冷たき炎のレディ

第三章: 心の氷が溶ける瞬間

エレノア・ヴァレンスは、数日後、マーク・シルヴァーのことを考えながら、屋敷の書斎で静かに本を読んでいた。けれども、文字はなかなか頭に入ってこない。彼との出会い以来、彼女の心には小さなさざ波のような感情が広がっていた。

「私が……何を考えているのか知りたい、ですって？」

あの時のマークの言葉が、頭の中で繰り返される。彼が本心から言ったのか、それともただの社交辞令だったのか、エレノアにはまだ判断がつかなかった。けれども、彼の言葉がなぜか心の奥底に引っかかっているのだ。

「エレノア様、少しお休みになってはどうですか？」

ふいに、忠実なメイドのミリアがそっと声をかけてきた。彼女はエレノアが幼い頃から仕えてきた、唯一心を許せる存在だった。エレノアは小さくため息をつき、本を閉じる。

「ありがとう、ミリア。でも、今は少し考えたいことがあるの。」

ミリアは静かに頷き、エレノアの様子を心配そうに見守っていた。彼女にとって、エレノアは妹のような存在だった。ミリアはエレノアのことを誰よりも理解しているつもりだったが、最近の彼女の変化には少し戸惑いを感じていた。

「エレノア様、もし何かお話ししたいことがあれば、いつでもお聞きしますよ。」

エレノアはその言葉に小さく微笑んだ。彼女にとって、ミリアは家族以上に大切な存在であり、その忠誠心に感謝していた。

「ありがとう、ミリア。でも、これは自分で考えなければならないことなの。」

その後、エレノアは屋敷を出て、庭園を歩き始めた。冷たい風が頬を撫で、彼女の心を少しだけ落ち着かせた。彼女は心の中で、自分が何を求めているのかを問いかけ続けていた。

「私は……家のために生きる。それが私の使命。」

エレノアは自分にそう言い聞かせるが、その言葉はどこか空虚に感じられる。かつては、それが全てだった。家の名誉を守ることが、自分の存在意義だと信じて疑わなかった。だが、マークとの出会いによって、その信念に微かな亀裂が生じ始めていた。

「エレノア様、そろそろ夕食の準備が整いますが、召し上がりますか？」

庭園の端で、ミリアが静かに尋ねた。エレノアはしばらく考えた後、小さく頷いた。

「ええ、すぐに戻ります。」

夕食の席に着いたエレノアは、家族との会話を交わしながらも、心ここにあらずという感じだった。両親や兄弟たちは、彼女の様子に気づくことなく、ただ形式的な会話を続けていた。家族の間に漂う冷たい雰囲気は、かつての温かな家庭の面影を完全に失わせていた。

食事が終わり、自室に戻ったエレノアは、ベッドに横たわりながら天井を見つめた。彼女の心は依然として混乱していた。マークの言葉が、何度も何度も頭の中で響き渡っている。

「あなたは本当に、ただ家族の名誉のために生きているのですか？」

その問いが、彼女の心に静かに、しかし確実に刺さっていた。エレノアはいつからか、自分自身に問いかけるようになっていた。――自分の幸福とは一体何なのか？本当に家のためだけに生きることが、自分の望む道なのか？

翌日、エレノアは自分の気持ちを整理するために、外出を決めた。彼女は街へ向かい、静かなカフェで一人、考える時間を持とうとした。しかし、そのカフェで思わぬ人物と再会することになる。

「エレノア様、偶然ですね。」

その声に、エレノアは振り返った。そこには、マークが立っていた。彼もまた、静かな時間を求めてカフェに訪れていたのだ。

「シルヴァー様、こんなところでお会いするなんて。」

エレノアは驚きを隠しつつも、礼儀正しく挨拶した。マークは彼女の前に座り、穏やかな笑みを浮かべた。

「エレノア様がここにいらっしゃるとは思いませんでしたが、これも何かの縁かもしれませんね。少し、お話ししてもよろしいでしょうか？」

エレノアは一瞬戸惑ったが、彼の提案を受け入れることにした。彼女もまた、マークとの対話を通じて、自分の気持ちに整理をつけたいと感じていたのだ。

二人は静かなカフェで、しばらくの間、日常的な話題を交わした。しかし、そのやり取りの中で、エレノアは次第に心を開いていく自分に気づいた。彼女は、マークが自分に対して抱く興味が純粋なものであり、彼が本当に彼女を理解しようとしていることを感じ始めていた。

「エレノア様、私にはあなたが何を抱えているのかは分かりませんが、ただひとつ言えるのは、あなたが何を望むのかを考えることが大切だということです。」

マークの言葉は、彼女の心に深く響いた。彼女は、これまで誰にも相談できなかった自分の葛藤を、彼に話したいと感じ始めていた。

「シルヴァー様……私は、これまで家のためだけに生きてきました。それが私の全てだと思っていました。でも……それが本当に私の望む道なのか、最近になって疑問を感じ始めているのです。」

エレノアの言葉に、マークは静かに頷いた。彼の瞳には、優しさと理解が宿っていた。

「あなたは強い方です、エレノア様。でも、時には自分自身の心に耳を傾けることも必要です。あなたが本当に望むものを見つけるために、焦らずに考える時間を持ってください。」

エレノアは、彼の言葉に静かに頷いた。彼女は、初めて自分の心に正直になろうと決意した。その瞬間、彼女の心の中で長らく凍りついていた氷が、少しずつ溶け始めたように感じた。

「シルヴァー様、ありがとう……。あなたのおかげで、少しだけ心が軽くなりました。」

エレノアは、微笑みを浮かべながら彼に感謝を伝えた。マークもまた、彼女の笑顔に安堵の表情を浮かべた。

「それは良かったです、エレノア様。これからも、もし何かあれば、いつでもお話ししてください。」

エレノアはその言葉に、小さく頷いた。彼女は、自分がこれまで築いてきた冷徹な仮面を少しずつ剥がし、素直な気持ちを表すことができるようになっていくのを感じた。