21 / 30
忠告
四
しおりを挟む
なぜか豪さんは立ち止まっている。
その大きな背中。プールでの姿がよみがえる。
「お前、あのチビ坊主になにチクってんだよ」
表情は見えなくても、声の調子が怒りをあらわにしていた。
「あいつ、わざわざプールにまで来てなに言うのかと思ったら、お前とちゃんと仲良くしろ、だと。ふざけんなって話だろ」
“仲良くしろ”
その言葉が繰り返し頭の中で響いた。
もはや、豪さんの背中は見えてなかったし、声も聞こえてなかった。
ふと、ゆうべの健ちゃんとのやりとりを思い出した。その健ちゃんになにかを告げられて、不愉快そうにしていた三津谷さんも思い出す。
三津谷さんは、プールでもずっと不機嫌だった。
ぼくの脳裏に一抹の不安がよぎる。
「おい、聞いてんのか」
豪さんの声が急に迫ってきた。
ハッとして顔を上げると、ぼくを鋭く見下ろしていた。
なにもされてないけど、その迫力があまりに近いところにあって、逃げるように後ろへ倒れたぼくは、しりもちをついてしまった。
「なにが仲良くしろだ。なにが弟だ。マジふざけんな」
拳が見えた。指のつけ根に傷がついてて、赤くにじむものもある。
豪さんが、ぼくのことを三津谷さんに言われたとき、もし、こんなふうに怒ったとしたら──。
ゆうべの衝撃が瞳の奥をかすめる。一清さんと豪さんの対峙が、いま想像しているものと、どうしても重なってしまう。
「……殴ったんですか?」
「あ?」
ぼくは素早く立ち上がり、握りしめていた手紙を豪さんへ投げつけた。
「ひどい。三津谷さんを殴るなんて!」
そのまま、振り返りもしないで、家を飛び出した。
もしかしたら、病院へ行くほどのケガを負わせられたのかもしれない。
それを考えると、いても立ってもいられなくなって、とにかく走った。三津谷さんにいますぐ会いたい。そして、謝りたい。
しかし、ぼくの足は途中で止まった。
三津谷さんの家を知らないことにいまになって気づいた。
目頭で涙を抑え、乱れた息を整える。
「……」
それに、豪さんに「ひどい」なんて言う資格、ぼくにはないんだ。
三津谷さんがどれだけ気にかけてくれて、心配してくれていたのか。ぼくはこれっぽっちも気づかず、一方的に怒鳴ってしまったんだ。
そして、ぼくがあの家にいかなければ、豪さんをイライラさせることも、暴力をふるわせることもなかった。
「会いたくないに決まってる……」
それを悟った瞬間、行き先を失ったこの足は、あてもなくさまよい始めた。
気づけば、大通りに出ていた。
そこに道があるから、ぼくはただ進むだけだ。
そのとき、一台の自転車が追い越していった。カゴにビニール傘がささっている。
「あ」
ぼくは立ち止まり、自分の両手を見つめた。
傘──。
そういえば、三津谷さんに言われてプールの傘立てに入れたけど、そのあとをどうしたのかよく覚えていない。
ぼくは振り返った。
いまは帰る気にもならないし……。
ちょうど青信号になった横断歩道が目に入る。ぼくは早足で渡り、プールからの帰り道に出てきた小路へと入った。
とりあえず道なりに進もうと思った矢先、冷たいものが頭に当たった。
それがなにかに気づいた途端に本降りになって、雷も鳴り始めた。
「うわっ」
雨を避けるべく、ひときわ明るい建物へと駆け込んだ。
住宅のあいだにあるコンビニ。ぼくは出入り口を素通りして、ひさしのある店先で真っ黒な空を見上げた。
それと同時に閃光が走る。コンビニのガラス窓を震わすぐらいの大きな音が鳴り響いた。
ぼくは、とっさに耳を塞いで首を縮めた。
目をつむっていてもわかる、まぶたを突き刺すような稲光と、若干かすんだ低い雷鳴。
早くどっかいけと、呪文のように繰り返していたぼくの腕を、だれかが掴んだ。二重にびっくりして、ぱっと目を開ければ、スーツ姿の背の高い男の人が立っていた。
「篠原、こんなところでどうした? しかも制服のままで」
「先生──」
小林先生だった。傘をすぼめ、眉根を寄せてぼくと視線を合わせる。
そのまなざしが、どこかお父さんを思い出させて、一気に涙があふれてきた。
三津谷さんと豪さんのこと。さらには、この雷の音が、ぼくを混乱させたんだ。
「篠原?」
「……すみません」
「なにかあったのか?」
涙を拭い、ぼくは首を横に振った。
助けを求めたかったけれど、それを素直に言うことができなかった。
「とにかくこっちへ」
先生は傘を開くと、ぼくの肩を抱くようにして、コンビニの駐車場を歩いた。
どうするんだろうと戸惑っていたら、一台の車の前で止まった。
先生に促されるまま、助手席のシートに収まる。
雨粒が、車の屋根やフロントガラスを叩きつける中、ぼくは深く鼻をすすった。
先生が運転席に乗り込む。けど、すぐに車を出すことも、なにかを訊くこともしなかった。
「……先生、あの」
「いいから。話したくないなら、無理には聞かない」
「……」
「とは言え、いつまでもこうしているわけにはいかないな」
「ぼく、降ります」
ドアを開けようとしたら、となりから手が伸びてきた。
「違う。そういう意味じゃない。第一、車に乗せたのは俺だろう?」
「……」
「きみさえ差し支えなかったら、俺のところに来るか? そんなに遠くもないから」
涙でぐしゃぐしゃだろう顔を向けたら、小林先生は、苦笑いを声にも出していた。
それが逆に、なにもかも汲んでくれている感じがして、また涙があふれてきた。
なら、せめて雨があがるまで──。
「おじゃまします……」
「よし。と、その前に……。まずはこれで顔を拭きなさい」
上着のポケットから、先生はハンカチを取り出して、ぼくの鼻に当てた。
その大きな背中。プールでの姿がよみがえる。
「お前、あのチビ坊主になにチクってんだよ」
表情は見えなくても、声の調子が怒りをあらわにしていた。
「あいつ、わざわざプールにまで来てなに言うのかと思ったら、お前とちゃんと仲良くしろ、だと。ふざけんなって話だろ」
“仲良くしろ”
その言葉が繰り返し頭の中で響いた。
もはや、豪さんの背中は見えてなかったし、声も聞こえてなかった。
ふと、ゆうべの健ちゃんとのやりとりを思い出した。その健ちゃんになにかを告げられて、不愉快そうにしていた三津谷さんも思い出す。
三津谷さんは、プールでもずっと不機嫌だった。
ぼくの脳裏に一抹の不安がよぎる。
「おい、聞いてんのか」
豪さんの声が急に迫ってきた。
ハッとして顔を上げると、ぼくを鋭く見下ろしていた。
なにもされてないけど、その迫力があまりに近いところにあって、逃げるように後ろへ倒れたぼくは、しりもちをついてしまった。
「なにが仲良くしろだ。なにが弟だ。マジふざけんな」
拳が見えた。指のつけ根に傷がついてて、赤くにじむものもある。
豪さんが、ぼくのことを三津谷さんに言われたとき、もし、こんなふうに怒ったとしたら──。
ゆうべの衝撃が瞳の奥をかすめる。一清さんと豪さんの対峙が、いま想像しているものと、どうしても重なってしまう。
「……殴ったんですか?」
「あ?」
ぼくは素早く立ち上がり、握りしめていた手紙を豪さんへ投げつけた。
「ひどい。三津谷さんを殴るなんて!」
そのまま、振り返りもしないで、家を飛び出した。
もしかしたら、病院へ行くほどのケガを負わせられたのかもしれない。
それを考えると、いても立ってもいられなくなって、とにかく走った。三津谷さんにいますぐ会いたい。そして、謝りたい。
しかし、ぼくの足は途中で止まった。
三津谷さんの家を知らないことにいまになって気づいた。
目頭で涙を抑え、乱れた息を整える。
「……」
それに、豪さんに「ひどい」なんて言う資格、ぼくにはないんだ。
三津谷さんがどれだけ気にかけてくれて、心配してくれていたのか。ぼくはこれっぽっちも気づかず、一方的に怒鳴ってしまったんだ。
そして、ぼくがあの家にいかなければ、豪さんをイライラさせることも、暴力をふるわせることもなかった。
「会いたくないに決まってる……」
それを悟った瞬間、行き先を失ったこの足は、あてもなくさまよい始めた。
気づけば、大通りに出ていた。
そこに道があるから、ぼくはただ進むだけだ。
そのとき、一台の自転車が追い越していった。カゴにビニール傘がささっている。
「あ」
ぼくは立ち止まり、自分の両手を見つめた。
傘──。
そういえば、三津谷さんに言われてプールの傘立てに入れたけど、そのあとをどうしたのかよく覚えていない。
ぼくは振り返った。
いまは帰る気にもならないし……。
ちょうど青信号になった横断歩道が目に入る。ぼくは早足で渡り、プールからの帰り道に出てきた小路へと入った。
とりあえず道なりに進もうと思った矢先、冷たいものが頭に当たった。
それがなにかに気づいた途端に本降りになって、雷も鳴り始めた。
「うわっ」
雨を避けるべく、ひときわ明るい建物へと駆け込んだ。
住宅のあいだにあるコンビニ。ぼくは出入り口を素通りして、ひさしのある店先で真っ黒な空を見上げた。
それと同時に閃光が走る。コンビニのガラス窓を震わすぐらいの大きな音が鳴り響いた。
ぼくは、とっさに耳を塞いで首を縮めた。
目をつむっていてもわかる、まぶたを突き刺すような稲光と、若干かすんだ低い雷鳴。
早くどっかいけと、呪文のように繰り返していたぼくの腕を、だれかが掴んだ。二重にびっくりして、ぱっと目を開ければ、スーツ姿の背の高い男の人が立っていた。
「篠原、こんなところでどうした? しかも制服のままで」
「先生──」
小林先生だった。傘をすぼめ、眉根を寄せてぼくと視線を合わせる。
そのまなざしが、どこかお父さんを思い出させて、一気に涙があふれてきた。
三津谷さんと豪さんのこと。さらには、この雷の音が、ぼくを混乱させたんだ。
「篠原?」
「……すみません」
「なにかあったのか?」
涙を拭い、ぼくは首を横に振った。
助けを求めたかったけれど、それを素直に言うことができなかった。
「とにかくこっちへ」
先生は傘を開くと、ぼくの肩を抱くようにして、コンビニの駐車場を歩いた。
どうするんだろうと戸惑っていたら、一台の車の前で止まった。
先生に促されるまま、助手席のシートに収まる。
雨粒が、車の屋根やフロントガラスを叩きつける中、ぼくは深く鼻をすすった。
先生が運転席に乗り込む。けど、すぐに車を出すことも、なにかを訊くこともしなかった。
「……先生、あの」
「いいから。話したくないなら、無理には聞かない」
「……」
「とは言え、いつまでもこうしているわけにはいかないな」
「ぼく、降ります」
ドアを開けようとしたら、となりから手が伸びてきた。
「違う。そういう意味じゃない。第一、車に乗せたのは俺だろう?」
「……」
「きみさえ差し支えなかったら、俺のところに来るか? そんなに遠くもないから」
涙でぐしゃぐしゃだろう顔を向けたら、小林先生は、苦笑いを声にも出していた。
それが逆に、なにもかも汲んでくれている感じがして、また涙があふれてきた。
なら、せめて雨があがるまで──。
「おじゃまします……」
「よし。と、その前に……。まずはこれで顔を拭きなさい」
上着のポケットから、先生はハンカチを取り出して、ぼくの鼻に当てた。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
兄弟カフェ 〜僕達の関係は誰にも邪魔できない〜
紅夜チャンプル
BL
ある街にイケメン兄弟が経営するお洒落なカフェ「セプタンブル」がある。真面目で優しい兄の碧人(あおと)、明るく爽やかな弟の健人(けんと)。2人は今日も多くの女性客に素敵なひとときを提供する。
ただし‥‥家に帰った2人の本当の姿はお互いを愛し、甘い時間を過ごす兄弟であった。お店では「兄貴」「健人」と呼び合うのに対し、家では「あお兄」「ケン」と呼んでぎゅっと抱き合って眠りにつく。
そんな2人の前に現れたのは、大学生の幸成(ゆきなり)。純粋そうな彼との出会いにより兄弟の関係は‥‥?
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
漢方薬局「泡影堂」調剤録
珈琲屋
BL
母子家庭苦労人真面目長男(17)× 生活力0放浪癖漢方医(32)の体格差&年の差恋愛(予定)。じりじり片恋。
キヨフミには最近悩みがあった。3歳児と5歳児を抱えての家事と諸々、加えて勉強。父はとうになく、母はいっさい頼りにならず、妹は受験真っ最中だ。この先俺が生き残るには…そうだ、「泡影堂」にいこう。
高校生×漢方医の先生の話をメインに、二人に関わる人々の話を閑話で書いていく予定です。
メイン2章、閑話1章の順で進めていきます。恋愛は非常にゆっくりです。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
新緑の少年
東城
BL
大雨の中、車で帰宅中の主人公は道に倒れている少年を発見する。
家に連れて帰り事情を聞くと、少年は母親を刺したと言う。
警察に連絡し同伴で県警に行くが、少年の身の上話に同情し主人公は少年を一時的に引き取ることに。
悪い子ではなく複雑な家庭環境で追い詰められての犯行だった。
日々の生活の中で交流を深める二人だが、ちょっとしたトラブルに見舞われてしまう。
少年と関わるうちに恋心のような慈愛のような不思議な感情に戸惑う主人公。
少年は主人公に対して、保護者のような気持ちを抱いていた。
ハッピーエンドの物語。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)
夏目碧央
BL
兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。
ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる