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急な引き
六
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「東ヨーロッパのところでビザンツ帝国とイスラムの対抗があったように、宗教は封建と切っても切れない仲だ。皇帝教皇主義があるでしょ。まあ、ほかのところもそうだけど、その辺りの詳しい本を読みこむとかしといたほうがいいね」
僕は首を縦に振り、自分のノートを閉じた。
──年表通りに事柄を羅列していくのも大事だけれど、教える子どもたちには、やはり大きな興味を持って聞いてもらいたい。聞かせなきゃならない。
これは、大学のゼミで、教授から最初に教わったことだ。
とくに、歴史分野は、学ばせるというより、こちらが伝えるというのが重要になってくる科目だ。脱線話をするのにも、言葉の取捨選択や、内容の吟味に骨を折らされる。
それを円滑にできるようになるためにも、もっともっと知識を増やさなくてはならない。
「わかりました。ありがとうございます。オススメの本とか、また教えてください」
「あ、渡辺先生」
踵を返そうとしたら、峯口先生に呼び止められた。
どこかを見やってから、峯口先生は口元に手を添え、小声で言う。
「逢坂先生ってなんかあったの?」
「え?」
「さっき用があって声かけたら、いつにも増して不機嫌だったからさ。正直、ああいうの困るんだよね。気分悪いし」
「ああー……ですよね。ほんとすみません」
最後の最後まで頭を下げ、ノートを持ち直す。そんな僕を見上げ、峯口先生が低い失笑をこぼした。
「なんで渡辺先生が謝るの」
「え?」
と言ってから、たしかにその通りだと思って、僕はいろんなものを必死で濁した。気にしないでくださいと、大きく手を振る。
すると、周りの先生方の目も集まり出して、僕はそそくさと、峯口先生のデスクをあとにした。
髪を撫でながら自分のデスクに戻り、途中になっていたサンドイッチの包みを破いた。口をモグモグさせながら、講義ノートにペンを走らす。
僕は、その手をふと止めた。
峯口先生の言葉を思い返す。
「いつにも増して不機嫌か……」
それは僕も感じていた。ただ、なんの理由でかは、はっきりしない。
きのうのことが原因かもしれないし、家に帰ってから、なにか腹の立つことがあったのかもしれない。それか、朝、なにかのフンでも踏んづけたか。
僕ははっとなって、いろいろ頭から放り出そうと、がむしゃらに手を動かした。
いまは、逢坂先生よりもルネサンス。ルネサンスよりもギロチンNG。
あまりに気合いが入りすぎて、シャーペンの芯が折れたとき、となりからガサガサという音が聞こえた。
なにげに目をやると、逢坂先生がいつの間にか帰ってきてて、コンビニのおにぎりのパッケージを剥いていた。僕と同じように、昼食をとりつつノートを広げている。
その手に握られたシャーペン。クリップが金色で、万年筆と見まごう美しさだ。
逢坂先生はしばらくなにか書いてたけど、行き詰まったのか、ペン回しを始めた。
僕はあれができない。
ちょっと見よう見まねでやってみる。
けど、なかなかうまくいかない。親指のつけ根で回転させられても、ペンをキャッチできないんだ。
なのに、となりでは、何度も何度も器用に回っている。まるで、できない僕をあざ笑うかのよう。
むきになって勢いよく指を動かしたら、弧を描いて、ペンが飛んでいってしまった。
「あっ」
「あ?」
それも、逢坂先生のお昼ごはんに直撃した。
僕は顔を青くして、ペコペコ頭を下げながらペンを取った。
なんか僕、朝から謝ってばっかりだ。
「おお、見事な放物線」
根津先生の弾んだ声がした。
凍りついた場を暖かくしてくれるような声に、助かったと思った。僕は胸を撫で下ろし、座面へ腰を落とす。
根津先生もコンビニの袋を下げていて、それを自分のデスクに置いた。
「放物線といえば、あれだ。しんしんの……あれ。なんだっけ、ほら」
根津先生はそう言うと、椅子に座りながら頭を掻いた。しきりに「しんしん、しんしん」と指を振っている。
「ゆずなんだよね、ゆず」
僕は首を傾げた。
「柚子……ですか?」
「しんしんの──」
「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」
ノートに視線を落としたまま、逢坂先生が流暢に言った。顔を上げ、根津先生を真っ直ぐに見る。
「だろ?」
「俺だってわかってましたー。いいとこ取りやがって。つぐちゃんのバカヤロ」
「つぐちゃんはやめれ」
「えーこーへのかけはしだー」
そのあと根津先生は、大きな声でうたを歌いながらコーヒーサーバーのほうへ行った。最初はハミング、途中からは歌詞つきで。
そしてまた鼻歌になって戻ってきて、いまだきょとんとするしかない僕へ視線を向けた。
「なに、翼ちゃん。もしかして知らないの? 名実況よ、これ」
「聞いたことある気がしますけど……詳しくは」
「オリンピックのやつね。体操ジャポン。王、国、復、活」
「あ、金メダル取ったときの。シドニーでしたっけ?」
「いや、ペキンかトリノか? あれ? 教えて、グーグル先生ならぬ、つぐちゃんせんせー」
おにぎりを呑みこみ、逢坂先生は鼻で笑った。
「アテネだろ。トリノは冬。フィギュアで金取っただけのやつだ」
僕と根津先生は同時に、おおっと感嘆の声を上げた。
「オリンピック博士、ここに現る」
「うれしくねえよ、んなの。しかも、博士と言われるほどの知識でもねーし」
「いやいや。ねえ、翼ちゃん?」
「そうですよ。詳しいんですね、逢坂先生」
僕はデスクに手をつき、顔を覗きこむようにして逢坂先生を見た。
目が合った。
その瞬間、僕はあっと気づいて、ゆっくりと正面に向き直った。
いけない、いけない。
また調子に乗って、軽々しくおしゃべりしてた。
残りのサンドイッチを頬張り、ノートとにらめっこする。教科書も開いた。
しばらくすると、となりから、耳障りな音がし出した。
少しだけ目を動かして手もとを見れば、逢坂先生は、シャーペンのクリップを執拗に指で弾いていた。
僕は首を縦に振り、自分のノートを閉じた。
──年表通りに事柄を羅列していくのも大事だけれど、教える子どもたちには、やはり大きな興味を持って聞いてもらいたい。聞かせなきゃならない。
これは、大学のゼミで、教授から最初に教わったことだ。
とくに、歴史分野は、学ばせるというより、こちらが伝えるというのが重要になってくる科目だ。脱線話をするのにも、言葉の取捨選択や、内容の吟味に骨を折らされる。
それを円滑にできるようになるためにも、もっともっと知識を増やさなくてはならない。
「わかりました。ありがとうございます。オススメの本とか、また教えてください」
「あ、渡辺先生」
踵を返そうとしたら、峯口先生に呼び止められた。
どこかを見やってから、峯口先生は口元に手を添え、小声で言う。
「逢坂先生ってなんかあったの?」
「え?」
「さっき用があって声かけたら、いつにも増して不機嫌だったからさ。正直、ああいうの困るんだよね。気分悪いし」
「ああー……ですよね。ほんとすみません」
最後の最後まで頭を下げ、ノートを持ち直す。そんな僕を見上げ、峯口先生が低い失笑をこぼした。
「なんで渡辺先生が謝るの」
「え?」
と言ってから、たしかにその通りだと思って、僕はいろんなものを必死で濁した。気にしないでくださいと、大きく手を振る。
すると、周りの先生方の目も集まり出して、僕はそそくさと、峯口先生のデスクをあとにした。
髪を撫でながら自分のデスクに戻り、途中になっていたサンドイッチの包みを破いた。口をモグモグさせながら、講義ノートにペンを走らす。
僕は、その手をふと止めた。
峯口先生の言葉を思い返す。
「いつにも増して不機嫌か……」
それは僕も感じていた。ただ、なんの理由でかは、はっきりしない。
きのうのことが原因かもしれないし、家に帰ってから、なにか腹の立つことがあったのかもしれない。それか、朝、なにかのフンでも踏んづけたか。
僕ははっとなって、いろいろ頭から放り出そうと、がむしゃらに手を動かした。
いまは、逢坂先生よりもルネサンス。ルネサンスよりもギロチンNG。
あまりに気合いが入りすぎて、シャーペンの芯が折れたとき、となりからガサガサという音が聞こえた。
なにげに目をやると、逢坂先生がいつの間にか帰ってきてて、コンビニのおにぎりのパッケージを剥いていた。僕と同じように、昼食をとりつつノートを広げている。
その手に握られたシャーペン。クリップが金色で、万年筆と見まごう美しさだ。
逢坂先生はしばらくなにか書いてたけど、行き詰まったのか、ペン回しを始めた。
僕はあれができない。
ちょっと見よう見まねでやってみる。
けど、なかなかうまくいかない。親指のつけ根で回転させられても、ペンをキャッチできないんだ。
なのに、となりでは、何度も何度も器用に回っている。まるで、できない僕をあざ笑うかのよう。
むきになって勢いよく指を動かしたら、弧を描いて、ペンが飛んでいってしまった。
「あっ」
「あ?」
それも、逢坂先生のお昼ごはんに直撃した。
僕は顔を青くして、ペコペコ頭を下げながらペンを取った。
なんか僕、朝から謝ってばっかりだ。
「おお、見事な放物線」
根津先生の弾んだ声がした。
凍りついた場を暖かくしてくれるような声に、助かったと思った。僕は胸を撫で下ろし、座面へ腰を落とす。
根津先生もコンビニの袋を下げていて、それを自分のデスクに置いた。
「放物線といえば、あれだ。しんしんの……あれ。なんだっけ、ほら」
根津先生はそう言うと、椅子に座りながら頭を掻いた。しきりに「しんしん、しんしん」と指を振っている。
「ゆずなんだよね、ゆず」
僕は首を傾げた。
「柚子……ですか?」
「しんしんの──」
「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」
ノートに視線を落としたまま、逢坂先生が流暢に言った。顔を上げ、根津先生を真っ直ぐに見る。
「だろ?」
「俺だってわかってましたー。いいとこ取りやがって。つぐちゃんのバカヤロ」
「つぐちゃんはやめれ」
「えーこーへのかけはしだー」
そのあと根津先生は、大きな声でうたを歌いながらコーヒーサーバーのほうへ行った。最初はハミング、途中からは歌詞つきで。
そしてまた鼻歌になって戻ってきて、いまだきょとんとするしかない僕へ視線を向けた。
「なに、翼ちゃん。もしかして知らないの? 名実況よ、これ」
「聞いたことある気がしますけど……詳しくは」
「オリンピックのやつね。体操ジャポン。王、国、復、活」
「あ、金メダル取ったときの。シドニーでしたっけ?」
「いや、ペキンかトリノか? あれ? 教えて、グーグル先生ならぬ、つぐちゃんせんせー」
おにぎりを呑みこみ、逢坂先生は鼻で笑った。
「アテネだろ。トリノは冬。フィギュアで金取っただけのやつだ」
僕と根津先生は同時に、おおっと感嘆の声を上げた。
「オリンピック博士、ここに現る」
「うれしくねえよ、んなの。しかも、博士と言われるほどの知識でもねーし」
「いやいや。ねえ、翼ちゃん?」
「そうですよ。詳しいんですね、逢坂先生」
僕はデスクに手をつき、顔を覗きこむようにして逢坂先生を見た。
目が合った。
その瞬間、僕はあっと気づいて、ゆっくりと正面に向き直った。
いけない、いけない。
また調子に乗って、軽々しくおしゃべりしてた。
残りのサンドイッチを頬張り、ノートとにらめっこする。教科書も開いた。
しばらくすると、となりから、耳障りな音がし出した。
少しだけ目を動かして手もとを見れば、逢坂先生は、シャーペンのクリップを執拗に指で弾いていた。
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