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1章

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 楽はその日、屋敷の中を朝からずっと行ったり来たりを繰り返していた。それは楽だけではない。喜兵衛と弥七もだ。雅だけは朝からずっと鈴に付きっきりで、花嫁の支度をしている。

「千尋さま! この色で良かったですか?」

 そう言って楽は千尋に藍色の細いリボンを手渡した。

「ええ、ありがとうございます。やはり髪は束ねておいた方が良いですよね」

 それを受け取った千尋は鏡の前に座って面倒そうに振り返りもせずに尋ねてくる。そんな質問に慣れた様子で答えたのは弥七だ。

「そりゃそうでしょうね。色々と動くでしょうし、料理もありますし」
「ですよね。はぁ。髪を長時間縛るのは癖がつくから嫌なんですよ」
「我が儘言ってないで、花嫁の為だと思って」
「鈴さんの? 何故です?」
「前にそう言ってたからです。たまに千尋さまが髪を縛っているのを見るのが好きらしいですよ」
「そうなのですか? ではこれからはずっと縛っていましょうか」
「いや、たまにだからいいんじゃないですか?」
「……そうですか」

 しょんぼりと項垂れた千尋を見て楽は思わず笑ってしまいそうになるのをどうにか堪えた。

 千尋の事は都に居た時も皆からよく聞かされていたが、実際の千尋は皆に聞いていたよりもずっと表情も感情も豊かだ。たまに都に戻ってきた時にも千尋はこんな姿を楽に見せた事などただの一度もない。

「千尋さまは……」
「ん?」

 ポツリと言った楽に千尋が髪を結いながら鏡越しに返事をしてくれた。そんな千尋を見て楽はゴクリと息を呑んで言う。

「千尋さまは今、とても楽しそうです」
「なんですか? 急に」
「急にじゃなくて、その……鈴さんと話している時の千尋さまも、この屋敷の人たちと話している千尋さまも……幸せそうです。とても」
「そう見えますか?」
「はい」

 楽の返事に千尋は満足げに笑って言った。

「だとすれば、それは全て鈴さんのおかげですね」
「それは本当にそう。楽、この屋敷で千尋さまがこんなにも俺たちと話すようになったのは、鈴が来てからなんだぞ」
「え?」
「それまでの千尋さまは多分、お前がずっと聞いていた通りだったと思うぞ。何にも関心がなくて、笑顔なのにどこか冷めていて、なんにも楽しい事なんて無いって顔してたからな」
「弥七、それは言い過ぎでしょう?」
「言い過ぎなもんですか。喜兵衛に聞いても姉さんに聞いても同じ答えが返ってきますよ」

 それを聞いて楽は何かに納得したように頷いた。初や屋敷の人たちに聞いていた千尋の印象は、弥七が言った通りのものだったのだから。

 でもそれは千尋の全てじゃなかった。本当の千尋は楽が憧れていた千尋よりもずっと感情豊かで愛情深い人だったのだ。そしてそれを知って前よりもずっと千尋の側に居たいと思うようになった。たとえ目の前で鈴と戯けられても。

 楽は千尋に深々と頭を下げて言う。ずっと言えなかったあの言葉を。

「千尋さま、この度はご結婚おめでとうございます!」

 今まで何度も言う機会はあったのに、それでもずっと言えなかったのは、心の何処かに初や屋敷の人たちの言う千尋の存在があったからだ。いつでも冷静で何にも心を動かさない千尋という存在が。

 けれど、ようやく今の千尋を見て心の底からすんなりと言葉が出てきた。鈴ではないが、楽も千尋には幸せになってほしい。ずっと憂いなんて感じないでいて欲しい。

 突然の楽の挨拶に千尋は一瞬キョトンとして笑う。

「ありがとうございます、楽。とても嬉しいです」
「は、はい!」

 一瞬見せた千尋の極上の笑顔は、いつも鈴に向けているものだ。それをようやく楽も向けてもらえる事が出来た。それが嬉しくて楽はその場で飛び跳ねて喜びそうになるのを堪えながら廊下に出てそのまま曲がり角まで行くと、喜びを噛みしめるようにその場で思わず足踏みをする。

 その時だ。突然目の前の扉が開いて、中から完全に目が座った雅が顔を出した。

「誰だい!? このクソ忙しい時にドタバタしてる奴は!」
「ご、ごめんなさい!」

 この屋敷の裏の大将、雅に怒鳴られて楽が背筋を伸ばすと、雅は暴れていたのが楽だと知るなりフンと鼻を鳴らしておもむろに楽の腕を掴んだ。

「ちょうど良かった。ちょっとあんた手伝いな」
「え!? お、俺!?」
「そうだよ、他に誰がいるんだい。鈴! 助っ人が来たよ!」

 そう言って雅は楽の腕を掴んだまま部屋に戻ると、そこには硬直したように椅子に座っている鈴が居た。
 鈴はゆっくりと振り返って、楽を見るなりその大きな青い瞳を嬉しそうに細める。

「楽さん! お手伝いしてくれるのですか? ありがとうございます」
「え? いや、俺は……お前……綺麗だなぁ……」

 思わず思っていた事がポロリと口をついてしまって、すぐさま楽はハッとして口を閉じたけれど、そんな楽に鈴はやっぱり嬉しそうに笑う。

「ありがとうございます。似合っていますか? 私の顔立ちに白無垢なんて違和感しか無いような気がするのですが」

 少しだけ心配そうにそんな事を言う鈴に楽は頭をブンブンと振る。

「そんな事ない! 似合ってるよ、凄く。ビックリした」
「そうだろ!? このまま女優にでもなれそうだろ!?」
「み、雅さん! 流石にそれは言いすぎです!」

 慌てる鈴はいつもの鈴なのに、衣装のせいか化粧のせいなのか、いつもよりもずっと大人びて見える。

「千尋さま、喜ぶだろうなぁ」

 こんな鈴を見たら、千尋は一体どんな顔をするのだろう?

「そりゃそうさ。何せこの衣装を選ぶのに、あいつは相当時間をかけたんだからね! 何回も違うの持って来いって外商困らせてさ!」
「そうだったのですか?」
「そうだよ! そりゃもう大変だったんだ。あいつがあんなにも白無垢とドレスにこだわりのある奴だなんて、全然知らなかったよ」
「衣装にこだわったというよりも、鈴さんにどれが一番似合うかにこだわったんだと思う。今のお前見てたら、そう思うよ」

 楽は俯いて言った。何だか胸がドキドキしてしまってまともに鈴を見ることが出来なかったのだ。

「そうでしょうか? だとしたら嬉しいです。凄く」

 はにかんで笑う鈴は、本当に嬉しそうで楽は胸が締め付けられた。
 鈴に抱いているのは恋心とかではないけれど、何だか同志が先に幸せそうな顔をしているのは嬉しいような寂しいような不思議な気持ちだ。

「なぁ、千尋さまの事よろしくな。千尋さまは多分、お前しか幸せには出来ないと思う」

 ポツリと楽が言うと、鈴はキョトンとして楽を見上げてきた。

「何言ってるんですか? 千尋さまには楽さんも居ないといけません。私だけでは駄目です。あの方は本当はとても優しくて寂しがりで多分、とても怖がりです。私達の誰が欠けてもきっと辛い思いをされます」
「……そうかな?」
「そうです。千尋さまが今まで誰にも心を許さなかったのは、失う事の辛さを知っていたからだと思うんです。あの方は今までの花嫁達もちゃんと大切にしていました。誰にも見えない所でちゃんと愛情を今も注いでいます。そんな方が冷めているはずがありません」
「……そっか。お前が言うんだからそうかもな。俺も居ないと駄目かな?」
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