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第9話 貴公子の初陣

9-⑤

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―――天正元年(元亀四年)四月十二日、夜半。

「お屋形様やかたさま!」
甲軍の間者が、三河進撃の為に陣を取った、長篠城の本丸へ走り込んできた。
長篠城は、寒狭かんさ川(現、豊川)と大野川(現、宇連うれ川)が合流する断崖だんがいの、扇状おうぎじょうに広がる台地に築かれていた。屋根が藁葺わらぶきで出来ていて、とても小さくて質素な城であった。

「何事じゃ!」武田四天王が一人、高坂昌信こうさかまさのぶが怒鳴った。

その声に、寝床のある板戸が開いて、中から夜着の上に、女ものの薄手の着物を羽織った、りっぱな口ひげを蓄えた男が出て来た。

「信長の刺客が放たれました!」と、間者がひざまずいて云った。

信玄は、ゆっくりと板の間に胡坐あぐらをかくと、
「して、諏訪はできておるか」と、昌信を見た。
柔らかい物腰に穏やかな口調だが、威厳ある風格と圧倒的な存在感を感じさせた。

「万事」昌信は頭を下げて頷いた。

「今すぐ、諏訪へマサカゲを走らせろ」
武田四天王の一人、『赤備あかぞなえ』で有名な山縣昌景やまがたまさかげは、合戦のほか、内政や外交などの多方面で才を発揮しており、今回の諏訪の件も任されていた。

「御意!」
「わしも日の出とともに向かう。後駆しんがりはヌシに任す」
「御意に!」と云うと、昌信は急な階段を駆け降りて行った。
______________________________________

時貞は考えていた。―――ややして口元が緩んできた。
麟太郎が、また録画を開始しようとして、カメラを持ち上げた。時貞の声は邪魔でしかなかった。

「あんた。……あんた、あんた、あんたぁ!」
と、時貞の大声に、カメラを構えかけていた麟太郎が、もう一度顔を向けた。

「あんたに良いことを教えましょう」
「いいですよ。訊きたくないですから」と、時貞の提案を、麟太郎が軽く断った。

「大事なことなんですよ、あんたの生死にかかわる。…精子が足にかかるんじゃないですよ」と、時貞の下品なジョークに、麟太郎は笑えなかった。

「もういいですよ。わたしは撮影が忙しいから、あなたたちで戦っててください。田辺博士も頑張って!」と、麟太郎に声をかけられ、田辺博士が渋い顔をした。まだ、タイミングを掴み兼ねていた。

「あんた。……あんた、あんた、あんたぁ!」
と、時貞の大声に、麟太郎は諦めたように、
「何ですか?」と、どうでもいいように応えた。

「訊きたくなったでしょ。あんた、訊きたくなったでしょ。あんた!」
「はい、はい、何ですか。訊きたくなりましたから」
「では、教えましょう。……あんた、いざとなったら、あの窓から逃げようと思ってますね」
「ええ」

「でも、それは無理ですよ。逃げることは、ちょっとできません」
と、時貞は、親指と人差し指の間を狭めて、ちょっとを示した。

麟太郎は、少し怪訝な顔をした。が、まだ時貞の話を間に受けてもいなかった。
「さっき、わたしが外へ逃げ出したでしょ。あなた、それを見てましたよね」
「ええ」

「その時、わたしはどうでした」
「格好悪かった」と、麟太郎が云って、時貞の考えていることが判らずに、首を傾げた。

「格好悪くて臆病なわたしが、また、何でこんな所に戻ってきたと思います。あんた、不思議じゃないですか」
と、その言葉に、麟太郎は、さっき滞在時間僅か十秒で、疾風の如く、後ろ向きで逃げ出して行った、時貞を思い出して首を傾げた。
「何で、戻ってきたと思います」
「さあ?」

「戻ってきたんじゃないんですよ」
「えっ?」

「実は、逃げてきたんですよ。そして、源さんに助けてもらおうと思ってね」
麟太郎は、首を捻った。

「逃げて行ったら、外にも沢山この怪物がいたんですよ。そいつらが、外で暴れ回っているんで、ぼくは逃げてきたんですよ。少なくとも、ここには一匹しかいないし、スーパーマンの源さんもいるから」と、時貞に、云われてみれば、その通りであった。生きているのが一匹とは限らない。麟太郎は慌てて窓を見た。しかし、外は暗くて、自分の不安な顔が映っているだけだった。

時貞は、上手くいったと思った。勿論、作り話だが、他に生きている怪物がいないとは、時貞にも断言ができなかった。
「判りましたか、ここが一番安全なんですよ」
と、時貞の言葉に、麟太郎は眼鏡の下の丸い目をクリクリしながら頷いている。

「それで、何をしたら?」と、震える声で麟太郎が訊いた。
外へは逃げられないと訊いて、さっきまでの投げやりな態度は消えていた。カメラを置いた、麟太郎の顔色が蒼い。
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