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猫かぶり聖女×奴隷吸血鬼
03
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今日はすごく忙しい日だった。
わたし自身、聖女の力はあるけれど、平均より少し劣るくらいの実力だと思っている。この国には長年聖女がいなかったから、こんなにも、ちやほやされているだけで、本来ならもてはやされるだけの実力はない。聖女が複数いたら、落ちこぼれだの役立たずだのと、後ろ指をさされていたことだろう。
だから、一日に一件、多くても二件までの仕事しかしないのに、現場が近いからと五件も仕事を詰め込まれた。朝から晩まで聖女の力を使うのは疲れるけれど、皆が望む聖女でいるために猫をかぶるのは、もっと疲れる。
こんな真夜中に神殿に戻るのは初めてだ。いつもなら、もうとっくに夢の中。
さっさと自室に帰って寝よう――。
「あーあ、聖女様もなんとかならねえかなあ」
廊下の先の方からそんな声が聞こえてきて、わたしは思わず足を止めた。誰かがわたしのことを話しながら、歩いている。
口ぶりからして、どう聞いても悪口にしか聞こえないので、このまま歩いて行ってすれ違うのは、ちょっと気まずい。
普段だったら、なんでわたしが気を使わないといけないのよ、と堂々としていられたが、今日はもう、疲労困憊でそんな元気はない。
わたしは思わず、開いていた近くの倉庫の中に入る。扉を閉める音が聞こえたらまずいかと思って、少し開けたまま。わたしが倉庫に隠れている間に、さっさとどこかへ行ってくれないだろうか。
「聖女だからって、ちょっと調子乗りすぎだろ」
「そうか? スラムのガキなんて皆あんなもんだろ。むしろ、聖女って名乗ってるからって、外面に騙されてる方が馬鹿」
「でもさ、聞いてくれよ。この間、部屋掃除しに行ったときなんかさ、体液まみれの男奴隷が裸のまま放置してあって。もー最悪。掃除するのオレなんだが?」
「それは災難。でも、聖女様、そんな性欲有り余ってるわけ?」
話しぶりからして、一人はわたしの部屋を掃除する男らしい。わたしの部屋の掃除係は複数人いるから、声だけでは誰か判断出来ない。わたしの部屋にはドドもいるから、女の使用人だけでは掃除しないことになっているのだ。
もう一人は誰だろう。少なくとも、わたしの馬車の御者じゃない。あいつは金さえ払っていれば必ず黙っているし、仕事をする。こんな廊下で、大きな声を出してそんな愚痴を言うことはない。
……それにしても、廊下で何か作業をしているのか。話は長いし、声の大きさが余り変わらない。こんな夜中に何をしているのか……。
男たちの話し声に紛れて、ガチャガチャ、と何かの物音も一緒に聞こえてくる。これは……脚立を上り下りする音?
そう言えば、ここの廊下は普通の窓だけじゃなくて、上側にも細い窓があるんだっけ。あそこの施錠は脚立がないとできないから、その施錠確認をしているなら、時間がかかるのも納得だ。ましてや、話ながらだらだらと仕事をしているわけだし。
「あー、あれは多分一方的にいじって遊んでるだけだろ。避妊具がない」
「うわ、かわいそー。男としてそれはないわ。奴隷だから反撃もできないわけじゃん? あんなガキにいいように遊ばれるとか、男として情けねえわ。自分なら絶対無理。死んだ方がマシ」
――……。
事実で、何も言い返せない。
わたしは、ドドで自分の、人には言えないような、征服感や優越感を満たすために、彼を使っている。
それなのに、第三者に言われてしまうと、何とも言えない気分になる。多分、被害者のドドが、まるでわたしが悪くないようにふるまうものだから、いざ自分が責められていると、ドドにすべての責任を負わせたくなるのだ。でも、客観的にそれがおかしいことが分かっているから、感情を押し付ける場所がない。
よく考えなくたって、この男たちの意見が一般的だ。ドドはわたしに忠実だけど、それはあくまでドドがわたしの奴隷だから。そんなことは、分かっている。
でも――だからと言って、今更、ドドに対しての態度を変えるつもりはない。
あの子はわたしの可愛い奴隷。わたしが買った命だ。
わたしが、選べる人間になったという証。
ずっと、そうやって接してきた。わたしに奴隷商を紹介した教団員だって、同じようなことをしている。
大丈夫――大丈夫。ドドはわたしを見捨てない。
「――……」
そんなことは当たり前なはずなのに、どうしてか、力が抜けて、手が震えてきた。
ううん、緊張なんてしてない。焦ってなんかない。これはただ、こんな夜中まで働いていたことがないから疲れているだけだ。
「それでさ――……」
男たちの声が少し遠くなった。早く部屋に帰りたいから、とっとと施錠確認か何か知らないけど、廊下から居なくなってほしい。
そんなことを考えていたとき――。
「すみません、シャシャ様を見ていませんか?」
「――っ!」
わたしは思わず声を上げそうになって、慌てて口をふさいだ。
ドドの声だ。わたしの部屋からは、わたしの許可なしに出ないように、言いつけているはずなのに。
どうして、と思ったのは一瞬。わたしがあまりにも帰ってこないから出てきたのかも、と思い当たる。今日は朝からバタバタしていて、あの子に『ご飯』をあげていない。小食な吸血鬼の中でもとりわけドドは小食だけれど、お腹が空いたのかもしれない。我慢強い子だとは思うけれど、空腹が辛いのは、わたしがよく知っている。
「あー、お前、聖女様の……。――なら、まだ――じゃね」
男たちが少し離れたからか、声が聞き取りにくい。何か話しているのは分かるけど。
「てか、あんな――の――とか、お前も大変だな」
「――――なら、協力してやるよ」
会話の端々が聞こえてこない。まあ、大方わたしの悪口だろう。何を話しているのか分からないから、確証はないけど、さっきまでわたしの陰口を叩いていた二人だ。ドドが来たところでやめるわけがない。
ドドに嫌なこと聞かれちゃったな、と思っていると。
「馬鹿にするな!」
ドドの叫び声が聞こえてきた。予想外の声に、わたしは思い切り肩を跳ねさせてしまった。誰かに見られていたら恥ずかしさでいたたまれないくらいに。
ドドが声を荒げたことは、彼と出会って一度もない。これはドドが奴隷だから、というよりは、彼の元々の性格のようだった。揉めごとや争いごとは苦手なのか、そういう場面に出くわすと、いつもじっとやり過ごしている。あれだけ体格がいいから、てっきりそういう喧嘩や格闘技が好きなのかと思っていたが、全然違うらしい。
「俺は望んでシャシャ様の元にいるんだ!」
ドドの声が廊下に響く。わたしの住む棟は神殿の敷地内でも端っこの方だ。それでも、今、眠っている神殿中の人間が起きてしまうのでは、と錯覚してしまうほど、遠慮のない大声。
あの子、こんなに声出たのね……。
そんなことを考えていたら――。
「え、お前被虐趣味? うわ、変態かよ気色悪。流石、奴隷だな」
さっきまで全然、会話が途切れ途切れにしか聞こえなかったのに、ドドを馬鹿にするような声音の、その言葉だけは、はっきりと耳に届いた。
ドドにつられて使用人の男の声も大きくなったのかもしれない。
――バタン!
気が付けば、わたしは倉庫から飛び出していた。後ろ手に閉めた扉が、ドドの叫び声に負けないくらい、派手な音を立てた。
わざとハイヒールのかかとを鳴らして廊下を歩く。足音を立てながらも、はや足で声のする場所へと向かった。
「わたしの可愛いドドが、なんだって?」
声を荒げず、それでも腹から声を出すように、強く言う。腕を組んで、かつん、と威嚇するように一度かかとを鳴らすと、男たちは面白いようにうろたえ始めた。
倉庫にいたとき、施錠確認かも、と思ったのはあたりだったようで、片方の男は、窓際に置かれた脚立の上にのっていた。
「こ、これは聖女様! 遅くまでお疲れ様です……!」
脚立のそばにいた、くすんだ灰色の髪の男が、分かりやすく媚びたような笑みを浮かべる。
ものすごい手のひらの返しようだが、無理もない。
この教団――ひいてはこの国で、一番権力があるのはわたし。勿論、わたしはあまり政治に詳しくないし、口を挟むつもりもないので、本当に最高権力者、というわけではない。事実上のトップは他にいる。
でも、書類上は聖女がこの国のトップだし、歴代の聖女もそうだった。【黒】を浄化し、民を癒し、人外種から守り、率いる。だからこそ、この国は聖国と呼ばれるのだ。
だから――少なくとも、気分の一つで使用人を変えることくらい、造作もない。
「ドド、帰るわよ。わたし、疲れてるの。さっさと寝たいわ」
男たちには目もくれず、わたしはドドに歩み寄って手を引く。こんなところ、もう一分たりとも、とどまっていたくない。
許可なく部屋を出るな、と言いつけているわたしに廊下で出会ってしまったのが気まずいのか、ドドはおろおろとしていた。それでも、わたしが手を引けば、おとなしく後をついてくる。
数歩歩き、男たちが安堵の溜息を吐いたのが聞こえてきて、わたしは思わず足を止めた。
「――そういえば」
わたしは振りかえって、男の方を見る。ゆっくりと、片方の男を指さした。脚立のそばにいる、くすんだ灰色の髪の男を。わたしの部屋の掃除係らしい男は、こっちの声だ。
「アンタ、名前は?」
わたしがこのまま去る者だと思っていたらしい男たちは、面白いくらいにうろたえ始める。
「アンタよアンタ。名前。早く言って」
「え、あ、あの――」
わたしの部屋の掃除係の方の男は、もごもごと口ごもってこの場をやり過ごそうとしていたが、わたしが再度「名前!」ときつく言えば、「ね、ネネイルですっ!」と名前を告げた。
「ネネイル――そう、覚えたわ。アンタ、わたしの部屋、掃除するの嫌なんだったわね。『最悪』なんでしょ?」
「い、いえ、そんなことは……。せ、聖女様の部屋を掃除できるなんて、幸せなことで――」
わたしの口ぶりが、男の会話をずっと聞いていたようなものだったからか、ざっとネネイルの顔が青くなる。
「明日から、わたしの部屋の掃除、しなくていいわ。良かったわね、嫌な仕事から解放されて」
わたしが言い捨てた言葉に、男が泣きそうな顔になる。
この男はわたしの部屋の掃除係として雇われた男。なら、その仕事を取り上げたらなんの役割を与えられるか。
――いいや、与えられない。十中八九、クビだ。
それが分かっているから、男はこんなにもうろたえるのだ。
「そっちのアンタも。この廊下の施錠確認が最後の仕事になるかもしれないから、ちゃんと、心して仕事して」
わたしはそれだけ言うと、男たちの弁明も聞かず、ドドを連れて部屋へと帰った。
わたしは、部屋につくと、さっさと寝る支度を始める。風呂は……もう明日でいいや。
聖女になってからは、ほぼ毎日しっかり入っていたけれど、スラム時代に一日二日そのまま、なんてのは当たり前だったし、そもそも水で体の汚れを落とすだけ。今日一日くらい入らなくたってどうということはない。明日、休みだし。
わたしが寝巻に着替えている間、ドドは床に座っていた。……怒られ待ちの姿勢である。
本人も、勝手に外へ出たという、罪悪感のようなものがあるらしい。そんな表情をしていた。
「ドド、外に出るのは駄目って、言ったよね」
わたしは神殿の中で、嫌われている方だと思う。
猫をかぶった余所行きのわたししか知らない民衆と違い、わたしの本性を知っている人間ばかりがここにはいる。
さっきの男たちのように、陰口を聞くことも少なくない。スラム出身な上に、この性格だから、どうしようもないと思うけれど。
たまに好意的な人間もいるが、どこか頭のネジが飛んでいるというか、わたしの― ―いや、『聖女様』の狂信者、みたいな奴しかいない。
どちらと遭遇しても、ドドがいい気分になることはない。前者であれば、わたしのお気に入りを攻撃してわたしに精神的苦痛を与えようとするだろうし、後者なら、ドドはわたしにふさわしくないとなじることだろう。
結果として、わたしがいない間はおとなしく部屋にいた方がいいのだ。
だから部屋から一人で出るな、とわたしは言い聞かせていた。
「そんなにお腹空いたの?」
着替え終わったわたしはベッドに腰かける。
「違います! シャシャ様がなかなか戻ってこないから、気になって……」
「ふうん……」
心配そうなその表情に、嘘くささは感じない。わたしがよほど疑り深い表情をしていたのか、「空腹ではありません」と重ねて言われた。
……わたしなんかを、心配するんだ。
「まあ、飼い主が死んだらアンタは困るか……」
ぼそっと小さく呟いた声は、ドドには全て届かなかったらしい。
「ま、分かったよ。わたし、もう寝るから。……今回は見逃してあげるから、もう勝手に部屋を出ないことね。どうせ今回みたいにろくなことにならないんだから」
わたしがいれば、ドドを守ることはできる。でも、わたしがいない間に、ドドになにかされたら面白くない。
「ドドも早く寝なさい」
わたしがそう言うと、ドドは、彼のためのエリアに戻る。馬鹿みたいに広いわたしの私室の、六分の一くらいはドドのスペースだ。ベッドとクローゼットくらいしかないけど。
わたし自身も、持っているものが多いわけじゃない。スラムから持ってきた物はないし、ドレスには興味がない。宝石は、いざってときに役に立ちそうだから、多少はあるけど。
だからか、わたしの部屋はすごくがらんとしている。広い上に、ものがないから。
それをさみしいと思ったことは一度もない――けど。
今日ばかりは、何故か、スラムの仲間と身を寄せ合って眠ったことを思い出して、少しだけ、寒さに身を丸めた。
わたし自身、聖女の力はあるけれど、平均より少し劣るくらいの実力だと思っている。この国には長年聖女がいなかったから、こんなにも、ちやほやされているだけで、本来ならもてはやされるだけの実力はない。聖女が複数いたら、落ちこぼれだの役立たずだのと、後ろ指をさされていたことだろう。
だから、一日に一件、多くても二件までの仕事しかしないのに、現場が近いからと五件も仕事を詰め込まれた。朝から晩まで聖女の力を使うのは疲れるけれど、皆が望む聖女でいるために猫をかぶるのは、もっと疲れる。
こんな真夜中に神殿に戻るのは初めてだ。いつもなら、もうとっくに夢の中。
さっさと自室に帰って寝よう――。
「あーあ、聖女様もなんとかならねえかなあ」
廊下の先の方からそんな声が聞こえてきて、わたしは思わず足を止めた。誰かがわたしのことを話しながら、歩いている。
口ぶりからして、どう聞いても悪口にしか聞こえないので、このまま歩いて行ってすれ違うのは、ちょっと気まずい。
普段だったら、なんでわたしが気を使わないといけないのよ、と堂々としていられたが、今日はもう、疲労困憊でそんな元気はない。
わたしは思わず、開いていた近くの倉庫の中に入る。扉を閉める音が聞こえたらまずいかと思って、少し開けたまま。わたしが倉庫に隠れている間に、さっさとどこかへ行ってくれないだろうか。
「聖女だからって、ちょっと調子乗りすぎだろ」
「そうか? スラムのガキなんて皆あんなもんだろ。むしろ、聖女って名乗ってるからって、外面に騙されてる方が馬鹿」
「でもさ、聞いてくれよ。この間、部屋掃除しに行ったときなんかさ、体液まみれの男奴隷が裸のまま放置してあって。もー最悪。掃除するのオレなんだが?」
「それは災難。でも、聖女様、そんな性欲有り余ってるわけ?」
話しぶりからして、一人はわたしの部屋を掃除する男らしい。わたしの部屋の掃除係は複数人いるから、声だけでは誰か判断出来ない。わたしの部屋にはドドもいるから、女の使用人だけでは掃除しないことになっているのだ。
もう一人は誰だろう。少なくとも、わたしの馬車の御者じゃない。あいつは金さえ払っていれば必ず黙っているし、仕事をする。こんな廊下で、大きな声を出してそんな愚痴を言うことはない。
……それにしても、廊下で何か作業をしているのか。話は長いし、声の大きさが余り変わらない。こんな夜中に何をしているのか……。
男たちの話し声に紛れて、ガチャガチャ、と何かの物音も一緒に聞こえてくる。これは……脚立を上り下りする音?
そう言えば、ここの廊下は普通の窓だけじゃなくて、上側にも細い窓があるんだっけ。あそこの施錠は脚立がないとできないから、その施錠確認をしているなら、時間がかかるのも納得だ。ましてや、話ながらだらだらと仕事をしているわけだし。
「あー、あれは多分一方的にいじって遊んでるだけだろ。避妊具がない」
「うわ、かわいそー。男としてそれはないわ。奴隷だから反撃もできないわけじゃん? あんなガキにいいように遊ばれるとか、男として情けねえわ。自分なら絶対無理。死んだ方がマシ」
――……。
事実で、何も言い返せない。
わたしは、ドドで自分の、人には言えないような、征服感や優越感を満たすために、彼を使っている。
それなのに、第三者に言われてしまうと、何とも言えない気分になる。多分、被害者のドドが、まるでわたしが悪くないようにふるまうものだから、いざ自分が責められていると、ドドにすべての責任を負わせたくなるのだ。でも、客観的にそれがおかしいことが分かっているから、感情を押し付ける場所がない。
よく考えなくたって、この男たちの意見が一般的だ。ドドはわたしに忠実だけど、それはあくまでドドがわたしの奴隷だから。そんなことは、分かっている。
でも――だからと言って、今更、ドドに対しての態度を変えるつもりはない。
あの子はわたしの可愛い奴隷。わたしが買った命だ。
わたしが、選べる人間になったという証。
ずっと、そうやって接してきた。わたしに奴隷商を紹介した教団員だって、同じようなことをしている。
大丈夫――大丈夫。ドドはわたしを見捨てない。
「――……」
そんなことは当たり前なはずなのに、どうしてか、力が抜けて、手が震えてきた。
ううん、緊張なんてしてない。焦ってなんかない。これはただ、こんな夜中まで働いていたことがないから疲れているだけだ。
「それでさ――……」
男たちの声が少し遠くなった。早く部屋に帰りたいから、とっとと施錠確認か何か知らないけど、廊下から居なくなってほしい。
そんなことを考えていたとき――。
「すみません、シャシャ様を見ていませんか?」
「――っ!」
わたしは思わず声を上げそうになって、慌てて口をふさいだ。
ドドの声だ。わたしの部屋からは、わたしの許可なしに出ないように、言いつけているはずなのに。
どうして、と思ったのは一瞬。わたしがあまりにも帰ってこないから出てきたのかも、と思い当たる。今日は朝からバタバタしていて、あの子に『ご飯』をあげていない。小食な吸血鬼の中でもとりわけドドは小食だけれど、お腹が空いたのかもしれない。我慢強い子だとは思うけれど、空腹が辛いのは、わたしがよく知っている。
「あー、お前、聖女様の……。――なら、まだ――じゃね」
男たちが少し離れたからか、声が聞き取りにくい。何か話しているのは分かるけど。
「てか、あんな――の――とか、お前も大変だな」
「――――なら、協力してやるよ」
会話の端々が聞こえてこない。まあ、大方わたしの悪口だろう。何を話しているのか分からないから、確証はないけど、さっきまでわたしの陰口を叩いていた二人だ。ドドが来たところでやめるわけがない。
ドドに嫌なこと聞かれちゃったな、と思っていると。
「馬鹿にするな!」
ドドの叫び声が聞こえてきた。予想外の声に、わたしは思い切り肩を跳ねさせてしまった。誰かに見られていたら恥ずかしさでいたたまれないくらいに。
ドドが声を荒げたことは、彼と出会って一度もない。これはドドが奴隷だから、というよりは、彼の元々の性格のようだった。揉めごとや争いごとは苦手なのか、そういう場面に出くわすと、いつもじっとやり過ごしている。あれだけ体格がいいから、てっきりそういう喧嘩や格闘技が好きなのかと思っていたが、全然違うらしい。
「俺は望んでシャシャ様の元にいるんだ!」
ドドの声が廊下に響く。わたしの住む棟は神殿の敷地内でも端っこの方だ。それでも、今、眠っている神殿中の人間が起きてしまうのでは、と錯覚してしまうほど、遠慮のない大声。
あの子、こんなに声出たのね……。
そんなことを考えていたら――。
「え、お前被虐趣味? うわ、変態かよ気色悪。流石、奴隷だな」
さっきまで全然、会話が途切れ途切れにしか聞こえなかったのに、ドドを馬鹿にするような声音の、その言葉だけは、はっきりと耳に届いた。
ドドにつられて使用人の男の声も大きくなったのかもしれない。
――バタン!
気が付けば、わたしは倉庫から飛び出していた。後ろ手に閉めた扉が、ドドの叫び声に負けないくらい、派手な音を立てた。
わざとハイヒールのかかとを鳴らして廊下を歩く。足音を立てながらも、はや足で声のする場所へと向かった。
「わたしの可愛いドドが、なんだって?」
声を荒げず、それでも腹から声を出すように、強く言う。腕を組んで、かつん、と威嚇するように一度かかとを鳴らすと、男たちは面白いようにうろたえ始めた。
倉庫にいたとき、施錠確認かも、と思ったのはあたりだったようで、片方の男は、窓際に置かれた脚立の上にのっていた。
「こ、これは聖女様! 遅くまでお疲れ様です……!」
脚立のそばにいた、くすんだ灰色の髪の男が、分かりやすく媚びたような笑みを浮かべる。
ものすごい手のひらの返しようだが、無理もない。
この教団――ひいてはこの国で、一番権力があるのはわたし。勿論、わたしはあまり政治に詳しくないし、口を挟むつもりもないので、本当に最高権力者、というわけではない。事実上のトップは他にいる。
でも、書類上は聖女がこの国のトップだし、歴代の聖女もそうだった。【黒】を浄化し、民を癒し、人外種から守り、率いる。だからこそ、この国は聖国と呼ばれるのだ。
だから――少なくとも、気分の一つで使用人を変えることくらい、造作もない。
「ドド、帰るわよ。わたし、疲れてるの。さっさと寝たいわ」
男たちには目もくれず、わたしはドドに歩み寄って手を引く。こんなところ、もう一分たりとも、とどまっていたくない。
許可なく部屋を出るな、と言いつけているわたしに廊下で出会ってしまったのが気まずいのか、ドドはおろおろとしていた。それでも、わたしが手を引けば、おとなしく後をついてくる。
数歩歩き、男たちが安堵の溜息を吐いたのが聞こえてきて、わたしは思わず足を止めた。
「――そういえば」
わたしは振りかえって、男の方を見る。ゆっくりと、片方の男を指さした。脚立のそばにいる、くすんだ灰色の髪の男を。わたしの部屋の掃除係らしい男は、こっちの声だ。
「アンタ、名前は?」
わたしがこのまま去る者だと思っていたらしい男たちは、面白いくらいにうろたえ始める。
「アンタよアンタ。名前。早く言って」
「え、あ、あの――」
わたしの部屋の掃除係の方の男は、もごもごと口ごもってこの場をやり過ごそうとしていたが、わたしが再度「名前!」ときつく言えば、「ね、ネネイルですっ!」と名前を告げた。
「ネネイル――そう、覚えたわ。アンタ、わたしの部屋、掃除するの嫌なんだったわね。『最悪』なんでしょ?」
「い、いえ、そんなことは……。せ、聖女様の部屋を掃除できるなんて、幸せなことで――」
わたしの口ぶりが、男の会話をずっと聞いていたようなものだったからか、ざっとネネイルの顔が青くなる。
「明日から、わたしの部屋の掃除、しなくていいわ。良かったわね、嫌な仕事から解放されて」
わたしが言い捨てた言葉に、男が泣きそうな顔になる。
この男はわたしの部屋の掃除係として雇われた男。なら、その仕事を取り上げたらなんの役割を与えられるか。
――いいや、与えられない。十中八九、クビだ。
それが分かっているから、男はこんなにもうろたえるのだ。
「そっちのアンタも。この廊下の施錠確認が最後の仕事になるかもしれないから、ちゃんと、心して仕事して」
わたしはそれだけ言うと、男たちの弁明も聞かず、ドドを連れて部屋へと帰った。
わたしは、部屋につくと、さっさと寝る支度を始める。風呂は……もう明日でいいや。
聖女になってからは、ほぼ毎日しっかり入っていたけれど、スラム時代に一日二日そのまま、なんてのは当たり前だったし、そもそも水で体の汚れを落とすだけ。今日一日くらい入らなくたってどうということはない。明日、休みだし。
わたしが寝巻に着替えている間、ドドは床に座っていた。……怒られ待ちの姿勢である。
本人も、勝手に外へ出たという、罪悪感のようなものがあるらしい。そんな表情をしていた。
「ドド、外に出るのは駄目って、言ったよね」
わたしは神殿の中で、嫌われている方だと思う。
猫をかぶった余所行きのわたししか知らない民衆と違い、わたしの本性を知っている人間ばかりがここにはいる。
さっきの男たちのように、陰口を聞くことも少なくない。スラム出身な上に、この性格だから、どうしようもないと思うけれど。
たまに好意的な人間もいるが、どこか頭のネジが飛んでいるというか、わたしの― ―いや、『聖女様』の狂信者、みたいな奴しかいない。
どちらと遭遇しても、ドドがいい気分になることはない。前者であれば、わたしのお気に入りを攻撃してわたしに精神的苦痛を与えようとするだろうし、後者なら、ドドはわたしにふさわしくないとなじることだろう。
結果として、わたしがいない間はおとなしく部屋にいた方がいいのだ。
だから部屋から一人で出るな、とわたしは言い聞かせていた。
「そんなにお腹空いたの?」
着替え終わったわたしはベッドに腰かける。
「違います! シャシャ様がなかなか戻ってこないから、気になって……」
「ふうん……」
心配そうなその表情に、嘘くささは感じない。わたしがよほど疑り深い表情をしていたのか、「空腹ではありません」と重ねて言われた。
……わたしなんかを、心配するんだ。
「まあ、飼い主が死んだらアンタは困るか……」
ぼそっと小さく呟いた声は、ドドには全て届かなかったらしい。
「ま、分かったよ。わたし、もう寝るから。……今回は見逃してあげるから、もう勝手に部屋を出ないことね。どうせ今回みたいにろくなことにならないんだから」
わたしがいれば、ドドを守ることはできる。でも、わたしがいない間に、ドドになにかされたら面白くない。
「ドドも早く寝なさい」
わたしがそう言うと、ドドは、彼のためのエリアに戻る。馬鹿みたいに広いわたしの私室の、六分の一くらいはドドのスペースだ。ベッドとクローゼットくらいしかないけど。
わたし自身も、持っているものが多いわけじゃない。スラムから持ってきた物はないし、ドレスには興味がない。宝石は、いざってときに役に立ちそうだから、多少はあるけど。
だからか、わたしの部屋はすごくがらんとしている。広い上に、ものがないから。
それをさみしいと思ったことは一度もない――けど。
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