたしがお願いして担当させてもらっているのだ。
一応は伯爵夫人の地位にあるとはいえ、事実は契約婚相手に過ぎないわたしを心から信頼し、全権を任せてくれたこの人にはいくら感謝してもし足りない。
おかげで、結婚してからもまったく退屈せずに済んでいる。
わたしは仕事が好きだ。いまの肉体に転生するまえの「前世」でもそうだった。
我ながら、目の前に山積するたくさんの仕事を次々とこなしているとき、最も活き活きしていると思う。
前世では、仕事中毒と云われたりした。何とでも云え。自分が好きなことをして、人の役にも立つ。これほど素晴らしいことがあるだろうか。
「それにしても、その紙束の量、それを起きてからの時間で処理してしまったのかい。あいかわらず凄まじいな。あ、ごめん、仕事の邪魔だよね。ちょっと朝の挨拶をしたかっただけなんだ。いま、出て行くから」
「いいえ。ちょうど昼の休憩を取ろうと思っていた頃です。いっしょにお昼ご飯をいただきましょう」
わたしはその場に立ち上がった。リベルさまとかるく雑談を交わしながら、食事部屋に向かって歩く。
あまりに仕事を抱え込みすぎ、どうやら過労死してしまったらしい前世の反省から、きちんと休憩は取ることにしているのだ。
リベルさまから見ればそれでも過剰な仕事をため込んでいるように見えるらしいが、わたしにしてみれば十分に一日で処理できる量である。たぶん、きっと、おそらく。
「それにしても、いまさらだけれど、セレスティナは本当によく働くよね。きみが来てから、傾いていた領地経営はいっきに回復した。重税を改めることもできたから、領民たちもありがたがっていることだろう。ぼくも心から感謝しているよ、ありがとう」
「そんな、大袈裟です」
わたしは照れた。この美貌の夫に正面から褒められると照れくさくてたまらない。
そもそもわたしが伯爵夫人になったのは領地を経営する仕事が得意ではない夫に代わって働くためなのだから、ただあたりまえのことをしているだけだ。いちいち賞賛されるほどのことではない。
わたしがリベルと出逢ったのは、泡沫貴族の貧乏令嬢として、宮廷で働いていた頃だ。
そもそもわたしはいわゆる「女の仕事」をこなすため白銀王朝の宮廷に入ったのだが、ちょっとした偶然などから周囲の貴族の仕事を手伝ったりしているうちに、いつのまにか便利に使われるようになり、さまざまな相談を受けたり、書類を読み書きしたり、帳簿を付けたりするようになっていた。
そのことは、どうやら貴族の間で静かに噂になっていたらしい。ある日、わたしのまえにリベルがあらわれて、その甘い声で囁いたのだ。
「きみが欲しい」と。
いま、その同じくちびるが小さく吐息する。
「ちっとも大袈裟な話じゃないよ。きみがいなかったら、わたしのような無能者ではとても伯爵領を維持できなかったことだろう。ほんとうにきみと結婚したことは正しかった。あの頃、耳にした噂を信じて良かったと心から思うよ。最初はとても信じられなかったけれどね。宮廷に恐ろしい能吏がいる、それは二十歳にもならない若く可憐な娘だ、なんて」
「能吏だなんて、恥ずかしいです。ただ、好きなことをやっているだけです」
紅茶を啜りながらさらに照れる。この人は、わたしを褒め殺しするつもりだろうか。
そう、わたしは一年前、仕事の能力を見込まれてリベルと「契約婚」を交わしたのだ。
かれは云ったものだった。きみを愛するつもりはない。ただ、きみのその能力を貸してほしい、と。
その言葉に、わたしはすぐにうなずいた。わたしは恋愛音痴であまり色ごとに興味はなかったし、伯爵夫人として領地経営の仕事に関われることは嬉しかったからだ。
そのときのわくわくする気持ちはいまでも憶えている。もっと仕事ができる。もっと仕事ができる。もっと仕事ができる。こんなに喜ばしいことが他にあるだろうか、と。
「もっとも、その頃はきみがこんなに可愛らしい女の子だとはまったく想像していなかったのだけれど。そんなに仕事が得意なのに、日常の細々としたことができないのはなぜなんだろう? 仕事のほうがよほど難しいと思うのだけれど」
「お恥ずかしいです」
そう、わたしはいわゆる「女の仕事」とされる料理や掃除などにまったく向いていない。わたしが得意なのはつまり情報の整理であり、手先を使うようなことは致命的に苦手なのだ。
宮廷でもその点に関しては怒られてばかりだった。いまのように「男の仕事」をこなせるようになったことは、幸いとしか云いようがない。
「まあ、貴族なのだからそのようなことは侍女に任せておけば良いのだけれどね。結婚してから、他にもいろいろと可愛いところを見せてもらった。きみの猫好きには驚いたよ。猫といっしょにいるときは仕事中とは別人みたいに女の子らしくなるのだからね。おかげでいまは屋敷中に何匹の猫がいることか」
「ごめんなさい」
わたしはその場で小さくなった。
いま、この伯爵邸のなかに、正確には十二匹の猫が暮らしている。わたしは自分でもどうかと思うような病的なまでの猫好きで、一匹で寂しそうな猫を見ると拾って来てしまうのだ。
猫を可愛がることがわたしの生きる目的だとすら云って良い。ああ、ほんとうに猫って可愛い。天使? 天使なの?
「いや、謝ったりする必要はないんだ。ただ、きみはいつもわたしを驚かせてくれる、そこが好きだと云いたかっただけなんだから。愛しているよ、セレスティナ」
わたしはリベルの軽口に、思わず吹き出した。この人はよく好きだとか、愛していると云ってくれる。ひょっとしたら、契約妻に対する礼儀だと思っているのかもしれない。
そういうセリフは、ほんとうに愛する人にだけ口にしてほしいものだ。まったく、真に受けたらどうするつもりなんだろ。
「ありがとうございます。ただの契約相手のわたしにむりにそんなことを云わなくても良いんですよ。あ、いつも云っているように愛人を作りたかったらいくらでもそうしていただいて結構ですから。リベルさまは貴族の上、その美貌なんですから、いくら妻帯者でも女の子は寄ってきますよ」
「わたしは、きみ以外に愛人を持ったりするつもりはない。きみに恋をしているからね。もっとも、叶う見込みのない片思いだけれど」
リベルは小さくため息を吐いた。かれのような美形にこのようなことを云われると、いくら恋愛音痴のわたしでも、そしてあくまで冗談口だとわかっていてさえ、ひどく照れる。
この人のためにもっと仕事を頑張ろうという気になる。あるいは、そのために云ってくれているのかもしれない。
その後、わたしはやたらにやる気が出て、就寝するまでにいつも以上の量の仕事を処理してしまった。美男子の甘い囁きは仕事に効く!
さあ、またあした頑張ることにしよう。わたしはとなりのベッドで横になっているリベルに笑いかけてから、ゆっくりと目を閉じた。
おやすみなさい、旦那さま。
◆◇◆
「――眠ったんだね」
わたしは、ベッドに入ってからわずか数秒で眠りに就いてしまった我が妻セレスティナの可愛い寝顔を見つめながら、そっと呟いた。
なめらかで柔らかな頬を二三度つついてみたが、まったく起きる気配はない。ほんとうにこの人は寝つきが良い。朝起きることにも苦労しない様子なのはうらやましいほどだ。わたしは毎日、起床に苦しんでいるのに。
その可憐な顔を見下ろしていると、あらためてつよい愛情が湧いて来る。彼女のためだったらどんなことでもできる。そんな気になる。
最初はたしかにただの契約結婚だった。
早逝した父からこの領地を継承して以来、無能なわたしのせいで、多くの人に迷惑をかけた。このままでは領地は傾きつづけ、領民たちは困窮することだろう。
そう思い、わたしに代わって仕事を処理してくれる人間を探して、そしてセレスティナと出逢ったのだ。
その小柄で華奢な娘が、宮廷随一の超人的な能吏だなどと、信じられはしなかった。しかし、それでも、その頃、追いつめられていたわたしには賭けるよりほか選択肢がなかったのだ。
もし噂が嘘なら離縁してしまえば良い。そのような身勝手なことを考えていたことを憶えている。
じっさいには、彼女の能力は噂以上だった。わたしから見ると信じられないくらい数字に強い彼女は、あっというまに問題点を洗い出し、領地経営を立て直してみせた。
いま、セレスティナは領民たちから女神のように慕われている。それはそうだろう。彼らの生活が安定したのは、すべて彼女のおかげなのだから。
これほど仕事のできる女性から見て、わたしのような無能者はさぞ無価値に見えるだろう。そう考えて落ち込むこともあった。そのまま口にしてみたこともある。
ところが、実の父母からすら顔だけの男と云われつづけたわたしのことを、彼女は決して蔑むことなく、それどころか、高く認めてくれたのだった。
「人には得手不得手がありますよ。わたしにはリベルさまみたいに優しく人の話を聴きつづけることはできません。それって、すごい才能だと思うんです。もっと、自分を高く評価してください。リベルさまは素晴らしいお人柄のもち主なんですから」
その言葉を聞いて、正直、涙がこぼれそうだった。
長いあいだずっと、伯爵家の後継者でありながら仕事ができない自分のことが嫌いだった。また、だれもがわたしを軽蔑しているように思っていた。
しかし、ここにわたしを理解し、賞賛してくれる人がいる。彼女自身はだれよりも有能であるにもかかわらず、無能なわたしの長所を見つけ、わたしを励ましてくれるのだ。
わたしはこんな女性に対し、きみを愛するつもりはないなどと傲慢なことを口にしてしまったのか。そう思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
そして、同時に、彼女への恋に落ちていた。それはわたしにとっては経験のない感情で、つまり初恋だった。寝ても覚めても彼女の顔ばかり浮かぶ。
その猫を撫ぜる指先、とろけた表情に心臓が高鳴る。こんなに愚かなことがあるだろうか。わたしは結婚したあとにようやく恋心を知ったのだ。
わたしはその想いをもてあまし、思い切って口にしてみたりもした。だが、妻はまったく本気にする様子がない。どうも、すべてただの軽口か、冗談に過ぎないと思っているらしい。
恋愛ごとには興味がない人だとは知っていたが、まさかここまで鉄のように鈍感だとは思ってもいなかった。
今日も、正面から好きだ、愛していると云ったのに、まったく応じてくれなかった。まあ、少しは照れてくれていたようではあるけれど。
いったい、いつになったら我が想いは彼女に届くのだろう?
わたしは、ちょっとため息を吐いてから、彼女の瑞々しい頬にかるく口づけた。くちびるへのキスは、起きているときにすることにしよう。
「おやすみ、わたしのセレスティナ」
そうして、妻への切ない片想いに胸を締め付けられながら、わたしもまた、眠りに就く。あしたこそは、わたしの恋心が通じる日であってくれと、そう、心のなかで祈りながら。
ベッドの傍らのガラス窓から、燦然と眩しい陽射しが差し込んでくる。
どうやら今日は晴天のようだ。この世界には前世のように天気予報などという便利なものはないので、その日になってみるまで天候はわからない。
ここ数日雨天が続いていたので、晴れてくれて良かった。
わたしはベッドのなかでぬくぬく蒲団にくるまれながら、パッチリと目をひらいた。
寝起きは良いほうだ。目覚まし時計などなくても、起床時刻になれば、かってに目が醒める。
半身を起こし、体を伸ばす。気持ちの良い朝だ。まさに仕事日和。
となりのベッドで寝ている夫リベルを起こしてしまわないよう、そうっと蒲団から出た。
もっとも、リベルは睡眠が深い。めったなことでは起きないだろう。
じっさい、その綺麗な顔を覗き込んでみると、すやすやと眠りつづける様子だった。心のなかだけで、おはようございます、と告げる。
あるいは本当の夫婦だったらキスのひとつもして起こしているところかもしれないが、わたしたちは契約婚。偽りの夫婦関係に過ぎない。相手の生活は尊重しなければならないのだ。
ただ、そうやって夫の寝顔を眺めていると、いつものように胸の奥からあたたかい感謝の気持ちが湧き上がって来た。
この人は、契約妻であるわたしに対し、きわめて親切に振る舞ってくれている。そんな義理などないにもかかわらず、わたしがやることなすこと、ことごとく適切に助力し、話相手が欲しいときは黙って話を聴いてくれさえするのである。
何て善い人なのだろう。仮の夫婦とはいえ、この人と結婚して良かった。心からそう思う。
リベルのほうも、そう思ってくれていたら良いのだけれど。
寝間着を着替え、簡単に身支度を整えてから、なるべく物音を立てないようそうっと部屋の外へ出て、忙しなく動き回る侍女たちに挨拶する。
朝食の準備はすでにできているらしい。まずはそれをいただきながら、読むべき書類に目を通そう。
一応は伯爵夫人の身の上なのにあまり行儀が良くないが、時間がもったいないのでしかたない。昨日に続いて、今日もたくさんの仕事がわたしを待っているのだ。幸せなことだ。
さあ、今日もいっしょうけんめい働こう!
◆◇◆
それからしばらく書類仕事をし、陽がなかぞらに昇り詰めようとする頃に、リベルが起床してわたしの仕事部屋を訪れた。
まだいくらか眠たそうに、宝石のように綺麗な青い目を擦っている。低血圧なのだ。
わたしはにっこりと笑いかけながら、こんどはしっかり声に出して挨拶した。
「おはようございます、リベルさま」
「おはよう、セレスティナ。今日も精が出るね」
わたしの机の上に山と積まれた書類を見て、いささか呆れたように云う。
本来は伯爵であるかれの仕事なのだが、わたしがお願いして担当させてもらっているのだ。
一応は伯爵夫人の地位にあるとはいえ、事実は契約婚相手に過ぎないわたしを心から信頼し、全権を任せてくれたこの人にはいくら感謝してもし足りない。
おかげで、結婚してからもまったく退屈せずに済んでいる。
わたしは仕事が好きだ。いまの肉体に転生するまえの「前世」でもそうだった。
我ながら、目の前に山積するたくさんの仕事を次々とこなしているとき、最も活き活きしていると思う。
前世では、仕事中毒と云われたりした。何とでも云え。自分が好きなことをして、人の役にも立つ。これほど素晴らしいことがあるだろうか。
「それにしても、その紙束の量、それを起きてからの時間で処理してしまったのかい。あいかわらず凄まじいな。あ、ごめん、仕事の邪魔だよね。ちょっと朝の挨拶をしたかっただけなんだ。いま、出て行くから」
「いいえ。ちょうど昼の休憩を取ろうと思っていた頃です。いっしょにお昼ご飯をいただきましょう」
わたしはその場に立ち上がった。リベルさまとかるく雑談を交わしながら、食事部屋に向かって歩く。
あまりに仕事を抱え込みすぎ、どうやら過労死してしまったらしい前世の反省から、きちんと休憩は取ることにしているのだ。
リベルさまから見ればそれでも過剰な仕事をため込んでいるように見えるらしいが、わたしにしてみれば十分に一日で処理できる量である。たぶん、きっと、おそらく。
「それにしても、いまさらだけれど、セレスティナは本当によく働くよね。きみが来てから、傾いていた領地経営はいっきに回復した。重税を改めることもできたから、領民たちもありがたがっていることだろう。ぼくも心から感謝しているよ、ありがとう」
「そんな、大袈裟です」
わたしは照れた。この美貌の夫に正面から褒められると照れくさくてたまらない。
そもそもわたしが伯爵夫人になったのは領地を経営する仕事が得意ではない夫に代わって働くためなのだから、ただあたりまえのことをしているだけだ。いちいち賞賛されるほどのことではない。
わたしがリベルと出逢ったのは、泡沫貴族の貧乏令嬢として、宮廷で働いていた頃だ。
そもそもわたしはいわゆる「女の仕事」をこなすため白銀王朝の宮廷に入ったのだが、ちょっとした偶然などから周囲の貴族の仕事を手伝ったりしているうちに、いつのまにか便利に使われるようになり、さまざまな相談を受けたり、書類を読み書きしたり、帳簿を付けたりするようになっていた。
そのことは、どうやら貴族の間で静かに噂になっていたらしい。ある日、わたしのまえにリベルがあらわれて、その甘い声で囁いたのだ。
「きみが欲しい」と。
いま、その同じくちびるが小さく吐息する。
「ちっとも大袈裟な話じゃないよ。きみがいなかったら、わたしのような無能者ではとても伯爵領を維持できなかったことだろう。ほんとうにきみと結婚したことは正しかった。あの頃、耳にした噂を信じて良かったと心から思うよ。最初はとても信じられなかったけれどね。宮廷に恐ろしい能吏がいる、それは二十歳にもならない若く可憐な娘だ、なんて」
「能吏だなんて、恥ずかしいです。ただ、好きなことをやっているだけです」
紅茶を啜りながらさらに照れる。この人は、わたしを褒め殺しするつもりだろうか。
そう、わたしは一年前、仕事の能力を見込まれてリベルと「契約婚」を交わしたのだ。
かれは云ったものだった。きみを愛するつもりはない。ただ、きみのその能力を貸してほしい、と。
その言葉に、わたしはすぐにうなずいた。わたしは恋愛音痴であまり色ごとに興味はなかったし、伯爵夫人として領地経営の仕事に関われることは嬉しかったからだ。
そのときのわくわくする気持ちはいまでも憶えている。もっと仕事ができる。もっと仕事ができる。もっと仕事ができる。こんなに喜ばしいことが他にあるだろうか、と。
「もっとも、その頃はきみがこんなに可愛らしい女の子だとはまったく想像していなかったのだけれど。そんなに仕事が得意なのに、日常の細々としたことができないのはなぜなんだろう? 仕事のほうがよほど難しいと思うのだけれど」
「お恥ずかしいです」
そう、わたしはいわゆる「女の仕事」とされる料理や掃除などにまったく向いていない。わたしが得意なのはつまり情報の整理であり、手先を使うようなことは致命的に苦手なのだ。
宮廷でもその点に関しては怒られてばかりだった。いまのように「男の仕事」をこなせるようになったことは、幸いとしか云いようがない。
「まあ、貴族なのだからそのようなことは侍女に任せておけば良いのだけれどね。結婚してから、他にもいろいろと可愛いところを見せてもらった。きみの猫好きには驚いたよ。猫といっしょにいるときは仕事中とは別人みたいに女の子らしくなるのだからね。おかげでいまは屋敷中に何匹の猫がいることか」
「ごめんなさい」
わたしはその場で小さくなった。
いま、この伯爵邸のなかに、正確には十二匹の猫が暮らしている。わたしは自分でもどうかと思うような病的なまでの猫好きで、一匹で寂しそうな猫を見ると拾って来てしまうのだ。
猫を可愛がることがわたしの生きる目的だとすら云って良い。ああ、ほんとうに猫って可愛い。天使? 天使なの?
「いや、謝ったりする必要はないんだ。ただ、きみはいつもわたしを驚かせてくれる、そこが好きだと云いたかっただけなんだから。愛しているよ、セレスティナ」
わたしはリベルの軽口に、思わず吹き出した。この人はよく好きだとか、愛していると云ってくれる。ひょっとしたら、契約妻に対する礼儀だと思っているのかもしれない。
そういうセリフは、ほんとうに愛する人にだけ口にしてほしいものだ。まったく、真に受けたらどうするつもりなんだろ。
「ありがとうございます。ただの契約相手のわたしにむりにそんなことを云わなくても良いんですよ。あ、いつも云っているように愛人を作りたかったらいくらでもそうしていただいて結構ですから。リベルさまは貴族の上、その美貌なんですから、いくら妻帯者でも女の子は寄ってきますよ」
「わたしは、きみ以外に愛人を持ったりするつもりはない。きみに恋をしているからね。もっとも、叶う見込みのない片思いだけれど」
リベルは小さくため息を吐いた。かれのような美形にこのようなことを云われると、いくら恋愛音痴のわたしでも、そしてあくまで冗談口だとわかっていてさえ、ひどく照れる。
この人のためにもっと仕事を頑張ろうという気になる。あるいは、そのために云ってくれているのかもしれない。
その後、わたしはやたらにやる気が出て、就寝するまでにいつも以上の量の仕事を処理してしまった。美男子の甘い囁きは仕事に効く!
さあ、またあした頑張ることにしよう。わたしはとなりのベッドで横になっているリベルに笑いかけてから、ゆっくりと目を閉じた。
おやすみなさい、旦那さま。
◆◇◆
「――眠ったんだね」
わたしは、ベッドに入ってからわずか数秒で眠りに就いてしまった我が妻セレスティナの可愛い寝顔を見つめながら、そっと呟いた。
なめらかで柔らかな頬を二三度つついてみたが、まったく起きる気配はない。ほんとうにこの人は寝つきが良い。朝起きることにも苦労しない様子なのはうらやましいほどだ。わたしは毎日、起床に苦しんでいるのに。
その可憐な顔を見下ろしていると、あらためてつよい愛情が湧いて来る。彼女のためだったらどんなことでもできる。そんな気になる。
最初はたしかにただの契約結婚だった。
早逝した父からこの領地を継承して以来、無能なわたしのせいで、多くの人に迷惑をかけた。このままでは領地は傾きつづけ、領民たちは困窮することだろう。
そう思い、わたしに代わって仕事を処理してくれる人間を探して、そしてセレスティナと出逢ったのだ。
その小柄で華奢な娘が、宮廷随一の超人的な能吏だなどと、信じられはしなかった。しかし、それでも、その頃、追いつめられていたわたしには賭けるよりほか選択肢がなかったのだ。
もし噂が嘘なら離縁してしまえば良い。そのような身勝手なことを考えていたことを憶えている。
じっさいには、彼女の能力は噂以上だった。わたしから見ると信じられないくらい数字に強い彼女は、あっというまに問題点を洗い出し、領地経営を立て直してみせた。
いま、セレスティナは領民たちから女神のように慕われている。それはそうだろう。彼らの生活が安定したのは、すべて彼女のおかげなのだから。
これほど仕事のできる女性から見て、わたしのような無能者はさぞ無価値に見えるだろう。そう考えて落ち込むこともあった。そのまま口にしてみたこともある。
ところが、実の父母からすら顔だけの男と云われつづけたわたしのことを、彼女は決して蔑むことなく、それどころか、高く認めてくれたのだった。
「人には得手不得手がありますよ。わたしにはリベルさまみたいに優しく人の話を聴きつづけることはできません。それって、すごい才能だと思うんです。もっと、自分を高く評価してください。リベルさまは素晴らしいお人柄のもち主なんですから」
その言葉を聞いて、正直、涙がこぼれそうだった。
長いあいだずっと、伯爵家の後継者でありながら仕事ができない自分のことが嫌いだった。また、だれもがわたしを軽蔑しているように思っていた。
しかし、ここにわたしを理解し、賞賛してくれる人がいる。彼女自身はだれよりも有能であるにもかかわらず、無能なわたしの長所を見つけ、わたしを励ましてくれるのだ。
わたしはこんな女性に対し、きみを愛するつもりはないなどと傲慢なことを口にしてしまったのか。そう思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
そして、同時に、彼女への恋に落ちていた。それはわたしにとっては経験のない感情で、つまり初恋だった。寝ても覚めても彼女の顔ばかり浮かぶ。
その猫を撫ぜる指先、とろけた表情に心臓が高鳴る。こんなに愚かなことがあるだろうか。わたしは結婚したあとにようやく恋心を知ったのだ。
わたしはその想いをもてあまし、思い切って口にしてみたりもした。だが、妻はまったく本気にする様子がない。どうも、すべてただの軽口か、冗談に過ぎないと思っているらしい。
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今日も、正面から好きだ、愛していると云ったのに、まったく応じてくれなかった。まあ、少しは照れてくれていたようではあるけれど。
いったい、いつになったら我が想いは彼女に届くのだろう?
わたしは、ちょっとため息を吐いてから、彼女の瑞々しい頬にかるく口づけた。くちびるへのキスは、起きているときにすることにしよう。
「おやすみ、わたしのセレスティナ」
そうして、妻への切ない片想いに胸を締め付けられながら、わたしもまた、眠りに就く。あしたこそは、わたしの恋心が通じる日であってくれと、そう、心のなかで祈りながら。
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