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第二話 鯉と龍と番台

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そんなとある週末、家の掃除をして親父の車を洗う手伝いが終わった後に、毎週恒例となっている銭湯へ向かう。ガラガラと引き戸を開けて下駄箱にサンダルを置いて、男湯と書かれた入り口から入って高いところに座っている婆ちゃんに親父がお金を払う。そして子ども心にいつも気になっているのが憧れのフルーツ牛乳やコーヒー牛乳なのだが、親父の方針で

「帰りに買って帰る分にはいいけど銭湯で飲んではいけない、タオルは腰に巻いて浴槽に入る時には畳んで頭の上に乗せる」

という鉄の掟があったので、大人が美味しそうに飲んでいるのを憧れの眼差しでいつも見ていた。そうは言ってもだ、今みたいに気軽に寄る事が出来るコンビニなんて当時は無かったし、ジュースの自販機だって缶じゃなくて引き抜き式の瓶だったから、結局飲むことは叶わずに帰る日々だった。そんなある日、親父がヒゲを剃っている間に頭も体も洗い終わって泡がブクブク出てくる浴槽に浸かっていると、背中にきれいな鯉の描かれたおじさんを発見して、その背中をじーっと見ていた。子供というのは興味があると忖度とか気遣いとか全くなく、純粋に興味心で見つめてしまうものだ。おじさんは鏡越しにこちらの視線に気づき、

「ボウズ、おっちゃんの背中が珍しいか?鯉が上に向かって昇っちょるじゃろう?これは縁起のエエもんでな、試しにおっちゃんの背中ゴシゴシ洗ってみんか?鯉の色が変わるんやで」

そう言われた。まだヒゲを剃っている親父をこのまま待っていてものぼせてしまうので、おっちゃんからタオルを受け取って自分の太ももの上に置き、固形石鹸を擦り付けるようにつけて背中を流した。

「おいおい。そんなくすぐったいもんじゃ、鯉の色は変わらんで?」

そう言われて背中の隅々まで力いっぱいゴシゴシと体重をかけて擦っていくと、湯気でうっすらピンク色だった鯉がみるみる赤くなり、赤くきれいな錦鯉へと変化した。

「おっちゃん、真っ赤な鯉が下から上に向かって泳ぎよる!生きとるみたいでものすごいきれいや!」

「せやろ!おっちゃんは背中に鯉を飼ってるんや。もう少し頑張ってくれたらあとでフルーツ牛乳飲ましたるけど、どや?」

洗う事は嫌ではないし、目の前で自分が色を付けたように浮かび上がる鯉に感動した半面『親父が絶対飲ませてくれない』という言葉が頭をよぎった。その瞬間チョンチョンと後ろから親父に肩を触られ、

「おっちゃんの背中の鯉をきれいにして、ご褒美にいただけるフルーツ牛乳は飲んでもええぞ!」

と笑顔で言われた。これが凄く嬉しくて、全身の力を使って一生懸命ゴシゴシしていると、鯉が昇っている滝の水まで鮮やかになってきた。風呂桶で浴槽からお湯を救ってザブンと流すと、周りのおっちゃん達からも

「おおー!」

と声が聞こえるほどの素晴らしい『登り鯉』が出来上がった。空になった黄色い風呂桶にもう一回お湯を継ぎ、洗ったタオルをきれいに濯いで力いっぱい絞り、四つに畳んでおっちゃんに返すと嬉しそうな顔で坊主頭を撫でてくれながら、

「いやあ、ボウズの気合いよかったで!その調子で父ちゃんの背中も洗ってやりいな。ごっつい怖い龍が目を覚ましよるで!」

今まであんまり気にしたことは無かったけれど、ここには背中に絵の描いてある人が結構沢山いる。現在でこそ『刺青の入っている人はご遠慮ください』なんて書かれているが、小さな下町の銭湯には当たり前に刺青の入った背中があったし、そういう人ほど子供には優しかった。親父の背中を意識してマジマジと見たことは今までなかったが、おっちゃんの時と同じように力いっぱいゴシゴシ洗って流してみると、こちらを睨みつけるような恐ろしい青色の龍がお湯で流された背中から現れて、びっくりして一歩下がったところは浴槽の縁。後ろ向きに頭からお湯の中に転がり落ちたのを大人たちに助けてもらうと、耳に入ってきたのは銭湯の中に響き渡る、何とも楽しそうなおっちゃん達の声。

「ボウズ、気に入った。来れるんやったら毎日これくらいの時間にきいや!他にも仏さんとかきれいなモンモンいれとるおっちゃん沢山おるから、『背中洗います!』言うてゴシゴシ洗ったってくれ。そしたら毎日フルーツでもコーヒーでも飲み放題や」

この時銭湯が楽しい場所である事を初めて知り、一生懸命背中を洗ったらこんなにも自分の心も満たされて良い気分になる事を知った。そして生まれて初めて親父と一緒に銭湯で飲んだフルーツ牛乳の感動は、今でも忘れられない。それから毎日銭湯に通っては

「おっちゃん、背中洗います!」

って声を掛けて、多い時には一日に何人もの背中を流して沢山の作品を見た。得られたのはフルーツ牛乳だけではなく『人間として本当の優しさとはどういうことなのか』とか『弱い者イジメを黙って見ているヤツは、イジメているヤツよりもたちが悪い』など、幼い頃からいわゆる仁義というものを沢山学んでいった。

そうこうしている間にやっとできた仲間から

「住んでいるアパートを引っ越さなきゃいけない」

って聞いて、どのあたりか聞いたら結構遠いらしい。小中学生になれば住所を言われてもわかるんだろうけど、あの当時はアイツもわかっていなかったし、オレも全然地理なんてわからなかった。でも、

「この秘密基地には来られなくなる・・・」

と珍しく寂しそうに言うもんだから、何だかオレだけここに来るのもつまんなくなっちゃって、自然と足が遠のいた。こうして気付けば自分の居場所が野山の秘密基地から銭湯に代わり、雨の降る日は両隣のお手伝い、晴れた日にはタワシと雑巾を持って朝風呂営業が終わった後の銭湯の掃除と、子どもにとっては何の損得勘定も無く楽しい日々を過ごした。居場所がはっきりしているので婆ちゃん達も安心して送り出してくれるし、なにより自分が一生懸命掃除をした風呂に爺ちゃんや婆ちゃんが来てくれるようになったのが誇らしかった。

これはお客さんが居ない時に限ってのことだったのだが『高い位置の番台に座る』が許されるのは、どんな秘密基地よりもどんな遊びよりも優越感を覚えた瞬間だった。大人が手を伸ばしてお金を払う高さの番台という特別な場所にちゃんと座れる場所が作られていて、男湯も女湯も全部見渡せる。脱衣所から洗い場まで自分がきれいにした風呂場全体を、銭湯の婆ちゃんしか座ることを許されない場所にヒョイと持ち上げてもらって見下ろす景色は格別だ。脱衣所のガラス越しに見える壁面には、男湯には富士山女湯には紅葉で色づいた紅葉と、現在の隔離スペースの様なシャワールームからは想像できない絶景が広がっていた。

銭湯で晩飯食わしてくれる日もあって、そんな時は番台のばあちゃんが昔ながらの黒電話で、隣の家に電話してくれるんだ。で、それが親父に伝わって心配されないって寸法なんだけど、現代のスマホ使い子ども達には想像もできないだろう。画面にタッチじゃなくてジーコジーコとダイヤルを回し、当たり前に三十件くらいの電話番号は語呂合わせで覚えていたんだから。そんな登録されている連絡先を画面で触るとか、メールを送るとか、あの当時に思いついていたら今頃オレは億万長者だったかもしれない。
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