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106.ラーテルの獣人
しおりを挟む踵を返すライラを呼び止め、山田さんが好きなのだと伝えてみた。
ますます頰を膨らませるライラ。
どうやら何かを間違えたらしい。
今度は、山田さんは私の大切な人なので、ライラも仲良くしてくれたら嬉しいなぁと下手に出てみる。
「じゃあ私の大好きなお父さんやお母さんとも、仲良くしてよ! 話はそれからよ!」
十四歳も年下の妹に、私は何の反論もできなかった。
ライラも、いつの間にか大きくなったなぁ。いや、両親は好きだし、仲良くないわけではないのだけれども。
怒りもあらわにドスドスと去っていくライラの背中を見送る。
きっとあの怒った状態のまま山田さんに会うんだろうなぁ。
私は、山田さんごめんと心の中で謝った。
山田さんの心配をしながらも、渡来人のケアと、ラーテルの獣人の対応に追われ続けた。
面会時間の終了を告げ、ごねるラーテルの獣人になんとか帰宅してもらった、その夜。
見張りの交代のほんの一瞬の隙をついて、渡来人は窓から身を投げた。
止める間もなかった。
治療できないくらいの即死だった。
このことがあってからすぐ、渡来人の手の届く範囲の窓という窓をすべて塞ぐ改修工事が行われることに決まったのだが、今さら何をしても、亡くなったこの渡来人は帰ってこないのだ。
少しでも遺体を綺麗にするための処置が終わったころ、駆けつけたラーテルの獣人に激しく罵られた。
職員が何人も束になって止めに入るが、何の反論もできない。
ラーテルの獣人のいうことを、ただ受け止めるしかなかった。
これがもし山田さんだったらと思うと、私はただ頭を下げることしかできなかった。
「だからこんな渡来人と結ばれてもいない男が担当なんて、嫌だったんだよ! お前が殺したんだろ? なぁ! 渡来人と結ばれる俺が妬ましくって、お前が! 俺のあいつを! 殺したんだろ!」
―――
もういいからひとまず帰れと、同僚たちに強く促されて帰宅した。
たしかにあのまま施設に残っていても、何の役にもたたなかっただろう。
それどころか、私が視界に入るたびに荒れ狂うラーテルの獣人の対処にこれ以上同僚を煩わせるわけにはいかなかった。
今までも自ら命を手放す渡来人がいなかったわけじゃない。
だからこそ職員も、覚悟と信念を持って仕事にあたっているのだ。
それでも、人の死に慣れることはない。
泣き叫ぶラーテルの獣人の悲しい声が耳から離れなかった。
あれが山田さんだった可能性もあったのだ。
泣き叫んでいたのは、私だったのかもしれない。
家に着いたところで、一歩も動けなくなってしまった。
私にはこんなにやる瀬ない夜でも、山田さんの眠る家へと帰る幸せがある。
しかしあのラーテルの獣人には、亡くなった渡来人には、この幸せが一生訪れないのだ。
もっと上手くできたはずだった。
あの渡来人は何かSOSのサインを出していなかっただろうか。私が見落としたものはなんだったんだろう。
ラーテルの獣人がいうように、私が担当でなかったらもっと違う結末だったかもしれない。
もっと円滑に、上手くいっていたのかもしれないじゃないか。
扉を閉めて、そのまま立ちつくした。
どれくらいそうしていたのか、寝ているとばかり思っていた山田さんが、ひょっこり顔を出した。
起きていたのか、少し酔っているように見えた。
明日は山田さんの仕事の休みだから、夜更かしをしていたのかもしれない。
でも、会いたくなかった。
山田さんの顔を見て嬉しいのに、今夜だけは会いたくなかったのだ。
山田さんはそんな私を、なかば強引に部屋に招き入れた。
部屋に持ち込んでいた酒を勧められる。
酒の相手をできる気分ではないのに。
お気に入りの浴衣で酒を飲む山田さんの、赤らんだ胸元が見えた。
裾は、いつもなら見えない足の上のほうまではだけている。
酔っ払った山田さんは、いつもより距離が近くて、色っぽかった。
弱った心に酒が入りこみ、自制心が揺らぐのが分かった。
だから、お酒はそれくらいでと、止めようとして。
「お前は私の妻か!」
山田さんのこの一言で、呆気なく自制心の糸が切れてしまった。
日ごろは考えないようにしていた。
しかし、あなたの妻は、日本にただ一人。私は山田さんの妻にはなり得ないのだ。
それが私に突きつけられた残酷な事実なのだから。
愛しているのに。
ずっとずっと、愛しているのに。
こんなに近くにいて、しかし手に入らない愛しい人。いつか私を残して先に逝ってしまうのだろうか。
本当に触れられなくなってしまうのだろうか。
コツコツと続けていた筋トレは、こんなどうしようもない場面で力を発揮して、山田さんをたやすく組み敷いてしまった。
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