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三夜
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「三森ー!商談で新規取引先できたからこれも追加してもらってもいい?」
最寄り駅は京橋。銀座線沿いにある食品メーカーの事務職として私は働いている。今話しかけてくれたのは同期の津波君。筋肉質で程よく焼けた肌に、Theスポーツマンタイプの彼は見た目通りこの会社の営業として働いている。
「OK。追加しとく!」
私はニコッと笑い返し、津波君から貰った資料を受け取る。津波君はそのまま次の商談に向けて業務課を去っていった。
「梓、津波君とかどうなの?」
それを横でコソコソ聞いてくるのは先輩の藤村さん。
「何言ってんですか藤村さん。津波君はその気じゃないですって。」
「そっかぁ?」
「それに私、まだ別れてひと月も経ってないですよ。そんなすぐに次なんて考えられないですって。」
それから会社が管理してるデータに新しいデータを追加し打ち込む。
「実は、津波君がいる営業部と合コンしないかって話出てるんだよね。とりあえず梓は参加ね。1ヶ月も経ってないなんて言ってないで、別れたら速攻かけないと付き合うどころか乗り遅れるよ。」
業務課は午前中が勝負で、午後は基本、余程のトラブルがない限り少し暇だ。だから藤村さんとの会話が盛り上がってしまう。
「そーれーにっ!もうすぐバレンタインじゃない?合コンで気になった彼に速攻!とか出来ちゃうわけよ!」
そっか。バレンタインもうすぐか。気付けば今は2月上旬。彼氏もいないけど、正直今は作る気にもなれない。
「藤村さーんごめんなさい。バレンタインはこっちで働いてる幼なじみと過ごすんです~。」
薫には悪いが、勝手に隠れ蓑にさせてもらった。今年のバレンタインは水曜日。本来なら薫の家には行けない。でも、実は薫の親からこっちで暮らす際、合鍵も貰っているので勝手にお邪魔することも出来る。
せっかくだし、薫にサプライズでもしかけちゃおっかな。
「ねぇ、その幼なじみって女?女だったらそっち優先してもらうわよ。」
藤村さんがじとっと私を見る。
「男ですよ。でもまぁ、お互い兄弟のように思ってるのでそういうのには発展しませんけど。」
薫は隠し事が多い。家に行っても入っちゃいけない部屋もあるし、仕事も何をしているのか詳しく聞かない。それに、なんで急に女遊びが激しくなったのかも、私は長年見てきたつもりでも知らないことが多いのだ。
「へぇ。仕事は?」
「詳しくはわかりませんが公務員してるって言ってました。」
「まじ!?安定してるじゃん。公務員って定時帰りで給料もそこそこ高いから結婚したら幸せになれるって聞くよね。どこ?都庁?区役所?」
藤村さんが目をギラギラさせながら私に質問してくる。
「それは知りません。教えてくれないですもん。それに定時帰りって言っても女遊び激しくてこの前は10時頃に家に帰ってきてましたよ。」
「あー、暇持て余しすぎて出会い系アプリとか入れちゃう系か。ちなみに大学は?」
「東大です。なんか無駄に頭だけは良いんですよ。」
薫は小さい頃、ずっと本ばかり読んでいた。それに中高と常に学年一位。効率がいいのか女遊びしててもそんな漫画みたいな男だった。
「梓、その幼なじみ紹介して!」
私は何故か、薫のことを話しすぎてしまったことを後悔した。藤村さんには、薫のことは紹介できませんと断ったら、何故か次はそっちに行くかぁ?とからかわれた。
「合コンも行かないの?」
「はい。なんか分からないんですけど、今意外と満たされてるんですよね。多分彼氏と別れて大人になってからの一人の時間ってのを満喫できてるのかもしれないです。」
「そっかー。津波君悲しがるなぁ。分かった!また参加したい時言ってね!いつでもセッティングしたげる~。」
何故か津波くんの名前が出てきて、不思議に思っていると定時のチャイムがなる。私たち業務課は、その合図とともに会社を後にした。
バレンタイン当日。
定時と同時に帰ろうとすると、藤村さんから意味深に微笑まれ、頑張れと応援された。
そして今、日本橋にある三越。私はここに来ていた。
毎年薫にはちょっとしたチョコを上げているが、今年はなんだかほかの女の子に負けたくないって気持ちがあった。
多分それはフリーになって1番が恋人から幼なじみに来たから、なんだろう。でも私は、彼氏がいないと薫を優先するくせが昔からある。
初めてを奪ってもらった時も、高校に入り急にかっこよくなった薫の初めてを私のモノにしたいからという独占欲からだったし。
「薫意外と甘党なんだよなぁ~。これでいっか。」
それからデパ地下に置いてある一段と高級そうなチョコを購入。馬鹿みたいに値段がかかったが、私も半分薫から貰うと考えれば、大丈夫だよね。
薫には昨日、バレンタインの日に女遊びするのは本命だけにしときなねって予防線を張った。何故か今年は、薫に女遊びなんてして欲しくなかったのだ。それはきっと、私が独り身なのに薫が女の子とエンジョイしてるのが無性に腹が立ったからだからだと思う。
「本命いないので1人で過ごします。」と、しょんぼりしたスタンプと共に返ってきたので、薫の部屋に女の子が来ることは無い…はず。
私は料理が得意では無いので、いくつかデパ地下の出来合いのものを買い、薫のアパートに向かう。水曜日だし、明日も仕事だから念の為スキンケアセットは持ってきてある。全く、…何を期待してるんだか。
平日に来た薫の家は、いつもより少し散らかっていた。それでもルンバは定期的に回っているし、朝ごはんの食器が片付いてない程度なんだけど。
「薫、しっかり朝ごはん食べるからなぁ。」
私のように朝ごはんを抜かない。本当に生活においても隙がない。
食器を洗い、ソファにかかったタオルを洗濯機に入れる。こりゃ会うのは当分薫の部屋だな。私の部屋になんて呼んだらこの部屋の主である薫の事だ。ますます私の事なんて女扱いしてくれなくなる。それはちょっと嫌だな。昔から薫は私のことを知っていて今更なのに、今の私は薫にいいように思われたいのかもしれない。
色々準備し終え、食卓に寄り合いのものを並べたのがちょうど8時。それにしても遅い。私のイメージとして公務員は定時帰りだし、都内の公務員ではあるはずだからすぐ帰ってくると思ってた。…それとも、バレンタインだからやっぱり女と遊んでる、とか?
有り得る。不思議とズドーンと気分が落ちる。私がひとりで過ごそうとしてる中、薫はほかの女の子と遊んでるんだ。
何故かモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、薫の家のテレビをつける。1人でテレビを見ることなんて慣れてるのに、その時は時間が過ぎるのがとても遅く感じた。
カチャリ…と部屋のドアが空いたのはこの前よりも遅い10時半。
「え。なんで居んの?」
扉を開けた薫は、見たこともないような疲れた顔で、ぽかんと私を見ていた。
「おかえり薫。」
こんなに疲れた薫を見るのは初めてだ。私の後をひょこひょこ着いてくる可愛い薫と言うのは、小さい頃はよく見たけど、高校になってからは私にも彼氏がいたこともあり、薫は私の後をつけることが無くなって、ますます隙のない男になってしまったから。おそらく初めて見る薫の疲れた表情に、何故か胸がキュンと鳴った。
「はぁ…金曜日だけって言ったよね。」
「…ごめん。だって、バレンタインだったし当日に薫にチョコあげたかったから。」
薫ははぁ…とため息を吐く。私、もしかして薫を怒らせた?でも、私の中の薫は遊び人の薫で終わってるから、こんな時間までずっと仕事してるなんて思わなかったんだもん。
「…かっこ悪いな。」
だけどどうやら違ったのか、薫がそんなことをぽつりと呟いた。
「なんで?薫はかっこいいよ。モテモテだったじゃん。」
「ちがっ…だって、こんな遅くに帰ってきて、格好つかないじゃん。梓にはこんなかっこ悪い俺見せたくなかった。」
…コイツ、変にプライドが高くなって。
「なんで?薫の情けない姿なんて、ちっちゃい頃からずっと見てきたのに急に隙が無くなったから、久々に見れて嬉しかったのに。」
私はパタパタと駆け寄る。それから薫のスーツのジャケットを受け取り、ハンガーにかける。薫は私にジャケットを渡したあとソファにゴロンと横になり、甘えたな猫のように私を見る。
「え~、アズはこういう俺好き?」
私はチョコの箱を持ってあざとく頬杖をつく薫のところに近づく。
「私は、こっちの薫の方が好きだな。」
そんなことを言うと、薫は目を見開く。でも直ぐに拗ねたような顔を向け、
「……梓は甘えるなんてしなさそうな、追いかけたくなるような男ばっかりと付き合ってたじゃん。」
それからプクッと頬を膨らませた。
「そうだね。だからこういうベタベタに甘やかしたくなるのは薫だけだったんだよ。急に隙がなくなって寂しかったの」
一人っ子、わがまま、ずっと自分から好きになった男とばかり付き合ってきた自分にとって、甘やかす枠は昔から、弟のような薫だけなのだ。
「なにこれ、チョコ?箱から見るに高かったんじゃないの?」
ソファのふちに顎を乗せ、上目遣いで私を見る薫。
「高かったけど、薫は私にチョコを分けてくれると思ったから奮発しちゃった。」
久々に薫の頭に触れる。相変わらず猫っ毛だ。薫はよほど疲れていたのか頭を撫でられ猫のように気持ちよさそうな顔をする。
「だから今日中に食べちゃお?寝ちゃダメだからね。一応ご飯も出来合いのもの買ってきたんだけど、いる?」
「ちょっと欲しい。」
そうは言うけど薫はここから動こうとしない。私はテーブルからいくつかソファに持ってきて、薫にどれが食べたいかを聞く。それから、薫が食べたい物を甲斐甲斐しく彼の口に運ぶ。
「薫、はいあーん。」
「あ~……」
薫の口の中におかずを入れると、もぐもぐとゆっくり噛む。なんだか動物園で穏やかな大型動物に餌やりをしている気分だ。私はもぐもぐと口を動かす薫の頭を撫でる。薫もそれが気持ちよかったのか、私の手に自分の頭を擦り寄せた。
「アズはなんか食べたの?」
「ちょっと、ね。我慢できなくて。」
「ふーん。」
それから薫は私から箸を奪い、ローストビーフを取り、私に口開けてと言ってきた。
「あーんむっ……。おいひい。」
「へへ。美味しいでしょ。」
最近見てた隙のないエロい薫もいいけど、やっぱりこっちの薫は落ち着く。
「薫、チョコ欲しい?」
「うん。アズ、食べさせて?」
「はいっ。て、指まで食べないでよ!!」
ただの幼なじみなのに、今まで恋人とも経験しないような甘い時間を2人で過ごす。なんだか照れくさいけど、今日の薫となら、和やかに過ごせた。
それから、不思議とここの居心地の良さに気づきながら、お食事タイムを終えた。
「薫、ごめんね忙しいのに勝手に押しかけて泊まりまで持ち込んで。」
私は薫から勝手にぶかぶかのスウェットを借り、いそいそとベッドの中に入る。
「俺もごめんね。今日疲れててえっちは出来ない。」
そう応える薫はもう眠りに落ちそうだ。
「んーん、全然。薫と昔に戻ったみたいで、私は充分満足してるよ。」
すると薫は微力ながらも私の体を自分の方に引き寄せ、ゆるゆると抱きしめる。
「…なんかアズの匂いと俺の匂い混ざって、変な感じ~。」
どこか幸せそうな声に、何故か私の胸はバクバクと音を立てる。今日の薫は男の薫じゃなくて、弟モードなのだ。なのになんで私、ちょっと興奮しちゃったんだろう。
……そりゃ薫から変態と言われるわけだ。
すやすやと眠りに落ちる薫に釣られるように、私も眠りに落ちた。彼の熱は、まるで湯たんぽのようで、ゆるゆると深く溺れていく。
「ん~……。」
ぽやぽやと寝ぼけ眼を擦っていると、薫がいたはずの場所はすっかり冷めきっていた。そしてどこかから味噌のいい香り。
「おはよう梓。朝ごはん出来てるから食べていきな。」
もうすっかり疲れは取れたのか、完璧な朝ごはんを食べながらタブレットで新聞を読んでいる薫。時計を見たら6時半。…私いつも7時起きなのに。
「…薫朝早い。」
「別に普通だろ。8時にはもう職場だぞ。」
「公務員ってホワイトって聞いてんのに私よりブラックかよ。」
ぺたぺたと食卓につき、薫と向かい合う。いただきますと挨拶をすると、どうぞと返ってきた。なんかいいなこういうの。
「他のところがどうかは知らないけど、今ちょうど国会が開かれてるから。そういうのもあって俺ん所は今忙しいのかな。」
「えっ、国会!?」
「うん。俺、財務省で働いてるから。ご馳走様~。」
財務省って、あの財務省だよね。しかも、国会に関わってるってことは
「薫ってもしかして、キャリア?」
「…の卵。梓そんな言葉知ってたんだな。」
知ってるも何も、ほぼ東大京大が占めるキャリア組の中でも財務省は別格に難易度が高いと聞く。倍率だってえぐいくらい高いし、薫も頭がいいのは知ってたけどそんなところにストレートで受かるほどの頭脳だとは思ってなかった。
「なんか益々薫が別次元の人になってく。昨日割と昔に戻ったと思って嬉しかったのに。」
もそもそと用意されていた佃煮とご飯を食べる。この組み合わせ最高だ。
「そっかー。梓は意外とそういうのにも弱かったんだ。」
「なんで嬉しそうなの?言っとくけど薫限定だからね。昔から知ってる幼なじみ特権。甘えたな男はあんまり嫌いなのになんか薫は大丈夫なのよね。弟だからかな?」
ふふんっと意地悪を言ったつもりだったのに、薫はますます嬉しそうに笑う。それから、何故かお弁当を私にくれた。薫、あんた実は意外と嫁スキルが高いな。
最寄り駅は京橋。銀座線沿いにある食品メーカーの事務職として私は働いている。今話しかけてくれたのは同期の津波君。筋肉質で程よく焼けた肌に、Theスポーツマンタイプの彼は見た目通りこの会社の営業として働いている。
「OK。追加しとく!」
私はニコッと笑い返し、津波君から貰った資料を受け取る。津波君はそのまま次の商談に向けて業務課を去っていった。
「梓、津波君とかどうなの?」
それを横でコソコソ聞いてくるのは先輩の藤村さん。
「何言ってんですか藤村さん。津波君はその気じゃないですって。」
「そっかぁ?」
「それに私、まだ別れてひと月も経ってないですよ。そんなすぐに次なんて考えられないですって。」
それから会社が管理してるデータに新しいデータを追加し打ち込む。
「実は、津波君がいる営業部と合コンしないかって話出てるんだよね。とりあえず梓は参加ね。1ヶ月も経ってないなんて言ってないで、別れたら速攻かけないと付き合うどころか乗り遅れるよ。」
業務課は午前中が勝負で、午後は基本、余程のトラブルがない限り少し暇だ。だから藤村さんとの会話が盛り上がってしまう。
「そーれーにっ!もうすぐバレンタインじゃない?合コンで気になった彼に速攻!とか出来ちゃうわけよ!」
そっか。バレンタインもうすぐか。気付けば今は2月上旬。彼氏もいないけど、正直今は作る気にもなれない。
「藤村さーんごめんなさい。バレンタインはこっちで働いてる幼なじみと過ごすんです~。」
薫には悪いが、勝手に隠れ蓑にさせてもらった。今年のバレンタインは水曜日。本来なら薫の家には行けない。でも、実は薫の親からこっちで暮らす際、合鍵も貰っているので勝手にお邪魔することも出来る。
せっかくだし、薫にサプライズでもしかけちゃおっかな。
「ねぇ、その幼なじみって女?女だったらそっち優先してもらうわよ。」
藤村さんがじとっと私を見る。
「男ですよ。でもまぁ、お互い兄弟のように思ってるのでそういうのには発展しませんけど。」
薫は隠し事が多い。家に行っても入っちゃいけない部屋もあるし、仕事も何をしているのか詳しく聞かない。それに、なんで急に女遊びが激しくなったのかも、私は長年見てきたつもりでも知らないことが多いのだ。
「へぇ。仕事は?」
「詳しくはわかりませんが公務員してるって言ってました。」
「まじ!?安定してるじゃん。公務員って定時帰りで給料もそこそこ高いから結婚したら幸せになれるって聞くよね。どこ?都庁?区役所?」
藤村さんが目をギラギラさせながら私に質問してくる。
「それは知りません。教えてくれないですもん。それに定時帰りって言っても女遊び激しくてこの前は10時頃に家に帰ってきてましたよ。」
「あー、暇持て余しすぎて出会い系アプリとか入れちゃう系か。ちなみに大学は?」
「東大です。なんか無駄に頭だけは良いんですよ。」
薫は小さい頃、ずっと本ばかり読んでいた。それに中高と常に学年一位。効率がいいのか女遊びしててもそんな漫画みたいな男だった。
「梓、その幼なじみ紹介して!」
私は何故か、薫のことを話しすぎてしまったことを後悔した。藤村さんには、薫のことは紹介できませんと断ったら、何故か次はそっちに行くかぁ?とからかわれた。
「合コンも行かないの?」
「はい。なんか分からないんですけど、今意外と満たされてるんですよね。多分彼氏と別れて大人になってからの一人の時間ってのを満喫できてるのかもしれないです。」
「そっかー。津波君悲しがるなぁ。分かった!また参加したい時言ってね!いつでもセッティングしたげる~。」
何故か津波くんの名前が出てきて、不思議に思っていると定時のチャイムがなる。私たち業務課は、その合図とともに会社を後にした。
バレンタイン当日。
定時と同時に帰ろうとすると、藤村さんから意味深に微笑まれ、頑張れと応援された。
そして今、日本橋にある三越。私はここに来ていた。
毎年薫にはちょっとしたチョコを上げているが、今年はなんだかほかの女の子に負けたくないって気持ちがあった。
多分それはフリーになって1番が恋人から幼なじみに来たから、なんだろう。でも私は、彼氏がいないと薫を優先するくせが昔からある。
初めてを奪ってもらった時も、高校に入り急にかっこよくなった薫の初めてを私のモノにしたいからという独占欲からだったし。
「薫意外と甘党なんだよなぁ~。これでいっか。」
それからデパ地下に置いてある一段と高級そうなチョコを購入。馬鹿みたいに値段がかかったが、私も半分薫から貰うと考えれば、大丈夫だよね。
薫には昨日、バレンタインの日に女遊びするのは本命だけにしときなねって予防線を張った。何故か今年は、薫に女遊びなんてして欲しくなかったのだ。それはきっと、私が独り身なのに薫が女の子とエンジョイしてるのが無性に腹が立ったからだからだと思う。
「本命いないので1人で過ごします。」と、しょんぼりしたスタンプと共に返ってきたので、薫の部屋に女の子が来ることは無い…はず。
私は料理が得意では無いので、いくつかデパ地下の出来合いのものを買い、薫のアパートに向かう。水曜日だし、明日も仕事だから念の為スキンケアセットは持ってきてある。全く、…何を期待してるんだか。
平日に来た薫の家は、いつもより少し散らかっていた。それでもルンバは定期的に回っているし、朝ごはんの食器が片付いてない程度なんだけど。
「薫、しっかり朝ごはん食べるからなぁ。」
私のように朝ごはんを抜かない。本当に生活においても隙がない。
食器を洗い、ソファにかかったタオルを洗濯機に入れる。こりゃ会うのは当分薫の部屋だな。私の部屋になんて呼んだらこの部屋の主である薫の事だ。ますます私の事なんて女扱いしてくれなくなる。それはちょっと嫌だな。昔から薫は私のことを知っていて今更なのに、今の私は薫にいいように思われたいのかもしれない。
色々準備し終え、食卓に寄り合いのものを並べたのがちょうど8時。それにしても遅い。私のイメージとして公務員は定時帰りだし、都内の公務員ではあるはずだからすぐ帰ってくると思ってた。…それとも、バレンタインだからやっぱり女と遊んでる、とか?
有り得る。不思議とズドーンと気分が落ちる。私がひとりで過ごそうとしてる中、薫はほかの女の子と遊んでるんだ。
何故かモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、薫の家のテレビをつける。1人でテレビを見ることなんて慣れてるのに、その時は時間が過ぎるのがとても遅く感じた。
カチャリ…と部屋のドアが空いたのはこの前よりも遅い10時半。
「え。なんで居んの?」
扉を開けた薫は、見たこともないような疲れた顔で、ぽかんと私を見ていた。
「おかえり薫。」
こんなに疲れた薫を見るのは初めてだ。私の後をひょこひょこ着いてくる可愛い薫と言うのは、小さい頃はよく見たけど、高校になってからは私にも彼氏がいたこともあり、薫は私の後をつけることが無くなって、ますます隙のない男になってしまったから。おそらく初めて見る薫の疲れた表情に、何故か胸がキュンと鳴った。
「はぁ…金曜日だけって言ったよね。」
「…ごめん。だって、バレンタインだったし当日に薫にチョコあげたかったから。」
薫ははぁ…とため息を吐く。私、もしかして薫を怒らせた?でも、私の中の薫は遊び人の薫で終わってるから、こんな時間までずっと仕事してるなんて思わなかったんだもん。
「…かっこ悪いな。」
だけどどうやら違ったのか、薫がそんなことをぽつりと呟いた。
「なんで?薫はかっこいいよ。モテモテだったじゃん。」
「ちがっ…だって、こんな遅くに帰ってきて、格好つかないじゃん。梓にはこんなかっこ悪い俺見せたくなかった。」
…コイツ、変にプライドが高くなって。
「なんで?薫の情けない姿なんて、ちっちゃい頃からずっと見てきたのに急に隙が無くなったから、久々に見れて嬉しかったのに。」
私はパタパタと駆け寄る。それから薫のスーツのジャケットを受け取り、ハンガーにかける。薫は私にジャケットを渡したあとソファにゴロンと横になり、甘えたな猫のように私を見る。
「え~、アズはこういう俺好き?」
私はチョコの箱を持ってあざとく頬杖をつく薫のところに近づく。
「私は、こっちの薫の方が好きだな。」
そんなことを言うと、薫は目を見開く。でも直ぐに拗ねたような顔を向け、
「……梓は甘えるなんてしなさそうな、追いかけたくなるような男ばっかりと付き合ってたじゃん。」
それからプクッと頬を膨らませた。
「そうだね。だからこういうベタベタに甘やかしたくなるのは薫だけだったんだよ。急に隙がなくなって寂しかったの」
一人っ子、わがまま、ずっと自分から好きになった男とばかり付き合ってきた自分にとって、甘やかす枠は昔から、弟のような薫だけなのだ。
「なにこれ、チョコ?箱から見るに高かったんじゃないの?」
ソファのふちに顎を乗せ、上目遣いで私を見る薫。
「高かったけど、薫は私にチョコを分けてくれると思ったから奮発しちゃった。」
久々に薫の頭に触れる。相変わらず猫っ毛だ。薫はよほど疲れていたのか頭を撫でられ猫のように気持ちよさそうな顔をする。
「だから今日中に食べちゃお?寝ちゃダメだからね。一応ご飯も出来合いのもの買ってきたんだけど、いる?」
「ちょっと欲しい。」
そうは言うけど薫はここから動こうとしない。私はテーブルからいくつかソファに持ってきて、薫にどれが食べたいかを聞く。それから、薫が食べたい物を甲斐甲斐しく彼の口に運ぶ。
「薫、はいあーん。」
「あ~……」
薫の口の中におかずを入れると、もぐもぐとゆっくり噛む。なんだか動物園で穏やかな大型動物に餌やりをしている気分だ。私はもぐもぐと口を動かす薫の頭を撫でる。薫もそれが気持ちよかったのか、私の手に自分の頭を擦り寄せた。
「アズはなんか食べたの?」
「ちょっと、ね。我慢できなくて。」
「ふーん。」
それから薫は私から箸を奪い、ローストビーフを取り、私に口開けてと言ってきた。
「あーんむっ……。おいひい。」
「へへ。美味しいでしょ。」
最近見てた隙のないエロい薫もいいけど、やっぱりこっちの薫は落ち着く。
「薫、チョコ欲しい?」
「うん。アズ、食べさせて?」
「はいっ。て、指まで食べないでよ!!」
ただの幼なじみなのに、今まで恋人とも経験しないような甘い時間を2人で過ごす。なんだか照れくさいけど、今日の薫となら、和やかに過ごせた。
それから、不思議とここの居心地の良さに気づきながら、お食事タイムを終えた。
「薫、ごめんね忙しいのに勝手に押しかけて泊まりまで持ち込んで。」
私は薫から勝手にぶかぶかのスウェットを借り、いそいそとベッドの中に入る。
「俺もごめんね。今日疲れててえっちは出来ない。」
そう応える薫はもう眠りに落ちそうだ。
「んーん、全然。薫と昔に戻ったみたいで、私は充分満足してるよ。」
すると薫は微力ながらも私の体を自分の方に引き寄せ、ゆるゆると抱きしめる。
「…なんかアズの匂いと俺の匂い混ざって、変な感じ~。」
どこか幸せそうな声に、何故か私の胸はバクバクと音を立てる。今日の薫は男の薫じゃなくて、弟モードなのだ。なのになんで私、ちょっと興奮しちゃったんだろう。
……そりゃ薫から変態と言われるわけだ。
すやすやと眠りに落ちる薫に釣られるように、私も眠りに落ちた。彼の熱は、まるで湯たんぽのようで、ゆるゆると深く溺れていく。
「ん~……。」
ぽやぽやと寝ぼけ眼を擦っていると、薫がいたはずの場所はすっかり冷めきっていた。そしてどこかから味噌のいい香り。
「おはよう梓。朝ごはん出来てるから食べていきな。」
もうすっかり疲れは取れたのか、完璧な朝ごはんを食べながらタブレットで新聞を読んでいる薫。時計を見たら6時半。…私いつも7時起きなのに。
「…薫朝早い。」
「別に普通だろ。8時にはもう職場だぞ。」
「公務員ってホワイトって聞いてんのに私よりブラックかよ。」
ぺたぺたと食卓につき、薫と向かい合う。いただきますと挨拶をすると、どうぞと返ってきた。なんかいいなこういうの。
「他のところがどうかは知らないけど、今ちょうど国会が開かれてるから。そういうのもあって俺ん所は今忙しいのかな。」
「えっ、国会!?」
「うん。俺、財務省で働いてるから。ご馳走様~。」
財務省って、あの財務省だよね。しかも、国会に関わってるってことは
「薫ってもしかして、キャリア?」
「…の卵。梓そんな言葉知ってたんだな。」
知ってるも何も、ほぼ東大京大が占めるキャリア組の中でも財務省は別格に難易度が高いと聞く。倍率だってえぐいくらい高いし、薫も頭がいいのは知ってたけどそんなところにストレートで受かるほどの頭脳だとは思ってなかった。
「なんか益々薫が別次元の人になってく。昨日割と昔に戻ったと思って嬉しかったのに。」
もそもそと用意されていた佃煮とご飯を食べる。この組み合わせ最高だ。
「そっかー。梓は意外とそういうのにも弱かったんだ。」
「なんで嬉しそうなの?言っとくけど薫限定だからね。昔から知ってる幼なじみ特権。甘えたな男はあんまり嫌いなのになんか薫は大丈夫なのよね。弟だからかな?」
ふふんっと意地悪を言ったつもりだったのに、薫はますます嬉しそうに笑う。それから、何故かお弁当を私にくれた。薫、あんた実は意外と嫁スキルが高いな。
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