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1章

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「そう言えばちゃんと言って無かったなと思いまして。後から思い出した時、何の言葉も無いのは寂しいじゃないですか」

 龍神ではなくて、ただの千尋として伝えておきたかった。鈴が嫁いでくるのは千尋になのだから。

 本当は今すぐにでも龍の婚姻関係になって、いずれ都に連れて帰り悠久の時を共に生きて欲しいと言いたいが、きっとまだ鈴はそこまでは受け入れてはくれないだろう。だから今はまだこれでいい。

「あ……ごめんなさい、びっくりして……その、えっと、こういう時は何て言うんだっけ……そう、ふつつか者ですが、末永くよろしくお願いします」
 
 そう言って鈴は耳まで真っ赤にして恥ずかしそうに微笑んで涙をこぼす。

「へへ、嬉しくても涙って出るんですね」
「っ……もう、あなたは!」
 
 どうしてそんなにも可愛いのだ! そんな言葉を飲み込んで千尋は鈴を抱え込んだ。小さな鈴は、千尋が抱きしめるとすっぽりと隠れてしまう。
 
 まるで鳥かごに閉じ込めるように鈴を抱きしめると、千尋は思わず漏れそうになる思いを必死に押し殺した。



 鈴は千尋の腕の中で嬉しさのあまり込み上げてくる涙に驚いていた。
 
 今まで悲しくて辛くて泣いた事は幾度もあったけれど、嬉しくて泣いてしまった事などない。

 今までずっと受け身だった鈴は、今日初めて色んな事を自分から千尋に伝えた。千尋は長く生きていてとても優しいので、支離滅裂な鈴の話も最後までちゃんと聞いてくれた。些細な事だけれど、それが言葉にならない程嬉しかったのだ。おまけにプロポーズの言葉まで貰えるだなんて、夢にも思っていなかった。
 
 鈴は千尋に抱きしめられたまま、じっと千尋の鼓動を聞いていた。規則正しいその音は、他のどんな音よりも安心する。

「……さん……鈴さん?」

 微かに聞こえた千尋の笑いを含んだ声はとても優しい。だからだろうか。鈴は自分が既に夢の淵に立っている事にすら気づかなかったのは。
 
 翌朝、ぼんやりと目を開けると、目の前に見慣れない着物の柄が目に入った。驚いてパチリと目を開けて寝台から降りようとしたが、何かががっちりと鈴を固定していて動けない。その正体は他の誰でもない千尋の腕だ。

 以前も蔵でこんな風に抱きしめられて眠った事があったが、あの時とは比べ物にはならないぐらい密着度が高くて、鈴は思わず息を呑んだ。

 そんな鈴に気付いたのか、目の前の千尋がゆっくりと目を開ける。

「おはようございます、鈴さん」
「お、おはよう……ございます、千尋さま……わ、私、何故ここに……居るのでしょう?」
「覚えていませんか? あなた、あのまま眠ってしまったんですよ」
「え!? あ、あのまま!?」

 言われてみればそうだ。鈴の記憶はプロポーズをされて嬉しすぎて泣いてしまい、千尋の心音を聞いていた所から記憶が無い。

「ええ、あのまま。本当は部屋まで運ぼうとも思ったのですが、時間も時間でしたし、廊下で誰かにばったり会ったりしたら大変だなと思って」
「お、仰る通りです……一度ならず二度までも! 本当にごめんなさい」
 
 千尋の前で無防備に眠りに落ちたのはこれで三度目だ。そしてそのまま千尋と共に眠ったのはこれで二度目である。申し訳なさすぎて千尋の顔が見られない。

「どうして謝るのですか? これは完全に私の役得という奴です。鈴さんは暖かいですね」
「ち、千尋さまはひんやりしていて気持ち良いです……そうではなくて、また睡眠の邪魔をしませんでしたか? 歯ぎしりとかイビキとか」
「ははは、何の心配をしているのかと思ったら。とても健やかに眠っていましたよ。静かすぎて時々心配になったぐらいです」
「そ、そうですか」

 それを聞いてホッと息をつくと、千尋はにっこり微笑んで言う。
「それはそれとして、もう少し眠りませんか? 私、寝たのはついさっきで――」

 そこまで言って千尋は小さな欠伸をして鈴の頭を撫でると、そのまま目をゆっくりと閉じてしまった。

 そんな千尋をしばらく唖然として見ていたが、不意に昨夜の会話が蘇る。

 たまに子どものようになってしまう千尋はやっぱり可愛い。

 鈴はしばらくそんな千尋の寝顔を見つめていたが、時計を見て慌てて部屋へ戻って着替え、炊事場に向かうと既に雅と喜兵衛が朝食の準備をすっかり終えていた。

「すみません! 寝坊をしてしまいました!」

 調理台の上を見て頭を下げた鈴に、雅と喜兵衛はまるで何でも無いかのように笑う。

「たまにはいいさ。あの後どうせなかなか寝付けなかったんだろ?」
「……はい。ずっとモヤモヤして、結局深夜に千尋さまにご迷惑をおかけしてしまいました」
「ん? どういう事だい?」
「はい、実は――」

 素直に昨夜あった事を告げると、雅は愕然として喜兵衛は青ざめる。

「あ、あんた! どうしてそんなに危機感が無いんだ! あいつはあんなナリでも男なんだよ!? ましてや求婚されてそれを受け入れただと!? 挙句の果てにまた一緒に寝落ちた!?」
「え? はい……え?」
「……ん? 何も無かった……のか?」

 首を傾げた鈴を見て雅が怪訝な顔をして覗き込んできたので頷くと、その途端に雅が意地悪く笑い、喜兵衛がホッと胸を撫で下ろす。

「なるほど。ふぅん、あいつ本命にも手を出せないのかぁ」
「姉さん、悪い顔してますよ」
「いやだって、あの千尋だよ? 両思いになった途端に手を出すと思ってたんだけど、案外奥手なんだなって思わないか?」
「それは……はい。意外でしたね……」
「あのぉ、一体何のお話をされているのでしょう?」

 二人の会話の意味がほとんど分からなくて鈴が問いかけると、雅と喜兵衛は二人して鈴に詰め寄ってきて早口で言う。

「あんたはそのままで居るんだよ!」
「鈴さんはずっとそのままで居てくださいね!」
「は、はい!」
「まぁ、とりあえず雨降って地固まるって奴だね。おめでとう」
「色々複雑ですが……おめでとうございます、鈴さん」
「あ、ありがとうございます!」

 そう言って涙ぐむと、雅と喜兵衛は困ったように微笑んで鈴を慰めてくれる。

 誰かにおめでとうと言ってもらえる事が、こんなにも嬉しいとは思ってもいなかった。
 
 それから鈴はせめて配膳は手伝うと言って朝食を雅と共に食堂に運びこんだ。

 すると、先ほどまで寝ていたはずの千尋が今はもういつも通りの美しさで食堂に居る。

 不思議な話だが昨夜の事があってから千尋がいつもよりも素敵に見えて仕方が無くて、鈴は思わず顔を伏せた。

「鈴さん? どうかされましたか?」
「え? あ……すみません。何だか今日、千尋さまがいつも以上に格好良く見えてしまって……」
「……そ、そうでしたか。大丈夫です。私もあなたがいつも以上に可愛く見えるので。さあ、あなたも席についてください」
「は、はい」
 
 千尋を直視出来ないまま鈴が席についてチラリと千尋を盗み見ると、千尋もこちらを見ていてばっちり目があってしまう。

「ひゃぁ!」
「っ!」

 向かいの席から千尋が息を呑むのが聞こえてきて、鈴はますます俯いた。

「なぁ、あんたら本当に昨夜何も無かったんだよな?」
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