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仮初妻と真の領主

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 ソロアピアン大陸の北方にあるエツスタンの夏は短い。だからこそ、エツスタンの城下町は一番星が輝き始めてもなお、にぎやかだった。大通りには花とランタンで飾り付けられた夜店が並び、人いきれと、歌や笑い声で満ちている。人々は、過ぎ行く夏を惜しんでいるのだ。
 いや、今日に限って言えば、人々たちが浮かれ騒ぐ理由はそれだけではない。

「リシャール様が五年ぶりに帰ってこられるぞ!」
「ピエムスタでの戦は大活躍だったらしいではないか!」
「なんでも、ラーク軍をあっという間に撃退してしまったらしい」
「まさに英雄だ! 我々エツスタン人としても鼻が高い!」

 人々は口々に正式な領主であるリシャールを称えた。今日の夜、リシャールは五年の遊学を終え、エツスタンに帰ってくるのだ。
 半年ほど前、ピエムスタ帝国とラーク王国の戦は、ピエムスタ帝国軍の勝利に終わった。リシャールはエツスタンの公爵としてピエムスタ帝国軍の一員として戦に出た。その活躍は驚くべきもので、リシャールはラーク軍を制圧し、多くの勲功をあげた。突如登場したエツスタン公爵領から来た若い領主は、ピエムスタ帝国にとって希望の星となり、リシャールには多くの栄典が授与された。
 その活躍はエツスタンまで届き、人々は若い領主の活躍に熱狂した。中には、自分からリシャールの下で戦いたいとピエムスタに渡った若者たちもいたらしい。
 だから、人々は五年ぶりにエツスタンの地を踏む主人の帰還を今か今かと待ち望んでいる。
 そんな喜びに満ち溢れた街を、コルネリアは城のバルコニーから静かに見降ろしていた。何の宝飾もつけていない艶のある栗色の髪を夕風になびいている。

 ――リシャールが、帰ってくるのね。

 夫であるリシャールが不在にしている間領主の名代を務めていたコルネリアは、今年で二十八歳になった。

『エツスタンを、頼みます』

 そう託された通り、コルネリアは懸命に領主代理としてエツスタンを治めてきた。その道のりは決して平坦なものではなかったが、母国であるピエムスタ帝国からの援助と、エツスタンを心から愛する領民たちの協力によってここまで辿り着くことができた。
 エツスタンはこの数年で、不死鳥のように蘇った。かつての荒れた街並みは、今や大陸一の美しい街に変貌し、今もなお発展を続けている。

「コルネリア様、そろそろ中へお入りになってください。夕風で身体を冷やしてしまっては大変ですよ」

 バルコニーでぼんやりしていたコルネリアに、メイドのサーシャが室内から気づかわしげに声をかけた。コルネリアは頷いて、部屋に戻る。

「リシャール様がお帰りになるのですから、このままではいけませんわ」

 サーシャはコルネリアを椅子に座らせた。コルネリアの髪は、夕風ですっかり乱れてしまっている。
 しかし、コルネリアはゆっくりと首を振った。

「良いわよ。リシャールも年増の妻の恰好なんて気にしないわ。見苦しくない程度に結い上げてちょうだい。服は……いつものものを」
「もう! こういう時に、着飾らないなんてもったいないですよ。コルネリア様は本当に美しい方なのに!」
 サーシャの言葉に、コルネリアはただ困ったような微笑みを浮かべた。
「……今日はリシャールが主役よ。わたくしが着飾ったって、仕方ないもの。わたくしは仮初かりそめの妻に過ぎないし」
「そんなことを言わないでください! リシャール様が不在の間、この国を支えてくださったのは他でもない、コルネリア様なんですから! もっと胸を張って偉そうにしたって誰も文句は言えませんよ。もし文句を言う不届き者がいたら、わたしが許しません!」

 サーシャは、腰に手を当てて頬を膨らませた。その可愛らしい仕草に、コルネリアはくすりと笑う。

「ありがとう、サーシャ」

 この優しいメイドの言葉に、何度心救われたかわからない。コルネリアはサーシャに礼を言って、鏡の中の自分を見つめた。
 エツスタンに来た時より伸びた髪は、今は背中に届くほどの長さだ。緩やかに波打つ栗色の髪をハーフアップにまとめ、いつもよく着るすとんとした若草色のドレスに身を包むその姿は、エツスタンの公爵夫人には見えないほど地味だ。だが、無理に着飾る必要性を、コルネリアは感じなかった。コルネリアは所詮、仮初めの公爵夫人なのだから。

「それにしても、やっとリシャール様が帰ってきますね! コルネリア様もさぞ嬉しいでしょう。リシャール様がピエムスタに遊学される前は、お二人はいつも姉弟のように一緒でしたから」
「そうだったわね。懐かしいわ」

 年下の夫と過ごした三年の月日は、コルネリアにとって宝物のような日々だった。リシャールがピエムスタ帝国に遊学して、彼と距離を置いたからこそ、その思い出は一層美しく輝いている。だからこそ、サーシャとの思い出話には話題が尽きない。
 コルネリアは、ふとくすりと笑った。

「正直な話をすると、リシャールが成人したなんて未だに信じられないの」
「きっと、コルネリア様より背も高くなられたことでしょう。もうリシャール様を子供扱いはできませんね。お坊ちゃまとも呼べなくなります」
「そうよ。……リシャールは領主になるんだから」

 コルネリアは遠くを見つめて成長したリシャールの姿に思いをはせた。視線の先には、夜になってもなお明るい城下町がある。コルネリアはこの風景が好きだった。しかし、この風景を見ることができるのも、残りわずかだ。
 全てが落ち着けば、コルネリアリシャールに離縁を申し込もうと考えていた。

「リシャールが帰ってくれば、わたくしはようやくお役御免ね。この城ともお別れだわ」
「……コルネリア様は、本当にこの城を去られる気なのですか?」
「わたくしはこれまでずっとエツスタンの領主代理として頑張ってきたのよ。これからは、ゆっくり過ごしても、罰は当たらないと思わない?」
「でも、リシャール様が帰ってこられれば、これからは、領主のお仕事のご負担だってだいぶ軽くなると思います。エツスタンでゆっくりされてもいいんじゃ……」
「わたくしは、リシャールの仮初の妻。お飾りの妻がいたって、リシャールもやりにくいでしょう。リシャールには、もっと素敵な人がいるはずよ」

 父であるセアム三世と約束したのは「数年間荒廃したエツスタンを守ること」だ。コルネリアは言いつけ通り、エツスタンを守りきった。リシャールもまた、先の活躍で大衆からの支持を得ている。公爵としても立派にやっていけるはずだ。

 ――それに、リシャールもまたそれを望んでいるだろうから……。

 リシャールが無事に帰還し、領主としての引継ぎを終えさえすれば、自分の役割は十分果たしたと言えるだろう。

 ――破婚が成立すれば、わたくしはすぐにピエムスタ帝国に戻る。

 この計画を話したのは、信頼できるサーシャと執事のセバスチャンだけだ。いつもは真っ先にコルネリアの味方になってくれる二人ではあるものの、今回ばかりは猛反対している。
 サーシャは必死で訴えた。

「コルネリア様はずっとここにいるべきです。エツスタンをここまで復興させたのは、コルネリア様なんですから!」
「そう言ってくれるのは、すごく嬉しいわ。でも、エツスタンを復興させたのは、この地の人々よ。わたくしは、そのお手伝いをしただけ。よそ者の私がずっとここに居座るのは間違っているわ。本来エツスタンは、エツスタンの民の国なんだもの」
「そんなことありません! 昔と違って、エツスタンの人々は、ピエムスタ帝国に多大なる恩義を感じておりますし、本当にコルネリア様のことが大好きで……ッ」
「サーシャはわたくしを買いかぶりすぎよ。それに、わたくしはこれから不幸になるわけじゃないの。これからは、故郷に戻ってゆっくり過ごすの。刺繍や、油絵なんかをしながら……」
「コルネリア様は、こういう時だけすごく頑固です」

 サーシャは不服そうに頬を膨らます。コルネリアは困った顔をした。

「これは当然の決断よ。本当に可哀想なリシャール。政略結婚で、わたくしなんかとの結婚を勝手に決められて。でも、これからはリシャールも好きに生きてほしいわ。素敵な人と恋に落ちて、子供だって……」

 一抹の寂しさが、コルネリアの胸をかすめた。長らく会っていないけれど、昔と変わらず弟のように思っているリシャールと別れるのはつらい。
 しかし、コルネリアはリシャールの幸せのためと、己の甘さを叱るのだった。

「ねえ、サーシャ。この話はおしまいにしましょう。この城の主人を迎える準備をしなくてはね。可愛いリシャール坊やがせっかく帰ってくるんだもの」

 コルネリアは、胸の中の寂しさを追い払うように立ち上がる。何か気がかりなことがあった時は、実務的な仕事をして気を紛らわせるのが彼女のいつものやり方だった。
 現に、この城の主を迎えるためにいくつか最終確認をしなければならないことがある。サーシャの手を借りて着替え終わった今、ぼんやりしている暇はない。

「さあ、仕事の時間よ。まずエントランスに行ってセバスチャンとお話を――、」

 刹那、慌ただしい足音とともに、急に扉が開いた。
 ノックもせずにレディの部屋の扉を開ける不届き者の登場に、サーシャの顔がサッと険しくなる。

「誰ですか! この部屋はコルネリア様のお部屋ですよ? それなのに、ノックもせずに部屋に入ってくるなんて、なんて不作法な――、きゃあっ!」

 入ってきた人物の顔を見て、サーシャは黄色い悲鳴をあげた。
 それもそのはず、コルネリアの部屋に入ってきたのは、背の高い美丈夫だった。髪の色はプラチナブロンドで、幾らか厳しすぎる鋭い輪郭に、近づきがたいほどに整った顔立ち。なにより目を惹くのは、冷たい星を宿したようなアイスブルーの瞳。その瞳は誇り高く、そして懐かしい――、

「コルネリア!」
「ええっ、り、リシャール?」

 驚きのあまり、コルネリアの声がひっくり返る。
 そこにいたのは、すっかり成長した二十一歳のリシャールだった。
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