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フリ
三
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もうヤケクソだった。
橘さんとのことは、慎重に慎重を重ねて、ゆっくり話していければいいと考えていたのに。
けど、いまは限界。どうなったって知るもんか。
「警察?」
「そう。だから、そんなに心配しなくていいよ」
「あんた、なんで警察の人とルームシェアなんかしてるのよ。まさか寮とかじゃないわよね。なんていう名前の人?」
「名前は言えない。守秘義務とかいろいろあるから。あの事件でかくまってもらった流れでお世話になってんの。でも、それも今月までだと思う。そしたら家に帰るから。もう切る」
俺は一方的に通話を切った。
またかけてくるかもと思ったけど、携帯は静かなままだった。
ため息をついて、あの手紙に目をやる。
「江梨香」
最後にそう書いてあった。
さっきの男の顔を思い出す。
それと同時に、頭のどこかで引っかかっていた、神崎と最初に顔を合わせたときのことがよみがえってきた。
あのときの神崎は、俺をだれかと間違えたふしがある。俺の顔を見てまず「違う」と言ったから。
ソファーへ横になった。
目を閉じる。
離れ離れになりたくない。
素直にそう思えたら、涙が止まらなくなった。
考えることを放棄したら、ずっと一緒にいたいという想いだけが残った。
おんなじタイミングで笑う。同じ風景を見て同じ道を歩く。
無茶をしたら叱ってくれる。頑張ったら褒めてくれる。怒ったら謝ってくれる。
そんな当たり前のことが嬉しかった。
俺は涙が収まると時計を確認した。十二時をいくらか過ぎている。
とりあえず、この江梨香さんのことは、はっきりさせよう。
橘さんに電話をした。けど、いつもの携帯は、電源が入ってないらしい。
仕事用のは出ない。
俺は頭を掻き毟り、ソファーを立ち上がった。
財布と携帯、鍵をポケットに入れ、橘さんの部屋を出た。
俺は警察署へ着くと、受け付けのおっさんに、橘さんに用があることを告げた。
刑事課に内線をかけ、おっさんは訊いていたけど、その口振りではここにいなさそうだった。
「もう帰ったみたいですよ。他のだれかを呼びましょうか」
また受話器を上げようとしたから、「いいです、いいです」と、俺は止めた。
ため息が出る。
橘さんは帰ったと言っても、警察署からマンションまでは一本道だ。出会わなかったということは、どこかべつの場所へ行ったんだと思う。
なんか……もう疲れた。
警察署の出入口で肩を落としていると、声が飛んできた。
「佑くん」
「……あ、晴海さん」
「なに、どうしたの?」
と言いながら駆け寄る晴海さんに、俺は会釈した。
晴海さんは、眼鏡の向こうで眉をひそめていた。俺の顔を覗き込むようにしている。
「佑くんさ、大丈夫?」
俺の背中を押し、階段脇の廊下まで促す。
近くのドアには取調室という文字があった。
「橘さんに用があって来たんですけど……もう帰ったって」
「ああ、うん。あの人、きょうめちゃくちゃ早出して、午後から休みにしたみたいだね」
「……」
俺は顔を歪ませた。
またかよ。なんなんだよ。
そんなこと、一言も聞いてねえし。
「なんか、人に会うって言ってたな」
「人? だれだろう……」
「そのことなら、たぶん松宮先生のほうが詳しく……あ、丁度いいところに。松宮先生!」
手を上げた晴海さんの視線を辿って俺は振り返った。
階段を上がろうとしている松宮さんの姿が見える。
その開襟シャツからは、きょうもばっちり谷間が覗いている。
「真中くんじゃない。このあいだはごめんなさいね」
「……いいえ」
「それよりどうしたの? 大丈夫?」
松宮さんが俺の顔を覗き込むように、首を傾げた。
そういえば、晴海さんもさっきそんなふうなことを言って、眉間にしわを寄せていた。
「大丈夫ですけど……。俺、どこか変ですか?」
「変よ。だって目が真っ赤だもの」
「え?」
ついさっきまで泣いていた自分を思い出した。
顔を手で覆い、俯く。恥ずかしいなんてもんじゃなくて、しばらく目を上げられなかった。
そんな俺に代わって、晴海さんが訊いてくれる。
「先生、橘さんの居所わかりません? あの人、ここを出る前に、なにかあったら松宮先生に聞いてくれって言ってたんですよね」
「あら、そう。それなら、たぶんあそこじゃないかしら」
俺は、松宮さんのほうへ視線を動かした。
すると松宮さんは、持っていたカバンから、一枚の紙を俺に差し出した。
ここから車で三十分くらいのところにある住所と、そこまでの地図が書かれてある。
「橘くんはそこにいると思うわ。……としか、いまは言えないのよ。真中くん、ごめんね。あとは自分の目でたしかめて」
俺は地図を受け取り、ここになにがあるのかと首を傾げながらも頷いた。
それから、ふと気づいたことがあって、晴海さんを見上げた。
「あの、一つ訊きたいんですけど……」
「うん?」
「警視庁への転勤の話とか、出てたりしてるんですか?」
一瞬息を呑んだあと、晴海さんは次の言葉を濁していた。
やっぱりな、と思った。俺の想像は間違っていなかったんだ。
そこへ、松宮さんが割って入ってきた。
「ねえ、真中くん。その警視庁への話って、橘くんが言ってたの?」
俺は少し考えてから首を横に振って、本島さんの一件のあとに山岸さんと橘さんがやりとりしたことを二人に話した。
松宮さんと晴海さんは、顔を見合わせている。
「ああー。佑くん、それさ」
「晴海くん」
松宮さんが手を出し、晴海さんの言葉を止めた。
さすがに、それにはカチンときた。
「なんですか?」
「ううん。こっちのこと。真中くん、その警視庁への話は橘くんにしっかり訊いてね」
松宮さんは笑顔で言って、ヒールの踵を返す。
「それにしても罪なことするわね、彼」
独り言のように呟いて、階段へと歩いていった。
晴海さんに目をやれば、肩をすくめていて、俺になにか言ってくれようとしたらしいけど、上からの声に口を閉じた。
階段の手すりにあった松宮さんの姿が消える。「ごめんね」と手を合わせ、晴海さんもいなくなってしまった。
松宮さんから渡された地図にもう一度目をやる。
一人で行くのは気が進まないけれど、橘さんには会いたい。
俺は地図を握りしめ、警察署をあとにした。
橘さんとのことは、慎重に慎重を重ねて、ゆっくり話していければいいと考えていたのに。
けど、いまは限界。どうなったって知るもんか。
「警察?」
「そう。だから、そんなに心配しなくていいよ」
「あんた、なんで警察の人とルームシェアなんかしてるのよ。まさか寮とかじゃないわよね。なんていう名前の人?」
「名前は言えない。守秘義務とかいろいろあるから。あの事件でかくまってもらった流れでお世話になってんの。でも、それも今月までだと思う。そしたら家に帰るから。もう切る」
俺は一方的に通話を切った。
またかけてくるかもと思ったけど、携帯は静かなままだった。
ため息をついて、あの手紙に目をやる。
「江梨香」
最後にそう書いてあった。
さっきの男の顔を思い出す。
それと同時に、頭のどこかで引っかかっていた、神崎と最初に顔を合わせたときのことがよみがえってきた。
あのときの神崎は、俺をだれかと間違えたふしがある。俺の顔を見てまず「違う」と言ったから。
ソファーへ横になった。
目を閉じる。
離れ離れになりたくない。
素直にそう思えたら、涙が止まらなくなった。
考えることを放棄したら、ずっと一緒にいたいという想いだけが残った。
おんなじタイミングで笑う。同じ風景を見て同じ道を歩く。
無茶をしたら叱ってくれる。頑張ったら褒めてくれる。怒ったら謝ってくれる。
そんな当たり前のことが嬉しかった。
俺は涙が収まると時計を確認した。十二時をいくらか過ぎている。
とりあえず、この江梨香さんのことは、はっきりさせよう。
橘さんに電話をした。けど、いつもの携帯は、電源が入ってないらしい。
仕事用のは出ない。
俺は頭を掻き毟り、ソファーを立ち上がった。
財布と携帯、鍵をポケットに入れ、橘さんの部屋を出た。
俺は警察署へ着くと、受け付けのおっさんに、橘さんに用があることを告げた。
刑事課に内線をかけ、おっさんは訊いていたけど、その口振りではここにいなさそうだった。
「もう帰ったみたいですよ。他のだれかを呼びましょうか」
また受話器を上げようとしたから、「いいです、いいです」と、俺は止めた。
ため息が出る。
橘さんは帰ったと言っても、警察署からマンションまでは一本道だ。出会わなかったということは、どこかべつの場所へ行ったんだと思う。
なんか……もう疲れた。
警察署の出入口で肩を落としていると、声が飛んできた。
「佑くん」
「……あ、晴海さん」
「なに、どうしたの?」
と言いながら駆け寄る晴海さんに、俺は会釈した。
晴海さんは、眼鏡の向こうで眉をひそめていた。俺の顔を覗き込むようにしている。
「佑くんさ、大丈夫?」
俺の背中を押し、階段脇の廊下まで促す。
近くのドアには取調室という文字があった。
「橘さんに用があって来たんですけど……もう帰ったって」
「ああ、うん。あの人、きょうめちゃくちゃ早出して、午後から休みにしたみたいだね」
「……」
俺は顔を歪ませた。
またかよ。なんなんだよ。
そんなこと、一言も聞いてねえし。
「なんか、人に会うって言ってたな」
「人? だれだろう……」
「そのことなら、たぶん松宮先生のほうが詳しく……あ、丁度いいところに。松宮先生!」
手を上げた晴海さんの視線を辿って俺は振り返った。
階段を上がろうとしている松宮さんの姿が見える。
その開襟シャツからは、きょうもばっちり谷間が覗いている。
「真中くんじゃない。このあいだはごめんなさいね」
「……いいえ」
「それよりどうしたの? 大丈夫?」
松宮さんが俺の顔を覗き込むように、首を傾げた。
そういえば、晴海さんもさっきそんなふうなことを言って、眉間にしわを寄せていた。
「大丈夫ですけど……。俺、どこか変ですか?」
「変よ。だって目が真っ赤だもの」
「え?」
ついさっきまで泣いていた自分を思い出した。
顔を手で覆い、俯く。恥ずかしいなんてもんじゃなくて、しばらく目を上げられなかった。
そんな俺に代わって、晴海さんが訊いてくれる。
「先生、橘さんの居所わかりません? あの人、ここを出る前に、なにかあったら松宮先生に聞いてくれって言ってたんですよね」
「あら、そう。それなら、たぶんあそこじゃないかしら」
俺は、松宮さんのほうへ視線を動かした。
すると松宮さんは、持っていたカバンから、一枚の紙を俺に差し出した。
ここから車で三十分くらいのところにある住所と、そこまでの地図が書かれてある。
「橘くんはそこにいると思うわ。……としか、いまは言えないのよ。真中くん、ごめんね。あとは自分の目でたしかめて」
俺は地図を受け取り、ここになにがあるのかと首を傾げながらも頷いた。
それから、ふと気づいたことがあって、晴海さんを見上げた。
「あの、一つ訊きたいんですけど……」
「うん?」
「警視庁への転勤の話とか、出てたりしてるんですか?」
一瞬息を呑んだあと、晴海さんは次の言葉を濁していた。
やっぱりな、と思った。俺の想像は間違っていなかったんだ。
そこへ、松宮さんが割って入ってきた。
「ねえ、真中くん。その警視庁への話って、橘くんが言ってたの?」
俺は少し考えてから首を横に振って、本島さんの一件のあとに山岸さんと橘さんがやりとりしたことを二人に話した。
松宮さんと晴海さんは、顔を見合わせている。
「ああー。佑くん、それさ」
「晴海くん」
松宮さんが手を出し、晴海さんの言葉を止めた。
さすがに、それにはカチンときた。
「なんですか?」
「ううん。こっちのこと。真中くん、その警視庁への話は橘くんにしっかり訊いてね」
松宮さんは笑顔で言って、ヒールの踵を返す。
「それにしても罪なことするわね、彼」
独り言のように呟いて、階段へと歩いていった。
晴海さんに目をやれば、肩をすくめていて、俺になにか言ってくれようとしたらしいけど、上からの声に口を閉じた。
階段の手すりにあった松宮さんの姿が消える。「ごめんね」と手を合わせ、晴海さんもいなくなってしまった。
松宮さんから渡された地図にもう一度目をやる。
一人で行くのは気が進まないけれど、橘さんには会いたい。
俺は地図を握りしめ、警察署をあとにした。
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