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第六章
飲馬川山塞(二)
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「なにそれ?戦で大変なのに珍しい石集めてるって?」
再び青州を目指してからはや一週間、すっかり旅にも乗馬にも慣れた四娘が、白兎馬の上ですっとんきょうな声をあげた。
「だから前言っただろ、一番信用ならないのはむしろ宋国だって」
隣で説明した燕青は憮然とした表情である。
「ねぇ、皇帝って馬鹿なの?」
梁山泊の面々を招安した徽宗は、決して暗愚な皇帝ではなかった。むしろ聡明で、芸術についての造詣が深く、自らも詩文に巧みで、書も画も優れた才能を持ち、特に花鳥画を得意としていた。後の日本の大名たちは、徽宗の鷹の絵を持っていないと肩身の狭い思いをしたというほどである。
幸か不幸か、徽宗の時代には政治家「王安石」以来の政治改革のお陰で、財政は豊かになっていたが、むしろそれにあぐらをかき、政治をおろそかにして趣味道楽に走ってしまった。そして、それをさらに加速させたのが他ならぬ悪宰相の「蔡京」である。蔡京は「豊亨予大」という「易経」の中の言葉を見習うよう徽宗に勧めた。意味としては「余裕のある鷹揚な政治や生活をするのがよい」ということである。
その言葉に踊らされた徽宗は、全国から書画骨董の名品を収集し、宮中では贅を極めた食事や酒宴が続いた。さらに人民を苦しめた「花石綱」である。全国から珍しい形の岩や草花を都に運ばせたのだ。さしもの潤沢な宋国の財源も、またたくまに枯渇し、人民への課税、搾取はさらに強化された。これに不満を抱いた者が、各地で反乱を起こすのも宜なるかな、である。
「おれが話した印象では、決して愚かな方ではなかった。だが蔡京や童貫、高俅などの輩が陛下を駄目にしている。おれたちがどれだけ田虎や方臘と戦っても、手柄を立てても、陛下のところにはきちんと伝わらない。それどころかいつ虚言や讒言で陥れられるかわかったもんじゃないんだ。今までだってずっとそうだった。だからおれは、方臘との戦いが終わったら、軍から抜けて庶民に戻ろうと思い、そのうち絶対に罠に嵌められて始末されるからと、盧俊義さまや宋江さまを説得したんだが……」
悔しそうに唇を噛む。
「駄目だったの?」
「とくに盧俊義さまには、徹夜で説得を続けたんだが、やはり昔の栄華が忘れられなかったのだろうな。とうとう最後にはお怒りになり、親子の縁を切る、とまで言われてしまって、仕方なくお暇してきたんだよ」
「そうか……」
元気づけようにも、慰めようにも、まだ子供の四娘にはかける言葉が思いつかなかった。暫くは二人とも、何も言わずに馬を歩ませた。二頭の蹄の音だけが乾いた道に響いていた。四娘にとって、何でもできて常に明るく洒脱な人だと思っていた燕青が見せる、初めての寂しげな表情であった。
「ちょっと急ぐか。この先暫くは町がないんだが、もう少し行くと飲馬川という場所がある。かつてはおれの仲間がそこに籠もって山賊をしていたんだが、まだ砦が残っているはずだ。誰か別の奴が入り込んでいなければ、今日はそこで夜を明かそう」
「へぇ、面白そうだね」
わざと明るくはしゃいでみせる四娘であり、それに気づかぬ燕青でもない。
かつての隆盛は今いずこ。山塞に向かう道は草が生い茂り、かろうじて獣道程度になっている。どうやらその後大人数で使われている様子はない。だが……
「ちょっと馬を下りてここで待っていろ」
「どうしたの?」
「馬や荷車は通っていないようだが、人は通っているようだ。ところどころ草が踏み倒されている。多分ひとりだろうが、いちど偵察してくる」
かつて、後に「星持ち」となる「鉄面孔目」裴宣、「火眼狻猊」鄧跳、「玉旛竿」孟康の三人が首領をしていたこの飲馬川の砦は、周囲を川が取り囲み、一種の堀のようになっている。登り道はひとつしかなく、守りは固い。それほど急峻ではないが、道以外は深い森になっていて、下手に入ると迷うこと請け合いである。
四娘と二頭の馬を少し開けた草原に留まらせ、燕青は足音を殺して砦に向かい、あっという間に門前にたどりついた。近づいてみると砦の中からうっすらと煙が立ち上っているのが見える。どうやら誰かいるようだ。
山塞の門扉は分厚い木製だったが、金属の蝶番が朽ちて片方が完全に倒れてしまっている。中をのぞき込むと、奥の建物もやはり屋根に草が生え、あちこちひび割れてかなり崩れているようだが、雨風は凌げそうである。
その前庭に、焚き火の前に座る人影があった。
遠目で見るに、伸びっぱなしでぼさぼさの髪の毛、髭もびっしり鼻の下から顎を覆っているので男だろう。着ている衣もぼろぼろで、むき出しの前腕やすねをぼりぼり掻いている。
乞食か浮浪者か、何にしても一人のようだ。筵の上に座り、焚き火で何かの肉を炙っているとみえ、時々油が落ちるのか、炎が大きく燃え上がり、黒い煙が立ち上る。何度も大あくびをしながら、枝に刺した肉の塊をゆっくり回して焼いている。
(乞食一人なら大丈夫かな)
燕青は一宿をお願いしようと、脅かさないようにゆっくりと姿を見せ、少しだけ音をさせながら歩み寄っていった。
男は一度じろりと燕青の方を見たが、すぐに興味を失ったようで、眼前の肉の焼き加減を真剣に見つめている。近づいてみると、六十歳くらいであろうか。よほど長い間洗っていないのか、顔も手足も垢じみていて、着ている衣は、もとは白かったのだろうが、それを想像するのが難しいほど薄汚れていた。袖も裾もすり切れて、縄のれんのように垂れ下がっている。心なしか、近づくとぷんと饐えた臭いがする感じだ。
燕青は慎重に話しかけた。
「もし、ご先輩、ご無礼をお詫びします。少々お願いがありまして参りました」
老人は燕青の方を向いてから、焼いていた肉の塊にかぶりついた。肉の一片を食いちぎり、もくもぐ咀嚼してごくりと飲み込んでから、
「ご先輩ときたか。まぁいきなり爺さんと呼びかけなかっただけましかな」
と答えた。声は意外に若々しく、しかも低いのにしっかり遠くまで通る力強い声である。内功(気の鍛錬)がしっかりしていないとこういう声は出ない。その声を聞いた瞬間、燕青は(これは端倪すべからざる相手だ)と気持ちを引き締めた。あらためて頭を下げてから
「失礼いたしました。わたしは小乙と申す旅の者です。間もなく日も暮れようとしていますが、町まではまだ遠く、こちらの建物で一夜を過ごさせていただきたいのですが、お願いできますでしょうか?」
「ふふっ、わしとてこの山塞の持ち主ではない。もともとここには山賊がいたらしいが、今は誰も住んでいないようなので、勝手に居着いているだけだ。空いた所を勝手に使えばよいさ」
「そうですか、実は下にわたしの妹も待たせてありまして、一緒に泊まらせていただきます。よろしくお願いします。ときにご先輩、お名前は?」
「わしか……わしは周化子と申す」
「周先輩ですか。では失礼して妹と馬を連れて参ります」
再び青州を目指してからはや一週間、すっかり旅にも乗馬にも慣れた四娘が、白兎馬の上ですっとんきょうな声をあげた。
「だから前言っただろ、一番信用ならないのはむしろ宋国だって」
隣で説明した燕青は憮然とした表情である。
「ねぇ、皇帝って馬鹿なの?」
梁山泊の面々を招安した徽宗は、決して暗愚な皇帝ではなかった。むしろ聡明で、芸術についての造詣が深く、自らも詩文に巧みで、書も画も優れた才能を持ち、特に花鳥画を得意としていた。後の日本の大名たちは、徽宗の鷹の絵を持っていないと肩身の狭い思いをしたというほどである。
幸か不幸か、徽宗の時代には政治家「王安石」以来の政治改革のお陰で、財政は豊かになっていたが、むしろそれにあぐらをかき、政治をおろそかにして趣味道楽に走ってしまった。そして、それをさらに加速させたのが他ならぬ悪宰相の「蔡京」である。蔡京は「豊亨予大」という「易経」の中の言葉を見習うよう徽宗に勧めた。意味としては「余裕のある鷹揚な政治や生活をするのがよい」ということである。
その言葉に踊らされた徽宗は、全国から書画骨董の名品を収集し、宮中では贅を極めた食事や酒宴が続いた。さらに人民を苦しめた「花石綱」である。全国から珍しい形の岩や草花を都に運ばせたのだ。さしもの潤沢な宋国の財源も、またたくまに枯渇し、人民への課税、搾取はさらに強化された。これに不満を抱いた者が、各地で反乱を起こすのも宜なるかな、である。
「おれが話した印象では、決して愚かな方ではなかった。だが蔡京や童貫、高俅などの輩が陛下を駄目にしている。おれたちがどれだけ田虎や方臘と戦っても、手柄を立てても、陛下のところにはきちんと伝わらない。それどころかいつ虚言や讒言で陥れられるかわかったもんじゃないんだ。今までだってずっとそうだった。だからおれは、方臘との戦いが終わったら、軍から抜けて庶民に戻ろうと思い、そのうち絶対に罠に嵌められて始末されるからと、盧俊義さまや宋江さまを説得したんだが……」
悔しそうに唇を噛む。
「駄目だったの?」
「とくに盧俊義さまには、徹夜で説得を続けたんだが、やはり昔の栄華が忘れられなかったのだろうな。とうとう最後にはお怒りになり、親子の縁を切る、とまで言われてしまって、仕方なくお暇してきたんだよ」
「そうか……」
元気づけようにも、慰めようにも、まだ子供の四娘にはかける言葉が思いつかなかった。暫くは二人とも、何も言わずに馬を歩ませた。二頭の蹄の音だけが乾いた道に響いていた。四娘にとって、何でもできて常に明るく洒脱な人だと思っていた燕青が見せる、初めての寂しげな表情であった。
「ちょっと急ぐか。この先暫くは町がないんだが、もう少し行くと飲馬川という場所がある。かつてはおれの仲間がそこに籠もって山賊をしていたんだが、まだ砦が残っているはずだ。誰か別の奴が入り込んでいなければ、今日はそこで夜を明かそう」
「へぇ、面白そうだね」
わざと明るくはしゃいでみせる四娘であり、それに気づかぬ燕青でもない。
かつての隆盛は今いずこ。山塞に向かう道は草が生い茂り、かろうじて獣道程度になっている。どうやらその後大人数で使われている様子はない。だが……
「ちょっと馬を下りてここで待っていろ」
「どうしたの?」
「馬や荷車は通っていないようだが、人は通っているようだ。ところどころ草が踏み倒されている。多分ひとりだろうが、いちど偵察してくる」
かつて、後に「星持ち」となる「鉄面孔目」裴宣、「火眼狻猊」鄧跳、「玉旛竿」孟康の三人が首領をしていたこの飲馬川の砦は、周囲を川が取り囲み、一種の堀のようになっている。登り道はひとつしかなく、守りは固い。それほど急峻ではないが、道以外は深い森になっていて、下手に入ると迷うこと請け合いである。
四娘と二頭の馬を少し開けた草原に留まらせ、燕青は足音を殺して砦に向かい、あっという間に門前にたどりついた。近づいてみると砦の中からうっすらと煙が立ち上っているのが見える。どうやら誰かいるようだ。
山塞の門扉は分厚い木製だったが、金属の蝶番が朽ちて片方が完全に倒れてしまっている。中をのぞき込むと、奥の建物もやはり屋根に草が生え、あちこちひび割れてかなり崩れているようだが、雨風は凌げそうである。
その前庭に、焚き火の前に座る人影があった。
遠目で見るに、伸びっぱなしでぼさぼさの髪の毛、髭もびっしり鼻の下から顎を覆っているので男だろう。着ている衣もぼろぼろで、むき出しの前腕やすねをぼりぼり掻いている。
乞食か浮浪者か、何にしても一人のようだ。筵の上に座り、焚き火で何かの肉を炙っているとみえ、時々油が落ちるのか、炎が大きく燃え上がり、黒い煙が立ち上る。何度も大あくびをしながら、枝に刺した肉の塊をゆっくり回して焼いている。
(乞食一人なら大丈夫かな)
燕青は一宿をお願いしようと、脅かさないようにゆっくりと姿を見せ、少しだけ音をさせながら歩み寄っていった。
男は一度じろりと燕青の方を見たが、すぐに興味を失ったようで、眼前の肉の焼き加減を真剣に見つめている。近づいてみると、六十歳くらいであろうか。よほど長い間洗っていないのか、顔も手足も垢じみていて、着ている衣は、もとは白かったのだろうが、それを想像するのが難しいほど薄汚れていた。袖も裾もすり切れて、縄のれんのように垂れ下がっている。心なしか、近づくとぷんと饐えた臭いがする感じだ。
燕青は慎重に話しかけた。
「もし、ご先輩、ご無礼をお詫びします。少々お願いがありまして参りました」
老人は燕青の方を向いてから、焼いていた肉の塊にかぶりついた。肉の一片を食いちぎり、もくもぐ咀嚼してごくりと飲み込んでから、
「ご先輩ときたか。まぁいきなり爺さんと呼びかけなかっただけましかな」
と答えた。声は意外に若々しく、しかも低いのにしっかり遠くまで通る力強い声である。内功(気の鍛錬)がしっかりしていないとこういう声は出ない。その声を聞いた瞬間、燕青は(これは端倪すべからざる相手だ)と気持ちを引き締めた。あらためて頭を下げてから
「失礼いたしました。わたしは小乙と申す旅の者です。間もなく日も暮れようとしていますが、町まではまだ遠く、こちらの建物で一夜を過ごさせていただきたいのですが、お願いできますでしょうか?」
「ふふっ、わしとてこの山塞の持ち主ではない。もともとここには山賊がいたらしいが、今は誰も住んでいないようなので、勝手に居着いているだけだ。空いた所を勝手に使えばよいさ」
「そうですか、実は下にわたしの妹も待たせてありまして、一緒に泊まらせていただきます。よろしくお願いします。ときにご先輩、お名前は?」
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