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営業事務の高橋さん
しおりを挟む俺の名前は佐藤友樹24歳。中堅商社の営業だ。
職場は第2営業課。エアシリンダーなどの空気圧機器を取り扱っている。
エアシリンダーというのは、文字通り空気圧で動作するシリンダーの事で、身近な例だとバスの扉の開閉...あの「プシュー」という音のする所に使われている。あとは電車の扉などにも使用されている。
しかし、バスや電車のエアシリンダーはウチの会社では扱っていない。
ウチの取引先は、工作機械や自動機などの民間の機械メーカーが殆どだ。
もちろんウチは商社なので、製造はしていない。空気圧機器メーカーから仕入れ、機械メーカーに納入する。といった仕事だ。
今年で入社2年目。
2年目というのは、非常に微妙な立場である。
新人というわけでもなく、もちろんベテランでもない。必然的に雑用を押し付けられるという、とても損な役割だ。
もちろんこの不景気な時に新入社員が入るわけもなく、1番下っ端である。
「佐藤さん、お茶どうぞ」
「あ、ありがとう」
そんな俺にも優しく接してくれるのが、第2営業課で営業事務をしている高橋瞳さんだ。
今時女性社員にお茶を入れさせるなんて普通は「セクハラだ」などと言われるのだが、彼女は「ついでですから」と気にも留めない。(本来は男女雇用機会均等法に合致しない。だそうです)
髪を三編みにして、分厚いレンズのメガネを掛けている。不細工という訳ではないのだが、地味で物静かな女性だ。
しかし、俺は彼女の小さな桃色の唇が綺麗だと思っている。って別にやましい気持ちではない...と思う。
営業事務というのは、簡単に言うと俺達営業のアシスタントだ。
営業は殆ど外回りなので、内勤の営業事務は不可欠な存在だ。
第2営業課の営業は、俺を入れて6人居るので、彼女はその全員のアシスタントということになる。
営業事務は俺達営業から見ても結構ハードな仕事だ。
発注書や納品書、請求書の作成。商品の在庫管理、お客様や仕入先との電話対応。備品や事務機器の管理など多岐にわたる。
緊急の注文の時には、現地まで配達することもある。
ハッキリ言って俺より雑用が多い。
しかし、彼女はニコニコしながら文句も言わずに働いている。
文句を言いながら、ぺちゃくちゃと雑談している他の女性社員とは大違いだ。しかも彼女は...
ーデキるー
先日もこんな事があった。
「佐藤さん、この注文なんですけど。このメーカーのセンサーって、いつもは3線式を使っていたと思うのですが、注文書は2線式になっています」
「あ、本当だ。ありがとうございます」
ーうん、デキるー
そのセンサーの注文数はかなり多かったので、先方に大変感謝された。
「あはは、佐藤さんに任せておけば大丈夫だな。どうもありがとう」
「いえ、気付いたのは営業事務の高橋さんです」とは言えなかった。
更にこんな事もあった。
「課長、この見積もり。原価が古いです。恐らく新しい原価表が行き渡ってないのかと...」
「そうか!ありがとう」
課長の席から近い俺には、はっきり聞こえてしまった。
ーかなり、いや凄くデキるー
普通、見積書をぱっと見ただけで原価がわかるわけがない。
気になってそれとなく彼女のことを聞いてみたら、どうやら俺より1年先輩のようだ。
年上?いや高卒なら年下?いやいやあれだけデキるなら大卒だろう?
聞きたいことはたくさんあるのだが、そんなプライベートなことが聞けるわけがない。
ーーーーーー
今日は大手メーカーでのプレゼンだ。
担当の係長がまさかのインフルエンザ。
俺が急遽担当になってしまった。なんて無茶振りなんだ。
ブツブツと独り言で文句を言いながら車を走らせていると、ふと思い出した。
赤信号で止まって鞄の中を確認すると...
「ああ、プレゼン資料が...無い」
あまりにもな無茶振りに腹を立てながら会社を出てきたので、つい資料を忘れてきてしまったみたいだ。
どうする...取りに帰る時間は...無い...
ヤバい。
暑くも無いのに汗が流れてきた。
「ううっ。終わった」
プレゼンに遅れるなんて前代未聞だ。よりにもよって長年取引のある大手メーカーへの新商品のプレゼン...
俺は無意識にスマホを取り出していた。
「もしもし『はい!お電話ありがとうございます。第2営業課、高橋です』あ、高橋さん?えっと、その...『佐藤さんですか?』あ、そうです、佐藤です『何でしょうか?注文ですか?』あ、いや、その『どうしたのですか?』実は...プレゼンの資料を忘れて『あ~ちょっと待ってください。あ、ありました』えっと...今から戻ると...『分かりました。お届けしますので、先に先方の会社のフロントで待っていて下さい』え、いいのですか?『あ、はい、急ぎますので...プツッ!ツーツーツー』あ、ありが...あれ、切れた」
「とにかく急がないと」と、車を走らせた。
フロントでソワソワしながら待っていると、高橋さんが小走りでやって来た。
あれ?...どうしてスーツ?
「お待たせしました。間に合ったでしょうか?」
「あ、はい、おかげさまで間に合いました。ありがとうございます」
資料を受け取りながら、ジロジロと高橋さんを見てしまった。
「えっと?...」
「あ、すみません、どうしてスーツなのかな?と、思いまして...」
「あ、課長がですね、佐藤さん一人だと大変だろうからと、私もプレゼンを手伝うように言われました」
「それはありがとうございます。心強いです」
ナイス課長!こんな大手に一人はどうかな?と思っていたところだ。
「それでは弊社のプレゼンテーションを始めます」
うわぁデカい会場だぁ。それにめっちゃ人多いし...
緊張しながらも、なんとか概要の説明を終えた。
「それでは質疑応答を受け付けます」
資材調達の部長が手を挙げた。
「新商品の詳細を説明してほしいのだが」
マズイ。
新商品のことは時間が無くて概要しか聞けなかった。
「えっと、それはですね...え...その」
「それは担当の私からご説明させていただきます」
困惑している俺の言葉を遮るように高橋さんが壇上の横に優雅に歩いて来た。
「御社の主力製品であるスカラロボットですが、他社製に比べると確かに高速で、高精度を誇っています。しかしながら、生産部品のチャッキングに関しては、部品の破損など、不良品の発生率の高さについては看過出来ないであろうと愚考します。そこで、チャッキング性能を大幅に向上させる商品などをご提案します」
ーなんだ!彼女は営業事務だぞ、どうしてそんな事が分かるんだー
俺は驚愕して声もでなかった。
「まず、資料の5ページを御覧下さい。このサーボバルブは従来のものより、応答性が8%向上しています。これは急な元圧の変動に対しても充分な性能を発揮すると考えます。さらに、非公式ではありますが、0.1MP以下の圧力制御にも従来にはない高い応答性があることが確認されています。非公式なのは、耐圧が1MPのバルブに対しては不必要なスペックであると判断したためです。この性能も長期的に見れば御社の利になることでしょう。しかし、それだけでは本来の目的であるチャッキング性能を改善させるまでには至りません。そこで、新しくご提案するのが、新型のセンサー付き可変スピードコントローラーです。これをチャックの回路に追加装備することにより、例えば、重さ2kgのものをチャッキングしたあと、0.5秒のタクトで即移動し、生卵を割らずにチャッキングすることが可能です。さらに、高性能の電磁弁と真空エジェクターを併用すれば......」
それは、本職の技術者顔負けの説明であった。
大きな拍手とともにプレゼンは大成功に終わった。
「いやぁ、君たちの説明には大変満足した」
「それでは、仮契約書にサインを頂けますか?後に他の担当者と共にお伺いします」
なんと!仮契約まですることが出来た。後で連絡する、というのが普通なのだが。
ー高橋さんのおかげだー
不思議と悔しくはなかった。あれだけ実力の差を見せつけられれば仕方がない。
「喉が乾きました。高橋さんも乾いているでしょう?何か飲物を買ってきます」
「ありがとうございます」
俺は、会場で資料や新商品のサンプルなどを片付けている高橋さんの元を離れ、自動販売機へと向かった。
缶コーヒーを買った俺は、会場に戻ると偶然にとんでもないものを見てしまった。
高橋さんが目薬をさしているところだった。当然メガネは外している。
メガネを外した高橋さんの素顔を見たのは、初めてだった。慌てて隠れた。
高橋さんは俺に気付いていない。しかし...
ー高橋さんはとても美人であったー
深呼吸をして、しばらく待ってから何事も無かったかのように会場に入った。
「これ、缶コーヒーで良かった?」
「あ、はい。ありがとうございます。あの、お金...」
「いえいえいいですよ、今日は助けてもらいましたから」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
その後のことはよく覚えていない。お礼に食事に誘ったのだが、丁寧に断られたのは覚えているが...
ーーーーーー
「コラ!佐藤何をぼーっとしている」
「あ、すみません課長」
あれから俺は高橋さんのことばかり考えてしまった。
どうしてあんな美人なのにメガネを掛けているんだろう?
どうしてあんなに優秀なのに、営業事務をしているのか?しかもそれを鼻にかけて自慢もしない。
「佐藤さん。この継手、数量が間違っていますよ」
「あっ、すみません。すぐ訂正します」
高橋さんは他の人に聞こえないようにそっと教えてくれた。女神か!
その後も高橋さんのことが頭から離れず、ミスを連発してしまった。
その時、ふと思い出した。
ー会社に現れる凄い美人の話ー
それを聞いた時はただの都市伝説だろうと思っていたが、もしかして高橋さんのことではないだろうか?
会社から帰る時に、偶然艶やかな黒髪のロングヘアーの女性を見つけた。
ー高橋さんだ、間違いないー
メガネは外して、髪型も変えているが、一度見た高橋さんの顔を間違えるはずがない。
俺は無意識に後ろから後を追った。
まるでストーカーじゃないか!と思ったが、足が止まらなかった。
「ずいぶん遠くまで歩くんだな」
駅とは反対の方向に歩く彼女を不思議に思っていると、スーツ姿の男3人に囲まれた。更には制服警官まで居る。
「君は何をしている?」
ーヤバいー
「いや、あの、その」
ここでストーカーに間違えられたら、大変なことになるのだが、言い訳が思いつかない。
「しばらく見ていたが明らかに女性をつけていただろう」
「そ、それは...」
もう何を言っても、言い訳にしかならないと諦めた俺は素直に今までのことを話した。
会社や客先での出来事。会社の帰りに偶然に彼女を見つけた事。無意識に後をつけてしまった事。特に何か目的があったわけではない事を必死に説明した。
「話は分かったが君がやってることは、決して許される事ではない。今日のところは厳重注意で済ませるが、次はないし、彼女に何かあった時は真っ先に疑われることを覚悟するように」
「わ、分かりました。申し訳ございません」
本当にヤバかった。逮捕されれば会社をクビになるだけでは済まない。ニュースにでもなれば、顔も名前も公開され、更にネットにも晒され、もう二度と満足な仕事にもありつけないだろう。
もう絶対しないと心に誓った。
ーーーーーー
それからは、普通の生活に戻った。
高橋さんのこともそれほど意識することがなくなった。
「佐藤さん、お茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
相変わらず高橋さんは優しく接してくれる。
しかしもう余計なことを考えて、仕事でミスしたり、犯罪まがいのことをするのはもうたくさんなので、あえて気にしないようにした。
そんなある日のこと...
「おい!新型の膨張弁が開発され学会で発表されたぞ」
課長がみんなに聞こえるように大きな声で言った。
膨張弁とは、高圧の液冷媒を蒸発しやすい状態に減圧するバルブのことで、身近なものといえば、エアコンや車のクーラーに使われている部品である。
膨張弁は厳密には空気圧機器ではないのだが、第2営業課で取り扱っている。
「膨張弁のような完成された製品でも、まだ開発の余地があったんですね」
「ああ、開発したアイ・ハイブリッジ博士といえば、流体力学の天才だからな。おまけに結構美人な女性らしい」
「変わった名前ですね」
「日系人なのかもしれんな。それに変わった名前の人はたくさん居る。別に珍しくもないだろう」
「それもそうですね、有名な方なんでしょうね」
「まあ天才と言っても、流体力学やバルブの世界は狭いからな。一般的に広く知られている、というわけではないが、その道では結構有名人だな」
「なるほど」
ーん?まてよー
俺はすごく引っかかった。なんだろう?
今博士の名前何て言った?
『アイ・ハイブリッジ』
ーああああっー
『瞳・高橋』
間違いない、高橋さんだ。なんて安直なネーミングなんだ、と思ってしまった。
俺はプレゼンの時のことで、確信した。
それに、ストーカーまがいの事をした時にいたスーツの男は彼女の護衛だろう。現れたタイミングが良すぎる。
それから俺はいてもたってもいられず、アイ・ハイブリッジ博士の事を調べた。
もちろん社内の人に聞きまくったり、尾行したりなどせず、図書館やインターネットなどを使って調べた。
アイ・ハイブリッジ博士の書いた論文についてはすぐ調べることができたが、写真やそれ以外のプライベートなことは全く分からなかった。
しかしまた自分が暴走していることに気がつき、酷く後悔してしまった。
彼女が博士だということが分かったところで、自分には何もできることはないと悟ったからだ。
ーーーーーー
「佐藤さん、お茶どうぞ」
「ありがとうございます」
そこには以前と何ら変わらない彼女と、変わらない日常があった。
彼女が何者なのかなんてどうでもいいじゃないか。
俺が知っている優しくて、頼りになる彼女は、営業事務の高橋さんだ。
おわり
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