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第三部『終焉と破滅と』

最上志恩の場合ーその⑥

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志恩には朧げでそれでいてとても懐かしい思い出があった。
それは幼稚園、小学校の一年生から三年生に上がるまでの出来事である。

「やぁ、志恩くん。今日は何をして遊ぼうか?」

その人はいつも志恩の家を訪ねに来ていた。
志恩は勿論、真紀子も、曽祖母もその来訪者が訪ねてくるのを楽しみにしていた。
なにせ、その人は村の嫌われ者であり、爪弾きにされている自分たちにも笑顔で接してくれる数少ない人だったのだから。
昔の由緒ある絵画から抜け出してきたように美しい顔をしたその人はいつも笑顔で志恩に笑いかけてくれていた。
その太陽のような眩しい笑顔に志恩はいつも心を惹かれていた。
幼稚園に通っていた頃は中々友達ができずに泣いていた志恩に手を差し伸べてくれ、小学一年生から小学三年生の頃にかけては僕の家で、外で、ある時は姉の真紀子も交えて電車に乗って三人で鳥取砂丘で日が暮れるまで遊んでいた事もある。
また、彼の姉が出掛ける時があったらその人は遠慮なく留守と志恩の子守りを引き受けてくれていた。
志恩はその人の膝を席の代わりにして、前日に姉が借りてくれた特撮ドラマを観るのが好きだった。
ある日、夢中になってヒーローを応援する志恩に対して、志恩を膝の上に乗せてくれているその人は尋ねた。

「志恩くんはどうしてヒーローが好きなんだい?」

「カッコいいから!」

幼かった当時の志恩は何の躊躇いもなく答えたのだが、それを聞くとその人は一瞬だが、表情を曇らせた。
けど、すぐにいつもと同じような笑顔を浮かべて言った。

「そうか、カッコいいからか……だよね。ヒーローが悪い奴を倒す姿には惹かれて当然だよね?」

「う、うん」

どこか投げやり気味な返事に志恩が困惑していると、その人は続けて言った。

「けどね、ヒーローが悪い奴を倒して全て解決するというのはテレビの中だけのお話なんだよ。いいかい。志恩くん……世の中に人間というものが存在している以上、そこからは絶対的な善も絶対的な悪も発生しないんだ。そこにあるのは人間が生み出す身勝手な神話だけ……」

「お、お兄ちゃん」

「あぁ、ごめんね。熱くなっちゃったね。少し休憩するかい?」

志恩が「お兄ちゃん」と呼んで慕った青年はそう言って立ち上がると、家の台所に立ち、冷蔵庫の中身を取り出すと見た事もないような素晴らしいお菓子を作り上げた。
それは星の形をしたチョコレートであったり、黄金の塊を思わせるかのような素晴らしい輝きを纏わせたブリュレであったり、絹のような艶らかさと滑らかさを併せ持つプリンであったりとこの家の僅かな器具でどうやって作ったのかと疑う程の素晴らしい菓子ばかりであった。

「さぁ、召し上がれ」

その人は笑顔を浮かべながら言った。その時の笑顔は心なしか今までのどの笑顔よりも美しく見えた。
けど、なぜか志恩は不安だった。どことなくその人の背中が遠く感じられたからだ。手を伸ばさなければそのまま離れてしまう様な気がしてしまったのだ。
そしてそれは夢で実現される事になった。夢の中に現れたその人はいつもと同じように微笑んでいた。
僕がそのまま手を伸ばそうとすると、反対に志恩の元から遠ざかっていく。
慌てて、その人の名前を叫んだ時だ。起こしにした真紀子に怪訝そうな顔を向けられた。

「お姉ちゃん……大変だよ!お兄ちゃんが!お兄ちゃんが!」

「お兄ちゃん?誰の事だ?」

「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよッ!」

「だから誰の事なんだよ?」
真紀子が両眉を顰めながら尋ねる。

「お兄ちゃんだって!」

志恩が必死な顔を浮かべて訴えていく。

「あのな。夢の内容なんて聞いてられねーんだよ。飯できたからさっさと顔を洗って食いに来い」

真紀子は何度も同じ回答を繰り出す志恩に苛立ったのか、乱暴に扉を閉めて僕の部屋から去っていく。
不思議な事はそればかりではない。なんと姉はその人の事をまるっきり覚えていなかったのだ。記憶の部分に穴でも空いたこのように忘れている。
それは曽祖母も同じだった。朝食の席で志恩が口に出す「お兄ちゃん」という言葉に誰も反応しない。
それっきりその「お兄ちゃん」の事は忘れていたのだが、偶然会ってしまったのだ。
養父母が待つ家の前でその「お兄ちゃん」は待っていたのだ。「お兄ちゃん」はあの時と変わらない優しい表情で見舞い帰りの志恩を迎えたのである。

「やぁ、志恩くん」

「えっ?もしかしてお兄ちゃん?」

「その通りだよ。久し振りだね。志恩くん」

志恩が駆け出したのは半ば無意識のうちであった。志恩は我を忘れてかつての大好きな「お兄ちゃん」にしがみついたのである。
「お兄ちゃん」もそんな志恩を優しく撫でていた。
志恩は両目から涙を零しながらその兄に向かって訴え掛けたのである。

「あのね、お兄ちゃん。実はさ、お兄ちゃんが来ない間に色々とあってね。ぼくの周りが色々と変わっちゃったんだ」

「知ってるとも志恩くん。ぼくは何もかもね」

「お兄ちゃん」は改めて志恩を優しく抱きしめたのである。
志恩は「お兄ちゃん」を引き止め、熱心に袖を引いたのだが、「お兄ちゃん」は優しい微笑み浮かべながら志恩の申し出を辞退した。

「悪いけど、ぼくはそろそろ行かなくてはならないんだ。また会いに来るよ」

「お兄ちゃん」はそれだけ告げると、手を振ってそのまま去ってしまったのである。ただかつて居なくなった時とは異なり、また帰ってくる予感だけはしたのだ。
だから志恩は機嫌よく家の中傷文が塗られ、ビラが貼られた扉を開けたのであった。
志恩はその晩課題と復習とを行なっていたが、「お兄ちゃん」の事が気になって中々集中できなかったのである。

(お兄ちゃん元気でよかったな……また会えてよかったな。そうだ。今度お姉ちゃんや兄さんにも「お兄ちゃん」の事を教えてあげよう!お姉ちゃんもきっと思い出してくれるだろうし、兄さんはビックリするだろうなぁ)

志恩は思わず笑っていた。すると階下からご飯よと呼び掛ける声が聞こえてきた。
志恩は慌てて階下へと降りていったのである。
夕飯を食べながら夜の放送を見る。どこにでも平均的な一家の図であった。
そんな折だ。志恩は深夜のある番組が引っ掛かった。

「という事はその人はあなた以外は覚えていなかったというわけですか?」

「ええ、ですがぼくはハッキリと覚えています。その人がぼくの面倒を見ていてくれたという事を、その人が幼馴染であったという事を、そしてその人がぼくの大事な兄であると……」

その言葉を聞いて志恩は思わず箸を止めてしまった。というのも、その番組で報道された消えた幼馴染というのが先程玄関の前に立っていたかつての自分を可愛がってくれた「お兄ちゃん」との出来事にあまりにもそっくりであったからだ。
そのテレビ番組で相談者に降り掛かった事と自分に起きた出来事が偶然の一致とは思えなかった。
志恩が箸を止めていると、養母が自分を怒鳴った。どうやら箸を止めた事が要因であったらしい。
志恩は慌てて食事を終え、お運びと皿洗いとを終えると、そのまま自分の部屋へと戻っていったのである。
自分の部屋で志恩はかつての記憶を思い出していた。その時だ。不意に自身の携帯電話が鳴り響いた。慌てて電話を取ると、それは見知らぬ番号からであった。
姉の引き起こした事件以来この手の見知らぬ番号から掛かってくるのには碌な思い出がない。
だが、今日は違う。もしかしたら大好きな「お兄ちゃん」からの電話番号であったのかもしれない。
志恩がそんな淡い期待を込めながら電話を取ると、電話の向こうから見知らぬ女性の声が聞こえてきた。

『ねぇ、あんたが最上志恩?』

「そ、そうですけど、あなたは?」

『うーん。そうだねぇ、あんたのお姉ちゃんの知り合いとでも言っておこうかな』

志恩はそれを聞いて自分の心が戦慄していくのを感じた。
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